見出し画像

城の中

やっと勤務時間が終わった。
君はそそくさと帰り支度を整えて事務所を後にする。
勤続十年を過ぎた今となっては 、もう君を酒場に誘う同僚もいない。人付き合いの悪いやつで通っているのだ。

市街地を抜けて橋を渡る。橋の下を流れる川は 今日は濁っている。空もどんよりと曇っている。君の心も疲れ果て、暗く淀んでいる。
だが、君はそれを酒やギャンブルでごまかそうとは思わない。
なんでもごまかしてばかりの人生は嫌だ。
人にどう思われるかばかりを気にするような人生もまっぴらだ。
それでいて、君は心のどこかに人と繋がりたいという思いだけは捨てきれずにいる。

橋を渡り切って左に曲がり、丘の裾を走る道を進んで行くと城が見えてくる。見慣れた風景だが、そこまでくるとほっとする。
なんだか懐かしいのだ。
今では王族も住んでいない、そのさびれた城に、君はずっと昔住んでいたような気がしてならない。

丘の裾の道は、やがてもう一つの橋から伸びてくる広い通りとの交差点にでる。それを渡って、宇宙船みたいなデザインのバス停から少し入ったところに城への入り口がある。
石畳の坂道の右手には、石垣に張り付くようにして土産物屋が数件並んでいる。その小奇麗な小径を行き交う観光客たちも、のどかな散歩気分だ。
坂道の左手は腰高ぐらいの石の柵が連なっていて、上に登るにつれてプラハの街が遠望できる。

おりしもその上に雪が降り積もり始める。
少し急ごう。
ほら、いよいよ城壁が見えてきた。
その手前の広場記念写真を撮っていた観光客たちも警備の警官たちも雪に埋もれて静止している。城壁の門に近づくにつれ、人々の数が多くなってくるが、みんな凍え固まって立ち尽くしている。

門をくぐった君は真っすぐ続く広めの通路を避け、右手に折れて石の塔の方へと歩いて行く。それはかつて牢獄に使われていた塔で、今でも拷問器具なんかが残っている。
だが、君はいまさらそんなものを見物する気はさらさらない。塔の前で左手に折れ、錬金術師小路へと進んでゆく。

左手は高い塀に仕切られ、右手は小さく区切られた部屋がずらりと並ぶ長屋になっている。かつてここにはお抱えの錬金術師たちが住んでいたのだが、今は一般市民にも貸し出されている。君はそのうちの一軒のドアへと近づき、鍵穴にカギを差し込んで開ける。
ホラー映画の効果音のような音を立ててドアが開くと、薄暗い空間が君を迎える。

「待ってたわよ。ここはあなたの妹さんが恋人との逢瀬のために借りている秘密の部屋だというのに、大切なお兄さんに譲ってくれたのよね。感謝なさい」
もちろん君は感謝している。だから部屋もそのことをわかっていて、優しく抱擁してくれる。
ああ、なんて安らかな抱擁だ。
君はうっとりと目を閉じて彼女が用意してくれていた椅子に座る。

ここから先は

533字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?