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【小説】 サハラで紅茶を

『紅茶の起源は、中国人が緑茶を売る際にゴミや豚糞なんかを混ぜて、ヨーロッパまで運んでいるうちに発酵してしまったことなんだって』

 いきなりそんなことを言われた。何の脈絡もなく。コーヒーチェーンで彼はブレンドコーヒーを、私は紅茶を飲んでいた。期末テスト直前の平日のデートにちょっと後ろめたさも感じつつ。

 二月なのに雪はなく、冷たく突き刺さる風ばかりが吹く嫌な日だった。駅前のアーケード街を歩く人々のほとんどがコートを着ている。制服を着た私はそれを向かいの窓から眺めていた。

 店内だけは暖かく春のようだった。彼と過ごす優越感に浸りながら、はっぴいえんどを脳内再生するのが似合う、素敵な放課後だった。

 あの発言があるまで。

 彼は紅茶について何も知らない。それにも関わらず、物知り顔で紅茶について語る。どうでもいい雑学ばかり頭の中に詰め込んでいるのだ。博識で知的なところが好きだった。でも最近、彼が知識をひけらかしたいだけの人に思えてきて。

 実際、私は今の一言でかなり傷ついた。私は紅茶を飲んでいるのだ。彼の目の前で。現在進行形で。そこにあの発言だ。デリカシーというより人としての常識が身についてない。

 彼は何かしゃべり続けているけれど、単語と単語が空中分解してしまったような、意味のない言葉の羅列として聞こえてしまう。頭痛がひどくなる。というか、私が大の紅茶好き、お年玉を全額つぎ込んでもティーセットをそろえるような紅茶フリークだと初対面のころから話しているはずだ。彼の言ったことなど既に知っている。それを世紀の大発見のように語るのが気にくわない。

 彼はずっと喋りまくっている。コーヒーカップを手に持ったまま。いつものように大きな身振り手振り。コーヒーがこぼれないか心配だ。かなりドジだし。そんな心配をよそに、彼は自分の部活のことについて熱弁する。どうでもいい。彼は私のことなんて全く見ていない。私でなくてもだれでもいいんだ。適当にうなずいてくれさえすれば。

 頭がさっきからずきずき痛む。自分が何でこんなことをしているのだろうと思えてくる。先週のバレンタインの日から、一緒にいることが輝きを失い始めた。なんだか馬鹿らしく思えてきたのだ。彼と同じ空間にいて愛想笑いをし続けることが。こんなにもまずい紅茶を飲まなければならないことが。きちんとした紅茶が飲みたい。

 頭が痛い。考えることが煩わしくなってくる。気づけば私は下を向いて黙り込んでしまっていた。そんな私の反応にようやく危機感を覚えたのか、彼は手にずっと持っていたカップを置き、少し息を吸って何か言おうとした。けれど詰まった。

 そしてもう一度息を吸いなおし普段の調子で尋ねてきた。

「松本さんはさ、テスト対策いつからするつもり?」

 知ったことか。私はそれを忘れるためにあんたとデートしてるんだ。そんなことにも気づかないとは。でも、そんな野暮なことを質問してきたことよりも、彼の発言は私を強く傷つけた。

 私に何かのスイッチが入った。ほとんど減っていなかった紅茶を一気に飲み干した。そして立ち上がった。財布から千円札を引っ張り出し、彼の目の前に叩きつける。

 安っぽい机が大きく揺れた。

「黛君、私帰るから。」

彼はきょとんとしている。突然のことなのだから当然の反応だ。じゃあ、と言って立ち去る。こうして数秒後に私は安っぽいコーヒーショップから解放された。

 


 アパートの駐車場に母の軽自動車は見当たらなかった。この時間に帰っていないということは、帰りは深夜だ。憂鬱を吹き飛ばそうとダッシュで階段を駆け上がる。

 遠くの山の上だけ空はまだ紫がかっていたが、この町はすっかり夜だった。三階建てからでもこの町の全体を見ることができるくらい、小さな町だ。大学はおろか、高校さえないこの町。私の通う学校まで電車でたった四駅なのに、町の明かりは数えるほどで頼りない。

 鍵をバックから取り出すために手袋を外す。一層寒さが指先に沁みていく。そして触れたドアノブも冷たい。ドアを開けて靴を脱ぐ。室温はほとんど外と同じ。暗い室内を数分さまよい、電灯のスイッチをなんとか探し当てた。電気をつけただけなのに部屋が暖かくなったような印象を受ける。でもそれは一瞬の気休めでしかない。すぐに足元の寒さに耐えられなくなる。

 暖房をつける前に洗濯物を取り込まなくては。いや制服を着替えるほうが先か。この寒さの中ベランダになんか出たくない。仕方なくエアコンのリモコンを探す。 


 ご飯を食べるのも面倒に思えた。数学のワークを広げたけれどまったくやる気にならなかった。趣味のギターも夜には弾けない。嫌なことは忘れようと紅茶を淹れることにした。

 お湯を沸かす間に、プリンスのCDをセットする。隣に迷惑にならないよう、音量には細心の注意を払って。

 しっかり蒸らした茶葉を入れたティーポットに沸騰してからちょうど一分経った熱湯を注ぐ。そして淹れた後に少しだけ冷ます。最近お年玉で買った新しいカップに紅茶を注ぐ。ゆっくりとカップを口に運ぶ。

 下品に啜ってしまった。これではお茶の風味を感じることができない。頭痛はいつの間にか治っていたが、どこか迷いのようなものがあるのかもしれない。せっかくの‪金曜日の夜‬なのに。50グラム580円もしたダージリン・スタンダードがもったいない。

 私は一日を完全に無駄にしてしまった。すべての状況が悪化した。それもこれも母と朝からケンカしてしまったせいだ。ギターアンプにシールドを繋ぎっぱなしだった。それが今回のケンカの元凶。いつも注意されることだ。だから適当にあしらっていた。でも残業続きの母の機嫌は悪かった。ヒステリックに怒鳴られた。私も負けていない。思いっきり口答えした。拙い反論だったが、感情が勝っていたのだ。互いの人格を否定しあうくらいの大ゲンカに発展した。

 私が感情的になったのが悪いのは認める。でも、理由は他にあると思う。だって母は私がギターを弾くことを元から好まないし。やかましいとか近所迷惑だとかではなく、父が教えたものだから嫌うのだろう。そうやって思い出すと、気分も更に沈んでいってしまう。プリンスの歌声も次第に鬱陶しくなってきた。ファルセットが耳に刺さって痛い。CDを停止させた。そのついでにテーブルの上に置いていた携帯を起動させる。無意識的な動作だった。


 彼からメールが来ていた。指をいったん止める。一度目を閉じる。意を決してメールを開く。

『ごめん。』

 それだけだった。不安から『ごめん』なんてシンプル過ぎる三字への落差が激しくて、思わず吹き出してしまう。私の考えすぎだ。そして胸に安堵感が広がっていく。

 彼が謝るなんて考えてもいなかった。このまま別れの言葉が書かれているのかと思っていた。よかった。本当に。携帯を手に持ち返信を考える。別に気にしないで、と打ち始めようとして、止まった。

 なんでこんな状況になったのか、なぜ彼が謝るのか。私のほうから彼をお茶に誘った。今日あった最悪な出来事について愚痴りたかったのだ。どこに行くか考えるのが面倒だったので、店は彼に決めてもらうことにした。まさかあんなところを選ぶとは思っていなかった。センスがない。けれど私の目的が達成されれば満足だった。

 もしかすると本当は逆の立場だったかもしれない。頭痛さえなければ、他愛ない話を彼にマシンガンのように乱射するだけになってしまったことだろう。さらに頭痛も朝のことが原因なのだから、イライラを彼にぶつけていただけなのかもしれない。私の一方的な感情に過ぎなかった。客観的に考えれば彼はほとんど悪くない。

 いや、一点だけ彼にも落ち度がある。私を松本さん、なんて呼んだことだ。ただのクラスメイトならいい。他人なら許せる。社会的には私は松本紗綾でしかないのだから。でも、彼にはそんなことを言ってほしくない。下の名前で呼んでほしい。彼氏彼女なのだから。といった乙女チックな願望もないこともない。だけど、そういう問題じゃない。


  バレンタインの日に彼には名字で呼ばないでほしいと告げた。彼はしばらく黙り込んだ。その窓の外では雪が降っていた。放課後の教室。すっかり暗くなっている。もう‪六時‬なのだ。帰宅を命じる放送がもうすぐ流れ出すことだろう。部活にも行かずに残っている人は私たちだけ。

 ついさっき渡したばかりのチョコレートの箱を彼は右手で持ったまま、彼はまだ黙っている。当たり前だ。彼女とはいえ、私の申し出は厚かましすぎる。でも言葉にしてしまったものは取り返せない。今更悔やんだとしても、遅い。沈黙に耐えられなくなって髪を耳の上に掻きあげる。それに無意識につられたのか彼も鼻をさする。そしてチョコレートの箱を目の前の机に置いた。

「ちょっと恥ずかしいけど、松、……紗綾がいいなら別にいいよ」 

 かなり照れていた。相当恥ずかしかったに違いない。その言葉を言い終わると、彼は我に返ったように周りを見渡した。誰かに聞かれてないかと不安になったのだろう。私の無理な申し出を受け入れてくれたことが素直に嬉しく思えた。


  だからこそ、今日の彼の発言が腹立たしく思える。約束を破った、というのは言い過ぎだけど、口先だけで全く実行してくれなかった。私は裏切られた思いだった。

 でも、そんな考えも気の迷いに過ぎない。冷静に考えれば私の行動は馬鹿らしくて、無鉄砲で、幼稚で。

 彼のメールをもう一度見る。ごめん、というこの三文字にどんな想いが込められているのだろうか。形だけの謝罪なのか、名字で呼んだことに対する謝罪なのか、紅茶を貶したようなあの発言に対する謝罪なのか、わたしが全く気にも留めていない見当違いの謝罪なのか、何度読み返してもわからなかった。

 よくよく考えれば、彼が謝る必要なんてない。すべて私が悪いのだ。一人あの店に残された彼は何を考えただろう。自分が大嫌いになる。いつもだ。こうやって失敗ばかりしている。人を自分のわがままで傷つけてしまう。


 喉の奥が絞められているようだった。何か喉を潤すものが欲しい。手元のカップを持ち上げる。このカップの取っ手の部分が気に入っている。シャープ過ぎず、鈍くさく丸過ぎず。 右手の指先でやさしく撫でる。嫌な気持ちを吹き飛ばしてくれるのはいつも紅茶だ。カップに添えた左手でかなり冷えてしまったのがわかるけれど、そんなことなんて今は問題ない。慎重に一口だけ口に含む。

 不味かった。

 コーヒーチェーンのあの紅茶よりもずっと。これまで飲んできた紅茶でワーストだった。頬が熱い。紅茶は冷たくて、どこかしょっぱかった。

 カップを置く。スティングが意地悪く耳元でささやいてくる。夜の砂漠の真ん中で寒さに凍えながら、一人紅茶を飲んでいるかのようだった。 

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