『プラネットフォークス』とジョー・ストラマーと羊文学
本題に移る前に、ちょっとクラッシュの話をしようと思う。僕は連載企画としてクラッシュについて書こうと考えていた……のだが、未だに記事は第一回で止まってしまっている。
言い訳するが、大傑作ロンドン・コーリングの記事を書くのは勇気が要る。ブログや雑誌の記事でクラッシュに触れたものがあまりに多く、詳細で、深い考察があるので、自分が書く意味を見いだせなくなるのだ。
でもそれ以上にクラッシュというバンドそのものの本質を捉えることがとても難しい。
◆ザ・クラッシュの誠実さ
彼らのライブの演奏は辿々しいし、ジョーストラマーは音痴、『サンディニスタ』なんて散漫過ぎるし、最後は空中分解して『カット・ザ・クラップ』なんていう失敗作まで作ってしまう。
なぜ僕は彼らに惹かれるのか。
それは彼らが「誠実」であるからだ。
ロックバンドとしては脆い。けれど美しい。
『ミュージック・ライフ』がパンクを熱心にプッシュしなかったことに対する反論に近い発言ではあるのだが、この指摘はクラッシュの本質を突いていると言える。
◆プラネットフォークスの誠実さ
とにかく本題に移ろう。
ここまで僕が延々とクラッシュなんていう往年のパンクバンドの話をしたのはAsian Kung-Fu Generationの新作に同じものを感じたからだ。
Asian Kung-Fu Generationの新作『プラネットフォークス』
前作『ホームタウン』から四年ぶり、前作からの空白期間が最長のアルバムであるが、その間にボーカルの後藤正文はGotch名義でアルバムを二枚、バンドとしても、シングル『Dororo/解放区』『触れたい確かめたい(feat. 塩塚モエカ)』『ダイアローグ』、EP『エンパシー』をリリースしている。
今作は収録曲数・時間ともにアジカンのディスコグラフィーでは最も多い・長いものになった。
その長さが裏目に出たのか、散漫なアルバムだ。
特に「Dororo」と「解放区」は三年前の曲。コロナ禍以前ということを差し引いても、ストレートなギターロック曲の「Dororo」はアルバムの中でも浮いた印象を持つ。
そして今作の先行シングルであった「You To You(feat. ROTH BART BARON)」。三船雅也とコラボしたにもかかわらず、彼の声はコーラスを担っていて曲に溶けてしまっている。代わりに喜多がメインボーカルであるかと錯覚してしまう。悪い曲ではない、いやむしろいい曲なのだ。だがコラボの意味は何なのか。
このことは「星の夜、ひかりの街(feat. Rachel&OMSB)」にも当てはまる。もともとアジカンとして完成した曲にラッパーを招いただけ、といった印象はぬぐえない。
コラボすること、が目的化していないか。
ゴッチはApple Vinegarというミュージックアワードを主催して若手をフックアップしようという気概も見せている。そういった側面もあるだろう。
けれどアジカンとして完成された楽曲の上にただ外部のアーティストの声が乗っかっている、そんなコラボならしないほうがいい。
インタビューの「閉鎖性」といった言葉からもわかるように最近のゴッチは政治的な正しさ、政治的な自らの立ち位置に過剰に反応しすぎてしまっている気がする。数年前、テイラー・スウィフトの『Folklore』について座談会形式で話していた記事があった。ゴッチは冒頭で座談会のメンバーが男性しかいないことについて指摘していたことを思い出した。確かに『Folklore』を語る場がホモソーシャルであることは良いことではない。ただ、Twitterでのゴッチの発言を見るたびに真面目過ぎるような気がしてならなかった。
そしてその真面目さにもかかわらず、彼の発言はかなり燃えた。2021年の東京オリンピック、フジロックという流れはどう見ても最悪だった。結果として彼はSNSでの発言を控えるようになった。けれどこうした光景はこの数年、何度も僕たちが目にしてきたことだ。
この四年間にゴッチがTwitterでいつ、なぜ、どうやって炎上したかなんて、誰も覚えていないだろう。
といったワードを拾うだけでも、ゴッチは現代社会(というか行き過ぎた資本主義)の矛盾で頭をいっぱいにしていることがわかる。
極めつけは
ソーシャルネットワークの石礫を一身に引き受けるその姿勢は”病んで”いる。シティポップ風の「雨音」は(伊地知としてはシティポップではない、らしいが)2022年の耳には陳腐に聞こえてしまう。ただただ陰鬱な「Gimme Hope」、ケンドリック・ラマーをあからさまにリスペクトした最終曲「Be Alright」はもはや反語にしか聞こえない。
音数の少なさとレコーディングの緻密さ、確かに誠実なアルバムと言える。しかし客演に次ぐ客演や数年前のシングルに散漫な印象を持ってしまう。『ホームタウン』で僕らが感じ取り賞賛した、開放感、実験性、政治的なスタンス……それら全てがこのアルバムにもある。けれどその全てが空回りしている。
こうしたアジカンの、いやゴッチの姿は、ジョー・ストラマーに重なる。曲単位でみればとてもいいはずだ。そしてアティチュードだって誠実なのだ、でも何か、何かが不足している、いやもしかしたら過剰だ。
この、"混乱"とも形容すべき状況に追い込まれたゴッチは疲れている。そのことを一言で表した敗北宣言とも取れる歌詞がある。
◆「触れたい確かめたい」という希望
彼のHopeがこのアルバムにあるとすれば、「触れたい確かめたい(feat. 塩塚モエカ)」だろう。コラボ曲・既発曲を散々批判しておきながら矛盾するようだが、この曲では間違いなくマジックが起きている
2020年10月というコロナ禍真っ只中に出された作品だけに憂鬱で緊張感を持った曲だと思いきや、そこにはリラックスした2人の歌声がある。
ゴッチの声と塩塚モエカの歌声は「触れたい確かめたい」というタイトル通り、付かず離れず適度な距離を保っている一方で、初期のスーパーカーのような一種の官能性と脱力感まで帯びている。
曲構成としては単純な形だ。近年のアジカンらしくストレートなギターロックではないのはもちろんだが、シンプルなギターリフにアルペジオが絡むだけ、というソリッドさは新しい。
そしてこの曲の注目点はシンセベースであることだ。例えば『マジックディスク』の頃であれば、シンセベースであることがもっと明確に際立ったものになっていたはずだ。ところがシンセベースであることは最初は意識されない。曲に完全に溶け込んでいるのだ。
このベースアレンジはサポートメンバーの下村亮介であると知り納得する。何年も信頼関係を積み上げてきた彼がいたからこそ、若手ミュージシャンの筆頭である、羊文学の塩塚モエカとアジカンが奇跡的に融合したのだろう。
奇しくも、羊文学の新作のタイトルは『our hope』である。
メジャー2作目となった今作だが、前作と同様に大きな期待を受けながら、軽やかに期待を受け流し自分たちのやりたいことを詰め込んだ作品になっている。
既発シングルとして『光るとき』『マヨイガ』『ラッキー』といったタイアップ曲も収録されたが、散漫な印象はない。
どう考えてもこのアルバムはとっ散らかったものになるはずなのだ。シングルはもちろん、Joy Division風ポストパンク「電波の街」、オルタナティブフォークにも接近した「金色」、そして中期スーパーカーを思わせる「OOPARTS」、グランジを彷彿とさせる急激で凶暴な展開をもつ「予感」。こうした雑多な曲が詰め込まれているはずなのに、"羊文学のアルバム"という統一感がある。
『プラネットフォークス』との違いはどこにあるのだろうか。ただアジカンが老いてしまった、それだけなのだろうか?
断じて違う。羊文学の新作が素晴らしい出来なのは、若さゆえのエネルギーではなく、リラックスしたムードを彼女/彼らが保っているからだ。
裏を返せば、アジカンは生真面目すぎる。もっと世界はあいまいでいいはずだし、くだらない世界のことばかりそこまで考える必要もない。
◆まとめと希望
ここまで『プラネットフォークス』についてかなり手厳しいことばかり書いてきた。でもファンとして、この作品が好きだからこそ書いておかなければならないと感じたのだ。
アジカンは『サーフブンガクカマクラ』の続編、もしくはPart2あたる作品の目下制作中らしい。これは朗報と言える。『サーフブンガクカマクラ』と言えばアジカン史上、最も脱力した、ギターポップアルバムだからだ。
そう、これこそゴッチが必要な処方箋だ。自分たちでちゃんとわかってるじゃないか。
難しいこと考えずにギターを掻き鳴らせよ。
だって昔言ったじゃないか、
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