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1985年のプログレ的風景:フィル・コリンズ祭りの始まりと、マイク・ラザフォードのブレイクに、エイジアの失速...

 洋楽の歴史として、1983年がマイケル・ジャクソン、84年がワム!の年だとすると、85年は、フィル・コリンズの年だと言っていいのだと思うのです。この年7月に行われたライブエイドでの悪目立ちのようなのまで含めて、この年は本当にフィル・コリンズが売れまくった年なのです。スタートは、85年1月です。ソロアルバムとして3枚目のこのアルバムのリリースからなのです。

No Jacket Required / Phil Collins

前にも書きましたが、リマスター版のジャケットをその時点の顔写真に差し替えるとか、どういう神経なんでしょう。フィル・コリンズは本当に好きを通り越して神としてあがめる存在なのですが、これだけは同意できませんねぇ。リリース時のジャケットはこっちです。
ちなみに、このアルバムタイトルは、ロバート・プラントのツアーに帯同した際に投宿したシカゴのホテルのバーに革ジャンで入ろうとして、ドレスコードで入店拒否されたことを皮肉ったタイトルなんですね。彼がアメリカのあちこちのメディアでそのエピソードを話したら、ホテルから「その話はもう勘弁してください」と手紙が来て、そのバーのドレスコードが撤廃されたのだとか。


 このアルバムからは、4曲のシングルカットがあります。一部アメリカとイギリスでリリース順が異なるとかあるのですが、以下はアメリカでのリリース順です。

One More Night

この曲、カラオケなんかで歌おうものなら、フィル・コリンズの圧倒的な歌のうまさを実感することができます(笑)3月にビルボードシングルチャートNo.1獲得。

Susudio

アルバム冒頭曲ですが、いきなりのドラムの音に驚きます。自身が参加したピーター・ガブリエルの3rd(melt)から始まったゲートリバーブサウンドですが、これまでは、それでももうちょっと生ドラムっぽい音だったと思うのです。ところが、ここでは聴いたことがないほど強烈なエフェクトがかかっていて、これがものすごいインパクトだったのでした。そして7月にビルボードシングルチャートNo.1に。同じアルバムからのシングルカットが2曲連続で全米No.1というのは、もはやマイケル・ジャクソン級のヒットなのですが、まだ続きます。ちなみに、このときのフィル・コリンズバンドのベーシストは、名手リーランド・スカラー。松任谷由実の中央フリーウェイのバックでベースを弾いていた人ですね。

Don't Lose My Number

この曲は、MVの面白さもあってヒットしたような気もしますが、まあよくやるよという感じでしたね(笑)そして9月にビルボードシングルチャート最高4位を記録。

Separate Lives

これはアルバムに入っておらず、映画ホワイトナイトのテーマソングとして単独リリースされた曲です。これがまた11月にビルボードシングルチャートNo.1を獲得するんですね。

 そして11月にアルバムから最後にシングルカットされたのがこの曲なんです。この曲がビルボードシングルチャート7位を記録したのは86年になってからでした。

Take Me Home

フィル・コリンズは、アルバムリリースに合わせて大規模なワールドツアーを行っていて、公演先での動画がいっぱいこのMVの中で使われてます。日本でのシーンもありますね。ちなみにこのときの来日公演に仕事でどうしても行けなかったのは今でも人生最大の禍根のひとつ…

 とまあ、一部86年にかかるわけですが、ここまでの5曲がいずれもビルボードシングルチャート10位以内を記録し、うち3曲は1位獲得と、ほとんどマイケル・ジャクソンのごときヒットを記録するわけなのです。

 その間7月に行われたライブエイドでフィル・コリンズは、イギリスでスティングと一緒にステージに立った後、コンコルドに乗ってアメリカに駆けつけ、今度はエリック・クラプトンのバンドでドラムを演奏して、次にソロでIn The Air Tonightを弾き語り、その後レッド・ツェッペリンと共演するという、まあちょっとウザイほど目立ちまくるわけです。ただ、このレッド・ツェッペリンとの共演が、ちょっと物議を醸すことになるわけですね。

このとき、多忙を極めていたフィル・コリンズは、全くのリハーサル不足。しかもツェッペリン側には別のドラマーが既にいて、会場でほとんど初顔合わせ状態でツインドラムをやるわけです。相手のドラマーにしてみれば、ろくにリハーサルもしてない奴が、突然飛び入りみたいに入ってきて「何だこのヤロー」状態で、全くかみ合わず、結果ツェッペリンは、後にライブエイド公式DVDへの映像収録を拒否することになってしまうのですね。まあこの件はフィル・コリンズの責任と言われてもしかた無いでしょう。このステージへの参加は、前年にロバート・プラントのソロアルバムとツアーにドラマーとして参加したフィル・コリンズが、ロバート・プラントから「オレとあんたに、ジミーを加えて何かできないか?」と個人的に誘われたのが発端らしいのですが、いつの間にかそれがレッド・ツェッペリンの再結成ライブになっていて、「そんなの聞いてないよ!」状態だったらしいんですが…。このとき、フィル・コリンズは、フィナーレのWe Are The Worldへの参加も打診されていたのですが、レッド・ツェッペリンのステージの出来に呆然となって、フィナーレを待たずに先に帰ってしまうんですよね。


 さて、年間通してフィル・コリンズが売れ続けたこの年ですが、3月にはピーター・ガブリエルの作品がリリースされています。こちらは今度は映画のサントラをひとりで担当したというアルバムでした。

Birdy / Peter Gabriel

 映画もそれほどヒットしなかったと思うのですが、何よりもピーター・ガブリエルが、真面目に劇伴をつくっちゃってるんですよね。このパターン、真面目なミュージシャンがサントラ任されると陥るらしく、以前クイーンがフラッシュゴードンでやってしまったのと同じような感じなのですよね。それでもクイーンはタイトル曲くらいはヒットさせたんですが、このときのピーター・ガブリエルの作品には、シングルカットできるような曲が皆無でして、これはさすがのピーター・ガブリエルファンにとっても相当厳しくて、最後まで聴き通すのもつらいアルバムとなってしまっていたのでした。ここまで、ピーター・ガブリエルは、melt(ソロ3rd)Security(ソロ4th)と、安定した人気を持つようになってきたのですが、さすがにこのアルバムを聴いて「大丈夫か?」とちょっと心配になったのです。でも、これこそ杞憂だったのは翌年になるとすぐにわかるのですね。

 一方、10月にやってきたのは、ジェネシスのマイク・ラザフォードの3枚目となるソロアルバムでした。

Mike + The Mechanics / Mike & The Mechanics

 マイク・ラザフォードは、2ndソロアルバムで自分で歌まで歌って大コケした反省からか、今度は個人名のソロアルバムではなく、グループとしてのアルバムという体裁でした。このとき彼は、ひとりで曲を作るのではなく、共作してくれるパートナー作曲家をレコード会社から紹介してもらって曲作りをして、それをグループとしてのアルバムにまとめるという方法をとったのですが、これが当たったのですね。こうして、シングルカット第一弾の Silent Running が全米シングルチャート6位の大ヒット。さらに次の All I Need Is A Miracle が全米5位となる大成功を収め、以後マイク・ラザフォードは、このメカニクスというバンドをジェネシスの傍らずっと続けることになるわけです。(その後89年には、バンド名義で全米No.1の大ヒットまでとばすことになります)

Silent Running / Mike & The Mechanics

マイク&ザ・メカニクスは2人の「ポール」というボーカリストがいるツインボーカルのグループでした。この曲は、ポール・キャラックがリードボーカルです。同名のアメリカ映画があるのですが、これはその映画の世界観にインスパイアされたということらしく、映画のテーマソングではありません。

All I Need Is A Miracle / Mike & The Mechanics

こちらはもう一人のボーカリスト、ポール・ヤングの歌です。ただこの人、ちょうどこの年大ヒットした、Everytime You Go Awayという曲を歌った人とは、同姓同名の別人です。こちらは元サッド・カフェの人だそうです。かなり「ロック」な人だったようで、2000年に他界してます。

そして、この年の最後を飾ったのは11月リリースのこのアルバム。エイジアの3rdアルバムです。

Astra /  ASIA

84年の日本公演(ASIA IN ASIA)の直前にジョン・ウェットンが解雇されて急遽グレッグ・レイクが加入したエイジアだったのですが、ここに来てまたジョン・ウェットンが復帰。すると今度はギタリストのスティーブ・ハウが抜けて、全く聞いたことないギタリストが起用されての3rdアルバムでした。何故かこのアルバムだけAppleMusicで配信されてないのですが、何の権利関係なのでしょうね?

 ところがこれが売れなかったのですね。日本ではそこそこ売れたのですが、アメリカではアルバムチャートで最高67位、シングルカットされた Go も、全米46位が最高位という大失速。サウンド的には、スティーブ・ハウが抜けたとは言え、ジョン・ウェットンのエイジア節はけっこう健在で、わたしもそんなに悪くないとは思っていたのですが、でもやっぱりアルバムを重ねるたびにちょっとエネルギーが下がってる感じは受けてはいたのでした。ジョン・ウェットンは「なぜ急に売れなくなったのかわからない、あれだけの作品で売れなければ今後何を作ればいいんだ」とまで語ったそうなんですね。やっぱりこの頃、次々と新しいサウンドが出てくる時代に、一度ヒットしたからといって、キープ・コンセプトやってしまうと続かないということだったのでしょうか。

 この年は、前年に全米No.1ソングを出したイエスが、勢いにのって次のアルバムをリリースしていれば、またひょっとして大ヒットもあったような気もするのですが、彼らの次のアルバム(Big Generator)が出てくるのは何と1987年まで待たないといけないわけで、そこまで間が空いてしまうと、もう全米No.1ヒットの余韻なんて何も残らないわけなのです。

 さて、遠い日本ではまったく当時のムーブメントがわかっていなかったわたしですが、イギリスを中心として沸き起こっていたネオプログレッシブムーブメントの中心バンド、マリリオンは、この年も快調に3rd アルバムをリリースします。

Misplaced Childhood(邦題:過ち色の記憶) / Marillion

 そして、このアルバムで、マリリオンはヨーロッパでの人気を決定づけるわけです。6月にリリースされた本作は、全英アルバムチャートで1位を獲得しただけではなく、41週もチャートにランクインするという大ヒット。その他ドイツ、オランダ、スイスのチャートでもベスト10に入ったわけです。内容も、いかにもプログレのコンセプトアルバムでして、ジェネシスがかつてFoxtrotという4枚目のアルバムで一気にプログレバンドとしての評価を得たのと同じようなことを、彼らは3枚目のアルバムでやり遂げたと言うことなのでしょう。結局、ヨーロッパにおいてはまだまだこういう音楽は求められていたということだったわけで、エイジアやイエスだって、もうちょっとやりようがあったんじゃないかと思ったりするわけです。まあ今さらなのですが。


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