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「秘密の国」

 「だれも知らない小さな国」・佐藤さとる・講談社

 小学五年生まで通った有明小学校は、古い木造の校舎だった。校門には石柱が二本立っているだけ。林や小川を抱えこみ、細い小道があちこちに延びていた。松林に梅林。どこからどこまでが敷地かわからないその校庭で、どれだけ私たちは「ごっこ遊び」を愉しんだ事だろう。木の上や藪の中、校舎の床下にも潜り込んで秘密の場所を作り上げ、空想に支えられた遊びを飽きずに繰り返した。六年生の時、ふたつの小学校が合併され、開けた場所に新しい校舎が建った。古い校舎は取り壊された。新しい学校はきれいだったけれど、節穴の開いた廊下やガタガタなる窓やネズミが走り抜ける天井が恋しかった。リノリウムの床は冷たく、白い壁に反射する光はまぶしすぎた。窒息しそうな一年間をぴかぴかの校舎で過ごし、私は小学校時代を終えた。中学校は、再び木造の古い校舎だった。失くしたと思っていたものが還ってきたと嬉しかった。
時は移ろう。古いものにしがみついてばかりはいられない。だが、新しい流れに乗れずに落ちこぼれる心がある。新しい小学校になじめなかった日々、重い気持ちで家を出ると、空よりも足元に目が行った。草の陰や石ころのそばでピョンと影が走ると、カエルや虫かと思う前に「あ、コロボックルかもしれない」とよく思った。
コロボックルとは、佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』に出てくる小人たち。夢中で何度も読み返した大切な本だった。葉っぱの影に隠れて生きる小人たちを、私は半ば本気で信じていた。あれから幾十年が過ぎたけれど、やはりコロボックルを信じたいと強く願う私がいる。
物語の舞台は、新しい街とこれから開発が始まる村との境い目にある鬼門山と呼ばれる小さな山だ。鬼門山には魔物がいると伝えられていた。だが、そこにはコロボックルたちが暮していた。開発によって住処を追われそうになったコロボックルは、味方になってくれそうな少年の前に姿を現す。少年は小人の姿を心の奥底に留めたまま青年になり、やがて山を買い取って小屋を作り、そこで暮らし始める。コロボックルたちの味方になった青年(セイタカさん)は、道路開発を阻止しようと動き出す……。
高度成長期真っ只中の昭和三十年代に、この物語は書かれた。目に見える物質的なものと引き換えに、目に見えない精神的なものを失くそうとしている社会に、作者は早くから気付いていたのだろう。本当の豊かさとは何か。小人たちが作り上げていく小さな国に、作者は希望を託す。
蕗の葉が茂った小さな湧き水。真っ赤な花が咲く椿の木。光る小川。風が吹き渡る木陰。その理想郷のような美しい場所で、落ち葉を集めて火を炊き、お握りを頬張る主人公のセイタカさん。秘密を分かち合う事になる少女おちびさんとセイタカさんの出会い……夢を守り、夢を叶えるセイタカさん。その夢はいつしか私の夢にもなり、その場所に行きたくて、胸が痛くなった。どこかにきっと物語のような街があるはずだ。いつかそこを探し出し、そこでおちび先生のような保育士になりたい。秘密を抱えた小さな「国」で風に吹かれながら暮したいと、夢見ていた。私の夢の半分は叶い、半分は叶わなかった。
誰の心の中にも、秘密の国がある。大事なものは皆、そこにしまわれていく。思い出も叶わなかった夢も、秘密の国の中では、褪せることなく輝き続けているだろう。いつまでも、いつまでも。

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