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「飛び立つ」

「預言者」
 カリール・ジブラン
 著佐久間彪 訳/至光社

 高校を卒業した春、赤飯を持って母と一緒に、進学と別れの挨拶をするために近所回りをした。隣組の人たちは、肉親と同じまなざしで祝福をしてくれた。
「しっかり勉強して、いい保母さんになるんだよ」。
皆からの励ましには笑顔で答えていたのに、帰り道、母と二人になったとたん、涙があふれてきた。母も歩きながら泣いていた。子どもの前では決して泣かなかった人の涙。四月からの一人暮らしの不安。今までいかに守られて育ってきたのかを知った春だった。
 飛び立つ者より、留まる者のほうがより寂しい。それに気づいたのは、見送る立場を経験した時だった。娘が大学生になり家を出る時、笑顔で送り出せた。けれど、夜になって、闇の中にほの白く煙っている木蓮の花と半欠けの月を見ていたら、涙が込み上げてきた。
 『サヨナラダケガ人生ダ』と井伏鱒二は武陵の詩を訳した。花の季節がくるたびに、かつてのいくつかの別れを思い出す。だが、それはもう古い傷跡として。皮膚をはぐように過去に置き去りにした思い出からは、新しい芽が吹き出している。
花は、移ろう時を映す鏡だろうか。咲いているさなかには散ることを思い出させ、散る時にはふたたびの春を思い出させてくれる。散る花は美しい。新しい命にその身を引き渡して散るなら、それは滅ぶことでなく、生きることだからだろう。「別れ」ではなく「出会い」なのだろう。
先日、公民館で、今年度の「絵本とわらべうた講座」を終了した。講座は三日間。春夏秋冬の四回。友人二人と一緒に講師をしている。二、三歳児とその親が対象で、絵本を読み、わらべうたで遊ぶ。回を重ねるうち、赤ちゃんだった子が、名前を呼ばれて「はい」と返事ができるようになり、座って絵本が聞けなかった子が、真剣に絵本に耳を傾けるようになる。緊張していたお母さんたちの顔がほどけていく。一緒にいるのが楽しくて嬉しい。みんなに会えてよかった――そんな関係が出来あがった頃に、別れがやってくる。今回も、春から幼稚園に行くため卒業を迎えた子が数人いた。
「先生、さようなら」。
幼い口から、精一杯の挨拶がこぼれた。思いつめた顔で、小さく手を振ってくれた。「さようなら」だけを何度も繰り返す。そのひとことに、たくさんの思いがこもっていた。
「さよならあんころもち、またきなこ! また会おう」ぎゅっと抱きしめてお別れをした。何年かたって、どこかで出会っても、彼らはもう私たちのことを覚えてはいないだろう。覚えていたとしてもかすかな記憶だろう。だがそれでいい。一緒に遊んだわらべうたや楽しかった思いは、子どもたちの心の底に沈んで、幸福感の根っこを作ってくれるはずだ。
元気に大きくなれ。いっぱい遊べ。つらいことや悲しいことがあっても、また明るい気持ちになって歩き出せ。飛び立ってゆけ。
自分の子を育てあげた今、すべての子どもたちと若い両親たちを応援したい気持ちでいっぱいだ。
 カリール・ジブランの散文詩「預言者」から、アルムスタファが「子ども」について語った言葉を贈ろう。
『あなたは弓です。その弓から、子は生きた矢となって放たれて行きます。射手は無窮の道のりにある的を見ながら、力強くあなたを引きしぼるのです。かれの矢が速く遠くに飛んでいくために』
 子ども――それは私たちの「ふたたびの春」。「未来」でもある。

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