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「情念の行き場」

 「エマおばあちゃん」
 バーバラ・クーニー 絵
 ケッセルマン 文
 もきかずこ 訳
 徳間書店

  庭園美術館で絵を観た。画家の名はアルフレッド・ウォリス。彼はイギリス南西部、コーンウォールの船乗りだった。廃材の板切れ、ホチキスの痕が残るダンボール、たるのフタなどをキャンバス代わりに、彼はペンキで絵を描いた。七十から始めた独学の絵は、まるで子どもが描いたように、生き生きとして無垢だった。心のままに線が躍っていた。
 船があった。波があった。そして、海が幾通りにも描き分けられていた。海にはこんなに表情があるのかと思うほど、色も動きも違っていた。
絵は揺れている。さかさまになった灯台やひっくり返った船、たわんだ橋や傾いだ家。心の中を風が吹き渡っていくようだ。
 画面は暗い。かといってこちらの心まで暗くしてしまうような暗さではない。 明るさとぬくみと湿り気を秘めた暗さだ。
生真面目な筆使いだった。難破船に打ち当たり砕け散る波も、激しいのになぜか静まってみえる。
知りつくすこと。感じつくすこと。そして、心から愛すること。そのとき初めて、対象は心を持ち、画家と一体になるのだろう。
停泊した船、走る船、難破した船。眠る船、遊ぶ船苦悩する船――船たちは皆、ウォリス自身でもある。
好きな絵だった。心が動いた。だが、絵のほうはまったく無愛想だった。ちっともこちらに媚びてこなかった。「こっちを向いて」と呼びかけながら、私は絵を眺めた。
入り口に、彼の写真があった。ハンチングを目深にかぶった小柄で気難しそうな老人だ。二十一歳年上の妻、スーザンと死別した後、ウォリスは絵を描くことで孤独と闘った。
「芸術家にして船乗り」。バーナード・リーチが作った陶板の墓には、そう書かれている。ウォリスがその文字を見ることができたなら、どんな反応を示すだろう。恥ずかしげににやりと笑うだろうか。それとも、しかめっ面のままだろうか……。
 ウォリスの絵を見ながら、私は一冊の絵本を思い出していた。こちらの主人公はおばあちゃんだ。
エマおばあちゃんはネコの″かぼちゃのたね″と寂しい二人暮らし。遠くに住む子どもたちから、七十二歳のお誕生日に、故郷の村を描いた絵を贈られる。
「きれいだこと」口ではそう言いながら「あたしが覚えている村とはまるでちがうわ」と、心でつぶやく。ある日、一大決心をしたエマおばあちゃん。絵の具と筆とイーゼルを買って、突然、絵を描き始める。次から次へと描きまくる。自分で描いた大好きな景色、なつかしい友だち。絵に囲まれたエマおばあちゃんは、もうちっとも寂しくはなかった。
行き場のない愛があり、孤独がある。止むに止まれぬ気持ちは、燃えて情念になる。情念は、表現を求めてさまよう。形にして出してやることで、初めて鎮まるのだろう。
エマおばあちゃんの心は描くことで鎮まった。では、ウォリスは? 彼はどうだったのだろう?
もしかしたら、描いても描いても、彼の孤独は埋まらなかったのではないだろうか。
板切れにとどめられたウォリスの情念。揺れる波。揺れる船。吹き渡る風。その風に、心をさらわれそうになった。
人は誰も皆、止むに止まれぬ思いを表現しようと、苦しみもがいているのだろう。

 

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