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安曇野いろ「人間の絆」サマセット・モーム

 画家の安野光雅さんが「人間の絆」を何度も読み返すとおっしゃっていたのを思い出し、図書館でサマセット・モームを借りた。モームの作品は、今まで「月と六ペンス」しか読んだことがない。新鮮な思いで読み始めた。

 物語は9歳から30歳までの主人公フィリップの人生模様だ。
書かれているのは、二十数年間の歳月なのに、綴られた中身の濃さ故に、ラストシーンでの彼がまだ三十歳の若さなのが信じられないほどだった。
読み終えたとき、フィリップの苦悩の人生を共に生き切ったという気分だったからだろう。

モームはこの本を「執拗に付きまとう過去の思い出から解放するために書いた。読者を楽しませるために書いたのではない」と言っている。
なるほど、主人公の迂闊さと愚かさと弱さに、何度も、ため息をつき、焦燥感に襲われた。行ってはいけないとわかっている方向に、突き進んでしまうのが人間の弱さかもしれないが、彼の人生はあまりにも刹那的に思われた。
理想に燃えていながら、気を抜くとすぐに堕落する。どうしようもない矛盾のかたまりが「人間」なのだと思い当たる。
フィリップの人生迷路を上から見ている読者は、彼の行動が歯がゆいけれど、自身の人生迷路の中では、やっぱりフィリップのように、壁にぶち当たってもがいている。彼=わたし でもある。

題名の絆と言うのは、今はやりの「連帯」の意味ではなく「束縛」。
訳者は「隷縛」と言う強い言葉を使っていた。

恋人だったミルドレッドとの関係は、隷属とよぶのがぴったりだ。
モームは同性愛者だったそうなので、ミルドレッドは女性ではなく男性がモデルらしい。

パリで知り合った詩人のクロンショーに「ペルシャ絨毯に人生とは何かの意味がある」と言われたフィリップは、友人ヘイフォードの死を通して、その答えを知る。

「人生に意味はない。人は生きることで何らかの目的を達成することはない。生まれようと生れまいと大して意味はないし、生きようが死を迎えようが意味はない」

義務の意識からの解放によって、フィリップは自由になる。

「失敗しても問題はなく、成功してもこれまた何にもならぬ…人間も人生も無に過ぎぬ」と彼は気づく。


「フィリップは思った、幸福への願いを捨てることによって、彼は、いわば最後の迷妄を脱ぎ捨てていたのだった。幸福という尺度で計られていた限り、彼の一生は、思ってもたまらないものだった。だが、今や人の一生は、もっとほかのものによって計られてもいい、ということがわかってからは、彼は、自然勇気の湧くのを覚えた。幸福とか、苦痛とか、そんなものは問題ではない。それらは、彼の一生における、いろいろほかの事柄と一緒に、ただ意匠を複雑、精妙にするだけに、入って来るものであり、彼自身は、一瞬間、彼の生活のあらゆる偶然の上に、はるかに高く立ったような気持ちがして、もはや今までのように、それらによって動かされることは、完全にあるまいと思えた。たとえどんなことが起ころうと、それは、ただの模様の複雑さを加える動機が一つ、新しく加わったということにすぎない、そして人生の終わりが近づいた時には、意匠の完成を喜ぶ気持、それがあるだけであろう。いわば一つの芸術品だ。そして、その存在を知っているのは、彼一人であり、たとえ彼の死とともに、一瞬にして、失われてしまうものであろうとも、その美しさには、毫(ごう)もかわりないはずだ。
 フィリップは幸福だった。」

若いときだったら、「人生に意味はない」と文字通りにその意味を取り、反発するか、しらけるかのどちらかだっただろう。けれど、今はこの言葉がとてもよくわかる。

つまづいても、成功をおさめても、それはただ、その人の「人生と言うペルシャ絨毯の模様の一部」なのだということがよくわかる。

良寛さまの言葉にも通じるものがある。
ただあるがままに。そのままに。

フィリップは、才能はあるけれど、決してりっぱな人間ではなく、まして悟りを開いたわけではなく、彼の生き方を通して、わたしは人間は自分勝手で傲慢で弱く狡いということを、とことん味わった。でもだからと言って、人間に失望するような読後感ではなく、反対に、希望を感じた。

アセルニーの娘と結婚した三十歳のフィリップの「これから」が明るい方向へとむかっていたからだろう。

最初から重く、暗く、複雑に進んできた物語が、最後で明るさに包まれたので、希望のある読後感になり、その中に人が生きる意味を感じた。

文中に織り込まれる芸術論、哲学論も読みごたえがあるものだった。

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