見出し画像

「欠ける」

「おはなしのろうそく・5」より「うちの中のウシ」・ワッツ作 
  東京子ども図書館

 スライサーで右手親指の先を削ってしまった。春キャベツのふっくらした千切りが食べたくて買った、新品のスライサー。キャベツの仕上がりに味をしめ、次は大根をスライスした。真昼の空にかかる月のような薄く透き通った大根の輪切り。見とれていたら、指に痛みが走り、白い月が赤く染まった。したたり落ちる血に驚き、傷を確かめる余裕もなく、ぎりぎりと包帯を巻いた。血が止まらず痛みもひどくなり、病院へ駆け込んだ。傷は肉にまでとどいていた。「取れた部分が残っていたら縫い合わせたのですが。これは、全治二週間ですね」と医師。こうして右手親指は、二週間の休暇に入った。分厚いガーゼと包帯で、曲げる事ができない右手の親指。それが「グッドラック」のサインのようだと仕事仲間にからかわれた。グッドラックどころではない、親指が使えないのがこれほど不便だったとは。お父さん指よ、あなたはなんて働き者だったのか。握る、ひねる、つまむ、ひっぱる……親指の力なくしてはできない事ばかり。右手がうまく働かないので、左手の出番が増えた。アイロン掛けも洗顔も歯磨きも、時間はかかるが何とか左でこなした。
二週間かかると言われた傷は、一週間で肉が盛り上がった。「優秀ですねえ」と医師から褒められ、自分の手柄ではないが嬉しかった。成人したヒトの体は、凡そ六〇兆個の細胞で出来ているらしい。そして、その六〇兆個がほぼ二ヶ月で新しく造りかえられているそうだ。単純計算すれば、一日に一兆個の細胞が入れ変わっている事になる。そうか、そのおかげで欠けた指の先っぽもこうしてまた戻って来たのだ。絆創膏を剥ぐと、小さな赤い傷跡と薄桃色の皮膚が見える。
失ったり、欠けたり、傷ついたり。痛みや喪失感や不便さを味わって、初めて人は、当たり前の事として見過ごしてきたものの価値に気がつく。語りのテキストとして使っている『おはなしのろうそく』に「うちの中のウシ」というとんち話があったのを思い出した。
或る所に、貧しい夫婦がいた。ふたりは小さな赤い家に住んでいて、自分たちの家は住み心地がいいと満足していた。ところがある日、おかみさんが長いうどんを打とうとして、うちが狭すぎると文句を言い出す。大きなうちを買いたいがお金がない。男は「ちえのありぞう」の所に相談に行く。すると「ちえのありぞう」が答える。「家の中にメンドリを入れてやりなさい」。男は不承不承入れてやる。すると、家はますます狭くなった。「次はオンドリを入れてやりなさい」と言われる。その通りにすると、家の中は更に騒々しく狭苦しい。再び相談に行くと、今度はヤギ、次はブタ、それからウシを家の中に入れろと言われる。動物達がひしめき合い、男の家はてんやわんやだ。「やあ、具合はどうかね?」と「ちえのありぞう」に訊ねられ、男は答える。「まあまあだね。ちっとばかし混みあってるが、もっとひどい事も考えられるからね。わしのいとこが、十人の子供とかみさんを連れて泊まりに来たと考えてみなせえ。ついでに犬と猫も連れてね」。物事にはいつだってその下があるものだと気づいた男に、「ちえのありぞう」は耳打ちする。「じゃあ、ちょっくら家に帰って、動物達を家から出してやりなさい」。男は喜んで、動物達を家から追い出した。そして、広々とした家の中でつぶやくのだ。「ものは使いよう、気は持ちよう、まったくだねえ。これ以上広い家はいらないよ」と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?