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「封印された感覚」

 「どろんこ」写真・英伸三・福音館書店

 印旛沼の脇を走る幹道から外れて、細い道をくねくねと奥に進む。木の柵を通り抜けると、緑の中に白いドアが現れる。ギャラリーカフェ『風草』だ。カフェの脇には陶房もある。主は陶芸家の松平美子さん。隠れ家のような佇まいと店内に漂う素朴で親密な空気に惹かれ、時々ふらりと遊びに行く。ギャラリーの作品を楽しんだ後は庭に出る。クヌギ林が庭をドームのように包み込み、あちこちの繁みに、山野草が咲いている。看板猫のフウちゃんがクヌギの木で爪とぎをするのを見ながら、風に吹かれて珈琲を飲み、眼下に光る川と沼を眺める。時間が堰き止められた空間では、しばしば思いがけない事が起きる。見知らぬ人と意気投合したり、思いもかけず、逢いたかった人に出逢えたり。紫陽花が美しい六月の日曜日。松平さんが陶房を開放して、陶芸の手ほどきをしてくれた。友人に誘われて、私も参加した。
濡れタオルの上に粘土の塊が置かれていた。寡黙な灰色の土だった。手でこねていく。ぬくもりが伝わると、やがて土は、圧し込められた記憶を語りだす。練り込まれた光、浸み込んだ雨、踏まれ、押し潰され、様々なものと混じりあった時の思いを。掌は土の言葉を受けとめる。しばらくこねていると、土がひたりと、手に張り付いてきた。土との一体感。陶芸家の半泥子が「どれだけこねるのか」の問いかけに対し「土が良しというまで」と答えている。手に吸い付くこの瞬間の事だったのだろうか。
夕方、完成した作品が机の上にずらりと並んだ。ある者は豪快に、ある者は繊細に作っていた。ユーモラスな物があるかと思えば、素朴な物がある。互いの作品を褒めたりくさしたりしながらの作業だったが、出来上がりを見ると、どの作品にもその人らしさが乗り移っているのが面白かった。   作品が出来たのも嬉しかったが、土に触れて忘れていた感覚が蘇った。手が思い出したのは、泥んこ遊びの感覚だろうか。「懐かしい」とでも呼びたくなるような。その思いは、子供時代の泥遊びの思い出を通り越す。人類の祖先が泥の中を彷徨っていた、魚類から両生類へと移行する時の記憶まで遡るのかもしれない。頭が覚えていなくても、体のどこかが進化の過程の一瞬を記憶しているのだろう。泥や土は、人間の封印された感覚をほどいてくれるのかもしれない。写真絵本『どろんこ』の、えもいわれぬ開放感を思い出した。表紙を見せると思わず「えーっ!」と歓声が上がる。喜びと驚きと畏れ。しかめっ面で拒絶を表す子もいる。生半可な泥んこではない。絵本の中では、パンツ一枚の子ども達が、泥田の中を転げまわったり、ひっくり返ったり。その光景は、大人の目にも衝撃的だ。汚れる、汚いと言った負のイメージが先行する泥遊び。でも本当は、どうだろう?「ぐっとひだりあしいれて……よっとみぎあしぬいて」の冒頭場面では、写真の子ども達もやや緊張気味だ。だが、次の頁を開くと、手も足も泥まみれ、しかし、満面の笑みを浮かべた子どもがいる。次々と頁を繰ると、泥だらけの子どもが跳ねる、這う、浮かぶ、寝る、のたうつ。泥の中でやりたい放題。「どろんこにぎれば くちゅぐにゅ」「どんぺちゃ ぐちゃり おなかにとぺり」。英伸三さんの写真の迫力はもちろんの事、長谷川摂子さんの文章の魅力で、泥が別のものに見えてくる。艶のある黒い泥の海が、懐かしく温かいものに。大人になった今でさえ、豊かなその泥に、とっぷりと身をゆだねたくなってくる。


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