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「天然」

 「土」 長塚節・新潮文庫

 八街の陶房に出かけた。陶芸家の松丸さんとは、数年前から付き合いがあり、少しずつ彼の作品を集めてきた。土の存在感がしっかりと残る器。向き合っていると、「土器」という言葉がほっくり浮かんでくる。ずっと客用に使っていたが、この頃は普段使いにして愉しんでいる。山茶碗と呼ばれる、杯を大きくしたような形の器がお気に入りだ。赤銅色の歪んだ形。テーブルに置く度、ゴトリと深い音がする。御飯をよそってもいいし、味噌汁にも合う。スープを入れても、抹茶椀にも使える。今回も釉薬が違う山茶碗をふたつ、急須をひとつ、買い求めた。囲炉裏を切った部屋で、馬上杯を模した器で珈琲を戴いた。馬上杯は古い中国の器。名の如く馬上で武将が酒を飲むのに使われた。飲み終ると、大地に叩きつけて割るのだという。土は土に還るのが道理だが、何とも豪快な話だ。話題は自然、震災の事にも及んだ。窯が少し崩れたと言うので見せてもらった。小振りの登り窯で、むっくりとふくれた土色の塊は小さな竜を思わせる。小屋の天井からぶら下がった自在鍵の先には、縁起物のウラジロの葉が結んであった。三方に、酒杯と小さな皿が乗っていた。地震の被害はと見ると、焚口の煉瓦が上下にずれていた。小さなひび割れも少し。「火を入れると、窯は膨らむんです」と松丸さんが以前教えてくれた。まるで生き物のようだとその時も思ったが、小さな傷を負って静かに横たわっている窯も、やはり生き物のようだった。きれいに積まれた薪の山。窯の横から伸びている筍。初めて陶房を訪ねた時、白い犬が道案内をしてくれた。十六歳になったその犬が、帰り際にのそのそと現れて見送ってくれた。「変わりゆくものの中の変わらないもの」が陶房には満ちていた。懐かしいような哀しいような土の記憶と共に。緑に包まれた陶房の外に出ると、畑から風が土を巻き上げてきて、視界が遮られた。砂嵐から逃れ出ると、目の前は田んぼで、早苗が揺れ、蛙が鳴いていた。
 長塚節の『土』を読んだ。『土』は明治の末に「東京朝日新聞」に掲載された。重い話で、おまけに読み辛い。当時の新聞読者にも不評だったらしい。夏目漱石が序文を書いている。「『土』を読むものは、きっと自分も泥の中を引きずられるような気がするだろう。(中略)余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと言い募る時分になったら、余はぜひこの『土』を読ましたいと思っている。娘はきっといやだというに違いない。より多くの興味を感ずる恋愛小説と取り換えてくれというに違いない。けれども余はその時娘に向かって、おもしろいから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたいと思っている」。
漱石さえ読み辛いと言い放った文体は、写生文と言ったらいいのだろうか。極貧の農民の暮らしを、精細に描写している。その筆は、空、風、霜、植物、鳥、闇や光の密度をも丹念にあぶりだす。それ故、人も万物の中に溶け込み、ほの暗く切なくうごめく。貧しさは卑しさか……それが嫌で人は高みを目指す。だが、すべての物が土から湧き出し、土にまみれて生き、やがては土に還るのだ。読み終えた時、土を耕すように、ざっくりと心を掘り起こされた気がした。化粧をしてきれいな衣服に身を包み、いくらすましてみても、心の中には土塊が潜む……。
松丸さんの器に、そっと触れた。土の飾らなさ、素直さ。それは決して卑しさではない。今度は「天然」という言葉が呼び起された。


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