グレイト、グレイト
アメリカ海軍に、ゼウスという非常に評判のよい男がおりました。彼は、容姿端麗な美青年である、というだけでなく、良家の出身、さらに社交的で、どんな人にも親切であるということですから、ゼウスのことを悪くいう者は全くいませんでした。
ゼウスにはヘラという妻がおり、こちらも町で最も美人と評判の女性でしたが、水兵であるゼウスと会えるのは月に一回ほどでした。しかし、彼女は、ゼウスほどの人物が裏切るはずはない、と彼のことを信じ切っていました。また、ゼウスは船旅から帰ってくるたびに、異国の珍しい鳥を連れて変ええてくるので、ヘラはそれを夫だと思ってさみしさを紛らわせていました。しかし、ゼウスはほかの水兵たちに、彼に妻がいることを知らせていませんでした。唯一、彼に美しい妻がいることを知っている同僚はそのことを不思議に思っていましたが、美しい妻が万が一ほかの男に取られたら、とか美しい妻がいることで変な嫉妬を買いたくないだとか、そんなことを心配しているからだろうと推測し、それを他人に言うことはありませんでした。
ある日、ゼウスの乗った船がニューヨークに寄港しました。その日、ゼウスは丸一日の休みであったため、友人たちとニューヨークを観光するという約束でした。しかし、ゼウスは先に用事があるといって、いち早く出発して、ニューヨークの人込みに紛れたっきり、集合時間になっても彼らの前に姿を現しませんでした。彼の友人たちは、どうせ迷子か何かになったのだろうと思い、ゼウスが一時間待っても現れなかったため、先に目的地に出発してしまいました。
さて、彼が何をしていたかというと、父であるウラノスのもとに行っていました。ニューヨークでも指折りの資産家であるウラノスは、息子のゼウスと同じように各地を飛び回っているため、親子が会うということはほとんどありませんでした。久々に再開した二人でしたが、お互いの近況報告をしたきりすぐに分かれてしまいました。
その後、ゼウスは友人たちと約束した集合場所に行こうとしましたが、あまりにも人が多いニューヨークで、道に迷ってしまい、途方に暮れていました。そこで、道を聞こうとしましたが、ゼウスが声をかけても、せわしない街に生きている人たちは、全く立ち止まってくれず、彼は仕方なく、ただ町を歩いてみることにしました。ゼウスは、そのまま歩いて、ニューヨークで最も貧しく、治安の悪い場所へ来ました。皆、そこに入るのは嫌がるのですが、ゼウスは全くためらいなく、その地域に足を踏み入れると、ふととある女が唐突にゼウスに声をかけてこう言いました。
「文字、いりませんか?」。
その女はイオというもので、非常に美しいのですが、いつもぼろぼろの服を着て、髪も整っていなかったため、その美しさに気づいている人は全くいませんでした。しかし、ゼウスはすぐその美しさに気づき、イオの前で足を止め、こう聞きました。
「なぜ、文字が売れるんだ?」
イオは答えました
「ここは、みんな貧しくて、学校に行ってない人がほとんどで、読み書きができる人が少ないんだ。私は読み書きができるから、こうして自分で作った読み書きの教科書をここで売っているの。」
イオは、ほかの住人と同じように、非常に貧しい家庭で、イオ自身も小さなころから、母の内職を手伝っていたのでしたが、ほかの子と違ったのは非常に好奇心旺盛で、何より勉強を好む子供でした。とにかく、町に捨てられた子供向けの絵本や、読み書きの教科書、図鑑などを探してきては、少しでも時間があると、それを読みふけっているようなそんな子供でした。また週末は必ず教会に赴いて、町の子供たちに彼女の身なりを馬鹿にされながらも、必ずお祈りをささげるという非常に信心深い子供でもありました。
この美しさ、賢さ、信心深さに感銘を受けたゼウスは、彼女を自分のものにしたいと強く思いました。そのため、ゼウスは、町に出て、いろいろな場所に行こうと提案しました。彼女は少し考えた末に、家族に伝言をしたいといって、家に帰りました。ゼウスはこれについていきました。
彼女の家には、母親が一人、弟が一人おり、父はイオが幼いころに蒸発していました。彼らは、刺繍づくりの内職をしていて、家のそこら中に糸くずが落ちていました。イオが帰宅したことを伝えると、母はイオが全く見知らぬ美青年を連れてきたのでたいそう驚きました。そして、イオに事情を聴き、母親は喜んでこう言いました。
「ぜひ、いろいろなところに連れて行ってください。」
イオの母親は非常に優しい人でしたが、その優しさゆえに人を疑わない、そんな人でした。それと違って、弟は非常に姉のことを心配していました。最後まで姉を説得してみたものの、ゼウスに言いくるめられてしまい、結局イオはゼウスとともに出かけることとなりました。
まずゼウスはイオの身なりを整えようと思いました。イオはゼウスに連れられ、まずは服を買いに出かけました。全く見たことのない世界にイオはとても驚きました。ゼウスは慣れた様子で、イオに似合うと思った服をいくつも試着させ、もっとも良いものを買って、今度は美容室に出かけました。こちらも順調に済ませ、メイクまで終わらせると、イオはゼウスと会った時とは全く違った、誰もが振り返るような淑女となっていました。
その後、イオとゼウスは好奇心のまま、様々な場所を巡ります。まずは博物館に行きました。イオにとって、本でしか見たことのなかった世界がそこにはありました。興奮のあまり、触ってはいけない展示物に触ったり、大きな声で話しすぎて、館員に注意されたりしてしまいました。教会のお祈りほど静かな場所に行ったことなどなかったイオでしたから、どこに行ってもはしゃいでばかりで、ゼウスも苦労して一からマナーをイオに教え込みました。もちろんイオはレストランに行ってもマナーなども全く知らないため、ゼウスが全く持って一から教えなければならないのでした。
ゼウスは非常に惜しく思っていました。ゼウスがニューヨークに滞在できるのは一日切り、もちろん海軍の船にイオを乗せるわけにはいきませんから、イオとこのように出かけるのは今日限りのことでした。非常に呑み込みの早いイオはなんでもすぐにうまくこなすようになり、目を見張るほど成長していきました。特にダンスは、イオはすぐに得意になりました。ダンスホールで、全くの初心者でありながらも、ゼウスがとてもうまくリードし、またイオも物怖じしない性格でありましたから、すぐにイオはそのダンスホールで一番目立つようになり、様々な人に話しかけられました。イオは、全く話したこともないような種類の人たちに少し困惑しましたが、すぐに打ち解けて仲良くなりました。この社交性にはゼウスもますます驚くばかりで、ますます一日限りであるのが惜しくなりました。
また二人はニューヨークで一番有名な舞台を見に行きました。そこで見る世界、聞く歌、すべてがイオにとって刺激的なものでした。イオはあの中に自分がいれたらどれだけ幸せだろうとそう思いました。部隊が終わった後、イオは、ゼウスに興奮しながら、
「いつか、あの舞台に立ってみたい、あんなふうに踊って歌ってみたい!」
といいました。ゼウスは興奮するイオをうまくあやしながら、
「イオならいつかなれるさ」
と励ましました。
その後もイオとゼウスは様々な場所に行きました。イオにとってはまさしく夢のような経験であり、まったくこの楽しい時間が終わってほしくないという気持ちと、一刻も早くこの経験を家族に話したいというそんな気持ちで、胸がいっぱいでした。最後にイオはニューヨークで一番高いところに行きました。イオはいつか上ってみたいと思っていたビルがまさか上れるとは、という驚きと感動でいっぱいでした。やはり一番上の階につくと、イオははしゃいで、自分の家を探しました。そして、ゼウスにあの目立っている建物は何か、あの施設は何か、といろいろなことを聞きました。全くはしゃぐものですから、さすがのゼウスも疲れてしまいました。そして、夕食をたべて、ゼウスとイオはゆっくり話をしました。ゼウスがこれまでどこに行ってきたのか、どのようなことをしてきたのか、イオの興味は尽きませんでした。一日も終わりに差し掛かると、イオは、ゼウスに出会った時とは全く違ったようになっていました。非常に美しい衣装を身にまとい、自信を持った淑女となっていました。そして最後に二人は夜の街を少しだけ歩くことにしました。イオは最後になぜ、自分を連れ出したのかを聞きました。ゼウスは
「最初に、君を見た時から、何と美しい女性がこの世にいるものだろうと思った。この美しい女性が自分の隣にいてくれることが何と幸せなことだろう、とそう思ってしまった。」
といいました。イオはもちろんこのような言葉を言われたことがなかったため、非常に戸惑いましたが、イオはもう一つ質問しました。
「今日のように私をまた連れ出してくれる?」
ゼウスがそれにうなずくと、イオはゼウスの胸に飛び込み、ゼウスは、それをやさしく抱きかかえ、お互いが顔を見つめた後、キスをしました。その日以降イオは家に帰ることはありませんでした。彼女の母と弟は、イオを探しましたが、全く見つかることはありませんでした。警察も貧しい家の娘が居なくなることなどよくあることだといって、全く掛け合ってくれませんでした。
次の日ゼウスは小さな鳥かごの中に一羽のオウムを抱えて、船に戻ってきました。彼の同僚たちも、次々に戻ってきて、ゼウスに言いました。
「また、鳥を連れて戻ってきたのか。そんなに鳥ばかりいて、世話はどこでしているんだい?」
ゼウスは鳥好きの親戚がいるとごまかし、やはり妻がいることは伝えませんでした。そのオウムは、非常にゼウスになついているようで、こう繰り返していました
「グレイト!グレイト!」
これを聞いた同僚たちは笑いました。
「随分、いろんなことに感動する鳥がいたもんだな」
こういうと、ゼウスもまた笑っていました。
しばらくして、ゼウスもまた忽然と同僚の前から姿を消しました。ヘラは非常に悲しみ、イオの家族と同じようにゼウスを探しました。今度は警察も動いてくれましたが、結局見つからず、ヘラのもとに残ったのは、ゼウスが持ち帰った多くの鳥たちだけでした。
実はゼウスはそのころ神の世界に戻っていました。彼は、神の世界の住人でしたが、そこで罪を犯し、人間の世界に堕とされていました。父であるウラノスも監視役として、堕とされており、彼らが近況報告をしていたのは、ゼウスが人間の世界でまた罪を犯していないかを確認するためでした。罰の期間が終わり、神の世界に戻ったゼウスは何事もなかったかのように、彼が出会ってきた多くの女性たちのこともすっかり忘れて優雅に暮らしています。ヘラのもとにいる鳥たちは今日も鳥かごから抜け出して、天に向かおうとしています。まるでゼウスをさがそうとしているかのように。
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『踊る大紐育』(1949)のプロットをもとに、ギリシャ神話「ゼウス」他のエッセンスを加えて構想。
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