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キツネの嫁入り

 ねえ君、ぼくはちょっとした高台にいたんだ。というのも、坂を上る途中だったから。
 そのまま真っ直ぐ歩くのは、やめたんだ。まだ、上り坂が見えたから。疲れていたし、うんざりしてさ。
 で、右の小道を曲がったら、下り坂だった。左右は、家々が狭苦しく立ち並んでいたよ。
 弱い雨が降っていて、傘をさして歩いていたんだ。足元を、よく見つめてさ。うん、銭湯に行く途中だった。
 そしたら、ねえ君、急に世界が明るくなったんだよ。空を見たら、青いんだよ! まっさらの、クレパスで塗ったような、鮮明な、鮮明な青だった! 立体的な白い雲もあったけど、それ以上に、何としても青空が眩しかった。陽光が、キラキラ地面や電柱を照らしてさ。
 雨が、細く、さらさら降っていた。やさしい雨だった。

 ねえ君、ぼくは少しだけ、空に近い所にいたんだ。空と地の間に立って、雨の「なか」にいる感覚だった。
 綺麗だったよ。ほんとに綺麗だった。雨って、美しいんだね!
 坂道を見下ろしていると── 和服姿の、白い角隠しを被ったお嫁さんが歩いていた。
 顔には、キツネのお面が被さっている。ノの字の眼をして、ヒゲも描かれている、真っ白なお面だ。横にいる男は、新郎らしい。紋付袴を着て、お嫁さんが濡れないように、彼女の方へ唐傘をさして、一緒に歩いている。
 キツネの花嫁は、しおらしく、帯のお腹の辺りに両手をやって、ゆっくりゆっくり歩いているんだ…
 新緑の葉から、一粒、しずくが落ちた。静かに雨は降り続いている。瞬間、雲間から、カッ、と晴れ間が差し込んだ。

 たった一瞬で、すべてが明るくなった。薄曇りの雨の世界が、パッ!と暴かれたんだよ。お面の下の、白い毛に、赤い眼をしたキツネの顔が! 横を歩く新郎は、化かされていたんだ!
 でも、ねえ君、その男は、やさしいままだったのさ… 自分が濡れていくのも構わず、しおしおと歩くキツネに、ずっと唐傘をさし続けているんだ…
 そうしてふたり、黙然と、ゆっくりと歩調をそろえて、前を向いて歩き続けていったのさ…
 ああ、ねえ君、それは美しい光景だったよ。
 でも、ぼくはただじっと、坂道から雨を見ていただけなんだ。でも、ねえ君、ほんとうに美しかったのさ、信じてくれるかな、キツネの面を被った花嫁が…