物語はいらない

古くなったジャージズボンの伸び切った腹回りのゴムを変えたら、まだ使えるかな
補正屋さんに持っていったら、5千円と言われ、捨てようと決めたら

私の分身であったジャージズボンに、まとわりついた思い出や汗が、よみがえり

ソフトボール、草取り、山登り、
などなど、ジャージズボンと共に汗をかき、声をあげ、動き回っていたシーンを想い起こす

ところで、私は、古くなったモノとしてのジャージズボンを捨てようとしていたのか
私のジャージズボンにまつわる切ない思い出や物語の記憶を捨てようとしていたのかと

そもそも、私という人間は、本当に自分のジャージズボンにまつわる物語の#主役 だったのか
否、分身であるジャージズボンこそが私の物語の主役ではなかったのか
と疑念が湧く

私=主役は、私の分身=脇役となったモノや事柄(e.g. 映像:職場:身体:音:愛着など)の織りなす物語に、まとわりつかれ、挟まれ、圧迫され、飲み込まれ、侵食され、私=主役は疲弊し、そして目立たなくなった
主客逆転!

ある日 
私は、恥をかいた(恥という物語)
屈辱に浸った(屈辱という物語)
ひどいときは、子宮時代へ遡(さかのぼ)った
その物語から脱出すべく
「私を」物語から引き剥(はが)した

私は、降臨する物語を拒むことはできないし
拒む必要もない
しかし、物語が私に居座ることを許さない
だから、
「物語はいらない!」と
弾劾する

物語を弾劾した後、どこへ行くのかと迷ったら
自分にとって①未知なこと、②面倒くさいこと、③家事など身近なこと、は必ず選択したい

そうでなければ、子宮時代の物語に#永劫回帰 を許す性格習慣の中で、
気づいてみたら、
自然死を待つベッドに横たわる自身を発見することとなるのではないだろうかと想像してみた






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