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堂々と好きっていうことが正義なの?

 読書好きなんです、という後輩が「目が悪くても、本さえ読めればいいんで」なんて言うのを聞くと、なんだか困ってしまう。こっぱずかしいような、反発したくなるような、なんとも言えない気持ちになるのだ。
 そのまっすぐさがまぶしいのだろうか、好きなものをどれくらい好きかを言うことにためらいのないその姿勢が目に染みるのだろうか。
 そんな気もする。でも少し違うような気もする。
 大きな声で言えば、それだけそのものが好きになるような、そういう風潮に反論を唱えたくなるのかもしれない。好きに上下があって、わたしの好きは最上級ですよ、とでも言うような、その姿勢が。
 好き、というのは感情で、わたしが大事に抱きしめるべきものであって、大きさや重さを比べるものじゃないはずなのに。どうしてだろう、大きな声で「これが好きだ!」と述べている人の前だと少し萎縮してしまうわたしがいる。
 たぶん、わたしにとって好きという感情はとてもかわいくて、大事にしたくて、そして、脆いものなのだ。だから、「これが好きです!」と堂々と叫ぶ人を前にすると、そのひとたちの「好き」の強度の高さにびびってしまう。その強さの好きと一緒に並べられたら、わたしの好きは壊れてしまうかもしれない。不安になる。
 好きなものってひとにとって一番弱い部分にもなりうるよな、という意識がわたしにはすごく強くあるのだけれど、みんなはそうでもないのかな、という瞬間が結構ある。
「これが好き!」「これのためだけの視力で十分よ」そういう発言の裏に、「ふふん。わたしはこれだけ好きに情熱がありますよ」という無言のアピールを感じるのはさすがにうがちすぎだろうか。
 前にも書いたけれど、好きでつながることにわたしはすごく恐怖がある。その原因はここにある。
 わたしの好きは、みんなに比べてすごく脆いのだ。壊れやすいし、知らない人の目の前に堂々と出せるようなものじゃない。だから、堂々と出されると、怖くなってしまう。わたしの弱さをつきつけられたような気持ちになる。
 でも、好きってそういうものじゃないはずだ。誰かに堂々と主張できる「好き」もいいけど、ほんとうに好きなものは説明できないし、輪郭さえ曖昧だったりする。
 わたしはもしかして自意識過剰なのかもしれない。でも、触れたら壊れそうな自分の好きの前でどうにもできず、困って好きを見つめている自分も、そんなに嫌いではないのだ。

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