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戦国その11 蝦夷ケ島・北東北の陸奥・出羽、「奥州」の争乱、安東・南部・葦名など

蝦夷・奥州(陸奥・出羽)安東・秋田愛季の家臣団。 津軽為信の家臣団。南部(武田)晴政・信直の家臣団。

最上(斯波)義守・義光の家臣団。 葛西(千葉)晴信、大崎(斯波)義隆、芦名(三浦)盛氏の家臣団と軍団。東北の戦国大名の家臣団のページです。

足利幕府の変遷

1467年「応仁の乱」東西両軍大名の動向↓

蝦夷ヶ島

コシャマイン (*~1457)胡奢魔犬。蝦夷島(渡島)函館汐泊川の中流の国人。1457年函館志苔館を襲撃「コシャマインの乱」を起こす、和人12館のうち10館を落とし、和人豪族を蝦夷島より駆逐する。武田信広の和睦を装う計略により殺害される。

≪個人的感想≫ 1440年足利幕府の内乱(関東公方の滅亡)と、「嘉吉の変」での将軍・義教の死により、明日をも知れぬという心理が働き、蝦夷ケ千島の友好関係の行く末に乱れが生じたのではないでしょうか。

<蝦夷ヶ島・安藤家の家臣団>  


津軽十三湊福島城主、安東盛季の蝦夷落ち(1437~1445年間)。

(本州出羽・檜山安東家・<新・下国家(本州では湊安東が新・上国家を名乗る)>) 盛季の弟・道貞(安東四郎)が興した分家の末流。 十三・藤崎安藤家と正統を競う。

安東政季 (*~1488)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・太郎・(師季?)。安東一族・(道貞の息)潮潟重季の息。義季の養子。1453年大浦郷にて南部氏に敗北。蝦夷島(渡島)に渡る。秋田郡西北部に帰還。1456年湊惟季の後援で葛西秀清を滅ぼす。檜山城築城。1470年上国安東と抗争し藤崎城を攻撃。檜山城城主。息に忠季。<弟・家政が蝦夷嶋(渡島)の下ノ国の代表ということでしょう。><1468年『熊野那智山願書』に安東師季が津軽外浜→敵は南部?藤崎安東?、ウスリケシ(函館)→敵は茂別安東?の旧領回復を願っている。><1488年自害となっています。上国安東に敗北するか。>

安東忠季 (*~1511)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・太郎。安東政季の息。1488年家督相続。1496年蝦夷地の蝦夷上ノ国・大館安東恒季を滅ぼし、相原季胤を代官とする。息に尋季。のちに尋季→舜季→秋田愛季。<檜山安東氏が蝦夷一島支配を完成したのでしょうか。檜山より強勢だった土崎湊安東氏は何をしてたんでしょうか。>

安東尋季 (*)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・太郎。安東忠季の息。息に棟季、舜季。

安東棟季 (*)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・太郎。安東尋季の息。弟に舜季。

安東舜季 (1514~1554)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・太郎。安東尋季の息。棟季の弟。「土崎」湊・安東尭季の娘婿。檜山安藤7世。蝦夷地の蠣崎氏に圧力。息に愛季。

<十三湊系が滅び、土崎湊系安東(秋田)氏の支配が勝利するが、のち最終的には檜山安東に従い離反。豊臣・徳川政権の影響を経て蠣崎家が松前家として自立。1600年「関ヶ原の合戦」での西軍秋田氏と別行動。>

<蝦夷 下ノ国・安東八郎家> 


十三湊系安東氏 1432年安東康季が南部氏に追われ蝦夷に移住。 

 <主が十三湊系安東氏なのか、檜山・土崎湊系安東(秋田)氏なのか、見極めが必要。>

潮潟家政 (*)下国家政・新下国安東・(潮潟安東)・安東八郎・蝦夷下ノ国・茂別家政。潮潟安東一族・潮潟重季の息(安東重季の次男)。兄の安東政季は本家の東北下国(檜山)安東家を相続。蝦夷下ノ国守護家。茂別館城主。1457年上ノ国家家臣の武田信広と共闘しコシャマインの反乱を破る。(蠣崎)信広が軍功。息に宅季。<1450年代に十三湊系の蝦夷上ノ国(大館)、檜山系の蝦夷下ノ国(茂別)の主導権争いがあったのでしょうか。><兄・政季は奥羽の檜山郡(秋田県能代)に進出?追放?。><政季を出羽に招待するというのも変な話なので、土崎湊の安東氏が仲裁に入り政季を引き取ったりしていないでしょうか。>

小山隆政 (*~1459?)下ノ国守護家一門。岩亀館館主。武田(蠣崎)信広と抗争し討たれる。

 

藤崎? 安藤家の家臣団 1432年安東康季が南部氏に追われ蝦夷に移住。 

古上国嫡流(十三湊安藤氏が津波で壊滅することにより、藤崎安藤が復活したと仮定してみました)

安藤康季 (*~1446)(古上国)・下国安東・ニ郎・太郎・十三湊日下将軍。安東盛季の弟(養子?)。兄の死後、家督継承。1423年安藤陸奥守、将軍にラッコ等献上。1436年若狭小浜に羽賀寺を再建。1432年南部氏の攻撃により蝦夷に渡る(下国安東一族の津軽脱出は1432、1442、1445年説あり)。十三湊新城・福島城主。茂別館築城。<自称、奥州十三湊日ノ本将軍・安倍康季。安東盛季の次男とも(系図は混乱してます)。1446年に南部氏に敗北するというのは確かなようです。>

⇔▽安藤義季 (*~1453)(古上国)・下国安東・太郎・十三湊日下将軍。康季の息。1446年父・安東康季の敗北により家督。1453年大浦郷にて南部氏に敗北。義季の弟・定季が家督相続。<十三湊は滅亡し、一門は蝦夷上ノ国に移住するか。>1453年南部氏に敗北し戦死。跡職は潮潟安東氏の政季が相続。<本州での拠点を完全に無くして蝦夷に移り住んだのでは。>


《個人的感想》 現在では蝦夷上ノ国は天ノ川以北を指すといわれますが、松前が十三湊系安東氏の拠点で蠣崎家がその家老に過ぎないとすれば蠣崎家上ノ国守護職という話しは虚飾であって、松前半島の白神岬の分水嶺あたりで、松前大館の安東氏と、茂別を拠点とする安東氏とが、二分割支配していたというのが実際のところではないでしょうか。

 

<蝦夷 上ノ国安藤> 


十三湊系安藤・安東氏

 <檜山安東家の都合と蠣崎家の都合で系譜が不明となるか。>

安藤定季 (*)(古上国)・下国安東・山城守・蝦夷上ノ国松前・大館定季・貞季。康季の息。義季の弟。1453年兄の死により家督。1457年家老の相原政胤とともにコシャマインの捕虜。武田信広の活躍により脱出。息に恒季。<十三湊安東氏が南部氏により滅亡したため、弟がいる蝦夷安東が、嫡流となったのでしょうか。本州の土崎湊安東氏との主導権争いがまっていたのでしょう。><檜山安東は湊を持たないので、当初は土崎湊の安東家との覇権争いだったのでは。>

相原政胤 (*~1512*13)周防守。松前安藤家家老。1457年安藤定季とともにコシャマインの捕虜。武田信広の活躍により脱出。息に季胤、吉胤。

安藤恒季 (*~1496)(古上国)・下国安東・蝦夷上ノ国松前・大館恒季。定季の息。1496年檜山・安東忠季と結んだ家老の相原季胤の為に福山にて滅亡。<この時期に檜山安東氏が突然クローズアップされて、蝦夷の内紛に介入したことになってますが、当時繁栄していたのは湊安東氏で、実際は湊安東が介入していたんじゃないでしょうか。のちに湊安東の分家の檜山安東が、愛季の代に土崎湊宗家を乗っ取り、先祖の事績を潤色して檜山安東が主役だったような、ややこしいことにしているように思えます。>

相原季胤 (*~1512*13)大館恒季家臣。1496年村上政儀とともに檜山安東忠季と結び下克上。下国恒季を討つ。蝦夷代官。大館館主。1512年蠣崎光広の謀略によるアイヌの一揆により戦死。弟に吉胤。<檜山安東は湊を持たないので、当初は土崎湊の安東家の介入だったのでは。>

村上政儀 (*~1512*13)大館恒季家臣。1496年檜山安東忠季と結び下克上。厚沢部を領する。1512年蠣崎光広の謀略によるアイヌの一揆により戦死。息に季儀。<檜山安東は湊を持たないので、当初は土崎湊の安東家の介入だったのでは。>

蠣崎季繁 (*)蝦夷上ノ国・花沢館館主。下ノ国安東政季の娘婿。武田信広を娘婿に迎える。檜山安東家の蝦夷代官。養子に光広。

▽↓蠣崎信広 (1431~1494)武田信広。花沢館館主・蠣崎季繁の客将。檜山安東家の蝦夷代官。息に光広。勝山館城主。

蠣崎光広 (1456~1518)武田光広。信広の息。蠣崎季繁の養子。本拠地を大館(徳山)に移す。檜山安東氏に通じる。相原季胤に代わり蝦夷代官。息に義広。

▽蠣崎義広 (*1479~*1545)武田義広。光広の息。檜山安東氏の下で蝦夷代官。アイヌの領主タリコナの軍事蜂起を鎮圧。日本海航路の運上金を抑え台頭。大館城主。息に季広。

 

<蝦夷 安藤家の家臣団>

(蝦夷下ノ国)

津軽外浜・潮潟系の代官

①志濃里館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に落城。1512年「渡島アイヌの挙兵」に落城。

小林良景 (*)太郎左衛門尉。上野小林氏分流。元・十三湊安藤氏家臣。良景の代に移住。息に弥太郎・良定。<越前の豪族・小林家に関連する一族でしょうか。><日本海側商人?>

▽与倉前館・1512年「渡島アイヌの挙兵」に落城。

小林政景 (*)二郎左衛門尉。小林家一門衆。良景に従い移住。息に小二郎・季景。

②函館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に落城。1512年「渡島アイヌの挙兵」に落城。

河野政通 (*)加賀守・右衛門尉。加賀河野氏。元・十三湊安藤氏家臣。茂別安藤家家老。父の代に加賀から移住。<南朝・新田義貞の越前行に従った河野一門でしょうか。美濃の稲葉・一柳・林家とも関連があると面白いですね。><日本海側・瀬戸内商人?>

③茂別館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に籠城。1512年「渡島アイヌの挙兵」に支配圏喪失。

安藤家政 (*~1496*1501?)下国家政・茂別家政・八郎・式部大輔。元・十三湊安藤氏家臣。安藤家分家。コシャマイン軍鎮圧後、武田信広の軍功を賞する。息に家季。孫に師季。<岩木山周辺の鉄資源を安藤家が掌握していたと伝わります。蝦夷島への進出は、金・銀・鉄・銅の地下資源を求めてのことではないでしょうか。安藤家が各所で拠点とする場所には近くに何かの鉱脈が存在するのでは。>

④中野館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に落城。1512年「渡島アイヌの挙兵」に落城。

佐藤季則 (*)三郎左衛門尉。季行の息。元・十三湊安藤氏家臣。季行の代に移住。<信夫庄司の佐藤家の一門でしょうか。太平洋側商人?>

⑤脇本館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に落城。1512年「渡島アイヌの挙兵」に落城。

南條季継 (*)治部少輔。元・十三湊安藤氏家臣。<毛利から離反し織田についた南条氏一門か。日本海側商人?><1576年頃から織田家の惟住長秀が若狭を抑えた事で流通に変化が起きたことでしょう。>

⑥穏内館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に落城。1512年「渡島アイヌの挙兵」に落城。

蒋土季直 (*)甲斐守。元・十三湊安藤氏家臣。

 

(蝦夷上ノ国)

津軽西浜・十三湊系の代官

⑦覃部館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に落城。1512年「渡島アイヌの挙兵」に落城。

今泉季友 (*)刑部少輔。元・十三湊安藤氏家臣。

⑧大館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に籠城。1512年「渡島アイヌの挙兵」に落城。

安藤定季 (*)山城守。元・十三湊安藤氏家臣。安藤家惣領。<岩木山周辺の鉄資源を安藤家が掌握していたと伝わります。蝦夷島への進出は、金・銀・鉄・銅の地下資源を求めてのことではないでしょうか。安藤家が各所で拠点とする場所には、近くに何かの鉱脈が存在するのでは。>

相原政胤 (*)周防守。安藤家家老。親湊・檜山安藤家。

村上政儀 (*~1512)相原家家老。親湊・檜山安藤家。息に季儀。<瀬戸内海の村上水軍関係でしょうか。信濃から日本海に進出した商人でしょうか。>

⑨祢保田館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に落城。

近藤季常 (*)四郎右衛門尉。若狭近藤氏。元・十三湊安藤氏家臣。<伊豆の近藤氏でしょうか、三河の近藤氏でしょうか、若狭の近藤氏でしょうか。><日本海側商人?>

⑩原口館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に落城。

岡部季澄 (*)六郎左衛門尉。元・十三湊安藤氏家臣。<東海道に勢力を持つ岡部家一門でしょうか。><太平洋側商人?>

⑪比石館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に落城。

厚谷重政 (*)左近将監。陸奥厚谷氏。元・十三湊安藤氏家臣。陸奥田名部から移住。<南部領からの落ち武者でしょう。>

⑫花沢館・1456.7年「コシャマインの挙兵」に籠城。

蠣崎季繁 (*)修理太夫。元・十三湊安藤氏家臣。陸奥田名部から移住。コシャマイン軍鎮圧後、武田信広の軍功を賞する。<南部家家臣。蠣崎蔵人の一門か。><南部領からの落ち武者でしょう。>

▽↑武田信広 (*)蠣崎季繁の侍大将。若狭武田氏。国信の息。息に光広。<若狭武田氏の庶流なのでしょうか。>


《個人的感想》 蝦夷の3ブロック支配というのは、後世の蠣崎家による粉飾でしょう。

基本、大館と茂別の二館の(嫡流に近い)安藤氏が制海権を掌握していたのでしょう。

籠城戦に徹したであろう道南12館に対して、アイヌが拠点とした対のチャシが、それぞれの地域に構築されていると推測されます。

 室町東近・北陸

主家簒奪・戦国大名化 <斎藤道三が親子二代で、美濃国を土岐家から乗っ取った経緯とすごく似ています。>

蠣崎(武田)季広の家臣団

蠣崎季広 (1507~1595)武田・彦太郎・若狭守。松前守護代・義広の息。1546年秋田・安東愛季(檜山・土崎湊)の要請で出羽に出陣。1548年の「蠣崎基広の乱(蠣崎季広との家督争い)」。1551年アイヌ領との和平成立。境界を設定。安東氏の命で度々本州に援軍として渡海。息・舜広は早世。1583年家督を譲り隠居。蝦夷の大館(徳山館)城主。<秋田の安東氏を主として、蝦夷島の安藤氏を滅ぼし、相原氏から蝦夷代官職を奪取したということでしょう。>

松前慶広 (1548*1549~1616)武田・蠣崎・新三郎・若狭守・伊豆守・志摩守。蠣崎季広の息(三男)。1582年蠣崎家5代目当主。のち松前藩初代。檜山安東家の蝦夷代官。1590年南部領、「九戸政実の乱」鎮圧に出動。1593年肥前名古屋に参陣。1599年「松前」に改姓。1606年福山城築城。1615年大阪夏の陣に出動。福山城主。

(安東一門・蠣崎他国衆)

下国師季 (*~*1562)安東・八郎・下野守・式部大輔。蠣崎(武田)季広の娘婿。茂別館館主。1562年アイヌ勢の為、失領する。

下国重季 (*~1596)安東。下国師季の息。松前(武田)慶広の甥。下国家が蠣崎家の臣下に降る。

厚谷季政 (*)重政。比石館館主。1546年秋田・安東愛季(檜山・土崎湊)の要請で出羽に出陣。

(蠣崎一門衆)

南條広継 (*~*1562)越中守・守継。蠣崎(武田)季広の娘婿。上ノ国城留守居。1548年の「蠣崎基広の乱(蠣崎季広との家督争い)」に関わった咎で粛清される。

(譜代家老衆)

近藤義武 (*~1638)1597年慶広の次男の守役。1615年大阪夏の陣に従軍。

工藤祐種 (*)1615年大阪夏の陣に出動。慶広の命で、慶広四男・由広を誅殺する。

武田信広は、若狭浪人というよりも、甲斐源氏と同じ家紋を用いていることなどから、南部氏の息のかかった武将だったのかもしれませんね。


<本州の安東氏>


 土崎湊安東氏と檜山安東氏の主導権争いの中で、蝦夷蠣崎氏の独立。

 安東(秋田)愛季・実季の家臣団 <本来は湊安東が本家(秋田城介)で、分家の檜山安東氏が湊安東を武力で継承したため、檜山が嫡流のように偽装したのかもしれません。>

▲安東棟季 (*)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・太郎。安東尋季の息。檜山安東6世。弟の舜季が跡職を継承。

安東舜季 (1514~1554)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・(太郎)。安東尋季の息。棟季の弟。「土崎」湊・安東尭季の娘婿。兄の跡職を相続し檜山安藤7世。蝦夷地の蠣崎氏に圧力。息に愛季。

安東愛季 (*~1587)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・湊安東・太郎・近季・秋田城之介。安東舜季の息。母は秋田城介・安東二郎尭季の娘。檜山安藤8世。秋田氏初代。砂越宗順、畠山清信の娘婿。湊安東家の家督も相続し、檜山・湊が合併。檜山と湊に分立する安東家を統一。1577年織田信長に「虎の皮」を献上。戸沢、小野寺、南部家と抗争。出羽北部を統一し秋田城主。男鹿脇本に居城し脇本城主。浅利則祐を討ち領土拡大。秋田・豊島・檜山の三郡支配。息に業季、実季、英季、季勝。娘婿に浪岡顕村。<織田信忠が「秋田城之介」を名乗り時代の覇者となった場合、この名称はどうなっていたことでしょう。>

安東尭季 (*)湊尭季・上国・「土崎」湊安東・二郎・秋田城之介。安東友季の息(嫡男)。娘が檜山安東舜季の室。<堯季の代には滅亡とも。><織田信忠が「秋田城之介」を名乗り時代の覇者となった場合、この名称はどうなっていたことでしょう。>

▽豊島* (*)玄蕃・入道休心。由利郡の豪族。1580年「湊騒動」を起こすが、安東愛季の由利郡侵攻を許す。

↓▽安東茂季 (*1540~1579)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・「土崎」湊安東。安東愛季の弟。宗家惣領となった兄に代わり、「土崎」湊安東・堯季の跡職を継承。息に通季。<堯季が檜山系に敗北し娘を人質に差し出すことで降伏とかいうニュアンスでしょうか。>

↑▽厚谷季政 (*)重政。蝦夷国の比石館館主。1546年秋田・安東愛季(檜山・土崎湊)の要請で出羽に出陣。

秋田実季 (1576~1659)檜山安東・湊安東・秋田城介。出羽土崎湊城主。秋田愛季の息。安東氏9代目、秋田氏2代目。1587年12歳で家督相続。従兄弟の道季が反乱。戸沢氏の援助を受けた安東道季と嫡流の座を争う。1590年由利衆と同盟し撃破。秀吉から秋田群・檜山群・比内群を所領安堵される。檜山城主。52000石。のち常陸宍戸に転封。

湊 道季 (*)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・「土崎」湊安東・高季。愛季の弟・安東茂季の息。檜山安東・実季の従兄弟。1587年戸沢氏の協力を得て実季に謀反。のち南部家に出仕。<父・茂季が「土崎」湊安東家を再興するとも。>

「奥州の諸豪」の割拠図

(出羽・陸奥 独立国人領主)

戸沢氏<北浦角館>


1589年戸沢盛安 対 安東実季 「檜山の合戦」。

戸沢道盛 (1524~1604*)平ノ・雫石・九郎・飛騨守。秀盛の息。母は楢岡長祐の娘。第16代当主。本堂親条の娘婿。叔父に忠盛、正重。1529年父の死により家督。叔父・忠盛と惣領争い。息に盛重、盛安、光盛、盛吉。義兄弟に豊島畠山氏。<家紋的に細川氏の九曜紋と関連があるかもしれません。縁戚か、家臣か。>

戸沢盛重 (1551~1592)平ノ・雫石・小館。戸沢道盛の息(長男)。戸沢盛安の兄。病弱の為、家督を盛安に譲渡。出家するも要請により還俗し分家の戸沢(小館)正重の跡職を相続。息に盛綱、盛常。

戸沢盛安 (1566~1590)平ノ・雫石・路五郎・九郎・治部大輔。戸沢道盛の息(三男・3男)。兄・戸沢盛重の弟。兄が病弱の為に家督相続。1579年家臣の前田薩摩を上洛させ、織田信長に鷹を献上する。最上義光と連携して小野寺氏を抑える。安東家の内紛には湊道季を支援する。1590年「小田原征伐」に参陣。北浦郡を所領安堵される。小田原の陣中にて病没する。弟・光盛が跡職を継承する。出羽角館城主。<「鬼九郎」「夜叉九郎」と呼ばれる猛将。>

 

小野寺氏(下野須藤氏流)

<上浦横手> 1582年小野寺義通 対 由利12頭 「大沢山の合戦」。1586年義通 対 最上義光 「有屋峠の合戦」。 1587年義通 対 戸沢盛安 「阿気野の合戦」。

小野寺景通 (*)玄蕃頭。泰道の息。弟に晴道、(鍋倉)道周、(大森)道高。下野出自の豪族。稲庭を領する。1575年平賀郡山内村で遭難し、三十番(比叡)神社の加護で生還する。1582年頃に近隣に盛強を誇る。出羽横手城主。息に雅道、道秀。<比叡(山)神社を信仰。>

▽小野寺雅道 (*)中宮亮。景道の息。弟に道秀。息に輝道。

▽小野寺道秀 (*)景道の息(次男・2男)。兄に雅道。甥に輝道。金沢城主。

▼小野寺輝道 (*)遠江守。雅道の息。息に茂道、義道、康道。


小野寺義道 1566~1645)孫十郎・遠江守・義通・綱元。下野出自の豪族。稲庭を領する。小野寺輝通の次男(小野寺景道の息とも)。兄に茂道。1590年「小田原征伐」に参陣。仙北上浦郡を安堵される。出羽横手城主。1600年関が原に改易。石見国津和野にて没。息に光春、保道。

小野寺康通 (*)輝道の息。小野寺義道(義通)の弟。

▽小野寺茂道 (*)輝道の息。義道、康道の兄。西馬音内城主。


<二階堂・六郷氏>

六郷道行 (*)二階堂。土崎湊・安東実季と抗争。小野寺氏と同盟し「仙北七人衆」のひとり。息に政乗。六郷城主。

六郷政乗 (1567~1634)二階堂・長五郎・兵庫頭。道行の息。小野寺義通の「仙北七人衆」のひとり。「関ヶ原の合戦」に乗じ小野寺氏から独立する。六郷城主。

 

<浅利氏 比内独鈷>

浅利則頼 (1504~1550)与市。朝頼の息。比内郡(北秋田郡)独鈷城主。長きに渡り安東氏と抗争する。比内地方を統一。息に則祐。<琵琶の演奏が得意。>

▽浅利定頼 (*~1578)朝頼の息(2男)。則頼の弟。安東氏と抗争。安東氏に通じた山田氏の離反により戦死。

▽浅利頼重 (*)勘兵衛。朝頼の息(3男)。笹館城主。


浅利則祐 (*~1562)則頼の息。弟に勝頼。檜山安東・安東愛季の侵攻により戦死。長岡城主。

浅利勝頼 (*~1582)則頼の息(2男)。則祐と抗争。安東氏に通じ則祐を討つ。のち安東氏から離反。愛季に通じた家臣・池内氏により討たれる。息に頼平。

浅利頼平 (*~1598)浅利勝頼の息。1582年秋田愛季に敗北し津軽に落ちる。1590年津軽為信の仲介で自領に戻るが、1598年実季により攻撃され滅亡する。

 

<由利氏(平沢・象潟)>


鳥海氏を滅ぼし由利入り。仁賀保・矢島・赤尾津・子吉・芹田・打越・石沢・岩谷・潟保・鮎川・下村・玉前の12頭。

仁賀保明重 (*~1574)小笠原・大井(家紋的には大江)・大和守・挙久。由利12頭のひとり。小野寺氏と結ぶ一門の矢島氏と覇権を競う。

▽仁賀保安重 (*~1577)小笠原挙長。矢島氏との合戦に戦死。

▼仁賀保治重 (*~1583)小笠原重挙。矢島氏に通じた家臣の土門、小川氏により暗殺される。娘婿の子吉重勝(挙晴)が継承。

矢島* (*)小笠原。由利12頭のひとり。1560年滝沢氏と抗争。一門の仁賀保氏が離反。武藤氏と結ぶ仁賀保氏と抗争。

前田* (*)薩摩守。1574年由利郡に侵攻し、羽川氏を攻撃。1579年上洛し織田信長に拝謁。大曲城主。

 

「武藤氏・大宝寺家」

<庄内> 東国修験総本山・羽黒山 羽黒山別当職 <神職も兼ね下野・宇都宮家とよく似た立場です。>

大宝寺政氏 (*)武藤政氏。羽黒山別当職。出羽田川郡・庄内の豪族。出羽守・淳氏の息。兄に建氏。息に澄氏、氏説、九郎。

▽砂越氏維 (*)大宝寺氏維。大宝寺一門衆。1513年羽黒山別当職・砂越氏を再興。1532年本家と対立し反乱。のち和睦する。<本家と抗争するため秋田家と結ぶか。砂越家は別当職を大宝寺家と争ってきたらしい。>

▽木次時秀 (*)来次時秀。大宝寺外様衆。大宝寺家の同盟者。有力外様。本庄繁長に庄内の動静を報告。観音寺城主。

大宝寺氏説 (*)大宝寺政氏の息。兄に澄氏。息に晴時。

▽大宝寺晴時 (1512~1541)左京大夫。1532年一門の砂越氏の反乱で大宝寺城を消失する。

▽米沢秀久 (*)大宝寺家家臣。

▽土佐林* (*~1571)能登守・禅棟。羽黒山別当職。大宝寺家宿老。晴時の跡職を義増に定める。1571年主・義氏と対立し、大川長秀とともに討たれる。息に氏頼。

▼土佐林氏頼 (*)宮内少輔・氏慶。能登守の息。1569年安東氏の依頼で、小野寺氏への使者。小野寺家臣・西野氏の安東氏への停戦を依頼。父に先立ち早世。

▼土佐林時助 (*)掃部助。1569年上杉家中の「本庄繁長の乱」に参陣。上杉謙信の感状を得る。

▼大川長秀 (*~1571)大宝寺外様衆。本庄繁長と結んだ主・大宝寺義氏により攻撃される。<土佐林氏の一門か。>


大宝寺義増 (1522~1569)武藤義増。大宝寺九郎の息。出羽田川郡・庄内の豪族。1565年清水義高を討つ。1568年本庄繁長に属し上杉謙信に反抗。降伏し義氏が人質となる。息に義氏、義興。尾浦城主。

武藤義氏 (1551~1582*1583)大泉・大宝寺・「悪屋形」。出羽田川郡・庄内の豪族。上杉謙信と同盟。上杉家の後援で庄内地方に威を張る。田川・飽海・平賀の三郡を領する。1579年織田信長に馬・鷹を贈る。1582年由利郡に進出し小介川氏を攻撃。救援の秋田氏と抗争。秋田愛季と結んだ最上義光の攻撃を受ける。1582年最上方の清水城を攻撃。1583年義光に内通した家臣・前森蔵人に討たれる。大浦城主。大宝寺城主。<出兵が多く領民から「悪屋形」と呼ばれたらしい。「悪」=精強の意味でもあるので(悪源太義平とか)誤解かもしれません。>

▽高坂* (*~1586)中務。大宝寺義氏家臣。息子が義氏に討たれたため最上氏に通じ反乱。義氏に討伐される。

▽↓東禅寺氏永 (*~1588)前森・蔵人。武藤家家老。1583年最上義光の調略により武藤家から離反。大浦城を奇襲し。主君・武藤義氏を討つ。1587年丸岡義興に反逆し、最上家重臣・中山朝正とともに義興を討つ。1588年本庄繁長の庄内乱入により戦死。出羽酒田城主。

▽東禅寺勝正 (*~1588)前森・右馬頭。氏永の弟。兄に代わり尾浦城主。1588年本庄繁長の庄内乱入により戦死。

▽木付氏秀 (*)出雲守。1578年大宝寺義氏に反乱。和睦し知行を加増される。

丸岡義興 (*~1587)武藤・大宝寺。庄内の豪族。武藤一族。1579年織田信長に「馬・鷹」を献上。宗家の義氏が討たれた後、跡職を相続する。上杉景勝の後援を得る。大宝寺城主。

丸岡義勝 (*)本庄・武藤・大宝寺。庄内の豪族。武藤家養子。本庄繁長の息。上杉景勝の後援を得る。1587年家老・東禅寺の急襲により越後に逃れる。

南部家の隆盛。

 

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