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戦国その20 美濃蝮王 斎藤秀龍(入道道三)・義龍の家臣団と軍団

美濃国戦国大名、斎藤秀龍(道三)・義龍の家臣団と軍団。

西軍有力者、土岐家執事・斎藤妙春(妙椿)の台頭。

1467年「応仁の乱」東軍・西軍大名の動向表↓

陪臣・斎藤妙椿(妙春は道三養子の近衛正義が名乗ったものらしいです)の「応仁の乱」幕引きの斡旋に、将軍・足利義政の激怒。しかし、実際に義政の対立者である足利義視・義材(義稙)を引き取り、

「応仁の乱」を収める実力。 信長の代「美濃を制すれば天下を取れる」とまでいわれていた富強の国、美濃。

斎藤妙椿の幻影が、後世の人々に残っていたのではないでしょうか。

   

斎藤道三(秀龍)の末子、斎藤長龍(利治)。

「態々(わざわざ)申し送り候(そうろう)意趣は、於 美濃之国大桑
  (美濃の国大桑において)、終(つい)には、織田上総介(信長)の存分に任すべく条、
  譲り状、信長に対し渡し遣わす その筈なり。」
「一子出家、九族天に生ずといへり かくのごとくととのひ候
  一筆涙ばかり よしそれも夢。
 斎藤山城ここにいたって 法華妙体の内、生老病死の苦をば、修羅場にゐて仏果を得る。
  うれしきかな。
既に明日一戦に及び、五体不具の成仏、
  疑(うたがい)あるべからず候。げにや、
「捨て々だに 此の世のほかは なきものを、 いずくかつゐの 住家なりけん」

『斎藤道三書状』-美濃一国譲り状-(岡本良一:蔵 司馬遼太郎対談編『日本史探訪9戦国の武将たち』(角川文庫版1985年8版)

1554年道三 隠居、家督は斎藤(土岐)義龍
1559年郡上郡・東常尭、遠藤胤縁を暗殺する。

美濃国守護 土岐氏 一色(足利)流土岐家。
純血の土岐家は北伊勢の守護・世保氏。

<「応仁の乱」西軍>

美濃国主:土岐(一色)成頼

▲土岐成頼 (1442~1497)一色成頼・入道宗安。一色義遠の息。土岐持益の養子。土岐氏8世。土岐持兼の早世により、1456年斎藤利永に擁立され跡職継承。1467年「応仁の乱」に尾張の斯波義廉、織田敏広とともに西軍の将。京都に8000兵を率いて常駐。家老に斎藤利藤。利藤幼少の為後見に妙椿。1477年足利義視・義稙(義材)親子を後見する。足利義視を美濃茜部に迎える。1487年六角高頼と結び足利義尚と対立。「長享・延徳の乱」。息に土岐政房、土岐元頼。<近江の六角高頼とは関係良好の様子。息子の氏綱とは対立か。><成頼は土岐一門の饗場氏の出身という説も・・。>

▽斎藤利明 (*~1450)入道・宗円。同僚の富島氏と抗争。息に利永、妙椿(利永の息とも、養子ということか)。

長江高景 (*~1444)富島高景・備中守。長江重景の息。弟に景秀、元景。美濃守護代・富島氏の養子。京都土岐屋形(土岐館・土岐邸)にて斎藤氏に討たれる。<のちの長屋(金森)氏は後裔とも。尾張品野に落ちる長江氏もあり。><長屋氏が西美濃から北美濃へ領地替えされたのは乱による影響か?。>

▽長江景秀 (*~1467)富島景秀。1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。一門の長江元景、景次が戦死。景秀の曾孫の景隆が織田信長に出仕した。<高賀山神職・長屋氏は長江氏と同族とも。婚姻により縁戚関係を結ぶか?。>

▽長江元景 (*~1467)富島元景。1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。一門の長江景秀、景次が戦死。

▽長江景次 (*~1467)富島景次。1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。一門の長江景秀、元景が戦死。

富島* (*)(長江)・八郎左衛門。美濃国守護代家。主・土岐持益が宗円に隠居させられる。1444年京都屋形にて斎藤利明に一門・長江高景が殺害される。1446・1449年美濃国にて土岐持益、斎藤家と合戦。1450年京都にて斎藤利明(宗円)を襲撃。1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。<室町の初期には三河吉良の家老・富永、美濃土岐の家老・富島といわれてた頃があったかもしれませんね。><高景が殺害されてから兄弟の誰かが富島を継承したものでしょうか。>

≪個人的感想≫ 長江氏は滅亡した訳ではなく、尾張北部に逃れて品野城周辺で挽回しようと頑張っていた様子です。小牧に進出した信長の東美濃攻略にも長江氏の後裔が協力していたかもしれません。

(第一世代)

斉藤利永 (*~1460)帯刀左衛門・越前守。越前河合斎藤氏の分流。美濃守護代。斎藤利明(宗円)の息。弟に妙椿(のち養子か)。父の代に同僚・富島氏と対立。1450年父・利明(宗円)の死により家督。富島・長江氏を討伐。土岐持兼の死により、揖斐左近大夫・長江勘解由左衛門を抑えて、伊賀・稲葉氏とともに土岐成頼を擁立。息に利藤、利国「妙純」、(長井)利安。<斎藤氏の与力として伊賀(安藤)・稲葉氏が台頭するか。>

斎藤妙椿 (1410*1411~1480)持是院・従三位法印。越前河合斎藤氏の分流。美濃国守護代・斎藤利永の息(または弟とも)。弟に利綱。利永の代に稲葉山城を根拠地とする。1467年「応仁の乱」に守護・土岐成頼を美濃を纏め後援し、西軍の将軍・足利義視を支援。義視・義稙(義材)親子は一時(11年間滞在)美濃革手城に拠る。東軍の近江京極氏と結ぶ西美濃の豪族、富島氏・長江元景を攻撃。1468年東軍の東千葉氏(東常縁の兄・東氏数)、長江氏を破る。1472年近江の西軍・六角高頼を救援。南近江の六角高頼と結び、京極家老・多賀高忠を討ち江北を平定。1473年伊勢侵攻。梅津城攻略。1474年越前に介入し甲斐八郎、朝倉敏景の和睦を仲介。1478年尾張進攻。娘婿・織田伊勢守救援、織田敏定と合戦。細川氏と結んだ信濃の木曾家豊、小笠原家長と抗争。飛騨の姉小路家の内紛に介入した。1494・95年土岐成頼・石丸利光を破る。70歳。<利藤と妙春が同一人物とも。最近の説では道三の養子・近衛正義が妙椿を意識して妙春*と名乗ったようです。道三の国盗り話といい、昔の通説が覆されていきますね。><朝倉敏景(教景・孝景)と同じく守護代から守護への脱皮を目指しての不可解な動きなのでしょうか。>

*世代差が存在し、土岐悪五郎の生年にも影響します。真相やいかに。

斎藤妙椿の横領によって、版図は尾張・伊勢、近江・飛騨の一部(京極領?)まで及んだ様です。

<斎藤家 執事・石丸(斎藤)家>

石丸利光 (*~1496斎藤利光・丹波守。石丸実光の息。斎藤妙椿・妙純親子の家臣。美濃小守護代。清洲大和守・織田敏定の息・織田寛定が娘婿。1480年妙椿の死により守護代・斎藤利国(妙純)と対立、後継者争い。近江の六角高頼・蒲生氏の後援を得る。家督の土岐政房に対し弟・土岐元頼を擁立し、斎藤利国・西尾直教と対立。斎藤利藤を擁立。1495年「正法寺・船田合戦」。土岐成頼・斎藤利藤から斎藤姓を与えられた。六角高頼・織田大和守の後援を得る。1496年「城田寺城の攻防」で、六角家の後詰軍(伊庭・三雲・九里)が敗北。斎藤利国(妙純)に敗北し自害。船田城主。息に利元、利高。<織田敏定、近江守・寛定の援軍は岩倉方・織田与三郎により阻止される。>

石丸秀道 (*)(斎藤秀道)。石丸家一門。利光の弟。美濃の豪族。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。1495年「正法寺・船田合戦」。西法寺に布陣。<石丸利光が斎藤姓を名乗ったこともあるそうなので石丸一門全員改姓してたかもしれません。>

石丸利元 (*~1496)(斎藤利元)。石丸家一門。利光の息。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。1495年「正法寺・船田合戦」。正法寺に備え布陣。<石丸利光が斎藤姓を名乗ったこともあるそうなので石丸一門全員改姓してたかもしれません。>

石丸利高 (*)(斎藤利高)。石丸家一門。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。1496年細川、六角、北畠の後援で土岐元頼と毘沙童子を擁し伊勢から美濃侵攻。<石丸利光が斎藤姓を名乗ったこともあるそうなので石丸一門全員改姓してたかもしれません。>

石丸正信 (*)(斎藤正信)。石丸利光の家臣。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。1495年「正法寺・船田合戦」。<石丸利光が斎藤姓を名乗ったこともあるそうなので石丸一門全員改姓してたかもしれません。>

杉山* (*)石丸家家臣。石丸利光の侍大将。1495年「正法寺・船田合戦」。1495年斎藤利安・利綱兄弟の軍に敗北。<竹中半兵衛の母方・杉山氏と関連ありか?。>

古田* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1495年「正法寺・船田合戦」。1495年斎藤利国軍に攻撃される。<古田重則のご先祖でしょうか。>

馬場* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1495年「正法寺・船田合戦」。1495年斎藤利安・利綱兄弟の軍と合戦。

国枝為助 (*~1495)国枝第三代。石丸家家臣。石丸利光の家臣。1495年「正法寺・船田合戦」。1495年斎藤利安・利綱兄弟の軍と合戦。兄弟4人とともに戦死。跡職(4代目)は息の正助が継承。<5代宗竜(兄弟に貞次、秀守、正泰)、6代重光(兄弟に助光)。七代目に関ヶ原に西軍の政森。>

曽我屋* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。

左良木* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。

外山* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。

小里* (*)石丸家家臣。東美濃の豪族。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。

下石* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。 <織田信長の尾張譜代に在籍する、下石頼重は美濃からの落ち武者か。>

石谷* (*)源。美濃源氏。土岐氏一門。石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。<のち、幕府直参の奉公衆となるか。>

本荘* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。

今峰* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。

田原* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。

妙椿後継争い「1494年船田合戦」

<石丸派> 細川政元に接近し美濃侵入の後援を得る。 六角=清州織田=梅戸同盟

⇔六角高頼 (*)南近江衆。1478年幕府と和睦。幕府の命に従い、斎藤利藤を支援。斎藤利国(妙純)と対立。1496年石丸利光を後援。梅戸氏に子息を送り込む。

⇔▽蒲生貞秀 (*)南近江衆。六角家家臣。日野城主。

⇔▽六角氏綱 (1492~1518)南近江衆。娘婿に京極材村。息の義政は仁木氏の養子となり、伊賀守護・仁木義政。

⇔梅戸貞実 (*)北伊勢の豪族。1496年石丸利光を後援。長野氏と抗争。のち六角高実を養子に迎える。<北伊勢の「北方一揆」棟梁。惣領は高貫⇒六角高実→実秀→*が継承するか。>

⇔織田敏定 (*~1495)清洲織田・大和守。斯波家家老職。尾張半国守護代職。1495年石丸利光を後援。岩倉の織田寛広に阻まれる。

⇔織田寛定 (*~1495)清洲織田・近江守・大和守。斯波家家老職。大和守家。尾張半国守護代職。石丸利光派。1496年石丸利光を後援。岩倉の織田寛広に阻まれる。

⇔▽織田寛村 (*)斯波家家老職。寛定の戦死により家督相続。1496年寛広と和睦。1495年石丸利光を後援。1501年斯波寛元の遠江遠征。今川氏親に敗北。

<利国(妙純)派> 京極=朝倉=岩倉織田同盟。

⇔京極高清 (1460~1538)北近江衆。斎藤妙純の娘婿。1495年石丸派の六角高頼と抗争。

⇔朝倉貞景 (1473~1512)斎藤妙純の娘婿。朝倉氏景の息。母は織田孫左衛門の娘。

⇔織田敏広 (*~1481)伊勢守・兵庫助。岩倉織田家。斯波家家老職。斎藤妙椿の娘婿。1467「応仁の乱」に西軍方。息に広高、養子に寛広。

⇔織田広近 (*)木下(犬山)城主。斯波家家老職。1467「応仁の乱」に西軍方。

⇔織田寛広 (~*1504)岩倉織田家・伊勢守。斯波家家老職。1481年敏広の跡職を継承。1481年斯波義寛に帰順し、敏定と和解。上洛。1487年六角高頼討伐軍に従軍。1495年織田敏定、寛定親子を討つ。

⇔▽津田寛近 (*)津田武永・武長。斯波家家老職。岩倉織田家分家。兄に寛広。1495年石丸利光、織田寛村と抗争。

(第2世代) もはや東軍か西軍かわかりません。

斎藤利藤 (*~1498)帯刀左衛門・越前守。斎藤利永の嫡男(斎藤利国「妙純」の異母兄)。斎藤妙椿の甥。将軍・足利義政の後援で、守護の土岐成頼と足利義視を巡り対立。妙春の死後、守護代職を巡り利国(妙純)と対立「文明美濃の乱」。土岐成頼の後援を得られず、六角高頼を頼る。利国家臣・石丸利光に追討される。1487年和睦がなり美濃守護代に復帰するが、実権は利国(妙純)が持つ。石丸(斎藤)利光と同盟。1496年「船田合戦」に利光派。敗れて隠居する。養子に斎藤利為。息に源四郎、日運和尚。孫に利春。

斎藤典明 (*)斎藤利永の息。斎藤利藤の弟。1495年「正法寺・船田合戦」。石丸利光に与力。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。

(第2世代) もはや東軍か西軍かわかりません。

斎藤利国 (*~1497)斎藤妙純・新四郎・右馬丞・持是院・入道妙純。斎藤利永の息(利藤の異母弟)。斎藤妙椿の養子。弟に利綱。越前守護・朝倉貞景を娘婿、養女(甘露寺元長の娘)の婿は尾張岩倉の織田伊勢守・寛広。1481年朝倉家と同盟。1491年越前朝倉家当主・貞景を娘婿に迎える。妙春(妙椿)の死後、守護代職を巡り斎藤利藤と対立「文明美濃の乱」。利藤に勝利する。1494年元頼と政房の家督争い。土岐成頼・石丸利光との「船田合戦」。京極高清・朝倉貞景・織田伊勢家(織田十郎)の後援で勝利。1496年「城田寺城の攻防」に京極家から後詰(浅井・三田村)。織田家から後詰(寛広与力、十郎・与三郎・又太郎)。朝倉貞景軍の後詰により勝利。家老・石丸利光を後援した近江の六角高頼を攻撃するが戦死。<1495年養女の婿・岩倉織田寛広。の一門・織田広遠の甥・織田十郎、与三郎兄弟が後詰として派遣される。>

西尾直教 (*~1497)兵庫助。西尾広教の息。斎藤利国の家臣。石丸利光の利国暗殺計画を阻止。土岐政頼の仲裁で直教が尾張に追放される。1495年「正法寺・船田合戦」。1496年父・妙純(利国)とともに近江に出陣。六角高頼・蒲生氏との抗争に戦死。息に秀教。<西尾家が斎藤家の執事だった時代もあったのですね。のち氏家卜全の与力。><明智の菩提寺が西教寺というのは何か理由が・・。>

村山利重 (*)斎藤利国の家臣。1494年石丸利光と抗争。1495年「正法寺・船田合戦」。1496年尾張岩倉救援に従軍。<越後の長尾為景に与力した村山氏との関連が気になるところです。>

(長井斉藤)

斉藤利安 (*~1530長井長弘・藤左衛門尉・左衛門尉。土岐家家老。斎藤利永の息。斎藤利藤、利国の弟。弟に利綱。1494年利国に従い村山利重とともに石丸利光と対抗。1495年「正法寺・船田合戦」。1496年尾張岩倉救援に従軍。家宰として斎藤利良を補佐。京都の商人・松波庄五郎(西村勘九郎)を召抱える。1517年斎藤利良と抗争。1530年長井(西村)新左衛門に討たれる。息に長井甲斐守・衛安。息に利賢。革手城主。

長井利綱 (*)斉藤利綱。土岐家家老。斎藤利永の息。斎藤利藤、利国、利安の弟。1494年利国に従い石丸利光と対抗。1495年「正法寺・船田合戦」。兄・利安、村山利重とともに正法寺に布陣。1496年尾張岩倉救援に従軍。<斎藤利藤が実父とも。>

斎藤利実 (*)斎藤利国の家臣。1496年尾張岩倉救援に従軍。石丸利光と抗争。

斎藤基朝 (*)斎藤利国の家臣。1496年尾張岩倉救援に従軍。石丸利光と抗争。

山田* (*)斎藤利国の家臣。1496年尾張岩倉救援に従軍。石丸利光と抗争。<美濃源氏の山田氏でしょうか。>

(第3世代)西軍の六角高頼と抗争するということは東軍に転じていたか・・。

斎藤利親 (*~1497)持是院・新四郎・大納言・権律師妙親。妙椿流の斎藤利国(斎藤妙純)の息。石丸利光と抗争。1496年父・利国(妙純)とともに近江に出陣。六角高頼・蒲生氏との抗争に戦死。息に斎藤利良。

斎藤* (*~1519?)彦四郎。妙椿流の斎藤利国の息。1497年兄の戦死により甥・利良までの繋ぎで家督。美濃守護代職。1512年土岐政房と対立し尾張出奔。1517年斎藤利良と長井長弘の抗争に、長弘派として入国。1519年朝倉景高が土岐頼武・斎藤利良を奉じて美濃乱入。失脚する。

斎藤* (*)又四郎。妙椿流の斎藤利国の息。土岐政房の家老。息に大黒丸。1512年大黒丸は斎藤彦四郎と抗争。

<尾張斯波家> 遠江国遠征⇒対:今川氏親

⇔斯波義寛 (*)斯波義廉の息。1493年「明応の政変」に細川政元に降伏。1500年斯波義寛、細川政元の協力で、信濃守護・小笠原貞朝、関東管領・上杉顕定の協力で今川氏親包囲網。息に義達、娘婿に足利義澄(東軍方)。

⇔斯波寛元 (*)義寛の弟。1501弟・寛元、義雄の遠江出征。

⇔斯波義達 (*)義兄弟に足利義澄(東軍方)。1508年足利義稙の復権。斯波義達、遠江守護職を免ぜられる。

<親子(兄弟)、下克上>

土岐政房 (*~1519)一色政房。土岐成頼の嫡男。弟・元頼と家督を巡り抗争。斎藤利国に擁立され家督相続。家督を嫡男・頼武より頼芸を推したことで守護代・斎藤利良と対立。1517年利良を越前に追う。弟に大桑定頼(孫に金森長近)、直頼、元頼。<1511年足利義稙の復権に、隣国近江の六角氏綱は降伏臣従。>

土岐元頼 (*~1496)一色元頼。土岐成頼の息(四男)。政房の弟(異母)。父・成頼の意向で、石丸利光(斎藤利三)に擁立され、兄・政房と家督を争う。1496年石丸利光とともに自害。

(第4世代)

斎藤利為 (*~1505)守護代嫡流家。斎藤利永流。斎藤利藤の養子。土岐三奉行家出身。成頼・政房に出仕。「船田合戦」に斎藤利国(妙純)方。合戦に敗北した利藤の跡職を継承(死亡後に利国の意向で名跡を相続か)。息に利茂。

斎藤利良 (*~1538)持是院・新四郎。斎藤妙椿・利国流。斎藤利親の嫡男。守護・土岐政房、頼芸と対立。1517年政房の嫡男・土岐頼武を擁立し叛乱。頼武・頼純とともに越前落ち。1521年斎藤利為の息・利茂が利良に代り守護代を継承。家宰の長井(斎藤)利安・利隆親子が実権。1525年斎藤秀龍により追放される。<跡職は近衛稙家の息・多幸丸が継承し斉藤正義。>

小塩良為 (*)内膳亮。斎藤利良の家臣。厚見郡本庄の豪族。のち斎藤道三に仕える。

(長井斉藤)

長井利隆 (*)斉藤・豊後守。長井利安(長弘とも)の息。武儀郡関城主。斎藤利良を補佐。弟・南陽房(日運上人)は鷲林山常在寺の住職。西村新左衛門(長井正利)に長井姓を与える。1530年父・長井利安(長弘)を討つ。息に隼人佐・道利。養子に長井正利。<親子相克?>

土岐頼武 (1499~*)一色頼武・美濃守・政頼・盛頼。土岐政房の嫡男。弟に頼芸、頼香、光親。越前・朝倉貞景の娘婿。1517年弟・頼芸と家督を巡り対立。1519年越前の朝倉景高に擁立され美濃に進行。「正木の合戦」、「池戸の合戦」に勝利。美濃革手城に入城。1521年斎藤利良から利茂に守護代職を移す。近江国の六角、浅井亮政の抗争に六角氏を支援。1525年土岐頼芸と対立。朝倉宗滴が浅井家の「小谷城攻囲」。朝倉景職が美濃「稲葉山城攻囲」。1535年美濃守護を解任される。息に土岐二郎・頼純(大桑城主)。<六角義賢と縁戚関係か。>

▽土岐頼香 (*)八郎。斎藤道三の娘婿。のち,道三により暗殺される。

▽土岐光親 (*)土岐頼武の弟。越前朝倉家に保護される。

(第5世代)

斎藤利茂 (*)帯刀左衛門尉。守護代嫡流家。斎藤利永流。斎藤利為の息。1521年妙春流・斎藤利良の跡職を継承し美濃国守護代。土岐頼武を補佐。1536年頼芸が守護となる。1538年利良の死により家督。頼武の息・頼純を後援し反・長井規秀(斎藤秀龍)。のち六角定頼の仲介で頼芸と和睦。長井規秀(斎藤秀龍)を一門に迎える。1548年頃まで斎藤秀龍(道三)と協調路線、守護代職を維持。息に毘沙徳丸。斎藤道三(長井規秀・利政)が跡職相続。

(長井斉藤)

長井利賢 (*~1586)斉藤利賢・右衛門尉・伊豆守。土岐家家老。斎藤利永流。斎藤利安(長井長弘)の息。蜷川親俊の娘(妹?)婿。美濃白樫城主。1530年西村(長井)新左衛門により父が討たれた。土岐頼芸の意向により蟄居。娘婿に長曾我部元親、蜷川親長。息に利忠、利次。孫に斉藤利三。

▽土岐頼純 (*~1547)一色・二郎・次郎。土岐頼武の息。母は朝倉貞景の三女。朝倉孝景の娘婿。のち斎藤道三の娘婿。叔父・土岐頼芸に守護職を奪われる。斎藤利良とともに越前落ち。1546年9月織田信秀に擁立され美濃に乱入。斎藤秀龍(道三)軍と戦う。六角定頼、斎藤利茂が土岐頼芸と和睦したため後援を失う。

<兄弟、下克上>

土岐頼芸 (1500~1582)一色頼芸・左京太夫・美濃守。第十代美濃守護・土岐政頼の弟。六角定頼の娘婿。1525年守護代・斎藤利政(道三)により11代守護に擁立される。浅井亮政と同盟し、土岐頼武を後援する朝倉貞景と六角定頼と抗争。1525年美濃「正木口の合戦」。第二次「正木口の合戦」。1526年越前・朝倉宗滴の介入。朝倉景職が「稲葉山城攻囲」。1530年土岐頼武を越前に追放。1535年美濃守護職。1543年美濃大桑城主・土岐二郎(頼武の息)を攻撃。1544年朝倉宗滴と織田信秀の連合軍が美濃浸入。1552年義兄、六角義賢が美濃侵攻。のち1552年利政(道三)に追放され長く甲州に居住する(1551年頃信秀病死)、1582年武田家滅亡の際、稲葉一鉄に加護され美濃に戻り隠居生活。息に頼栄、頼次、頼宗、頼元。<信秀が頼芸を後援した時期もあったということは土岐家家臣美濃侍が多数、尾張に移住してきてもおかしくないですね。土田氏との婚姻関係、林や森、坂井、蜂屋、金森、市橋といった美濃を本拠とする姓をもつ家臣が弾正忠家にいるのも判る気がします。><京兆家の細川晴元との関係が家督相続に影響があったかもしれませんね。>

鷹司冬明 (*~1535)与十郎。1535年土岐頼芸方として、斎藤道三方の弟・鷹司政光、光政と戦い戦死。長瀬城主。

長屋景興 (*~1547)1547年土岐頼芸方として斎藤道三と抗争し戦死。息に景直。相羽城主。<金森長近の養子の金森可重は長屋氏出身。>

林 正道 (*)1548年土岐頼芸の追討軍。任務を放棄し出奔。

川合* (*)図書。1548年土岐頼芸の追討軍。主命に背き、土岐頼芸を逃す。<1541年「村山要害攻め」に出陣する川村図書、川島掃部助の関係者でしょうか。>

土岐頼栄 (*)猪法師・小次郎・宮内少輔・頼秀。土岐頼芸の長男。稲葉一鉄の娘婿。従兄弟に土岐頼純。斎藤道三を排除しようと、叔父・揖斐光親とともに反乱する。織田信秀の介入で和睦するが、父・頼芸により廃嫡される。息に土岐光義。

▽土岐頼次 (1545~1614)一色頼次・見松・二郎・左馬助。土岐頼芸の嫡子(次男)。母は六角定頼の娘、兄に廃嫡された頼栄。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。のち松永久秀の客将となる。息に土岐頼勝。

<美濃国の戦国大名>

 斎藤秀龍(道三)、斎藤義龍(土岐義龍)の家臣団 (1542年から美濃国主)

『立政寺文書』。後世の編纂で『美濃国諸旧記』、『美濃明細記』、『濃陽諸士伝記』が参考になる書。

▲長井正利 (*)西村・新三(左)衛門・勘九郎・豊後守。奈良屋又兵衛の娘婿。長井家家老・西村正元の養子。本巣郡軽海の住人となる。土岐家家老・長井長弘の家臣・長井利隆の跡職を継承する。斎藤秀龍(長井利政)の実父。本巣郡祐向山城主。<京都妙覚寺の法蓮房。京都の油屋の山崎屋庄五郎。武士となり松波庄五郎。西村家、長井家養子。親子二代で国盗りを完成するようです。>

畿内、伊勢家・三好家の動向。

斎藤秀龍 (1494*1504~1556長井利政・新九郎・左近大夫・規秀・入道道三。京都妙覚寺の僧・長井(西村)新三衛門・正利の息。土岐家家老・長井長弘に父・正利(利隆養子)が出仕する。1525年土岐頼武、家老・齋藤利良を追放。1527年土岐頼芸を美濃国主に迎える。1533年長井長弘死去。1538年齋藤家を継承。1539年稲葉山城を拠点とする。1543年土岐頼芸を擁する朝倉孝景、織田信秀と敵対。1546年土岐頼純を擁する織田信秀と抗争。1547年「加納口の合戦」。1548年朝倉・織田連合軍により和睦。1548年織田信秀と同盟し娘(濃姫)を信長の嫁に。1548年大桑城を襲撃し、頼武を討つ。1552年土岐頼芸を追放し国主となる。朝倉義景が美濃郡上郡に侵入、東常慶、一向宗安養寺の奮戦により撃退。1554年家督を嫡子・義龍に譲り鷺山城に隠居。1555年に義龍のクーデター。1556年「長良川の合戦」で義龍に敗北する。道三側2700兵。63歳。稲葉良通の姉(深芳野)婿(義龍の母)。明智光継の娘(小見ノ方)婿(濃姫の母)。<京兆家の細川晴元政権の全盛期が、斎藤道三の出世の時期と重なり合うのは偶然でしょうか。><晩節の頃、「天下人」三好長慶との関係も気になるところです。>

▽↓鷹司政光 (*)斎藤道三の弟。鷹司冬明と家督を巡り抗争。道三の後援で冬明を討つ。のち織田信秀との合戦で戦死。長瀬城主。

▽↓長井道利 (*~1571)(斎藤)・隼人正・隼人佐。長井利隆の息(養子?)、または道三(規秀・利政)の庶子(弟とも、養子か)伝わる。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。東美濃明智城攻略の総大将。金山城主。1561年義龍の死により龍興の後見人。美濃守護代。永禄7・8年、関城主。1565年織田家撃退の為に東美濃、堂洞城後詰に出陣。安桜山城主。1567年斎藤氏滅亡後は、三好家の客将。朝倉家、足利義昭に出仕。1571年三好の将として和田惟政を攻撃、摂津「白川河原の合戦」に討死。息に道勝、頼次、時利。<斎藤義龍の側近、家老。>

1554年父(道三)を隠居させ家督継承

▽斎藤義龍 (*1527~1561)土岐義龍・豊太郎・新九郎・高政・治部大輔・左京太夫。道三の嫡男。浅井久政の娘(近江ノ方)婿。土岐頼芸の御落胤とも噂される。浅井長政の義兄弟。1555年父を隠居に追いやる。1556年叔父・長井道利の後見で「長良川の合戦」に父を破る。義龍側17000兵。1557年美濃国を平定する。幕府に取り入り、妹婿に政所所司代・伊勢貞孝の息・貞良。将軍・義輝の幕府相伴衆、「義」字拝領。治部大輔任官。稲葉山(井口)城主。35歳(33歳とも)。息に龍興。<正式には一色氏を名乗っていないらしいです。一色姓は龍興の考えのようです。><義龍は、血が土岐氏であることを強調したかったのでしょう。><1552年からの新将軍・足利義輝との関わりも気になるところです。>

▼斎藤龍興 (1548~1573一色龍興・喜太郎・右兵衛大夫。母は浅井久政の娘。浅井長政の甥。1561年に父・義龍の死去により14歳で家督。側近の斎藤飛騨守を重用し、家老・安藤守就の娘婿・竹中重治と対立。1561年「森辺(森部)の合戦」に墨俣を奪取される。1566年足利義昭の和平工作を破棄「河野島の合戦」で織田信長を破る。1567年美濃三人衆の織田家内通により国主を追われる。畿内の三好三人衆・越前朝倉家に加担し反織田信長に徹する。1573年朝倉家の滅亡の際に近江「刀禰坂の合戦」に戦死。26歳。<一色家は、かつて三河、尾張の一部、北伊勢の守護職でもあったので、信長を滅ぼして、自分がそれらの国の守護になると大義名分を欲しかったのかもしれませんね。>

一色家勢力図、武家関係図

≪個人的感想≫ 九州探題・一色の九州撤退と、鎌倉府の執事職、丹波の波多野(松田)氏や丹波諸豪族(片岡・革島)との関係。一色家の領内をいろんな武家が流動的に動いて、それぞれの地域に分家を輩出し、根付いて土着したものもいたと推測されます。美濃・尾張・北伊勢・三河の混沌とした状況は、まさに一色家効果だったのでしょう。

 肥前の千葉家や河尻家。千葉を祖とする大須賀(榊原)家。豊前の宇都宮(城井)家と同祖の大久保家。丹後・北伊勢守護代の石川家に、伊勢湾を地盤とする服部党や本田(本多)党。千葉家と関連深い酒井(坂井)家など、東海道の気になる系譜です。

<斎藤秀龍・義龍の一門衆>

▽斎藤義重 (*~1555)孫四郎・右京亮・龍重。道三の実子、次男。義兄の義龍に稲葉館で討たれる。

▽斎藤龍定 (*~1555)喜平次・玄蕃。道三の実子、三男。義兄の義龍に討たれる。斉藤道三の実子は出家し、四男は妙覚寺日暁、五男は常在寺日覚となる。

⇔▽斉藤正義 (*~1548)(藤原・近衛)・大納言。近衛種家の庶子。道三の養子となり、東美濃金山(鳥峰)城主。1548年土岐(久々利)悪五郎に討たれる。土岐悪五郎は森可成に城を奪取され、のち森長可に討たれる。息に(加木屋正次)<三河山岳部の三宅氏や、菅沼氏との関わりが気になる武将です。><明智・丹羽が近衛家の家司(惟)の姓を名乗るのは、この人物と先祖が関連ありだからでしょうか。>

土岐頼興 (*~1583)久々利・久々里・悪五郎・三河守・三河頼興。土岐氏一門。可児郡の豪族。1548年秀龍の養子・斎藤(近衛)正義を謀殺する。1565年頃織田家に臣従。森可成の配下。1582年変後に遠山友忠と結び反乱。1583年森長可の計略により金山城にて刺客・加木屋正則(正義の孫)に討たれる。久々里城主。<1548年土岐頼武の動きと連動しての挙兵でしょうか。>

<秀龍の御由緒家>

稲葉通則 (*~1525)右京亮・備中守。土岐成頼の娘婿。土岐政房、政頼家臣。斎藤秀龍の義父。秀龍室、深芳野の父。弟に通雄、忠通、一徳、通俊、光朝(白雲)、常通、通光、通友。1525年に戦死。息に通勝、通房、通明、豊通、通廣、良通(一鉄)。娘婿に斎藤秀龍、岩手長誠、玉井若狭守、古田肥前守。小寺山城主。

<斎藤秀龍・義龍の直参家老衆>

1554年家臣団は主・斎藤道三を隠居に追い込み、斎藤義龍を擁立。

 1555年家臣団分裂 ★道三派 VS 義龍派

↑長井道利 (*~1571)(斎藤)・隼人正・隼人佐。長井利隆の息(養子?)、または道三(規秀・利政)の庶子(弟とも、養子か)伝わる。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。東美濃明智城攻略の総大将。金山城主。1561年義龍の死により龍興の後見人。美濃守護代。永禄7・8年、関城主。1565年織田家撃退の為に東美濃、堂洞城後詰に出陣。安桜山城主。1567年斎藤氏滅亡後は、三好家の客将。朝倉家、足利義昭に出仕。1571年三好の将として和田惟政を攻撃、摂津「白川河原の合戦」に討死。息に道勝、頼次、時利。<斎藤義龍の側近、家老。><利隆の娘婿に桑原(氏家)行隆。道利の甥に氏家直元(卜全)。>

長井道勝* (*)井上道勝・忠左衛門・忠右衛門。長井道利の長男。1556年「長良川の合戦」に斎藤道三を討ち取る。証拠として鼻をそぐ。のち弟・頼次とともに秀吉家臣。

<大野郡>

揖斐光親 (*~1556)(伊尾・いび・衣斐)・土岐・五郎・周防守。土岐一族。土岐頼芸の弟。反道三の重鎮。西美濃十八将のひとり。大野郡、揖斐城主。1547年土岐頼芸の大桑城とともに斎藤道三の攻撃により落城。<長江(富島)氏、揖斐氏、斎藤氏は美濃土岐家重臣として同格だったようです。>

揖斐光兼 (*)(伊尾・いび・衣斐)・土岐・与三左衛門。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<光親との関係は不明。>

堀池定治 (*)備中守。1556年揖斐光親の跡職を継ぎ、揖斐城主。<義龍重臣、堀池筑後守・元盛と同一人物か。>

堀池元盛 (*)筑後守。斎藤義龍家臣。1564年頃稲葉良通とともに奉行人。<稲葉良通は道三方のため義龍に遠ざけられているので、時期が変のなのか。立場が見直されるべきなのか・・。>

▽堀池* (*~1582)半之丞。稲葉良通の娘婿。本能寺の変後に稲葉良通と対立し討たれる。揖斐城主。<信長配下では縁戚関係から稲葉家の与力に編成されるようです。>

<郡上郡>

⇔↓武井夕庵 (*)肥後守・直助・爾伝。土岐頼芸の側近から、道三・義龍に出仕、右筆。義龍と道三が不和となる原因を作ったとも。のち織田信長に出仕し、1575年には「二位法印」に任官。1581年京都馬揃えで「山姥」に仮装する。郡上郡城主。<同じく信長様の部下となる猪子兵助が道三の若手側近とすれば、この方は・・。><没年が1582年とするとかなりとんでもの高齢者になるような気がします・・・。>

⇔鷲見基綱 (*~1556)すみ・新藤次。美濃郡上の豪族。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<鷲見保光は義龍方に加勢し生き残る。>

<義龍六奉行>

日比野清実 (*~1561)下野守。1558~1560年にかけて義龍六奉行。1561年義龍病死直後に乱入した織田軍と「森部の合戦」に戦い討死。信長の馬廻、津島衆・恒河久蔵に討たれる。結村城主。

長井衛安 (*~1561)甲斐守。1558~1560年にかけて義龍六奉行。1560年美濃に侵入した織田信長軍を丸毛・市橋とともに撃退。1561年義龍病死直後に乱入した織田軍と「森部の合戦」に戦い討死。信長の馬廻、津島衆・服部平左衛門に討たれる。結村城主。<長井道利との関係が気になります。>

⇔野村* (*~1570)越中守。斎藤家家臣。<幕府足軽大将衆の野村越中守は別人とも。長井道利と行動を共にするなら上方に居る可能性もあり。>

<義龍側近>

小牧道家 (*)源太。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。斎藤道三の首級を盗み丁重に葬る。義龍政権の下で野木氏と対立。石河兵助に討たれる。

野木* (*)(稲葉)・次左衛門。青木重直の娘婿。小牧道家と対立。小牧道家に討たれる。

<義龍三官僚>

上田* (*)加賀右衛門。<「加賀」仲間に青木、井上。いずれかと同一人物か?。>

宇佐美* (*)左衛門尉。日根野弘就、野村越中と共に寺社対策にあたる。

⇔↑武井直助 (*)肥後守・夕庵。郡上郡の豪族。のちに織田信長の祐筆。

斎藤秀龍(斎藤道三)の軍団

<道三方 城持小名>

↑鷹司政光 (*)斎藤政光。斎藤道三の弟。鷹司冬明と家督を巡り抗争。道三の後援で冬明を討つ。のち織田信秀との合戦で戦死。長瀬城主。

石谷* (*~1556)対馬守。土岐一族。道三と親しく鷺山城留守居を勤める。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。義龍軍に攻囲され自害。<石丸氏家臣の子孫でしょうか。><「命やは うき名にかえじ 世の中に ながらえはずる 習ありとも」辞世。><斎藤利三を通じて明智光秀と親しくなる石谷頼辰との関連も気になるところです。>

川島唯重 (*~1556)掃部助・惟重。1541年「村山要害攻め」に従軍。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。

川村良秀 (*~1556)図書・元務。1541年「村山要害攻め」に従軍。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。

飯沼知俊 (*~1556)杢之助。1541年「村山要害攻め」に従軍。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<飯沼長継(長就の息)の一門か。1570年近江堅田で戦死する飯沼長宗あり。>

神山義鑑 (*~1556)内記。方懸郡の豪族。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。斎藤道三に味方し、義龍軍と合戦。

道化定重 (*)道家・助六郎。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<子孫は織田家臣となり森可成与力、瀧川一益と縁戚となる。><斎藤道三にヒョウゲ振りが認められ「道化」姓を与えられたらしい。>

道化定常 (*)道家・彦八郎。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<のち織田信長家臣の「無双道化」道化清十郎も道三方か。>

道家* (*~1570)清十郎。弟に助十郎。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。織田信長に出仕。森可成の与力。近江にて戦死。<「天下一勇士」「無双道家」。信秀家臣・道家尾張守の息。>

松原義保 (*~1556)治郎左衛門。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<丹羽長秀と関連する松原氏の一門でしょうか。>

大沢氏泰 (*~1556)主水。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。

中村秋益 (*~1556)宗助。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。

井上頼久 (*~1556)加々右衛門。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<長井道利の長男・長井道勝が井上姓を名乗るのはこの人の跡職を奪ったからか?。><加賀右衛門は青木以外にもいたということで・・。>

片桐為春 (*)縫殿助。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<片桐且元の一門か。>

大西勝祐 (*~1556)太郎左衛門。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。

⇔溝尾茂朝 (*)庄兵衛・(三沢秀次?)。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<明智光秀の侍大将として有名な溝尾勝兵衛さんとの関係が気になります。出雲国三沢氏との関連あり。>

大塚種長 (*)藤三郎。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<本能寺で戦死する大塚さんの一門か。>

桑原久明 (*~1556)十郎左衛門。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<氏家直元一門か。><本能寺で戦死する桑原さんの一門か。>

三宅信朝 (*)式部。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<明智光秀家臣の明智(三宅)秀満の一門か。><三河の三宅氏と縁戚でしょうか。>

<稲葉一門>

林 通政 (*~1556)稲葉・駿河守・駿河入道・入道道慶・政長・正道。斎藤道三の旗頭。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。本巣郡十七条村岩崎城主。織田信長の家臣・森可成は一門・林新右衛門・通安の娘婿。一門の林八郎左衛門・通安は織田信定、信秀に出仕し息・秀貞は織田信長の筆頭家老となる。<親子で同名の通政で、父(通慶)は道三、息は義龍について親子で争うか。><林主馬・正長も道三方。甥の林主水は義龍方につく。><同世代人の新右衛門、八郎左衛門の通安は、同一人物なのでは??>

林 正長 (*~1556*)主馬。斎藤道三の旗頭。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<林 長正と同一人物か?>

林 通村 (*)稲葉・佐渡守。尾張に土着する林氏。息に八郎左衛門・通安。娘婿に織田信定。孫に林秀貞。<同世代で、八郎左衛門・通安、新右衛門・通安と2人の通安がいてややこしくなります。>

⇔▽林 通安 (*)稲葉・八郎左衛門。義兄弟に織田弾正忠家の信定。甥に織田信秀。息に織田信長執事の林秀貞。<同一人物では?>

⇔▽林 通安 (*)新右衛門。室は塙義元の娘。娘婿に森可成(元・長井家家臣、のち織田信長家老)。息に森家家老の林為忠。<「稲生の合戦」に林通具を討ち森可成が信長重臣に出世するので、「林一族の争い」から可成を勘当とかで、別人としているのでは?><室は塙義元の娘、この人が原田直政の父なら、塙家を通して林=森=原田=柴田のパイプができるのですが・・。原田直政が出頭するのも判る気がするのですが。>

一柳直秀 (*)(林)・稲葉・右近。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<羽柴中国軍の与力、一柳一門か。>

猪子高就 (*~1582)兵助・兵介・高然。斎藤道三の側近、傍衆。正徳寺の会見に同席、「何を見申し候ても、上総ノ介はたわけに候。」と名言を残す。織田信清、のち信長に使え、矢部家定とともに側近として重用される。1570年「姉川の合戦」に従軍。1576年「石山本願寺攻囲」に従軍。1580年徳川家康の高天神城攻囲の陣中に検察に行く。1582年「本能寺の変」に戦死。

柴田角内 (*~1556)信長公記の尾張守護代家の家人に柴田角内あり、尾張守護・斯波義統を襲撃する。その後に斎藤道三の家臣・柴田角内あり。道三息子の斎藤義龍の軍勢との前哨戦に道三軍の代表として「一騎打ち」に勝利する。<清洲織田家滅亡後に斎藤道三のもとへ行くというのも不思議。斯波・武衛家を道三が滅ぼしたくて、あらかじめ送り込んだ刺客なのか、美濃「長良川の合戦」後は登場してこないので、ここで道三に殉じたのでしょうか。柴田勝家との関係は一族?それとも別系?なのかはっきりしません。 とにかく気になる人物なのですw><明智光秀に与し、斉藤利三と縁戚である柴田氏は美濃の柴田なのではないでしょうか。明智家と縁戚である美濃の柴田とはこの角内の一門を指していて、尾張の柴田とは関係ないのかもしれません。明智と柴田の家臣である柴田源左衛門の一件も、後世の誤解から同一人物となっているのでは?>

<尾張津島>

⇔★堀田道空 (*)斎藤家の家老・側近。津島衆。1553年道三・信長の正徳寺の会見での随行者のひとり(春日丹後・猪子兵助)。尾張津島に館があり、織田信長の踊り興行が披露された。<道三没後は信長に出仕カ。>

⇔山内盛重 (*)伝兵衛。尾張岩倉衆。道三の加勢か。尾張黒田城主。<尾張岩倉家老・山内盛豊は1510~1557*1559の武将。>

⇔梶川昌宗 (*)弥三郎。尾張(三河)衆。道三の加勢か。<知多半島の水野家与力に梶川氏。1560年桶狭間に戦死した梶川高秀の息・梶川高盛は弥三郎と称する。境川の川筋を通して美濃との縁を持つか。>

 1555年家臣団分裂 道三派 VS 義龍派

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