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11世紀~12世紀 清和源氏の系譜 その2 源ノ義家~為義・義朝の家臣団と軍団

(河内源氏の東国進出 その2)
 源ノ義家の東征。


源氏と結びついた摂関家  →藤原北家・摂関家の家臣団と軍団
源ノ義家の家臣団と軍団 陸奥着任1083年 「後三年の役」1083~1087年 文献「奥州後三年記」『群書類従第20巻』、『後三年合戦絵詞(1347年成立)』

 
<河内源氏の家人、後三年の役> *「頼光の四天王」ゆかりの武将 *家臣ではない。

⇔↑源ノ義家 (1039~1106)八幡太郎・陸奥守。頼義の嫡男。鎌倉を本拠とする。1047年岩清水八幡宮にて元服する。「騎射、神の如し」と讃えられる名将。1051年父・頼義が陸奥守に任官し東国への進出を強める。「前九年(1062)・後三年(1083)の役(東北)」で活躍。1063年出羽守に任官。1070年奥州にて源ノ頼俊から印綬を奪った藤原基通を捕縛。1083年に陸奥守鎮守府将軍となる。藤原清衡を後見し、清原氏を継承させる。関東・東北に勢力を扶植する。宮廷の藤原氏は私闘として恩賞を与えず、義家は私財をもって関東の武将に酬いたという。1089年白河院に院昇殿を許可される。1091年弟・義綱と家人の所領争いから対立。1106年嫡子・義親の朝廷への反乱の中、病死。<源ノ義家の軍学の師・大江匡房(1041~1111)義家にとり歳下の貴族、本当かどうかは疑わしい気がします。><藤原式家の藤原上野介・敦基と義家は「白河御代の文武の双璧」とされ、義家の息・源ノ義国は敦基の娘婿となる。>


↑▽源ノ義親 (*~*1108)対馬守。義家の次男(義家の長男は早世)。前述したが、正当な嫡男として評価されていない。義綱を寵用する白河院に反抗する。対馬から九州各地に海賊行為を行い、大宰大弐・大江匡房が朝廷に訴える。1101年に追討令が出され、義家の郎党・藤原資通を殺害(義親に同心し反乱に加わったとも)。1106年父・八幡太郎・義家が死没。隠岐に配流されるが、出雲に上陸し叛乱、平ノ正盛に討伐される。<鎮西八郎(源ノ為朝)が義親の築いた九州の地盤を継承していたかもしれませんね。大蔵氏との関係が気になります。>


大江匡房 (1041~1111)(土師)・蔵人・大宰大弐・大蔵卿・(邦房・国房?)。大江成衡の息。母は橘ノ孝親。紀伊守・藤原重経の娘婿。儒学者・軍学者。1057年国房は丹波国司。1067年後三条天皇の側近。1090年堀川天皇の側近。1108年源氏を追い落とす。1079年頃村上源氏・為平親王流の源ノ有宗の息・大江有元を養子とする。息に隆兼、維順、雅致、(養子・橘ノ)広房(*~1111)<義家の息子を謀略に・・。微妙な関係です。院の意向で源氏勢力の力をそぐ為に動いたともいわれています。><子孫は戦国の安芸毛利氏、越後北条氏。毛利家が西国の大名となるのも先祖の影響力があったからでしょうか。><陸奥守・源ノ頼俊に従う伊豆散位・惟房は大江家か、もしくは伴家か。不明です。>

<義家(血縁)・一門衆>


源ノ義綱 (*1042~1132)賀茂義綱・次郎・右衛門尉。義家の弟。「前九年の役:1062」に参陣。のち義家を疎む白河院により寵用される。1091年家人の争いから、兄・義家と不仲。1093年陸奥守在任時、隣国の出羽の騒乱で、源信明が討たれたため、平ノ師妙、師季・親子を討伐し、美濃守に就任する。1106年兄・八幡太郎・義家が死没。1109年、義忠暗殺の疑いで近江の本拠地に籠城するが、為義の追討軍に一族討滅される。<1094年に出羽の争乱を鎮圧する軍功。>


源ノ義光 (1045~1127)新羅義光・三郎・常陸介・甲斐守・(義満)。義家の弟。「後三年:1083」に参陣。1106年兄・八幡太郎・義家が死没。義家没後の棟梁の座を狙い、甥の義忠を暗殺する。兄・義綱一族滅亡後に義光の計略が発覚する。義忠の兄・源ノ義国に追われ、一族は常陸・甲斐国に土着する。「武田・小笠原・佐竹・南部」の祖。嫡男・佐竹義業を常陸の豪族・吉田清幹の娘婿に政略婚。


↑▽腰ノ季方 (*)腰滝口・(季形)。京都滝口の武者。弟・源ノ義光の郎党。1057年黄海柵の撤退に頼義守護七騎のひとり。<腰ではなくて越、古志の系譜か。滝口とは御所の近衛兵の意味。>


源ノ有光 (1037~1086)石川有光・物津源太・安芸守・石川冠者・(有満)。源ノ頼親の子孫。1058年義家の代官として石川郡泉荘に居を構え、仙道七郡を領して石川冠者と呼ばれた。息に光祐、光平、基光(元光)。


<義家の御由緒家・側近衆> 「後三年の役」1083~1087年


藤原基通 (*)散位・(元通・幹通)。陸奥国人。1067年陸奥守任官の源ノ頼俊と対立。1070年陸奥守・源ノ頼俊の失脚を狙い国司の印綬と鍵を盗難する。源ノ義家を頼り、頼俊の失脚に成功。1074年清原真衡が鎮守府将軍となる。<佐藤季治(*~1142)の先祖でしょうか。>


*鎌倉景正 (1069~*)平ノ景正・権五郎・景政。相模国鎌倉党、大庭・梶原氏の祖先。源ノ頼義に従った鎌倉景通の息(弟・五郎景成の息を養子とも)。16歳で「後三年の役(1083~1087)」に活躍する。鳥海弥三郎に右目を射られながらも奮闘する『奥州後三年記』。1113年秩父武綱とともに横山党討伐軍。1116・17年相模国大庭御厨を伊勢神宮に寄進し荘園を経営する。息に景継、景門。孫に長江義景。<大庭景義(景能)、景親、梶原景時は景政の一門の子孫であることは間違いない。>


鎌倉景継(大庭)→景宗/断絶。1144年源ノ義朝が中村党を率いて大庭御厨に乱入。景経→景忠→景義(景宗の跡を相続)。義朝の言うことを聞く分家の景義が相続したということでしょう。><大庭・梶原氏の祖で源氏を支える一族。三浦氏と同祖。>


三浦為継 (*)平ノ・為次・兵太郎・平太郎。相模の豪族、三浦為通の息。「後三年の役(1083)」に活躍する。鎌倉景正の矢を抜く。その武功から子息に「義」の字を下賜され、息・太郎吉次は三浦義次(義継)と称する。1113年秩父武綱とともに横山党討伐軍。弟に安西為景(駿河八郎)、三浦為俊。<義家旗本はメンバー構成から駿河(伴・兵藤)と相模(鎌倉・三浦)の武家が主力だったことがわかります。>


伴ノ助兼 (*)大伴・冨永資兼・(設楽・富永)・次郎傔仗・大夫・資兼。三河半国総追捕使・伴ノ助高の息。三河の豪族。義家の側近。弓の達人。「後三年の役(1083)」に活躍する。清原武衡軍と戦う。<三河国足利荘と係わる家系。頼義の郎党・大伴員季の一族か。><戦国時代、吉良家家老・伴(富永)ノ五郎が徳川家康と三河の覇権をかけて争います。><分家の伊勢の伴(冨永)氏は信長孫・織田秀信に従い美濃にて戦死。><義家のライバル・源ノ頼俊に従った伊豆散位・惟房は、北条時方(時政父)を娘婿に迎えた伊豆掾・伴ノ為房の先祖だったかもしれません。><鶴岡八幡宮社家・伴氏・・・。三河一宮社家・冨永(伴)氏・・・。>


兵藤正経 (*)藤原・冨永正経・(設楽・富永)・大夫・(政経)。三河渥美郡の豪族。義家の側近。伴ノ(冨永)次郎・助兼は娘婿。<兵衛府に出仕した藤原氏で兵藤とも。><三河の藤原氏、三河冨永・富永荘は広大で多数の豪族が栄えるようです。家康が三河守任官の為に藤原氏を名乗るのはこの方の影響でしょうか。三河半国総追捕使の片割れの家系でしょうか。><子孫の正職は源ノ頼政に従い、「宇治山田」で戦死。>
 
藤原資通 (1070~1102)首藤資通・(佐藤・鎌田・山内首藤)・首藤大夫・助道。藤原秀郷流。美濃の豪族。首藤資清の息。父・資清(助清)の娘が義家の妻。義家の義兄弟。源ノ為義の乳母。義家の側近家臣で身親しき郎党。13歳で「後三年の役」に活躍する。1098年豊後権守・守藤権守に任官。1101~1108年、源義親の説得に失敗する。<「北面武士」の家系。山内首藤・鎌田家の祖。>


藤原親清 (*)首藤親清・(佐藤・鎌田・山内首藤)・左衛門少尉・近清・頼清。藤原秀郷流。藤原資通の長男。1130年北面下臈に就任。鳥羽院の「北面の武士」。1149年左衛門少尉に任官。息・山内義通(能通)、首藤親通。<源氏に対して独立的に動く。山内首藤の祖。><伊予河野氏と関連ありとも。>


↓▽藤原通清 (*)鎌田通清・(佐藤・鎌田・山内首藤)・河内権守。藤原秀郷流。藤原資通の次男。1156年「保元の乱」に棟梁・源ノ為義に従い、息(次男)・鎌田正清の主人・源ノ義朝と争う。<山内首藤・鎌田家の祖。「清」を通字とする藤原氏。><河内国で清原氏と抗争する藤原実清はこの人の一門でしょうか。>

<義家の家人>
(本国・河内衆)


水走季忠 (*)(中臣)・大中臣・平岡連。河内国枚岡神社社家。河内国豪族。河内源氏郎党。源ノ義家、義忠の二代に出仕。河内国の水運を支配。大江御厨の管理を任される。息に康忠。


水走康忠 (*)(中臣)・大中臣・右馬允。季忠の息。源ノ義忠に出仕。花国山観音寺別当職を与えられる。源ノ頼朝から下文を賜る。息に康綱。


(義家の郎党・別働隊旗頭)


大江義久 (*)信濃の豪族。「後三年の役(1083)」に活躍する。一軍の大将。のち陸奥由利郡を領する。矢島八森に居す。<ちなみに自力では系図などで大江義久さんはみつけられませんでした。謎の人物です。大江御厨を管理していた平岡の水走季忠の一族でしょうか。><出羽橘氏の出自なら、橘氏が清原と源氏の二派に分裂して生き残りを掛けている状況が想像されます。>
<藤原(加藤)景通の息子で大江通国の養子・大江景遠が、源氏との関係上一番有力筋です。><藤原利仁流・加藤景通の息、長門江七・景遠が大江大学頭・通国(1104~07年間伊豆国司)の養子となり大江景遠。通国の実子には景定、通景がいるようです。義久との関連が気になります。>
<源ノ義家の軍学の師・大江匡房(1041~1111)の系統か?><橘ノ以綱 (*)主計頭・陸奥守・相模守・鎮守府将軍。橘氏長者。橘成任の息。息に匡房養子となる大江広房。微妙な時期の鎮守府将軍・・。><1111年に匡房養子の信濃守・大江(橘)広房は源ノ為義の郎党とともに下野守・源ノ明国に討ち取られている。義久との関連が気になります。>
<大宰大弐・大江匡房が、源ノ義家の嫡男・義親を「海賊」として朝廷に訴える。複雑な大江一門との関係のようです。>


藤原友利 (*)荘司次郎・(具俊)。「後三年の役(1083)」に活躍する。一軍の大将。沼ノ柵在番。出羽国大曲を領する。<出所不明の藤原氏。主力を率いる程のカリスマですが。畠山重忠が荘司次郎を称するのはこの人物にあやかってでしょうか。ということは秩父党ゆかりの人物か。でも藤原姓ですね。><のちの雄勝郡領主・小野寺氏の祖は下野藤原首藤の系統のようです。><「友」を「知」と読み替えるなら、佐藤知郷(公澄)→知基→知昌から尾藤氏に至る系譜の人物でしょうか。>


藤原経元 (*)刈田・(経基)。藤原鎌足の子孫。「後三年の役(1083)」に活躍する。源ノ義家に従い、清原武衡兄弟を討伐する。恩賞として伊具郡・刈田郡を支配し、白石を居館とし刈田氏を称す。子孫は伊達家臣・白石氏。


<義家の郎党・馬廻り> 「後三年の役」1083~1087年


末割惟弘 (*~1083)末ノ・四郎・末四郎・(是広)。相模国の武士。義家の郎党。「後三年の役(1083)」に討死。<末→陶とか。高師泰の軍団に陶氏あり。>


大宅光房 (*)(満房)。京都の郎党。相撲取り出身。「後三年の役(1083)」に従軍。<頼義の郎党・大宅光任(大三大夫光任)の息か。><子孫は駿河国由比氏につながるとも。>


源ノ直 (*)近畿の武者。義家の郎党。「後三年の役(1083)」に従軍。金沢柵落城に立ち会う。<摂津源氏一字名の渡辺党系統?>


紀ノ* (*)七。義家の郎党。「後三年の役(1083)」に従軍。<1057年に戦死した、和気致輔の跡職を継承した一門か。もしくは紀ノ季武の息か。>


高ノ* (*)七。義家の郎党。「後三年の役(1083)」に従軍。<高階氏か。足利尊氏の執事・高ノ師直に繋がる先祖か。義家の乳兄弟に高階惟章あり。軍功により下野梁田御厨荘を得る。>


宮ノ* (*)藤王。義家の郎党。「後三年の役(1083)」に従軍。<のちの中国地方の雄、宮一族の先祖か?>


<奥州外様衆>


県ノ次任 (*)縣・小次郎・(継遠)。陸奥の武者。金沢柵落城後、清原家衡を弓射で討ち取る軍功。<潟に通じる姓か。>
戸巻 * (*)「後三年の役(1083)」活躍する。<奥州在地の武者か。>
鬼武 * (*)陸奥の武者。「後三年の役(1083)」に活躍する。金沢柵の一騎打ちにて清原軍の亀次と決闘。<奥州在地の武者か。>

<義家に加勢した坂東武者> 軍記に登場しないが源軍に従軍したと伝承される武将。


秩父武綱 (*)平ノ・十郎。武蔵の豪族。秩父武基の息。武基の弟は豊島武常。1083年「後三年の役」に従軍し、義家から源氏の「白旗」を拝領し常に先陣を務めるという。子息に重綱。<後年、源ノ義経が河越重房を、源ノ頼朝が畠山重忠を先陣の将として重用するのはこの故事に拠るものだろう。><子孫の秩父重隆は源ノ為義の息・義賢と婚姻関係を結ぶ。>


秩父重綱 (*)秩父権守・平朝臣茲縄・武蔵国総検校職。平家に出仕。1113年横山党を三浦、鎌倉氏とともに討伐。1148年平沢寺『経筒』を埋納する。児玉経行の娘婿。弟に河崎(渋谷)基家。息に秩父重弘、(河越)重隆、高山重遠、江戸重継。娘婿に三浦義明。


豊島近義 (*)平ノ近義・秩父近義・太郎・(親義・親吉)。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。武蔵の豪族。豊島武常の息。父とともに源ノ義家に従い1083年「後三年の役」に従軍する。兄弟に常家。息に近忠。<豊島常家との関係不明。兄弟もしくは同一人物?>


⇔▽豊島常家 (*)平ノ常家・秩父・秩父傔仗・(経家・恒家)。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。武蔵の豪族。豊島武常の息。1057年源ノ頼義護衛七騎のひとり。父とともに源ノ義家に従い1087年「後三年の役」に従軍する。のち源ノ頼俊の家人。1070年源ノ頼俊に従い蝦夷征伐に従軍。兄弟に近義。息に豊島康家。<源ノ義家のライバルで摂津源氏嫡流の源ノ頼俊に協力して「奥州征伐」に従軍。頼俊の子孫は摂津豊島荘の領主となり豊島権守を名乗るので、摂津豊島と武蔵豊島に何か係わりを持つ武将かもしれませんね。>


豊島康家 (*)平ノ・三郎・平傔仗・(安家)。豊島常家の息。息に豊島清元(秩父重弘の娘婿)。娘婿に武蔵権守・藤原遠兼。孫に足立遠元。


平ノ常長 (*)千葉・上総権介・千葉常長・(経長)。下総の豪族。1051~1062年「前九年の役」に従軍。1083年「後三年の役」に従軍する。上総・千葉氏の祖。大椎に居す。息に千葉常兼(経兼)。<常陸の多気氏と婚姻関係が結ばれています。>


佐賀常家 (*)平ノ・坂・太郎・上総権介・(経家・恒家)。下総国香取郡坂郷を領す。千葉常長の息(嫡男)。弟の常晴を養子とする。<(注意)秩父平氏の豊島常家と同名です。>


千葉常兼 (*)平ノ・下総権介・千葉介・(恒兼・経兼)。千葉常長の息。兄弟に上総常晴、佐賀常家、千葉常重。<(注意)横山党の惣領・経兼と同名です。>


上総常晴 (*~*1130)平ノ・相馬五郎・上総権介・(常時・常明・経晴)。千葉常長の息。兄に常兼。息に長実、佐賀常澄。養子に千葉常重を迎える。1130年家督を常重に譲る。


坂尾* (*)五郎治。下総の豪族。千葉常長家臣。1051~1062年「前九年の役」に従軍。息に新五郎。


海野幸勝 (*)滋野・平ノ・信濃守。海野幸家の息(長男)。海野七世。<信濃国の豪族も従えていた様子。子孫はのちの真田家につながる。>


横山隆兼 (*)山口・(高兼)。1113年相模国愛甲庄の愛甲内記を殺害し、1113年秩父武綱、三浦為次、鎌倉景政の横山党討伐軍と抗争。主の源ノ為義の仲裁で和睦。娘婿に秩父重弘。


児玉弘行 (*)遠峰・有太夫・別当・(広行)。有道武蔵守・惟行の息。武蔵豪族。児玉党惣領。1083年「後三年の役」に従軍。弟に児玉経行。貞行、惟親。息に家行、有道資行。<源ノ義家の副将軍とも。>


児玉経行 (*)有道・有三・別当太夫・(恒行・常行)。有道武蔵守・惟行の息。武蔵豪族。児玉党。1083年「後三年の役」に従軍。<義忠の息子・河内源太を娘婿とする世代的にどうでしょう・・。義家の嫡男・義平の乳母とも。秩父党と河内源氏に強く結びついていることは確かです。>

<1091年 畿内の兵乱 義家 VS 義綱 兄弟対決>


藤原実清 (*)義家の郎党。1091年河内国にて、清原則清と所領を争う。<藤原(山内首藤)資通の息は藤原(山内首藤)親清。><「清」を通字とする藤原(山内首藤の祖)資清の一族か。藤原秀郷流。><奥州でも1070年頃には源ノ義家派の藤原基通、源ノ頼俊派の清原真衡の対立があったと推測されます。><河内藤原氏、後藤則明とも関連有りか?。>


清原則清 (*)義綱の郎党。1091年河内国にて、藤原実清と所領を争う。<清少納言の兄・清原致信の子孫でしょうか。><藤原と記される本もあり。頼義の臣・清原貞広、清原貞廉の一族か。「則」字つながりなら後藤則明の藤原利仁流 or 深江是則・・(もういいってw)。><この争乱の後、義綱が出羽の乱の鎮圧に活躍しますから、清原氏も一緒に奥州に遠征したのでしょうか。>


<藤原利仁流>  「後三年の役」1083~1087年 由緒のある利仁流・加藤景通の系統が不明です。


加藤景清 (*)藤原景清・(橘ノ景清)。藤原利仁流。橘ノ永愷(能因)の息。加賀の豪族。加藤景通の娘婿。加藤家の婿養子。伊勢目代。伊勢の伊藤氏と対立。


加藤景貞 (*)藤原景貞・(橘ノ景貞)・景定。藤原利仁流。橘ノ永愷の息で、景通の娘婿(婿養子)・橘ノ(加藤)景清の息。加藤景通の外孫。加賀介を配領し加藤姓。伊勢目代。息に景員。孫に景正、光貞、景廉。<子孫は頼朝挙兵に参加する。>
 

《個人的感想》 源ノ義家に暴言を吐いて、頭に血を昇らせた、清原家衡の守役・藤原千任の系譜が気になるところです。
藤原秀郷の子孫達が陸奥で勢力を失った原因、本当は源氏の対抗勢力として陸奥にあり、清原氏を後援していたために、
源氏との覇権争奪に破れ秀郷系の歴史が消滅したのではないのでしょうか・・。
 源氏の初期家臣団は系譜が更に混乱していますから推測で考えていることが多いです。
とりあえず「この時代に このような人物がいたのかもなあ~」という ゆるい感覚 で捉えています。
答えを見つけようとする努力の面白さが、歴史の面白さだと思います(知りたいという人間のサガであります)。
認識を間違ってるところも多々あると思うので、あとは自力で、私の妄想を越えていって下さいw。


(源ノ義家の次世代がうけた、朝廷の政治的圧力。対抗勢力として平氏<平家>の興隆)


 日本国の乱逆、西の義親。
 源ノ義親の征西と 反乱。(河内源氏の分裂、骨肉の争い)
 覇権前の源氏一門  頼朝にいたるまでの源氏武将について。
<嫡流からはずれた武将> ↓下記にも登場マーク。<裏源氏ですな。> 


⑤世代目-2男 


源ノ義綱 (*1042~1132)賀茂・次郎・次郎・右衛門尉・左衛門尉。義家の弟。「前九年:1062」に参陣。のち義家を疎む白河院により寵用される。1091年、家人の争いから、兄・義家と不仲。1093年陸奥守在任時、隣国の出羽の騒乱で、源ノ信明が討たれたため、平ノ師妙、師季・親子を討伐し、美濃守に就任する。1109年、義忠暗殺の疑いで一族討滅される。


源ノ義弘 (*~1109)賀茂義弘・(義寛・義広)。源ノ義綱の息。白河院の命で義忠の養子・源ノ為義と、義忠岳父・平ノ正盛の軍勢に追討される。甲賀山中にて戦死。<甲賀の所領は義光のものともいわれ、義光に自領に匿うと謀られた可能性もあるとのことです。>


源ノ義俊 (*~1109)賀茂義俊・(義年)。源ノ義綱の息。白河院の命で義忠の養子・源ノ為義と、義忠岳父・平ノ正盛の軍勢に追討される。甲賀山中にて戦死。


源ノ義明 (*~1109)賀茂義明・(義秋)。源ノ義綱の息。白河院の命で義忠の養子・源ノ為義と、義忠岳父・平ノ正盛の軍勢に追討される。京都邸宅にて自害。<義忠と一番反目していたため、義光に利用され暗殺の最有力者とみなされていた。>


源ノ義仲 (*~1109)賀茂義仲。源ノ義綱の息。白河院の命で義忠の養子・源ノ為義と、義忠岳父・平ノ正盛の軍勢に追討される。甲賀山中にて戦死。


<関白・藤原師通の配下、義綱の同僚> 1095年延暦寺の強訴撃退。


源ノ頼治 (*)宇野頼治・宇野冠者・中務丞。大和源氏。源ノ頼俊の息。1095年頼治手勢が日吉神社の御輿を弓で射る。1099年比叡山に責任を追及され土佐に配流される。息に親弘。<源ノ義家と共同して京都を守備していたのに失脚。>


源ノ親弘 (*)宇野親弘・豊島権守・頼弘・(近広)。摂津豊島郡を領する。1155年親子で対立し息・親治に大和宇野荘を奪われる。息に源ノ親治。<祖父・陸奥守頼俊より、摂津豊島と武蔵豊島に縁のある大和源氏です。>

⑤世代目-3男 


源ノ義光 (1045~1127)新羅三郎・常陸介・甲斐守・(義満)。義家の弟。「後三年:1083」に参陣。義家没後の棟梁の座を狙い、甥の義忠を暗殺する。源ノ義国に追われ、常陸・甲斐国に土着する。「武田・小笠原・佐竹・南部」の祖。


鹿島成幹 (*~1109)平ノ成幹・三郎・(成元・成基)。吉田清幹の息。常陸国の武士。義光の郎党。惣領・源ノ義忠暗殺を決行するが、義光の弟・園城寺快誉に抹殺される。息に鹿島政幹。<六孫王・経基から因縁のある坂東の平氏です。>


園城寺快誉 (*)三井寺。義家の弟。園城寺に出家。兄・義光を惣領とするため、義忠暗殺の謀略をめぐらす。鹿島三郎を抹殺する。

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