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戦国時代 尾張守護:斯波義達の家臣団と軍団、上・下四郡守護代、守護又代:織田家の系譜

斯波義達の家臣団と軍団、織田信秀、織田信長の系譜と一門(連枝)衆


人間五十年

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 織田信長公 肖像のつもり。

「 死のふは一定 しのび草には何をしよぞ
   一定かたりをこすよの。 」 -信長- 

「 人はみな 死ぬ さだめ。(自分が生きた証しに 何をしなければならないだろうか。)私の生き様が のちの世の人の語りぐさとなるように。」 
(一定=命=運命と書いてサダメの意味。)

後世の評価を意識した、命のプライドを持ってるから、信長様の生き様が「かっこいい!」と思ってしまうのでしょう。
 信長様独特の美学があるというか、「天下を目指す侍道」というものを体現しているのかもしれません(江戸期に成立した武士道とは全く資質が違う)。同時代の武将にファンが多かったのも、息子達が父に憧れを持つのもわかる様な気がします。

「応仁の乱」東西両軍の大名の動向
<尾張守護・斯波家の失政と、今川家の尾張支配、今川支配の中での織田弾正忠家の台頭という感じの流れです。>


<織田家の系譜(試案)>

南北朝期 
高ノ師泰の中国地方遠征軍に織田小次郎あり。(越前の武者か?)

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幕府管領・斯波義将の家臣

藤原信昌 (*)管領・斯波義将の家臣。越前織田剣神社に文書残す。息に将広。

藤原将広 (*)信昌の息。管領・斯波義将の家臣。越前織田剣神社に文書残す。


 2017年中公新書から『織田信長の家臣団』和田裕弘氏著が発刊されました。久々に刺激を受ける良本でした。一番感動したのが柴田勝家の正室が飯尾氏だったということが再確認できたことです。資料調べ本当に御苦労様でした。斯波氏・渋川氏の分布。尾張の豪族、川尻・佐久間・山口氏の出身地は中国地方の大内氏や、北九州の肥前・肥後にありそうです。


≪個人的感想≫ 『信長公記』では、既に存在が軽視されがちな尾張守護の斯波家(越前・加賀・遠江・信濃への血縁と影響力)と、
 石橋家(尾張の姓をもつ有力足利家。足利家も尾張国司(熱田大宮司)家と縁を結んだことから、「尾張氏」を称したのでは?)ですが、
その権威と威光は無視できないものだったはずです(信長が初期に藤原姓を名乗るのも、熱田大宮司と縁戚となり「尾張氏」の地盤を継承する意図があったからでは?)。
 山口の大内家にやっかいになっていた斯波義敏(後援者・大内家の尾張への影響力、佐久間・山口氏の出身地にも繋がるか)に従うものや、幕府復帰の後押しをした政所所司の伊勢氏(伊勢貞親の所領国・三河への影響力)とのつながりに対しての、
斯波家を乗っ取った渋川家(丹波・上野国にも旧所領の縁?関東公方側近の渋川、渋川と縁戚の三河吉良家)と、九州探題の因縁のある今川氏(駿河・遠江・尾張への旧縁)、
 暗躍する管領家のライバル、細川氏(三河守護)と畠山氏(紀伊国からの東海道沿岸の貿易)。それに、あわよくば中央復帰を狙う?陸奥の大崎、最上、奥羽斯波家、以前として尾張斯波家家督に影響力をもっていたかもしれません。その中で、うまく残存する諸勢力と渡り合って、認められてこその尾張奉行・織田弾正忠家だったと思います。
 信秀さんの政治力、100点!
*注、大納言万里小路家・日野重子と、織田・坂井家は尾張六師荘をめぐり対立。


尾張・遠江国守護・斯波(武衛)氏 斯波義達の軍団

斯波義寛 (*~1513)(山名)・尾張。尾張守護・越前守護・遠江守護。斯波義廉の息(両親については諸説あり)、母は山名持豊の娘。室は一色義直の娘(義兄弟に土岐(一色)成頼)。1485年家督。1487年将軍・義尚に従い大和・敏定、伊勢・敏広を率い六角高頼攻め従軍。1491年最初、血縁的関係から将軍・足利義稙(義材)の腹臣。管領・畠山政長とともに幕政を主導。91~92年義材の六角攻めに従軍し、山内政綱を討つ(六角・朝倉同盟により退去)。1493年義材の畠山基家攻めに従軍。細川政元の「明応の政変」にて、畠山政長自害。同陣する義寛は赤松政則の仲介で細川政元に降伏。
 1493年新将軍・足利義澄、新管領・細川政元に従う。東軍方の勢力拡大。1495年船田合戦に尾張の上・下両郡が対立。1507年「明応の政変」ライバル細川政元死去。1508年斯波義敏死去。正式に家督。守護代に織田敏信が抜擢される。義寛の娘婿に堀越足利義澄、村上顕国。弟に寛元、義雄。息に義達。<関東公方の執事・渋川家の存在を忘れてはいけないとおもいます。東海道は、京都と関東の勢力争いのまっただ中にあったのでは。>
<西軍方の斯波義敏(1435~1508)は1475年朝倉孝景に追放され勢力を失い京都に遁世して、恨み言をつらつら書いているということは、義廉の後裔勢力が優勢だったということでは・・。><渋川氏が吉良家と婚姻関係を結んで縁戚であるということは、遠江遠征に対して吉良家が協力的な事に通じるのではないでしょうか・・。ということは義寛はやはり義敏系ではなく渋川の系譜なのでは。もしくは吉良家からの養子ということも・・。>

1517年対・今川氏親、遠江「曳馬城表の合戦」に大敗。幕府管領・武衛家の権威失墜。
 斯波氏野血脈としては、東北津軽の斯波氏、大崎氏、最上氏からも跡取りを迎えることはできたのでは・・。義達の正体は果たして・・。嫌悪・敵対視された、足利義稙(西軍血脈)と真逆の血縁の関係にはあるような気がします。義澄・政元と政治的に近い斯波氏もしくは渋川氏分流一門が登用されたのでは・・。


⇔△斯波義達 (*~1521)「尾張」・(一色)・武衛・右(左)兵衛佐・治部大輔・入道安心。武衛家・第13代当主。斯波義寛の息、母は一色義直の娘とも。義寛の娘婿に細川政元の擁立した将軍・堀越足利義澄(東軍)。1493年斯波義寛東軍に降伏。1501年今川家の遠江侵攻。1506年松平長親(西軍)討伐の為、今川家の伊勢長氏(東軍)が三河遠征。1507年「明応の政変」細川政元死去。1508年大内義興(西軍)の上洛。義稙の復権、西軍勢力の復権で、義達「遠江守護職」を免ぜられる。1510年足利義稙(西軍)を支持する今川氏親に対抗して遠江経営。尾張の家老・大和守織田家は従わず。1513年遠江出兵で斯波義達の専制政治。<在地の織田家一掃か。>三河吉良家(元西軍)の家老・大河内貞綱、遠江の豪族・井伊直平(南朝方)の協力で今川氏親と抗争。1517年飯尾賢連の離反により「曳馬城」で敗北。自身が捕虜となり、出家隠居し清洲に追放される。妹婿に足利義澄(東軍)、村上顕国。娘婿に今川氏豊。<南朝勢力の末裔で津島社家の大橋家と斯波義郷が縁を結んだことにより、大河内家、長田家、中根家、井伊家、熱田千秋家といった有力豪族との縁戚関係が生まれていた。牛頭天神社家の縁では堀田・矢田・富永家とも関係があります。><1540年織田信秀の今川氏豊の「那古屋城奪取」事件までは1517~1540年は屈辱的な今川優位支配の状態だったかもしれませんね。那古屋城城主として織田信長が据えられたのは「尾張・織田家復活!!」という精神的象徴のような意味合いがあったかもしれませんね。>

斯波義敦 (*)事績不明。<今川氏親により据えられた斯波家当主か。>

<東海道他国衆> 

今川家老・伊勢長氏(早雲)が1491(1493とも)年伊豆乱入。1493年今川家の軍奉行として遠江先陣。1506・1508年に援軍として三河出陣。1516年相模統一。

<東海道の斯波家に協力的な豪族達。駿河今川家との仲の悪さから、伊勢長氏に従わず「堀越公方:茶々丸」を支持した勢力か・・。>

横地秀国 (*~1476*1506)四郎兵衛。遠江国人。1476年斯波氏に従い横地・勝間田の両家臣団は遠江にて今川義忠を討つ。息・藤丸は家臣の松井・二俣氏に擁立され再興を謀るが失敗。<遠江今川(堀越)家、遠江守護・斯波家、守護代甲斐氏とも関連ありか。>

▽横地元国 (*)遠江豪族。遠江今川(堀越)家、もしくは斯波家家臣。1506年遠江経営に乗り出した今川家に滅ぼされる。横地元国は武田家に出仕。<鎌倉時代から続く名族。残党が、お家再興の為に力戦したことでしょう。>

勝間田* (*~1476*1506)修理亮。遠江国人。1476年斯波氏に従い横地・勝間田の両家臣団は遠江にて今川義忠を討つ。<遠江今川(堀越)家、遠江守護・斯波家、守護代甲斐氏とも関連ありか。>

▽勝間田* (*)播磨守。遠江豪族。遠江今川(堀越)家、もしくは斯波家家臣。1506年遠江経営に乗り出した今川家に滅ぼされる。子孫・播磨守は鶴見因幡守とともに、今川方の松葉城・河合成信を討つ。のち武田信縄に出仕。<鎌倉時代から続く名族。残党が、お家再興の為に力戦したことでしょう。>

松平長親 (*)長忠。松平五代当主。親斯波(西条吉良)派か。1506年今川家(伊勢長氏)と抗争するという。1508年三河岩津城にて今川大将・伊勢長氏(1432~1519)を退けた。息に松平信忠。信忠・清康の二代で一族の織田派・松平信定と抗争。<地理的に西条吉良に属していたのでしょうか。1506年は斯波家の後援があってこそ今川家との対立か。家督を信忠に譲るのは敗北し降参して代替わりしたのでは?><臣従の証に今川氏親の「親」の字が与えられてたりして・・。> 

▽松平信忠 (*)竹千代・左近蔵人佐・左京亮・越前守。松平長親の息。1506年頃父の隠居により家督。親今川派(東条吉良)路線で、一門の織田派・松平信定と抗争。1523年13歳の松平清康に家督を譲る。<息子の清康に家督譲渡後も後見するということは、基本路線は同じ親今川ということでしょう。で、清康は織田と対抗し「守山崩れ」かと。東条吉良が松平広忠の保護に走るのも親今川派だからかと。>

⇔○大河内貞綱 (*~1517)備中守・欠綱・「引馬荘代官・浜名荘代官」。元・吉良家臣。遠江豪族。菊一揆、菊党首。臥蝶(寺津)城主・大河内久綱の息。弟に巨海道綱。1494年三河吉良家の家老ながら遠江守護・斯波義達に従う。1501年今川の「遠江侵攻」に堀江下野守とともに黒山城に籠城。伊勢・朝比奈軍に敗北し曳馬を失う。1512年浪人を召集し今川軍と抗争。1513年曳馬城を奪取。1517年斯波家に協力し今川氏親と抗戦。遠江曳馬城主。飯尾氏等の離反により敗北。曳馬落城に戦死。息に光将。68歳。<子孫は、松平伊豆守(信綱)・・・。徳川に乗っ取られ とりこまれていきます。><津島・大橋家を通じて斯波家・井伊家・中根家・熱田千秋家と縁有り。><大河内家は大河内元綱の娘「於大」を巡って、水野氏や河口氏等に血を残し、河口氏は織田信長の側近で安土奉行・福富秀勝と縁が有ります。><勝者の歴史の中で「欠綱」と『応仁後記』には記されたのでしょうか。>

▽巨海道綱 (*~1517)おおみ・(大河内)・新左衛門尉。大河内貞綱の弟。1501年伊勢・朝比奈軍に敗北し曳馬を失う。1513年曳馬城を奪取。1517年斯波義達と結んで今川家と抗争し敗北。<近江・大見に関連する姓でしょうか。ようは浜名湖のことなんでしょうねえ~。><武田家一門の栗原氏の分家が三河に来て巨海氏を名乗るようです。><津島・大橋家を通じて斯波家・井伊家・中根家・長田家・熱田千秋家と縁有り。>

⇔溝口* (*)遠江国人。1516年武田家と結び、今川家に反乱。犬居城主。<遠江今川(堀越)家、遠江守護・斯波義達とも関連ありか。><のち若狭の大名に抜擢される溝口秀勝は良き血筋なのでしょうか。>

⇔○井伊直平 (*~1517*)次郎。遠江豪族。南朝勢力の子孫。津島社家・大橋家と縁戚関係有り。1494年守護・斯波義達に従い今川氏親と抗争。1513年遠江経営に乗り出した今川家と抗争。斯波義達と結んで今川家と抗争し敗北。滅ぼされる。井伊一族は降伏。子孫は徳川家康に出仕。<南北朝時代に南朝の主力として名をあげた一族。のちの井伊直政の先祖。*死亡年齢諸説あり。今川にあれだけ反抗して生きているとはおもえませんが・・。>

⇔▽井伊直宗 (*~1542)次郎・宮内少輔。直平の息。1513年から今川家に従う。1542年今川義元に従い三河国「田原城攻略戦」に戦死。弟に直満、直義、直元。息に直盛。<津島社家の大橋家を通じて、三河の有力豪族、中根・河口(川口)・大河内家と縁戚関係。>

⇔▽井伊直満 (*~1544)肥後守。直平の息。井伊直宗の弟。1544年今川義元により謀殺される。息に直親。

⇔▽井伊直盛 (1506~1560)次郎・信濃守。井伊直宗の息。今川義元に従い桶狭間に戦死。家督は井伊直満の息・直親が相続。<井伊直政は松下家の養子になり虎松と名乗っていたそうです。>

○塵畑* (*~1514)斯波義達家臣。1512年今川軍と抗争。1514年今川軍に敗北し戦死。

○鳴海* (*)式部。斯波義達家臣。1512年今川軍と抗争。<鳴海城と関係ありでしょう~。><1569年岐阜にて山科言継を接待する鳴海氏あり。>

⇔○飯尾賢連 (*)善四郎・善左衛門。元・吉良家臣。西遠江国人。吉良家家老として遠江経営に大河内家と両職として活躍。飯尾長連の息。1516年今川家方に離反し、斯波派の大河内貞綱を討ち引馬城主。<遠江・天野氏も今川の影響で本家と分家が入れかわるようです。久能氏なども何かあったかもしれませんね。>

<尾張衆>

 上四郡守護代・岩倉織田伊勢守家は遠江経営に従わず、斯波家の権威に傷。

村井* (*~1514)源太兵衛。1514年曳馬城に籠城。今川軍に敗北し戦死。<子孫は織田弾正忠家の雑掌(家宰的地位)の村井か、前田家家老の村井か。まったく関連なしなのか・・。>

村井* (*~1514)辰千代。1514年曳馬城に籠城。今川軍に敗北し戦死。

高橋重友 (*~1514)善次郎・修理亮。1514年曳馬城に籠城。今川軍に敗北し戦死。<岩倉衆に高橋氏あり。><三河吉良家臣に赤羽根城・高橋氏あり。>

高橋正定 (*~1514)三郎兵衛尉。1514年曳馬城に籠城。今川軍に敗北し戦死。<岩倉衆に高橋氏あり。><三河吉良家臣に赤羽根城・高橋氏あり。>

中山* (*~1514)監物。1514年曳馬城に籠城。今川軍に敗北し戦死。<水野家と関連ありそうです。>

1513年遠江出兵で斯波義達の専制政治。<なんだかんだいって尾張衆遠江出陣なので、従わない在地の織田家は一掃されたか。>

織田達定 (*~1513)大和守。遠江遠征に反対派。守護・斯波義達と争い自害。<伊勢守はどうなってたのでしょう・・。義達が伊勢守家に擁立された渋川家出身なら、大和守家が倒されるのは必然ではありますが・・。><大和守家は将軍・義澄、義晴派のようです。とすれば対抗上、斯波義達は足利義稙派だったのでしょうか。とすれば斯波家は大内義興・細川高国とは良好な関係か?。 今川氏親は細川晴元派か。>

織田達勝 (*)大和守。尾張下四郡守護代。達定の跡職を継承。1512年今川軍と抗争。1516年斯波義達に従い遠江曳馬城・大河内貞綱の救援に出陣。1517年斯波義達と結んで今川家と抗争し敗北。1518年織田達勝「藤原達勝」と署名。<年代的に織田達勝が該当するか?><戦後処理の受け止め方によっては、義達の敗北により、今川氏親が親今川派と認識していた織田大和守家のものを代官として、斯波家を清洲に蟄居させ監視していたかもしれないですよね。><斯波義雄(義勝)の偏偉での、達勝や、柴田勝家の「勝」だったりしないでしょうか・・。>

浅見* (*)1516年斯波義達に従い遠江曳馬城・大河内貞綱の救援に出陣。1517年斯波義達と結んで今川家と抗争し敗北。

神足* (*)1516年斯波義達に従い遠江曳馬城・大河内貞綱の救援に出陣。1517年斯波義達と結んで今川家と抗争し敗北。

中村* (*)1516年斯波義達に従い遠江曳馬城・大河内貞綱の救援に出陣。1517年斯波義達と結んで今川家と抗争し敗北。<尾張中村といえば・・・、秀吉のご先祖さんも従軍してたかもですね。>

竹野* (*)代福院。1516年斯波義達に従い遠江曳馬城・大河内貞綱の救援に出陣。1517年斯波義達と結んで今川家と抗争し敗北。

<越前衆>
堀江* (*~*1501)下野守。1501年遠江進攻に抵抗し、三河吉良家の代官・大河内貞綱とともに遠江黒山城に籠城。黒山(堀江)城主。

<信濃衆>
小笠原* (*)

 深志の落ち武者の小笠原長高? それとも母上の村上氏の援護でしょうか。 地理的に松尾の小笠原でしょうか?

《個人的感想》 中央の細川管領家の養子兄弟争いに絡んで、斯波義達も動いていたのでしょうか。遠江守護罷免がそれを物語っています。
東海道の情勢は、細川高国・大内義興により擁立された足利義稙と、六角高頼の下での足利義澄・義晴の動きに連動しているような気もします。
足利義澄を斯波義達は支持していた様子です。氏親は足利義稙。
 義達の降伏をみて、東海道の安定を区切りに大内義興は中国に帰還した?
 もしくは細川高国との対立、斯波義達の降伏に失望して、大内は京都から去ったのでしょうか?
謎だからこそ、おもしろい。「永楽銭」の動向とともに、大内家と東海道の関係も面白いです。
 今川との間に挟まれる三河国の吉良一族は、同じ祖の足利一門ということで斯波家に従ったのでしょうか。義達に吉良の家老といわれる大河内氏が従軍しています。(吉良家全盛時の遠江経営は西条吉良家老職の大河内・飯尾が両職だったようです。)今川氏とは縁戚ながらもライバル、足を引っ張るために斯波氏に協力か。のち吉良家中は東条吉良、西条(西尾)吉良で親織田・親今川の二つに割れ、転落したようです。
 東海道(東)方面軍。
 織田信長の編成した東海道方面軍(徳川家康軍団)
 徳川家康が今川と抗争する上での領土進出の大義名分が「武衛」斯波義達の旧領土回復だったりしないでしょうか。徳川家康と武田信玄の今川領土分割問題で、目安となったのが「歴史は繰り返す」ということで昔の斯波領だったりしないでしょうか。
 家康に南朝の有力家・大河内家の血が入ってるというのが、他の松平家に比して、旗頭として抜擢される重要事項だったのではないでしょうか。水野家との関わりの深さがなければ、方面軍軍団長のポストは手に入らなかったと思います。ある意味、血統がいい、というのは真実です。

<弥富 服部 水軍衆> 斯波家家臣→今川家出仕

服部友貞 (*~1568)左京亮・左京進・友定。尾張斯波家家臣。弥富服部党惣領。市江島ニノ江の領主。斯波義銀に仕え織田信長と抗争。吉良、石橋氏と同盟。1560年今川義元と結び熱田攻め。本願寺と同盟し伊勢長島に移る。1568年北畠氏と結ぶが、信長により暗殺される。荷之上城主。

⇔▽服部政光 (*)伊勢長島に籠城。弥富服部党。のち徳川家に出仕。<一揆方と織田方に別れて家の存続を目指したのでしょうか。>

⇔▽服部正友 (*)弥右衛門尉・政友。1574年頃織田家の許可を得て弥富服部の地を継承し復興する。

歴史は繰り返されますね・・。大河内・冨永の血流をとりいれた家康は三河の貴種だったのでしょう。

<井伊家の家臣団>

(西遠江・外様国人衆) 井伊谷、柿本、引馬、堀江、作久、宇津山城。同族に赤佐氏、奥山氏、貫名氏。 斯波家臣・井伊家を弾圧。新野家をとりこむ。直平は斯波義達とともに敗北。1536年堀越今川氏と結んで駿河今川に反抗。

⇔井伊直宗 (*~1554)井伊直平の息。三河「田原城の攻略」に戦死。息に直盛。

⇔井伊直満 (*~1545)彦次郎・信濃守。井伊直平の息(三男)。井伊直宗の弟。1545年井伊家老・小野道高の讒言により今川義元に誅殺される。

⇔井伊直義 (*~1545)平太郎・大膳亮。井伊直平の息(四男)。井伊直宗の弟。1545年小野道高の讒言により今川義元に誅殺される。

⇔井伊直元 (*)刑部少輔。井伊直平の息(五男)。井伊直宗の弟。

⇔▽小野道高 (*)井伊家家老。今川氏と同盟。1544年井伊当主の直満・直義兄弟の謀反を今川義元に報告。直親は信濃国に逃亡する。<野三、の小野氏のようです。守護クラスの名門・・。><自然に考えるならば今川から派遣された小野氏が井伊谷の新領主となり、井伊家を与力に従えていて、家康の世に井伊家は息を吹き返したように思えますが・・。江戸史観として井伊家が小野氏の家臣まで落ちた事はなかったことになっていたりしませんでしょうか。直宗健在で安堵状など書状が残っているのならば、それはないのかもしれませんが。>

⇔奥山親朝 (*)赤佐。遠江引佐郡奥山郷。息に朝利。

⇔▽奥山朝利 (*~1544)赤佐・因幡守・親利。息に朝宗、朝重、朝家、朝忠。娘婿に井伊直親。

⇔▽奥山朝忠 (*~1629)六左衛門。1568年前後に井伊直親を保護し逃がす。息に朝久。

⇔【奥山朝利娘】 (*)井伊直親の室。万千代(井伊直政)を連れ子に浜松の松下清景と再婚。

⇔▽井伊直盛 (1506~1560)虎松・信濃守。遠江国人。井伊谷城。国人領主、井伊直宗の息。父・直宗は1554年「三河田原城攻略」に戦死。1560年「桶狭間」に先陣として出陣、戦死。叔父・直満の後見で、従兄弟の直親が家督継承。

⇔井伊直親 (1534~1562)肥後守。遠江国人。井伊直満の息。1544年信濃に逃亡。奥山親朝の娘婿となる。1560年惣領家の直盛が戦死したため、家督継承。1562年小野道好の讒言で、謀反発覚。徳川に通じた罪で、今川氏真の命で朝比奈泰朝に謀殺される。遺児は新野親矩に養育され、井伊直政となる。

<井伊家は南朝勢力の子孫で、同じく南朝の津島社家・大橋氏と縁戚関係に有り、大橋家を通じて熱田千秋(藤原)、中根、河口、大河内、長田氏と縁が有ります。宗良親王を奉じた信濃の豪族、香坂・諏訪・仁木氏とも交流があったのでは。>

⇔【井伊直虎】 (*~1582)女地頭。直盛の娘。井伊直親と婚約。井伊直政の養母。叔父に新野親矩。1563年飯尾連竜の謀略で曾祖父・井伊直平が死去。家督を継承するが、1568年小野道好に井伊谷城を奪われる。1570年飯尾氏を滅ぼし復帰。井伊直政を養育する。

⇔▽中野直由 (*~1564)井伊家家老。今川氏の合戦に従軍。1564年新野親矩とともに戦死。

⇔▽小野道好 (*~1570)但馬守。井伊家家老。親今川派。女武将・井伊直虎を擁立。1568年井伊谷城を奪取。1570年同盟者・飯尾氏が滅亡し、復権した直虎の意向で処刑される。

⇔▽井伊直成 (*~1572)井伊家一門衆。井伊直虎を補佐。1572年武田軍の侵攻により、「仏坂の合戦」に戦死。井平城主。

(井伊谷三人衆)
⇔近藤康用 (1517~1588)勘助・平右衛門・信用。遠江国人。元・今川家家臣。井伊谷三人衆のひとり。1568年小野氏の専横を嫌う。鈴木重時、菅沼忠久とともに徳川家に従う。息に秀用。娘婿に中川忠重。

⇔菅沼忠久 (*~1582)次郎右衛門尉。遠江菅沼氏。菅沼元景の息。鈴木重時の娘婿。井伊家家臣。1568年小野氏の専横を嫌う。鈴木重時、近藤康用とともに徳川家に従う。井伊谷三人衆のひとり。

⇔鈴木重時 (1528~1569)三郎大夫。柿本城主。東三河の豪族。鈴木重勝の息。弟に出雲守*、重俊。奥山朝利の娘婿。1568年小野氏の専横を嫌う。1568年菅沼忠久、近藤康用とともに徳川家に従う。井伊谷三人衆のひとり。1569年大沢基胤の拠る「堀江城攻撃」に戦死。息に鈴木重好、重吉。<西三河・酒呑鈴木家の分家らしい。>

≪個人的感想≫ 伊勢にも奥山氏あり。南朝の仲間で関連ありか?

(駿河奥山氏)
⇔奥山貞益 (*~1569)駿河奥山氏。弟に貞茂、貞吉。1569年信濃の遠山景直に攻撃を受けて落城。久頭郷城主。

⇔▽奥山貞茂 (*)駿河奥山氏。1572年武田家に降伏。兄に貞益。水巻城主。

⇔▽奥山貞吉 (*)駿河奥山氏。1572年武田家に降伏。息に吉兼。大洞若子城主。
⇔▽奥山貞友 (*)駿河奥山氏。1572年武田家に降伏。小川城主。

(伊勢奥山氏)
⇔奥山知忠 (*~*1576)常陸介。安芸郡今徳城主。本田と並ぶ軍奉行家。1568年織田軍を撃退。のち織田家に従う。1576年北畠旧臣、信雄の命で三瀬館の北畠具教を襲撃。奥山は具教襲撃の命を放棄し出奔する。<伊勢攻略に従う蒲生家と戦うとも。>

≪個人的感想≫ のちに織田家家臣の佐久間大学助盛重の嫡男が、奥山氏を姓とします。先祖の地・越後奥山荘の縁からということですが、他の奥山氏とも関連があるかもしれません。
趣味で「小説家になろう」に信忠さんの冒険小説も書き出してみました、よろしければご笑覧ください。→ 織田信忠ー奇妙丸道中記ー


尾張守護「武衛家」・斯波義統の家臣団と軍団 


斯波義統 (*~1553)武衛・左兵衛佐・治部大輔・義元・義遠。尾張守護職。武衛家。斯波義達の息。父・斯波義達の遠江経営の失敗により、今川氏豊が三河安祥城に入り尾張国の情勢を監視。守護代・織田家が実権を握り、斯波家は名目上の君主となる。1540年織田信秀が三河安祥城を攻略。1553年守護代の清洲織田家の三おとな、坂井・河尻・織田三位により包囲され自害。

<斯波一門衆> 斯波氏分流、牧・奥田(のち堀氏)・柴田・吉田・千福。
石橋義忠 (*~*1573)尾張戸田荘の領主。斯波一門。斯波義統の臣。1561年織田信長に追われる。伊勢長島一向一揆に参加。

▽斯波義銀 (1540~1600)若武衛。津川義近・岩竜丸・三松軒。斯波義統の息。1553年守護代・織田信友の軍勢により清洲城を追われる。織田信長の保護を受ける。1556吉良義昭と同盟。1557~1561年間に三河の足利一門の石橋氏、吉良氏と結び信長と敵対。敗北し伊勢、河内など畿内を流浪。1600年に死去。<1553年から1561年の今川義元の脅威があるうちは、尾張国主として織田信長に擁立されていたのではないでしょうか。1556年の三河出陣は斯波義銀が尾張国主として、三河守護の吉良義昭に会いに行ったのでしょう。1557~1561間に追放され信長の下克上の犠牲者です。>

▽津川義冬 (1545~1584)斯波・玄蕃允・近治。義統の息。北畠具教の娘婿。牧長義に代わり、津川義長の跡職を継承する。北畠信雄の家老。松ケ島城主。

⇔▽毛利秀頼 (*)斯波。義統の息。毛利秀高に養育される。織田信長の赤幌衆を経て、織田信忠の家老。<兄・義銀と仲がわるかったのでしょうか。よく信長の馬廻衆として我慢して再出発したものだなと思います。>

⇔佐脇* (*~*1556)藤右衛門・藤左衛門。斯波義統の臣。前田利昌五男・佐脇良之(赤幌衆)の養父。1556年に織田信広の挙兵に際し、清洲城にて信広に害された。<公記では在命する様です。、信広の謀反の年代が相違するのかもしれませんね。><桑名衆に佐脇氏あり。>

<斯波家譜代家老> <簗田・森・柴田家が生き残り?><尾張武将の「勝」字の乱発は誰から始まるのでしょう・・。>

那古野* (*~1542)名古屋・弥五郎・(勝泰?)。清洲衆。斯波義統の臣。織田信秀に従い、今川家との「小豆坂の合戦」に討死。<今川氏豊を養子に迎えたという那古屋今川氏とは関係なしか。>

▽那古屋* (*~*1552)弥五郎。清洲衆。斯波義統の臣。父の死により家督。1552年簗田出羽守とともに織田信長に通じ、織田大和守を排斥する計画。<簗田と懇意。同心衆。>

簗田* (*)弥次右衛門。清洲衆。1552年那古屋弥五郎とともに織田信長に通じ、織田大和守を排斥する運動。<本能寺以降も在命の様子。出羽守とは別人のようです。>

簗田* (*~*1573)出羽守・斯波義統の臣。九坪城主。1560年「桶狭間の合戦」に軍功。のち沓掛城主。別喜広正の父。<那古屋と懇意。同心衆。>

森 * (*~1553)刑部丞。清洲衆。斯波義統の側近。兄弟で表口にて防戦し討死。<斯波家臣・森一族です。森可成との関係が気になるところです。秀吉中国軍の森一門か。のちに朝鮮派兵で可成子孫と別系統の森家が旗頭に抜擢されたのが不思議でしたが、何か特別な血と考えれば・・・。>

柘植宗花 (*~1553)清洲衆。斯波義統の側近。裏口にて防戦し討死。<伊勢からの流れ者でしょうか。>

⇔由宇喜一 (*)清洲衆。斯波義統の家人。1555年斯波義統の仇討ちに、柴田勝家に従軍。清洲城下で「安食の合戦(中市場合戦)」織田三位を討ち取る功名。<結城?かと思ったら由宇という姓らしいです。>

《個人的感想》 尾張と美濃を股にかける気になる人物。
⇔堀田正純 (*~1510)津島天王社社家。尾張津島の豪族。斯波家重臣。息に正貞(正定)。

⇔▽堀田道空 (*)尾張津島の豪族。斎藤道三秀龍の側近。道三の女婿・織田信長とも親交がある。

⇔柴田* (*~1553*1556)角内。斯波「武衛」屋形の表口にて戦闘に参加。首二つ取る武功。<柴田一族カ?> 公記の記事で角内が守護斯波家の臣か守護代織田家の臣か、どっちの所属を指してるのか自分が読むぶんには判りかねます。太田牛一さんは何あみさんから柘植宗花さんまで散っていった斯波侍のことをずっと記しているような気がするんですが。

 「頸は、柴田角内二つとるなり」、「柴田角内」は清洲守護代の織田信友の配下として(森兄弟の)首二つ取ると」現代語訳されているのですが、一人で森兄弟を斬ったのでしょうか? たくさん清洲衆がいるなかで、ひとりで森兄弟2人の首を取るってありえないような・・・。斯波家から離反して寝返ったなどでしょうか。
 直後の弔い合戦(織田信行<信勝>の意思で軍を派遣したのか?)に、柴田権六が清洲城攻撃の総大将に抜擢されていることも気になります。
 その後の清洲衆の合戦に、清洲方侍大将として「柴田角内」の名前は出場してこないです・・。1555年清洲大和守・織田家が滅びます。
1555~56年斎藤道三と息子・義龍との争いに、今度は美濃侍・柴田角内がでてきます(何故、美濃に?)。
「長良川の合戦」に「一騎打ち」をする斎藤道三方の侍大将に柴田角内があり。信友家臣が何故に道三の家臣に・・。これは、親子か養子で名乗りが同じの何かでしょうか。親子二代で「角内」と名乗っているのか・・。
 もし、1554年7月の尾張守護・斯波武衛家への下克上に、清洲大和守家へ「道三からの援軍として柴田角内が参陣していた」ということになると、斎藤道三が清洲の織田信友を裏で支援をしていたということになりますし・・。
 斯波家の混乱には、美濃からの横槍とか、いろんな要素(昔の斎藤家と岩倉織田家の同盟関係・・)が含まれてるかもしれませんね。
 もしも、なんですけど柴田はもともと斯波の家臣で、斯波家滅亡の際に清洲方の武将を二人切って美濃に脱出したとか。
 それとも大和守・清洲衆が、信光・信長の攻撃による滅亡後に、柴田角内のように美濃斎藤家に流れるパターンがあるのか・・・。

≪個人的感想≫ 斯波家の家老に、森・柴田があり、柴田の離反で、武衛がうたれたとすれば、
 柴田が斯波に縁がある家老筋の血統とすれば、斯波家の森・柴田の両家老を意識して、信長様の清洲占領後は、自分の家臣団でも森・柴田をひきたてて、斯波家臣団をコピーしていたらおもしろいのにな、と・・。
 あと、清洲の守護代家からは坂井・川尻の両家老を意識して取立てて、斯波・清洲織田を「天道」により両方継承したと内外にアピールしていたとか、名門を利用する信長の情報操作戦があるかもしれません。

「尾張半国、当方(今川)分国。」斯波義達の敗戦により今川那古屋家の支配。

北尾張守護代(岩倉)織田伊勢守家 (1479年以降)北部四郡を支配、丹羽・羽栗・中島・春日井の上四郡と呼ばれる地域。
岩倉伊勢守家 歴代当主 斯波義達の遠江遠征に従わず。1556年から本格的に信長(弾正忠家)に対抗。

織田敏広 (*~1481)伊勢守・兵庫助。1467年「応仁の乱」に斯波義廉を擁立し西軍。斎藤妙純と結び威勢を張る。岩倉城主。弟に犬山城主・織田広成(広近とも)。養子に寛広。<広成・広近親子とするものもあります。><斎藤龍興は斎藤妙純の義父・斎藤妙椿の政治力を理想として頑張っていたんじゃないでしょうか。>

(岩倉織田家譜代家臣)
山内* (*)岩倉織田家譜代家臣。
前野* (*)岩倉織田家譜代家臣。
高田* (*)岩倉織田家譜代家臣。
堀尾* (*)岩倉織田家譜代家臣。
下方* (*)岩倉織田家譜代家臣。

織田寛広 (*)伊勢守・兵庫助。織田敏広の養子。実父は敏広・弟(甥とも)の犬山・織田広近。1481年家督相続。斯波義寛の「寛」を与えられる。1481年織田敏定と和議。1487年足利義尚、斯波義寛の近江出陣に従う。1490年足利義材(義稙)、斯波義寛の近江出陣に従う。1493年「明応の政変」にて新将軍に足利義澄就任。義寛の降伏。1495年美濃守護代・斎藤妙純に属し大和守家(寛定、寛村兄弟)と抗争。弟に織田寛近(武永)。<美濃・斎藤氏との縁で、林(稲葉)家が付家老として尾張移住か。>

織田寛近 (*)津田・与十郎・遠江守・(武永)。岩倉方織田家。伊勢守家分流。犬山・織田広近の息。兄に伊勢守・寛広。織田信秀に従い「美濃乱入」。弟に広忠。娘婿に岡田時常。小久地(小口)城主。<津田姓ということで臣下に降るか。武永=「武長」とは記さないのでしょうか・・。信長の「長」は何処から・・。>

織田広遠 (*)紀伊守。織田敏広の息。伊勢守家家臣。1495年寛広に従い美濃遠征。

織田広高 (*)伊勢守。織田敏広の息。織田寛広の跡職。備後守家から養子・信安を迎える。従兄弟に広遠。<1516年斯波義達の遠征には従わず?><寛広、寛近兄弟の末弟、広忠という人物が継承したと考えたほうが自然な気がしますが。広高=広忠なのでは?>

←1513年 遠江出兵で斯波義達の専制政治。在地の織田家一掃か。<大和守家一族の敏信が登用されるか。>
←1517年 遠江出兵で斯波義達の敗戦。<今川氏豊により在地の織田家一掃か。敏信を追って信安を据えるか。>

織田信安 (*~1591)(岩倉)・七兵衛・伊勢守。尾張国上四郡守護代。織田備後守・敏信(*~1495*1517)の息。広高の養子。弟に大和守・達勝(定信)。第四代・岩倉城主。信秀弟の犬山・織田信康が後見人。1542年隣国美濃の土岐頼芸が斎藤道三に追放される。1543年清洲織田大和守死去。1544年8月織田信秀、土岐頼芸を擁立し美濃乱入に敗退。犬山の織田信清と対立。1554年守護・斯波義統が清洲織田信友に殺害される。1556年息・織田信賢に追放される。美濃白金に隠居。信長と当時並び称される「うつけ殿」。

山内盛豊 (*~1558)尾張上四郡守護、岩倉織田家家老。1549年尾張黒田神社に鰐口を寄進。息に一豊。

高田広知 (*)尾張上四郡守護、岩倉織田家家老。

高田* (*)左京進。尾張上四郡守護、岩倉織田家家老。

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