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天下布武その3 織田信長率いる本隊の旗元(旗本)馬廻衆、親衛隊:赤幌衆・黒幌衆

信長直属の初期馬廻衆

 尾張那古屋(1551~1555)・清州(1556~1560) 時代の馬廻
<弾正忠家の拠点・勝幡城が地理的に伊勢よりにあり、意外に昔から織田家勢力が北伊勢や南近江へも伸張していた可能性も・・。>

荒川* (*~1552)与十郎。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。信長に従い山口氏の反乱鎮圧に出陣。1552年「赤塚の合戦」に戦死。

荒川* (*)喜右衛門。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。信長に従い山口氏の反乱鎮圧に出陣。

蜂屋* (*)般若介。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。信長に従い山口氏の反乱鎮圧に出陣。

長谷川* (*)橋介。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。信長に従い山口氏の反乱鎮圧に出陣。

内藤* (*)勝介。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。信長に従い山口氏の反乱鎮圧に出陣。

青山* (*)藤六。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。信長に従い山口氏の反乱鎮圧に出陣。

戸田* (*)宗二郎。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。信長に従い山口氏の反乱鎮圧に出陣。

賀藤* (*)助丞。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。信長に従い山口氏の反乱鎮圧に出陣。

赤川* (*)平七。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。山口家の捕虜となる人質交換で戻る。

安孫子* (*)右京亮。織田信長家臣。尾張衆。柴田勝家に従う御先手足軽衆(信行の末盛衆?)。「中市場の合戦」に坂井・川尻の清州軍を破る。信長馬廻衆。那古屋衆。

藤江* (*)九蔵。織田信長家臣。尾張衆。柴田勝家に従う御先手足軽衆(信行の末盛衆?)。「中市場の合戦」に坂井・川尻の清州軍を破る。信長馬廻衆。那古屋衆。

太田* (*)牛一。織田信長家臣。尾張衆。柴田勝家に従う御先手足軽衆(信行の末盛衆?)。「中市場の合戦」に坂井・川尻の清州軍を破る。信長馬廻衆。那古屋衆。

芝崎* (*)孫三。織田信長家臣。尾張衆。柴田勝家に従う御先手足軽衆(信行の末盛衆?)。「中市場の合戦」に坂井・川尻の清州軍を破る。信長馬廻衆。那古屋衆。

山田* (*)七郎五郎。織田信長家臣。尾張衆。柴田勝家に従う御先手足軽衆(信行の末盛衆?)。「中市場の合戦」に坂井・川尻の清州軍を破る。信長馬廻衆。那古屋衆。

⇔木村重章 (*)源五。柴田勝家に従う御先手足軽衆(信行の末盛衆?)。「中市場の合戦」に坂井・川尻の清州軍を破る。<近江からの援軍か?>

飯尾尚清 (*)茂助・讃岐守。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。

津田* (*)左馬丞。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。

高畠* (*)三右衛門。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋・清州衆。1556年「稲生の合戦」に軍功。織田信行軍と戦う。

木全* (*)六郎三郎。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋・清州衆。1556年「稲生の合戦」に軍功。織田信行軍と戦う。

松浦* (*)亀介。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋・清州衆。1556年「稲生の合戦」に軍功。織田信行軍と戦う。

杉* (*)左衛門。元・織田勝左衛門家臣、中間。のち軍功により織田信長直属家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。1556年「稲生の合戦」に軍功。織田信行軍と戦う。

祝* (*)弥三郎。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋・清州衆。

佐脇良之 (*)前田。信長小姓。1558年「浮野の合戦」に林弥七郎に止め。

青貝* (*)尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。1557年織田信行を討つ。

川尻秀隆 (*)尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。1557年織田信行を討つ。

山口* (*~1556)取手介。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。斎藤道三救出戦に美濃軍に討たれる。

土方* (*~1556)彦三郎。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。斎藤道三救出戦に美濃軍に討たれる。

山田* (*~1556)治部左衛門。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。織田信行軍と戦う。1556年「稲生の合戦」に戦死。

<城主・大将格>
飯尾定宗 (*)近江。織田信長家臣。尾張衆。織田信行軍と戦う。

佐久間* (*)大学助。織田信長家臣。織田信行軍と戦う。

佐々* (*)孫介。織田信行軍と戦う。

中條* (*)小一郎。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。織田信行軍と戦う。

毛利* (*)十郎。織田信長家臣。尾張衆。御先手足軽衆。信長馬廻衆。那古屋衆。織田信行軍と戦う。

森可成 (*)織田信長家臣。1556年「稲生の合戦」に軍功。織田信行軍と戦う。斎藤道三救出戦に美濃軍と戦い負傷。

織田* (*)勝左衛門。織田信長家臣。1556年「稲生の合戦」に軍功。織田信行軍と戦う。

織田信房 (*)造酒丞。織田信行軍と戦う。

瀧川一益 (*)織田信長家臣。織田信行軍と戦う。津島天王祭興行者。

浅井* (*)備中守。織田信長家臣。織田信行軍と戦う。津島天王祭興行者。

平手* (*)内膳。織田信長家臣。織田信行軍と戦う。津島天王祭興行者。

市橋利尚 (*)伝左衛門。織田信長家臣。織田信行軍と戦う。津島天王祭興行者。

伊藤* (*)夫兵衛・武兵衛。尾張衆。信長馬廻衆。津島天王祭興行者。
前野長康 (*)尾張衆。信長馬廻衆。津島天王祭興行者。

佐脇* (*)藤右衛門。清州城留守居。

大森* (*~1559*)平右衛門。春日井郡大森の豪族。1552年信長の命で知多郡の商人の往来を監視。

<六人衆>1556~

浅野長勝 (*)織田信長家臣。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。弓衆頭。

堀田* (*)孫七。織田信長家臣。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。弓衆頭。

↑太田* (*)牛一。織田信長家臣。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。弓衆頭。

伊藤* (*)清蔵。織田信長家臣。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。槍衆頭。

城戸* (*)小左衛門。織田信長家臣。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。槍衆頭。

堀田* (*)佐内。織田信長家臣。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。槍衆頭。

<鉄砲師匠>1556~1558

橋本一巴 (*~1558)尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。信長の鉄砲顧問・師匠。岩倉城攻略に従軍。1558年「浮野の合戦」に軍功。岩倉の弓名人・林弥七郎と一騎打ち。戦死。

平田三位 (*)尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。信長の兵法顧問。

市川* (*)大介。尾張衆。信長馬廻衆。清州衆。弓の師匠。信長に召し寄せられた。

<黒幌(黒母衣)衆>くろほろ

凡例 ⇔ 他ページにも登場。
「当代記」1567(永禄12)年頃に黒・赤あわせて20名(10名+10名で欠員がでた際の補充で追加メンハ゛ー増)。
<メンバーは小領主的な土豪で、寄騎(単騎の侍)を従える、馬廻衆隊長格から選抜されているようです。>
赤幌よりやや上の世代の経験値を積んだ実戦派が多いと思われます(1535年以前の生まれか、信長と同年代くらいの世代かと)。谷口克弘氏の「信長と織田軍団」によれば『高木文書』「渥美~」に掲載されることから1559(永禄2)年頃に赤10名・黒10名とあるので、1559~1567年間にメンバーの入れ替えを行いつつ存続した親衛隊かと思われます。
 最初は黒は馬廻り、赤は小姓から選抜されたのが、後半は戸田勝成に前田利家の言うように武功の20人から「くじ引き」で赤か黒となったのかもしれません。渥美氏が「公記」などに公式に名前が残らない理由は、1573年に戦死した明智光秀与力の人物に関連することかもしれませんね。

⇔↑① 川尻秀隆 /kawajiri,hidetaka(*1527~1582)河尻秀隆・与兵衛・肥前守・鎮吉・重遠。愛知郡岩崎村出身。親重の息。織田一門とも。母は織田信敏(秀敏の誤?)の娘。甥に毛利長秀。16歳で織田信秀に従い1542年「小豆坂の合戦」に武功あり。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌筆頭のエース)。池田恒興とともに織田信忠の後見人。1558年信長の命で織田信勝を成敗。1560年「桶狭間」従軍。「堂洞城攻囲」に従軍。1564年美濃「猿啄城攻略」に丹羽長秀とともに軍功。1564年「堂洞城攻略」に一番槍。1569年対北畠氏の「伊勢侵攻」に従軍。1570年「姉川合戦」に従軍。1574年池田恒興とともに東美濃「明智城救援」に出動。「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。1575年「岩村城攻略」に軍功。11月岩村城主として武田家に備える。1582年2月「甲斐乱入」に軍功。甲斐守護、府中城主。関東方面軍副将。<16歳初陣「小豆坂」が第一次(1542)か二次(1548)かで年齢が変わって来るんでしょう。><清洲・織田大和守家の家臣の名門・河尻(左馬丞家)を継承。信忠軍団に配属。肥前守は息子・秀長も名乗っている。><織田信忠の軍団 信忠主力軍その2 川尻秀隆の軍団 ⇔織田信長の六大軍団長と近衛軍のページも参照して下さい。>

② 中川重政 /nakagawa,sigemasa(*~*1582)織田忠政・中河・八郎右(左)衛門・駿河守・入道土玄。織田一族。中川治部左衛門・伊治の養子。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー2)。南近江安土城主。「勇武倫を絶す」と伝わる。1568年入洛後、京都の諸政を木下秀吉・明智光秀・丹羽長秀と分担する。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年近江安土城主。1572年に柴田勝家と領地争いがあり、弟が・信重(入道盛月)代官を切り改易。家康に仕えるという。「見方ヶ原の合戦」に参加。以後消息不明。<織田越前守の候補のひとり><本能寺の変後、吉田兼和(兼見)をゆすりに京都にあらわれたとか・・。><斯波家家老の那古屋氏と縁が深い簗田家とも関係有か。中川重政の娘婿となった那古屋高久の息子は織田九右衛門(那古屋山三郎)と名乗ります。>

③ 佐々成政 /saxtusa,narimasa(1535*1539~1588)内蔵助・陸奥守。本拠地は南尾張清洲の東方の春日郡・比良城城主。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー3)。1561年美濃「十四条の夜合戦」に池田恒興とともに軍功。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年浅井長政との合戦に簗田広正・中条家忠とともに殿軍を勤める軍功。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。越前府中三人衆として、小丸城城主。1577年9月「手取川の合戦」に敗北。1578年「荒木征伐」に従軍、攝津に半年ほど在番。1580年9月越中に乱入。北陸方面軍目付。越中守護。息に松千代。<のちに柴田軍団に配属。黒幌衆筆頭としては年齢が若すぎる。兄二人の事績が混同されるか?。佐々成政の母は余語氏の娘であることから、余語家を通じて坂井政尚とは縁戚。><母は堀場氏出身とも。><『武功夜話』では佐々・簗田・中条は春日井衆で一括される。>
⇔▽矢島* (*)五郎右衛門。佐々成政家臣。<矢島六人衆の四郎右衛門と一族か?。>

④ 津田信重 /tuda,nobusige(*~1593)織田・左馬允・隼人正・四郎左衛門・盛月。中川重政の弟。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー4(兄弟で②と④を持つ))。1568年足利義昭の護衛として本圀寺で三好三人衆と戦う。1570年柴田勝家と領地争いがあり、代官を切り逐電。後、羽柴秀吉に仕える。息に信任。<羽柴軍団に配属(信長様の許しを得ず、かってに仕官とも)。惟任軍の那波、斉藤利三と同じような立場です。前田利家のような、再仕官の為の、いわゆる「陣借り」だったのでしょうか。>

⑤ 毛利秀高 /mouri,hidetaka(*~1582)毛利良勝・新助・(十郎?)・新左衛門。毛利秀頼を養育。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー5)。1560年「桶狭間」に今川義元を討つ。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1579年大和国薬師寺の代官。1582年3月の「甲州乱入」に従軍。信忠側近。1582年6月二条御所で討死。<毛利十郎と同一人物らしい。今川義元を討ち取った、幸運の武将。織田家に福をよびます。信忠軍団に配属。>

⇔↓⑥ 平井長康 /hirai,nagayasu(*~1582)平出・久右衛門・久左衛門。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー6)。のち信長直属の「弓衆」の隊長。清洲同盟後の三河西加茂郡侵攻で武功。<最後まで一番そばにいた黒幌衆ですね。詳しくは織田信長の近衛軍のページを参照してください。>
⇔平手* (*)久左衛門。<平井久左衛門が誤りか?>

⑦ 伊東 * /itou,*(*~1569)武兵衛。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー7)。坂井迫道という人物を殺め逐電し今川家に仕える。徳川家康との掛川城の攻防で戦没。尾張の祭りで弁慶役を務める。<弟の伊東長久は赤幌衆から、のち中国方面の羽柴秀吉の与力。>

 水野忠光 /mizuno,tadamitu(*)帯刀左衛門・<忠広カ>。三河出身。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー8)。<水野忠広は1560年「桶狭間の合戦」に丹下砦を守備する。>1561年「軽海の合戦」に従軍。以後消息不明。<事績が伝わらないのは、水野信元がらみでしょうか、それとも「本能寺の変」で明智に協力した水野直盛の関係でしょうか(小笠原長忠の様に謀反人として事績抹消とか)。水野家は複雑です。それとも1582年「本能寺の変」にて討死を遂げる水野九蔵はこの方の血脈でしょうか。家系断絶で事績が伝わらないのか。>

⑨ 松岡高光 /matuoka,takamitu (*)九郎次郎・九郎二郎。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー9)。1561年「軽海の合戦」に従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。変後は秀吉に出仕。1584年淀城留守居役。<津田宗及の茶会によく招待される。>

⇔↓⑩ 生駒 * /ikoma,*(*)(土田)・勝介・勝助・正之助・庄之助。生駒摂津守・久通の息。生駒親重(親正の父)の甥。元・犬山織田信清の家臣。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー10)。「浮野の合戦」に武功。信長に仕官。黒幌衆に選抜される。1569年伊勢北畠氏攻略に「大河内城攻囲」尺限廻番衆に選抜。以降経歴不明。<生駒家長・親正の従兄弟ということになります・・。><同じ尺限廻番衆に生駒平左衛門が併記される。下記の廻番衆を参照してください。>
(のち伊東は逐電、中川・津田兄弟失脚。)

⑪ 蜂屋頼隆 /hachiya,yoritaka(*1534~1589)(土岐・般若ノ介?)・兵庫頭・出羽守。和泉守護。美濃出身・金森長近と同郷。丹羽長秀の妹婿。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(補充・追加のメンバー)。<1556年美濃蜂屋氏は道三側に属したため義龍軍に討伐される。>1568年「上洛戦」に従軍。入洛後は柴田勝家・森可成・坂井政尚と諸政を分担する。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1572年信忠初陣「江北出兵」に従軍。1573年「足利義昭追放」に従軍。1573年朝倉・浅井征伐に従軍。1573年「北伊勢一揆攻略」に従軍。1575年「越前一向一揆平定」に従軍。1576年「石山本願寺攻囲」に従軍。1577年近江肥田城主。1577年「紀伊雑賀攻略」に従軍。1578年4月「本願寺攻囲」に従軍、5月「尼子救援・別所征伐」に従軍。1578年10月「荒木征伐」に従軍。四国方面軍目付。のち秀吉に出仕し敦賀支配。<三好・惟住軍団に配属。「般若ノ介」って名乗りはいいセンスです。中川重政さんの跡職(近江肥田)、佐久間信盛さんの跡職(紀伊方面)と追放された方々の「穴埋め」を堅実に勤めながら出世していきます。丹羽長秀の妹婿・大津長昌(~1579)戦死後、遺された長昌室の婿に迎えられ、丹羽一門として南海方面軍で四国に渡るようです。「代役人生」まっしぐら。リリーフかピンチヒッターの貴重な人材です。><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。>

⑫ 野々村正成 /nonomura,masanari(*~1582)三十郎。美濃出身。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(補充・追加のメンバー)(『武家事記』では赤の8番)。1561年「軽海の合戦」に斎藤側として参陣し、織田信益を討取る。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。信長側近ののち信忠側近か。1582年「本能寺の変」に二条御所で討死。<紀州雑賀攻略で軍事指揮。堀秀政さんとともに一方の旗頭の地位にあるようです。根来襲撃で輝きをはなちます。川尻秀隆や毛利秀頼が地方領主として信忠の傍から離れて以降の補佐役として、信長様から付属されたのでしょうか。><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。同時代人の野々村三十郎・正幸と事績がよく混同されます。>

⑬ 中島 * /nakajima,*(*)主水正。犬山衆。織田信清の家臣。堀秀重(1532~1606)の娘婿。堀秀政の義兄弟。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(補充・追加のメンバー)。1557年織田信清とともに信長方として出陣、岩倉衆と「浮野の合戦」に軍功。犬山落城により織田信長直属か。<元・陪臣ですが、武勇にきこえていたので、特別枠とかでしょうか。意外に若手。中島豊後守や中島勝太の一門でしょう。><1573年近江志賀郡堅田攻めに明智光秀の一手で戦死する中嶋あり。>

≪個人的感想≫ 佐々成政の生没年が黒幌衆にしては、遅生まれ過ぎて、まして筆頭なんて怪しいのではないかと。兄達が桶狭間などで立て続けに戦死するので、黒幌が兄からどんどん継承されて成政でおちついてるのかなあと思っています。飯尾家や下方家の場合もそうなんじゃないかと・・。
 黒幌は一騎駆けの武士ではなく、家臣団(寄騎)を持つ小身(小名)の隊長格のから選抜されているので、隊長(当主・寄親)が死んだ場合は家督を継いだその一門の子弟が(よっぽど武辺不甲斐無い者でなければ)許されて相伝の母衣を受け継いだのではないのでしょうか。人物を認めるというよりは、その武士団の一党の代表として評価がされて黒幌なのではないでしょうか。
  蜂屋・野々村は欠員(出奔・戦死)がでた時に追加されたメンバーです。
尾張衆の失脚により元美濃衆にもチャンスが与えれれる効果でしょうか。
 黒幌衆、赤幌衆のその後の配置を見ていくと、各軍団長の与力(監視役の目付け)として、均等に配分されていってるような気がします。羽柴秀吉のもとにも木下(中川重政の弟)・伊東は信長様の意向で配置されてるのではないでしょうか。
 明智(惟任)光秀の軍団にも目付けとして、黒か赤の内から絶対に誰かが派遣されていたと推測されます。
この後の 水野、生駒、松岡、中島の配属先が気になります。
*1559年2月に信長 初上洛。『言継卿記』には「(信長家臣)異形の者多し」と記される。

(黒幌衆の関係者)


⇔↑生駒家長 /ikoma,ienaga(*~1607)八右衛門。尾張の丹羽郡小折村の豪商・生駒家宗の息。生駒親重(親正の父)の甥。炭・油の商いを家業とす。信長が妹婿。信長正室の兄。はじめ犬山城主織田信清の被官。1558年「浮野の合戦」に従軍。1561年「森部合戦」に殊勲。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍<尺限廻番衆に生駒勝介あり。>。1570年朝倉攻めに負傷、「姉川合戦」に参戦。のち北畠信雄の後見人。伊勢長島城主。<元祖・黒幌保有者か?別名、勝介・正之助だったりしないのでしょうか?。><近江で刺客に狙われたとき信長様の楯となり負傷するほど傍にいたということで、黒幌のひとりだったのではないかと推測してみました(妄想です)。><それと生駒一門では、信長様に何かの理由で勘当され、瀧川一益与力(武功を挙げて赦免されるための陣借り?)となり戦死する生駒将監も気になる人物です。>

⇔↑ 飯尾定宗 /ikoma,sadamune(*~1560)(織田定宗)・近江守。織田信秀の従兄弟(または叔父)。飯尾家に養子。尾張国奥田城主。馬廻衆として重きをなす。子息・信宗(尚清)は信長赤幌衆のひとり。尾張の祭りで弁慶役を務める。1556年6月守山城攻略に従軍。1560年5月今川家に備え鷲津砦を守備。尾張国中島郡。娘婿に柴田勝家。<幕府奉公衆飯尾氏一門か?。今川氏に従って尾張那古屋今川氏の与力だったか?><元祖・黒幌保有者か?><柴田・飯尾・長谷川ネットワーク。柴田勝家との関係は未確認情報です。>

⇔↑佐々成吉 /saxtusa,nariyosi(*1525~1560)佐々政次・隼人正・下野守・長盛。元は尾張北守護代(岩倉)家の家臣。佐々盛政の息、佐々成政の兄。織田信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功、1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍の一人。1560年「桶狭間の合戦」に信長本軍の別働隊として、千秋季忠とともに討死。娘婿に松原直元。<元祖・黒幌保有者か?><この人の死後、佐々家離反の噂がたったようです。あいついで一門に戦死者がでるのに不遇だったからかなあ・・。風評は敵の離間策かもですけど。><佐々成政家臣の松原直元(政次の娘婿)と濃い縁戚関係です。>

⇔↑佐々成経 /saxtusa,naritune(*1527~1556)佐々・孫介・盛種。佐々成政の兄。織田信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功、1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍の一人。矢島六人衆のひとり。1556年織田信勝と信長の跡継ぎ争い「稲生の合戦」に信長側で柴田勝家勢と戦い討死。<元祖・黒幌保有者か?>

⇔×▽水野信政 /mizuno,nobumasa(*~1575)藤四郎・十郎左衛門・信正。水野信元の長男(惣領・水野信近の息を養子とするか)。織田信長家臣。水野家惣領・刈谷水野信近の跡職を継承。1570年上洛。1575年父の罪に連座し自害。<1560年「桶狭間の合戦」時に水野氏の動向が気になります。岡部が退却時に刈谷を襲撃して落としたのは何故。義元本隊の位置を連絡していたのは・・。><信長様の勘気により、武功、事績の消される武将です。水野家でも恨みが募っての「本能寺の変」の怪しい動きなのでしょうか。><馬廻りとして信長に近い忠重が惣領を継ぐという、前田利家の家督相続と同じような状況が作り出されたか。>

信長馬廻衆は、槍は三間(5.5m)と三間半(6.4m)タイプを標準装備。


<赤幌(赤母衣)衆>あかほろ

「当代記」1567年頃に黒・赤20名(10名+10名で欠員がでた際の補充で追加メンハ゛ー増)。
側近や小姓衆から選抜されている。(*=生没年が疑わしい)<メンバーは一騎掛けの側近から選ばれているようです。>
(従来の金森長近の年齢に違和感があります誤りではないでしょうか)。
信長のお気に入り弟分達という感じでしょう(1535~1545年生まれくらいが主と考えられます)。

① 前田利家 /maeda,tosiie(1537*1538~1599)(菅原)・犬千代・孫四郎・又左衛門・加賀大納言。尾張海東郡の豪族、荒子城主、前田利昌の四男。幼年から小姓として信長に出仕。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり(赤のエース・筆頭)。(『武家事記』では赤の2番)1552年「萱津の合戦」に軍功。一時信長の元から出奔。1560年「桶狭間の合戦」、「森部の合戦」に軍功を挙げ帰参。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1573年朝倉・浅井征伐に従軍。1573年「伊勢一揆征伐」に従軍。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。のち越前府中三人衆。能登守護。1577年9月「手取川の合戦」に敗北。1578年「荒木征伐」に従軍、半年間攝津に在陣。1581年「能登平定」に従軍、飯山城番。のち能登国拝領。畠山家家老・長連龍を与力とする。北陸方面軍目付。<柴田軍団に配属。柴田、羽柴の橋渡し役。>

② 浅井政澄 /asai,masazumi(*~1580*1581)新八郎・政貞・信広。中島郡苅安賀の豪族。毛利秀頼(長秀)の妹婿。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。1568年京都上洛に従軍、7月「箕作城攻略」に軍功。「小谷城攻囲」、「長島一揆征伐」に従軍。のちに織田信忠の直臣。1578年信忠に従い播磨三木表に出陣。子息・田宮丸(苅安賀長時)は北畠信雄の家老。<信忠軍団に配属。熱田・浅井備中守の一門でしょうか、尾張の津島の祭りで黒鬼役を浅井備中守の家来衆が勤めている(平手内膳の家来衆が赤鬼)。「稲生の合戦」に武功。備中守の娘婿は千秋季信)。><浅井政高が木全征詮を破り家臣に加え、息・木全忠澄は浅井政澄の家臣。のち木全忠澄が瀧川氏の家老となるのは浅井家が何かの理由で没落したためか。>

③ 木下嘉俊 /kinosita,yositosi(*~1584)(織田嘉俊)・津田・雅楽助・周防守・薩摩守。中川重政・津田盛月の弟。1560年「桶狭間」、「森部の合戦」に従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1572年重政失脚に連座か。のち羽柴秀吉に出仕。<羽柴軍団に配属。1581年馬揃えの一門衆に織田周防守。赦免されていたのか・・・。木下姓は誰から継承したのか気になるところです。堀秀政さんとともに中国親征の先陣として派遣された中国陣にあり、「本能寺の変」から秀吉さんと行動をともにし次第に臣下として組み込まれたのでしょうか。後世に最初から秀吉家臣と誤解されたとか。>
 中国方面軍<木下・伊東は、前田・佐々のように中国地方方面軍の軍監か?>

④ 伊東長久 /itou,nagahisa(*~1585)(堀江長久)・清蔵・七蔵・祐之。今川家に出奔した黒幌・伊東武兵衛の弟。信長の『槍三本』のひとり。ある時、兜なく編笠で戦闘にのぞみ「編笠清蔵」の異名あり。1570年「小谷城攻囲」に軍功。1573年「小谷攻略」にも軍功。のちに秀吉の旗奉行となる。<羽柴軍団に配属。>

 岩室重休 /iwamuro,sigeyasu(*~1561*1562)(東加藤)・長門守。信長に寵用される。1560年「桶狭間の合戦」に従った五小姓のひとり。1562年織田信清の支城、中島豊後守の「小口城攻撃」に討死。子息に岩室小十蔵がいる。<桶狭間に従った五小姓はみんな、後の戦いで戦死してます~。凄まじきかな。><信秀の側室が岩室殿とよばれるそうです。関係ありでしょうか。尾張熱田と縁があったのでしょう。>

⑥ 山口 * /yamaguchi,*(*~1572)飛騨守。1560年「桶狭間の合戦」に従った五小姓のひとり。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。長谷川橋介・佐脇良之・加藤弥三郎とともに信長から追放され、家康に仕える<永禄末年頃、赤川景弘(坂井)事件に連座したものか>。「三方ヶ原の合戦」で討死。<尾張に勢力を張り、鳴海城を守備した山口教継の一族カ>

⑦ 佐脇良之 /sawaki,yosiyuki(*~1572)藤八・藤八郎・利之。荒子城主・前田利昌の五男。前田利家の弟。清洲衆・佐脇藤右衛門の養子。1557年7月「浮野の合戦」に岩倉衆の旗頭・林弥一郎を倒す武功。1560年「桶狭間の合戦」に従った五小姓のひとり。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。その後、長谷川橋介・山口飛騨・加藤弥三郎とともに信長から追放され、家康に仕える<永禄末年頃、赤川景弘(坂井)事件に連座したものか>。「三方ヶ原の合戦」で討死。<佐脇家は清洲衆でも名門らしいです。前田家の本拠地は南尾張の沿岸部「荒子城」。一族からは、のちに歌舞伎者で有名な前田慶次も輩出されます。>

⑧ 毛利秀頼 /mouri,hideyori(*1541~1593)(斯波秀頼)・河内守・長秀。斯波一族。尾張守護・斯波義統の息。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり(『武家事記』では赤の7番)。1554年清洲城主・織田彦五郎の斯波氏攻撃の際に、毛利十郎(新助)に助けられ成人するという。川尻秀隆の甥とも。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年9月「本願寺戦」にて敵将を討取る。信忠直臣となる。1575年「岩村城攻略」に従軍。石山本願寺戦に武功。織田信忠の「甲州乱入」に従い、南信濃守護・伊奈一郡を与えられる。関東方面軍目付。信濃飯田城主。妹婿に浅井政澄。<織田信忠軍団に配属。><斯波家の系譜である毛利秀頼にとって、川尻秀隆が叔父という事は、清州織田家の侍大将・河尻氏と秀隆は、やはり一族という事か。>

⇔↑⑨ 飯尾尚清 /iio,naokiyo(*1528~1591)(織田)・茂助・隠岐守・出羽守・信宗。尾張豪族。柴田勝家とは義理の兄弟。長谷川秀一は娘婿。父・定宗は桶狭間に戦死。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の3番)。1555年織田信次の守山城攻囲に従軍。1574年伊勢「一向一揆征伐」に従軍。1577年4月大坂城の付城構築の奉行。1578年4月播磨三木城の付城普請奉行。64歳。<小姓から選抜された赤幌衆としては高齢すぎ、生年に疑問あり。山口教吉と同じく信長と同世代くらいでは?><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。>

⑩ 長谷川 * /hasegawa,*(*~1572)橋介・右近・好秀。長谷川丹波守(嘉竹)の弟。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。1560年「桶狭間の合戦」に信長の五小姓として従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。その後、加藤弥三郎・山口飛騨・佐脇良之と共に信長から追放され、家康に仕える<永禄末年頃、赤川景弘(坂井)事件に連座したものか>。「三方ヶ原の合戦」で討死。<甥は長谷川秀一ということになります。><今川家家臣団にも長谷川氏はいますし、東海道である程度の勢力(広がり)を持つ武家なのでしょうか。>
(前田逐電、木下兄失脚に連座?、1561・2年岩室戦死、山口・佐脇・長谷川逐電。)

⇔↓⑪ 福富秀勝 (*~1582)福住・福角・平左衛門・行清・定次。愛知郡岩塚村出身。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の4番)。1561年「軽海の合戦」に従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年「越前侵攻」に従軍。1573年8月「朝倉征伐戦」に軍功。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。紀州雑賀攻撃に従軍。1578年「有岡城攻囲」に軍監。中川清秀の誘降に尽くす。近江国安土城城下の都督(警察長官)。1581年「能登平定」に従軍、富来城番。1582年「本能寺の変」に二条御所にて討死。<福住といえば伊賀の忍者の頭領の・・・(安直ですが服部半蔵的な役割でしょうか、まさかね~(笑。><川口(河口)宗勝は娘婿。>

⑫ 原田直政 (*~1576)塙・九郎左衛門・備中守・重友・正勝。柴田勝家の妹婿。直政の姉(妹?)は信長の室。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の5番)。南山城守護。大和守護。柴田勝家と縁戚。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1574年山城国守護に就任。1575年河内国「高屋城攻略」に従軍、「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。1575年大和守護兼任。1575年「越前一向一揆平定」に従軍。1576年「石山本願寺攻囲」に従軍。石山合戦で討死。<⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。織田信忠と南畿方面軍のページを参照して下さい。><光秀さんの妹が信長側室という話があるので、畿内は信長様の義理の兄弟の原田・明智の両将に懸かっていたという感じですね。><原田直政は赤幌衆の出世株でした。>

⑬ 渥美 * (*不詳)熱海・刑部丞・入道曽干。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。のち美濃の高木氏に出仕。<1596年以降に渥美入道が「黒・赤幌衆名簿」を残した。苗字から三河渥美の出身カ。三河の高木清秀系なのかもなあ~。小瀬甫庵によれば特別に信長に認められて立身出世した武将とされる高木小左衛門も気になっています。><渥美氏の姓つながりでは、1570年「姉川の合戦」に参陣した高天神城城主・小笠原長忠の与力に渥美源五郎あり、のち大須賀康高の横須賀党の与力として、数々の武勲をたてています。徳川家に赤幌・黒幌出身の軍監が派遣されていたとすれば、最前線の高天神六砦に在陣していたのではないでしょうか。渥美源五郎の親戚には青木一門があり刑部、民部と称する人物がいますが・・。武辺者の家系であることは確かです。><大河内元綱の養女「於富」の実父が青木の姓だとか。大河内繋がりで徳川家の歴史から排除されるか。><1573年近江志賀郡堅田攻めに明智光秀の一手で戦死する尾張・三河衆らしき人物あり。>

大須賀康高(千葉胤高)の軍団<大須賀康高は渥美ともに、徳川家康との距離感より、織田信長と直接の距離感が感じられるのですが・・。山陽方面での尼子党(山中鹿ノ介代表)のようなかんじで、東海道方面の横須賀党があったのでは?? 江戸時代の都合で、本来は織田家に直接つながっていた武将の経歴が消えていってるのではないでしょうか。>

⑭ 金森長近 (*1525~1608)(土岐)・五郎八・兵部卿法印・素玄。越前府中三人衆。美濃出身・蜂屋頼隆と同郷。斎藤道三の娘婿、織田信長の義兄弟。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。1570年頃京畿の政治に係わり木下秀吉・丹羽長秀と書状に連署する。「槙島城攻囲」、「越前侵攻」、「小谷城攻囲」、「伊勢長島城攻囲」に従軍。1575年「長篠の合戦」に別働隊・酒井忠次の与力として働き鳶巣城奇襲に軍功。1575年8月「越前一揆征伐」では別働隊として美濃口より越前に侵攻。大野郡を平定し、領地を拝領。柴田勝家の与力。北陸方面軍目付となる。摂津「有岡城攻囲」、播磨「三木表」にも出陣。飛騨方面に度々働く。「本能寺の変」に際しては越前大野にあり美濃の佐藤秀方と善後策を検討している。<濃姫の姉妹の婿ということで、この方も信長様の義理の兄弟です。><柴田軍団に配属。生年に疑問あり。越中に出陣の際は信忠軍団の斎藤長龍、遊撃的な佐藤・飯沼が与力カ?。本能寺時点に越中の柴田軍団とは完全に別行動をしており、飛騨方面の旗頭となっていたのではないでしょうか。>

⑮ 猪子一時 (1542~1626)次左衛門・三左衛門・内匠助・内匠頭・一成。信長側近。犬山城主・織田信清の元家臣。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり(『武家事記』では赤の9番)。18歳で赤幌衆に選抜される。<猪子兵助の兄とも。><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。>

⑯ 織田 * (*)越前守。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤のエース・筆頭。前田が2番。)<織田家一門・中川重政の一族カ、兄・織田信広の婿、丹羽長秀が後年 越前守となりますが・・(時代が違い過ぎるか)。渥美入道が「黒・赤幌衆名簿」の文書の記した1596年当時に織田越前守と認識されていたのが(丹羽長秀)越前守さんだったとか・・。惟任と対の惟住の姓がうっとうしくなって、「羽柴姓」を配布される前に、長秀さんが織田と名乗ることはなかったのでしょうか。><藤左衛門分家の津田信張さんも一時、織田越前守を名乗る様子です。こちらのほうが、五郎左さんよりも有力候補か。><織田親族の中では楽田の津田掃部助・一安がその抜擢ぶり(原田直政なみの抜擢)から幌衆であってもおかしくないですよね。>

⑰ 加藤 * (*~1572)(東加藤・岩室)・弥三郎・勘右衛門。尾張熱田の豪商・(東)加藤順盛(1514~1588)の次男、順政の弟。徳川家康の尾張人質時代を共に過ごす。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。1560年「桶狭間の合戦」に従った五小姓のひとり。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。永禄末年頃、赤川景弘(坂井通盛)を斬る。長谷川橋介・山口飛騨・佐脇良之とともに信長から追放され、家康に仕える。「三方ヶ原の合戦」で討死。

⑱ 黒田 * (*)次右衛門・次左衛門。三河衆。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の6番)<黒田半平は稲生合戦で左手損傷。><小瀬甫庵によれば特別に信長に認められて立身出世した武将とされています。>
 
飯尾、木下(織田周防)、猪子、伊東、渥美、黒田の配属先軍団が気になります。どこの軍団の監察官だったのでしょう。


≪個人的感想≫ 前田利家も、一時、若気のいたりで出奔したりしています。他の人達と違って帰参できてよかった。将来的には皆100万石級の大名になってもおかしくないメンバーなのかなあ(妄想w)。岩室長門守が信長様のお気に入りだったので、長生きしてたらどうなってたかな~と思います。
 金森長近や蜂屋頼隆は、信長様が若かりし頃の上洛で、『信長公記』では「(金森)五郎八」や「(蜂屋)般若介」と気軽に呼ばれているので、いま伝承されている年齢よりも、もそっと若かったんと違うかなと考えています。金森さんは、信長小姓から選ばれる赤幌衆にいるし・・。
 出世コースは、官僚として中央政治に残るか、地方領主として諸侯に列席するか、二つの道だったのだろうと推測されます。「一所懸命」で大領主となることが出世という考え方は、認識が間違っている気がします。宣教師から当然ヨーロッパの政治体制を学習していると推測され、信長様なら聡明な頭脳で仕組みを理解して、「皇帝と官僚」の支配関係を中世日本でも実現しようとしていたかもしれません。
 勝家が「自分は越前の遠方にいるので、仲介ができない」とか手紙に書いたり、瀧川一益が関東に置かれて「茶の湯冥加がつきた」と哀愁をにじませてるのは、ある意味、「方面軍軍団長」とは左遷されたようなものだという感じなのではないのでしょうか。
 惟住長秀や、福富秀勝は中央に居座り続けられた分、勝家や一益よりも上位にあった武将といえないでしょうか。

1560年「桶狭間の合戦」従軍 馬廻衆 『信長公記』

武功をたてたものとして幌衆の前田・佐々・木下・毛利親子ほか、

森 * (*)小介。信長馬廻衆。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。<事績詳細不明。森可成一門のどなたかでしょうか。それとも清洲斯波衆の森一門でしょうか><伊勢長島の森氏とも関連ありか?。>

⇔安食定政 (*)弥太郎。信長馬廻衆。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。のち丹羽長秀与力。1584年越前の庶政にあたる。

⇔魚住 * (*)隼人正。信長馬廻衆。尾張時代から馬廻衆として戦場でも働く。1560年「桶狭間の合戦」に武功。1568年摂津池田の攻城戦に負傷。1580年4月木下祐久とともに加賀の柴田勝家軍の軍監。越前、加賀、能登の奉行を務める。変後、前田家家臣。<一族代表の信長様小姓の魚住氏は本能寺にて戦死。>

佐久間盛経 (*)弥太郎。五器所・山崎佐久間氏。佐久間信盛の叔父。1560年「桶狭間の合戦」に軍功。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№7」。息に盛重、盛次。孫に盛昭。<『信長家臣人名辞典』で発見しました。・・・叔父ということで世代の差。同じ佐久間弥太郎、孫の奥山弥太郎と事跡を精査しないといけませんね・・。ややこし。>

⇔↓佐久間盛昭 (*)奥山・弥太郎・佐渡守・重定。愛知郡五器所村出身。佐久間盛重の長男。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。1567~1569頃の信長馬廻衆。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№7」。丹羽長秀の家老。のち秀吉に太田一吉とともに出仕。<佐久間一族の大学助系の本家。わけありで改姓させられたのでしょうか。丹羽長秀の家老です。>

⇔↓中川 * (*)金右衛門。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№6」。<中川八郎右衛門・重政は別記されている。別人のようです。溝口金右衛門や、森川(堀部)氏俊も金右衛門のようですが・・。>

柴田勝家のように地方に派遣されてしまうのか、丹羽長秀のように信長様の傍にいて中央の権勢を得るのか。側近衆の運命の分かれ道です。
織田信長の主力軍=準近衛軍(直属の他国先方衆) 

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