見出し画像

室町幕府前期 守護大名 その4 中国地方(山陽道・山陰道)

「 侍は 渡り者に候。 」
「日本六分ノ一殿」 山名時氏 公 肖像のつもり。

「足利家 中国地方方面軍大将」 上野頼兼 公 肖像のつもり。

画像1



1523年‐ 「日明貿易」京兆家・細川高国と、大内義興の貿易抗争。
 「寧波の乱」勃発 ‐「中国地方の太守、細川、大内両極の争い」


山陰道
[但馬守護 その1]

⇔↓今川頼貞 〈1336-1337〉(*)掃部助・駿河守・駿河前司。今川頼基(頼国)の息。今川(蒲原)氏兼の従兄弟。弟に今川頼兼。1336年京都落ちに東播磨にて殿軍。1336年高氏西国落ちに、備中を守備。その後但馬・丹後守護。越前国「金崎城の合戦」に従軍。瓜生保を討取る軍功。1348~1349年但馬守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。1350年因幡守護。1351年磯部城を南朝方の長尾彦七郎に攻略される。足利直冬に従う。直冬党。

⇔桃井義盛 〈1337-1338〉(*)兵部大輔・布川・近作。桃井惣領家。新田党。桃井直常の従兄弟。桃井尚義の息。1336年高氏西国落ちに、安芸を守備。1337~1338年但馬守護。新田義貞に従い越前に下向。名越時兼を討伐し越中守護。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に尊氏派。<桃井直信と、事績が混同されているか・・。1338年父・尚義、兄・義通とともに「藤島の合戦」に戦死か。もしくは、父・兄と袂を分かち家名存続のため北朝に降るか?。>

⇔吉良貞家 〈1338-*〉(*~*1394)修理権大夫・右京大夫。三河党。吉良経家の息。鎌倉府所属。1335年「北条時行の乱」に敗走。幕府引付頭人、のち1346~1394年にかけて奥州管領。1349年「観応の擾乱」に直義派。1351年岩切城を攻撃し畠山親子を討つ。のち国府を南朝方の北畠顕信に奪取される。

但馬守護:山名家支配

⇔山名時氏 〈1344-*〉(1303~1371)小二郎・弾正少弼・伊豆守・伊豆前司・修理大夫・入道道静・引付所・侍所頭人。上野出身。新田一族。山名政氏の息。伯耆国守護として名和長年の一族を討伐する。のち丹波守護。1344年但馬三開山城に拠点。1345年天竜寺供養に従軍、一番隊を率いる。出雲守護職を巡り副将軍・佐々木道誉と対立。摂津にて楠木正行に敗北する。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に当初は尊氏派、のち直義派。直冬党。1353年6月南朝軍として楠木正儀・石堂頼房とともに京都を占拠し将軍・義詮を追う。義詮を救援に赴いた丹後守護・高ノ師詮を破り自害させる。1363年細川頼之の管領職就任により和平が成り上洛。家督はに山名師義が継承。伯耆国田内山城を本拠地とする。<同じ山陰方面で働いていた上野頼兼との間柄はどうだったのか興味のあるところです。>

⇔↑今川頼貞 〈1349-*〉(*)掃部助・駿河守・駿河前司。今川頼基(頼国)の息。今川(蒲原)氏兼の従兄弟。弟に今川頼兼。1336年京都落ちに東播磨にて殿軍。1336年高氏西国落ちに、備中を守備。越前国「金崎城の合戦」に従軍。瓜生保を討取る軍功。1348~1349年但馬守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。1351年磯部城を南朝方の長尾彦七郎に攻略される。足利直冬に従う。直冬党。

⇔上杉朝房 〈1349-*〉(*~1391)三郎・左馬助・中務大少輔・弾正少弼。憲藤の息。憲顕の娘婿。関東管領職、上総・上野守護。弟に朝宗。1338年父が摂津表で戦死したため石川覚道に養育される。1364年上総守護。1366年信濃守護。1368年上杉能憲とともに関東管領として足利氏満を支える。

上野頼兼 〈1350-*〉(*~1351)上野・左馬助。足利一門。三河一色党。上野頼遠(頼勝)の息。弟に氏勝。1336年3月筑後黒木城攻略に大将。4月尊氏の西国落ちに石見を守備、周防に転戦。丹後・石見守護。1343石見都野城攻囲。村井城攻囲。1348年石見三隅城攻囲。1351年但馬守護。但馬にて戦死。息に上野直兼、詮兼。<幕府創業期、山名時氏を従えて山陰地方を制圧していたかもしれないです。>

⇔↑今川頼貞 〈1351-*〉(*)掃部助・駿河守・駿河前司。今川頼基(頼国)の息。今川(蒲原)氏兼の従兄弟。弟に今川頼兼。1336年京都落ちに東播磨にて殿軍。1336年高氏西国落ちに、備中を守備。越前国「金崎城の合戦」に従軍。瓜生保を討取る軍功。1348~1349年但馬守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。1351年磯部城を南朝方の長尾彦七郎に攻略される。足利直冬に従う。直冬党。

高ノ師詮 〈1352-*〉(*~1353)丹波・丹後守護。師直の息(養子カ?)。丹波から足利義詮を救援に向かい楠木正儀軍に敗れる。

*空位:1352~1361年

⇔山名師義 〈1371-1376〉(1328~1376)小太郎・右京亮・右衛門佐・左馬権頭・伊豆守・師氏。山名時氏の嫡男。1349年「観応の擾乱」に直義派。直冬党。父とともに赤松氏と抗争する。1363年北朝に帰順し丹後・伯耆・但馬守護。管領・細川頼之と対立する。1371年に父が死去し惣領職。伯耆国打吹山城を本拠地とする。1376(1379とも)年病没。49歳。弟に山名義理、氏冬、山名氏清、山名時義、義数、義継、氏重、高義、義治、氏頼。息に義幸、山名氏之(氏幸)、義煕、山名満幸(満之)。但馬三開山城に拠点。

⇔▽仁木頼勝 〈1362-*〉(*)弾正少弼・讃岐守。頼章・義長の弟。
1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1353~1360年丹後守護。1362~1365年但馬守護。

長* 〈1366-*〉(*)長谷部。畠山家老。

但馬守護 その2:山名家支配・山名惣領家領。

⇔山名時義 〈1372-1389〉(*~1389)次郎・六郎・弾正少弼・伊予守・左京権大夫・時幸・侍所頭人。山名時氏の五男。師義・氏清の弟。兄・師義の跡職を継承する。山名惣領家。伯耆・但馬守護家。のち備後守護。息に山名時煕(1367~1435)、師義の実子・氏之(氏幸)が勢力を持つが、氏清・満幸が不満を持ち1390年に家中が分裂する。三開山城から、出石子盗山(此隅山)城を本拠とする。孫に山名持豊(宗全)。

▽垣屋時忠 (*)但馬垣屋第2代。垣屋駿河守の息。京都大宮にて戦死。亀崎城主。<山名四天王に垣屋・太田垣・八木・田結庄あり。>

山名時熈 〈1389・1392-1433〉(*~1435)宮内少輔・右衛門佐・入道常煕・時熈。伯耆・但馬守護家。山名惣領家を継承した山名時義の息。弟に氏幸、時長。1389年病気療養の父・時義に代わり、厳島参拝の将軍・義満の接待役。1390年将軍・足利義満の命で一門の山名氏清、山名満幸により、従兄弟・山名氏幸(氏之)とともに討伐される。1391年備後にて蟄居、足利義満の赦免を請う。1391年「明徳の乱」のち但馬一国の守護。息に山名持豊(宗全)、熈高、持熈。

↑山名氏清 〈1390-1392〉(1344~1392)陸奥守。山名時氏の息(四男)。娘婿に山名満幸。山城・丹波・和泉の三ヶ国守護を継承する。惣領職を継承した弟・時義と対立。1389年時義の死去により、家督争いが勃発。三代将軍・足利義満、管領・斯波義将の時代に勢力を伸張し山陰地方11ヶ国の守護を独占する。足利義満が元管領・細川頼之を復活させ山名家を迫害、1391年甥・山名満幸とともに「明徳の乱」を起すが、足利義満自らの討伐軍に敗北する。

▽垣屋隆国 (*)但馬垣屋第3代。亀崎城主。

↑山名時熈 〈1389・1392-1433〉(*~1435)宮内少輔・右衛門佐・入道常煕・時熈。伯耆・但馬守護家。山名惣領家を継承した山名時義の息。弟に氏幸、時長。1389年病気療養の父・時義に代わり、厳島参拝の将軍・義満の接待役。1390年将軍・足利義満の命で一門の山名氏清、山名満幸により、従兄弟・山名氏幸(氏之)とともに討伐される。1391年備後にて蟄居、足利義満の赦免を請う。1391年「明徳の乱」のち但馬一国の守護。息に山名持豊(宗全)、熈高、持熈。

▽垣屋満成 (*)弾正。但馬垣屋第4代。「明徳の乱」に主・山名時熈を救い戦死。亀崎城主。

▽滑良* (*)なめら・兵庫守。「明徳の乱」に垣屋満成とともに主・山名時熈を救い戦死。息に四郎太郎。

▽太田垣光景 (*)太田垣初代。朝来郡竹田城主。
▽太田垣景近 (*)土佐守。太田垣第2代。光景の跡職を継承。「応仁の乱」に軍功。朝来郡竹田城主。息に新左衛門、宗近。

ー1467~1477年「応仁の乱」ー

画像2

⇔↓山名持豊 〈1433・1436-1458〉(1404~1473)右衛門佐・右衛門督・入道宗全・「赤入道」。山名惣領家。伯耆・但馬守護家。山名時熈の息。山名時義の孫。1435年に家督相続。1437年備後の兄・持熈と抗争、鎮圧する。1440年侍所所司。但馬・因幡・伯耆・備後を回復。将軍・足利義勝の代。1441年「嘉吉の乱」に阿波守護・細川持常、伯耆守護・山名氏之とともに赤松満祐を播磨木山城に攻略し、将軍・足利義教の仇を討つ。播磨・石見守護。一門の教清が美作守護、教之が備前守護となり山名一門の守護領国は9カ国に及び勢力を回復。1444年赤松満政・教政親子の播磨侵入を撃退。1450年家督を教豊に譲渡。畠山家への対抗のため娘婿・細川勝元と結ぶ。1454年但馬に引退。各家の後継ぎ争いに斯波義廉、畠山義就を支持。1467~1477年「応仁の大乱」の西軍総大将。大内政弘軍の上洛で劣勢を挽回。初期・足利義尚、のち足利義視を擁立。1472年和平交渉決裂。1473年病没。70歳。1477年に両軍総大将の死により講和。弟に熈高。息に山名教豊、政豊。細川勝元の養子に迎えられた豊久。娘婿に細川勝元。

▽山名教豊 〈1454-*〉(*)山名持豊(宗全)流。山名持豊(宗全)の嫡男。1450年父から侍所所司を譲渡される。1467~1477年の「応仁の乱」に陣没。弟に政豊、豊詮。弟の政豊を養子とする。

▽田結庄* (*)平・対馬守。山名宗全軍奉行。山名四天王のひとり。「嘉吉の乱」に討伐軍に従軍し軍功。1467年「応仁の乱」に上京。その後11年間軍奉行として敢闘。国に帰還し城崎郡鶴城主。<子孫は垣屋氏と抗争。>

▽太田垣宗近 (*)太田垣景近の息(三男)。山名宗全の家老。宗近の後見人に荻野(赤井)氏。竹田城表「夜久野の合戦」に細川軍・長九郎左衛門、内藤孫四郎を破る。家臣の中路八郎三郎・中路新右衛門兄弟が太田垣軍の先手大将。竹田城主。息に宗朝。<荻野氏は世代的には忠家か。>

▽高山時重 (*)入道宗砌。山名宗全、教豊の家臣。教豊の代に山名家執事。<子孫に高山右近を輩出するとも。>

↑山名政豊 〈1472-1499〉(1441~1499)小次郎。山名持豊(宗全)流。山名教豊の弟。兄の養子として家督継承。山名家惣領職。1474年細川政元と講和し「応仁の乱」を収束させる。将軍・義政の「政」字を下賜される。将軍・義尚の後見人に選ばれる。1474年以降領国の但馬・因幡の支配。1479年但馬国に下向。1480年赤松領となった播磨・美作・備前に侵攻。1484年播磨に侵攻し赤松政則を追う。1487年将軍・足利義尚の六角征伐に従軍し軍功。1488年播磨から撤収。1489年足利義尚の六角高頼討伐に従軍。近江出陣。のち嫡男・俊豊を擁立する但馬国人衆が反乱。義尚死後、義材擁立に動く。息に俊豊、致豊、誠豊。<細川勝元の養子となった豊久は、実子の政元が誕生したため出家させられた。>

▽山名俊豊 (*)山名家惣領・山名政豊の息。但馬国人衆に擁立され父・政豊と抗争。

▽垣屋政忠 (*)但馬垣屋第5代。

山名致豊 〈1499-1536〉(*~1536)弾正少弼。山名持豊(宗全)流。山名政豊の息。兄に俊豊、弟に誠豊。10代将軍・義稙の代に但馬・因幡両国の守護。1508年義稙から上洛を求められる。義稙に山名惣領を認められる。山名家惣領職。但馬国人衆の反抗で弟・誠豊が但馬守護に就任。69歳。息に豊定。天神山城主。

山名誠豊 (*~1525)右衛門督。山名持豊(宗全)流。山名家惣領職。山名政豊の息。因幡守護家・氏冬流・山名豊頼の跡職を継承。但馬国人衆に擁立され、兄・致豊に代わり但馬守護。息に祐豊。

 ‐1523年「日明貿易」京兆家・細川高国と大内義興の抗争。「寧波の乱」勃発‐

山名祐豊 〈-〉(1511~1580)山名持豊(宗全)流。山名家惣領職・山名誠豊の息(誠豊養子とも)。山名家第9代。1528年叔父・山名致豊(実父とも)の跡職を継承。垣屋・太田垣氏と抗争。出雲尼子家と対立。因幡守護・山名誠通と対立しこれを討つ。弟・豊定を因幡守護職に送り込む。1569年織田信長の将・羽柴秀吉の侵攻により落城。出石城に移る。1574年有子山城築城。1580年織田羽柴軍の攻撃で自害(病没とも)。息に棟豊。息・氏政は因幡に逃走。

▽垣屋豊続 (*)但馬垣屋第6代。田結庄是義の襲撃を受け自害する。

▽田結庄是義 (*~1575)垣屋豊続を岩井大原山養寿院に襲撃し生害。のち垣屋重興(光成)の反撃を受け戦死。

山陰道
[因幡守護 その1] 鎌倉時代・海老名維則


吉良経家 〈1336-〉
細川義春 〈1337-1338〉

⇔吉良貞家 〈1339-1346〉(*~*1394)修理権大夫・右京大夫。三河党。吉良経家の息。鎌倉府所属。1335年「北条時行の乱」に敗走。但馬守護兼任。幕府引付頭人、のち1346~1394年にかけて奥州管領。1349年「観応の擾乱」に直義派。1351年岩切城を攻撃し畠山親子を討つ。のち国府を南朝方の北畠顕信に奪取される。

⇔上野頼兼 〈1346-1350〉(*~1351)上野・左馬助。足利一門。三河一色党。上野頼遠(頼勝)の息。弟に氏勝。1336年3月筑後黒木城攻略に大将。4月尊氏の西国落ちに石見を守備、周防に転戦。丹後・石見守護。1343石見都野城攻囲。村井城攻囲。1348年石見三隅城攻囲。1351年但馬守護。但馬にて戦死。息に上野直兼、詮兼。<幕府創業期、山名時氏を従えて山陰地方を制圧していたかもしれないです。>

⇔今川頼貞 〈1350-*〉(*)掃部助・駿河守・駿河前司。今川頼基(頼国)の息。今川(蒲原)氏兼の従兄弟。弟に今川頼兼。1336年京都落ちに東播磨にて殿軍。1336年高氏西国落ちに、備中を守備。越前国「金崎城の合戦」に従軍。瓜生保を討取る軍功。1348~1349年但馬守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。1351年磯部城を南朝方の長尾彦七郎に攻略される。足利直冬に従う。直冬党。

⇔高ノ師秀 〈1352-*〉(*)備中・河内守護。師幸の息、師泰の養子。

因幡守護 その2:山名家支配

⇔山名時氏 〈1363-1364〉(1303~1371)小二郎・弾正少弼・伊豆守・伊豆前司・修理大夫・入道道静・引付所・侍所頭人。上野出身。新田一族。山名政氏の息。伯耆国守護として名和長年の一族を討伐する。のち丹波守護。1345年天竜寺供養に従軍、一番隊を率いる。出雲守護職を巡り副将軍・佐々木道誉と対立。摂津にて楠木正行に敗北する。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に当初は尊氏派、のち直義派。直冬党。1353年6月南朝軍として楠木正儀・石堂頼房とともに京都を占拠し将軍・義詮を追う。義詮を救援に赴いた丹後守護・高ノ師詮を破り自害させる。1363年細川頼之の管領職就任により和平が成り上洛。家督はに山名師義が継承。伯耆国田内山城を本拠地とする。<同じ山陰方面で働いていた上野頼兼との間柄はどうだったのか興味のあるところです。>

山名氏冬 〈1365・1369-1401〉(*)中務大輔。山名時氏の息(三男)。因幡守護家。師義、義理の弟。弟に氏清、時義、義数、義継、氏重、高義、義治、氏頼。息に山名氏家。

山名氏重 〈1370-*〉
▽山名氏家 〈1391-*〉(*)山名氏冬の息。因幡守護家。息に山名熈貴。孫に勝豊。

*空位:1402~1435

△山名時熈 〈1392-1433〉(*~1435)宮内少輔・右衛門佐・入道常煕・時熈。伯耆・但馬守護家。山名惣領家を継承した山名時義の息。弟に氏幸、時長。1389年病気療養の父・時義に代わり、厳島参拝の将軍・義満の接待役。1390年将軍・足利義満の命で一門の山名氏清、山名満幸により、従兄弟・山名氏幸(氏之)とともに討伐される。1391年備後にて蟄居、足利義満の赦免を請う。1391年「明徳の乱」のち但馬一国の守護。息に山名持豊(宗全)、熈高。

山名熈高 〈1412-*〉山名惣領家。伯耆・但馬守護家。山名時熈の息。山名持豊の弟。

ー1467~1477年「応仁の乱」ー

画像3

山名持豊「赤入道(宗全)」 肖像のつもり

山名持豊 〈1436-1458〉(1404~1473)右衛門佐・右衛門督・入道宗全。山名惣領家。伯耆・但馬守護家。山名時熈の息。山名時義の孫。1435年に家督相続。但馬・因幡・伯耆・備後を回復。将軍・足利義勝の代。1441年「嘉吉の乱」に赤松満祐を播磨木山城に攻略し、将軍・足利義教の仇を討つ。播磨・石見守護。一門の教清が美作守護、教之が備前守護となり山名一門の守護領国は9カ国に及び勢力を回復。1467~1477年「応仁の大乱」の西軍総大将。初期・足利義尚、のち足利義視を擁立。1477年に両軍総大将の死により講和。弟に熈高。息に山名教豊。

▽山名教豊 (*)山名持豊(宗全)の嫡男。1450年父から侍所所司を譲渡される。1467~1477年の「応仁の乱」に陣没。

山名熈幸 〈1452-*〉(*)。
山名勝豊 〈1458-1459〉(*)左衛門佐。山名氏冬流。山名熈貴の息。因幡守護家。息に豊時、豊重、豊頼。

山名豊氏 〈1459-*〉
山名* 〈1465-1467〉(*)七郎。

*空位:1468~1490

↓山名政豊 〈1472-1499〉(1441~1499)小次郎。山名持豊(宗全)流。山名教豊の弟。兄の養子として家督継承。1474年細川政元と講和し「応仁の乱」を収束させる。将軍・義政の「政」字を下賜される。将軍・義尚の後見人に選ばれる。1474年以降領国の但馬・因幡の支配。1484年播磨に侵攻し赤松政則を追う。1488年播磨から撤収。1489年足利義尚の六角高頼討伐に従軍。近江出陣。のち嫡男・俊豊を擁立する但馬国人衆が反乱。息に俊豊、致豊、誠豊。

山名豊時 〈1479・1491-1494〉(*)治部少輔・左衛門佐。山名氏冬流。山名勝豊の息。因幡守護家。氏之流・山名豊氏の跡職を継承。弟に豊重、豊頼。

山名政実 〈1488-*〉
山名豊重 〈1506-*〉
山名豊頼 〈1514-*〉
山名誠豊 〈1518-1528〉(*~1525)右衛門督。山名持豊(宗全)流。山名家惣領職。山名政豊の息。因幡守護家・氏冬流・山名豊頼の跡職を継承。但馬国人衆に擁立され、兄・致豊に代わり但馬守護。息に祐豊。

山名豊治 〈1521-*〉
 ‐1523年「日明貿易」京兆家・細川高国と大内義興の抗争。「寧波の乱」勃発‐

↓山名誠通 〈1527・1537-1541〉(*)左馬助。山名氏冬流。山名豊頼の息。1528年誠豊の死により家督。第14代。因幡守護家。1545年鳥取城を築城。1525年から山名家惣領職・但馬守護・山名祐豊と領地を争い、因幡守護に任命された山名豊定と抗争し戦死。1563年家老の武田高信の下克上により息子二人は殺害される。

山名致豊 〈1528-1536〉(*~1536)弾正少弼。山名持豊(宗全)流。山名政豊の息。山名誠豊の兄。10代将軍・義稙の代に但馬・因幡両国の守護。1508年義稙から上洛を求められる。山名惣領を認められる。但馬国人衆の反抗で弟・誠豊が但馬守護に就任。69歳。息に豊定。天神山城主。

↑山名誠通 〈1527・1537-1541〉(*)左馬助。山名氏冬流。山名豊頼の息。1528年誠豊の死により家督。第14代。因幡守護家。1545年鳥取城を築城。1525年から山名家惣領職・但馬守護・山名祐豊と領地を争い、因幡守護に任命された山名豊定と抗争し戦死。1563年家老の武田高信の下克上により息子二人は殺害される。

因幡守護 その3:山名家支配⇔尼子

⇔尼子晴久 〈1541-1546〉(*)出雲・伯耆を支配する有力大名。1541年因幡守護職。

▽武田高信 (*)山名氏冬流山名家の家老職。山名誠通の家臣。1541年尼子晴久に従う。因幡守護代。1563年主家に対して謀反。鳥取城主。

山名豊定 〈1547-*〉(1512~1560)九郎。山名持豊(宗全)流。山名致豊の息。1525年山名誠豊の死により、義兄・祐豊の命で因幡守護継承。第15代。山名家惣領職・但馬守護・山名祐豊の義弟。鳥取城主で山名氏冬流・山名誠通の家老・武田高信と抗争。1548年誠通の一門を討ち因幡を支配。兄・祐豊の息・棟豊が跡職を相続。

⇔尼子晴久 〈1552-*〉(*)出雲・伯耆・美作・備後・備中・備前・隠岐守護職兼任。

山名豊数 〈-〉(*)山名豊定の息。誠通の家老・武田高信と抗争し天神山(布施天神)城を奪取される。鹿野城主。以後、因幡は武田高信が支配。弟・豊国が尼子勝久の支援を受けて、鳥取城を奪取し武田高信を追う。

山名豊国 〈-〉(1548~1626)山名持豊(宗全)流。山名豊定の息(弟とも)。因幡岩井城主。毛利家と抗争。1573年尼子勝久・山中幸隆の後援で武田高信を討伐。17代因幡守護職に就任。鳥取城城主。垣屋・太田垣とともに反織田。のち織田家に従う。息に豊政、豊義。

山陰道
[伯耆守護]

⇔石橋和義 〈1337-〉(*~*1386)尾張・左衛門佐。足利家の御一家。三河国吉田を領する。宗家の斯波高経に従い従軍、西国落ちの際に備前三石城を守備し脇屋義助を抑える。伯耆国・備後国・若狭国の守護を歴任。幕府引付頭人・評定衆を勤める。1363年斯波親子と対立し失脚。直義派。

伯耆守護:山名家支配・山名惣領・嫡流家領。

⇔山名時氏 〈1337-1363〉(1303~1371)小二郎・弾正少弼・伊豆守・伊豆前司・修理大夫・引付所・侍所頭人。上野出身。新田一族。山名政氏の息。伯耆国守護として名和長年の一族を討伐する。のち丹波守護。1345年天竜寺供養に従軍、一番隊を率いる。出雲守護職を巡り副将軍・佐々木道誉と対立。摂津にて楠木正行に敗北する。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に当初は尊氏派、のち直義派。直冬党。1353年6月南朝軍として楠木正儀・石堂頼房とともに京都を占拠し将軍・義詮を追う。義詮を救援に赴いた丹後守護・高ノ師詮を破り自害させる。1363年細川頼之の管領職就任により和平が成り上洛。家督はに山名師義が継承。伯耆国田内山城を本拠地とする。<同じ山陰方面で働いていた上野頼兼との間柄はどうだったのか興味のあるところです。>

*空位:1364~1389

⇔↑山名師義 〈*〉(1328~1376)小太郎・右京亮・右衛門佐・左馬権頭・伊豆守・師氏。山名時氏の嫡男。1349年「観応の擾乱」に直義派。直冬党。父とともに赤松氏と抗争する。1363年北朝に帰順し丹後・伯耆・但馬守護。管領・細川頼之と対立する。1371年に父が死去し惣領職。伯耆国打吹山城を本拠地とする。1376(1379とも)年病没。49歳。弟に山名義理、氏冬、山名氏清、山名時義、義数、義継、氏重、高義、義治、氏頼。息に義幸、山名氏之(氏幸)、義煕、山名満幸(満之)。

↑▽山名義幸 〈*〉(*)讃岐守・義之。時氏の嫡男・山名師義の息。山名嫡流家。丹後・伯耆守護家。嫡流ながら叔父の山名時義に山名惣領職を独占される。弟に山名氏之(氏幸)、義煕、満幸(満之)。跡職は満幸が継承。<1379~1385年代出雲守護。>

↓▽山名満幸 〈1390-1395〉(*~1395)播磨守・弾正少弼。山名師義の息(四男)。丹後・出雲守護兼任。兄に義幸、氏之、義熈。1390年将軍・足利義満の命で、伯耆の氏之を攻略。叔父で舅の山名氏清とともに、時義の息の山名時煕と山名氏之(氏幸)を討つ。1391年足利義満に対し叔父・山名氏清とともに「明徳の乱」を起こす。1395年処刑される。

山名氏之 〈1392-1403〉(*)相模守・氏幸。山名嫡流・山名師義流。山名師義の息。弟に満幸、義熈。1390年足利義満と管領・細川頼之の陰謀で、叔父・山名氏清、弟・山名満幸と抗争。1391年備後にて蟄居、足利義満の赦免を請う。1391年「明徳の乱」ののち伯耆守護職を回復。1441年伯耆の軍勢を率いて赤松満祐討伐に従軍。息に山名熈之。

*空位:1404~1437

▽山名熈之 (*)山名嫡流・山名師義流。山名氏之の息。

↓山名教之 〈1438-1439〉(*)右馬頭。山名嫡流・山名師義流。山名熈之の息。息に豊之。

山名持豊 〈1436-1458〉(1404~1473)右衛門佐・右衛門督・入道宗全。山名惣領家。伯耆・但馬守護家。山名時熈の息。山名時義の孫。1435年に家督相続。但馬・因幡・伯耆・備後を回復。将軍・足利義勝の代。1441年「嘉吉の乱」に赤松満祐を播磨木山城に攻略し、将軍・足利義教の仇を討つ。播磨・石見守護。一門の教清が美作守護、教之が備前守護となり山名一門の守護領国は9カ国に及び勢力を回復。1467~1477年「応仁の大乱」の西軍総大将。初期・足利義尚、のち足利義視を擁立。1477年に両軍総大将の死により講和。弟に熈高。息に山名教豊。

▽山名教豊 (*)山名持豊(宗全)流。山名持豊(宗全)の嫡男。1450年父から侍所所司を譲渡される。1467~1477年の「応仁の乱」に陣没。弟に政豊、豊詮。弟の政豊を養子とする。

*空位:1442~1459

↑山名教之 〈1460-1473〉(*)相模守。山名嫡流・山名師義流。山名熈之の息。息に豊之。

▽山名豊之 (*)山名嫡流・山名師義流。山名教之の息。息に政之。

ー1467~1477年「応仁の乱」ー

山名政之 〈1481-1491〉(*)六郎。山名嫡流・山名師義流。山名豊之の息。養子に山名氏豊。

↑山名豊時 〈1502-*〉(*)伊予守・治部少輔・左衛門佐。山名氏冬流。山名勝豊の息。因幡守護家〈1491-1494〉。氏之流・山名豊氏の跡職を継承。弟に豊重、豊頼。

 ‐1523年「日明貿易」京兆家・細川高国と大内義興の抗争。「寧波の乱」勃発‐

山陽道
[備後守護 その1]


朝山景連 〈-〉浅山・次郎・左衛門尉・備後守。

⇔▽仁木義長 〈-〉(*~1376)日記・二郎四郎・越後守・右馬権頭・修理亮・右京大夫。下野・三河党。仁木義勝の息。頼章の弟。鎌倉府所属。1335年「北条時行の乱」に敗走。1336年九州に上陸、菊池武敏との「多々良浜合戦」に武功。西国から上洛の際、九州の抑えとして残る。後、上洛。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。足利義詮の補佐役。伊勢・志摩・伊賀・三河守護。1342年「小手指原の合戦」新田義宗・義興兄弟に敗北した将軍・尊氏を救援。九カ国の守護をとなるが管領細川清氏・畠山国清と対立し失脚。佐々木氏頼・土岐頼康に攻撃される。伊勢にて南朝に降伏し領国を失う。足利義詮に降伏し赦免される。

⇔石橋和義 〈-〉(*~*1386)足利家の御一家。三河国吉田を領する。宗家の斯波高経に従い従軍、西国落ちの際に備前三石城を守備し脇屋義助を抑える。伯耆国・備後国・若狭国の守護を歴任。幕府引付頭人・評定衆を勤める。1363年斯波親子と対立し失脚。直義派。

⇔細川頼春 〈-〉(1299・*1304~1352)源九郎・源蔵人・讃岐守・刑部大輔。侍所。三河党。細川公頼の次男。足利高氏の側近旗元衆。1337年足利直義に従い北畠顕家を迎撃。1338年阿波国守護。(備後守護とも)。1342~1349年伊予国守護。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。足利直冬に属した河野通盛を討つ。足利義詮の補佐役。越前国を巡り、直義派の斯波高経と激しく対立。1352年南朝軍の入洛に義詮を守って京都で戦死。息に細川頼有、頼之、頼元、詮春、満之。

高ノ師泰 〈-〉(*~1351)尾張守・越後守。高師重の息、師直の弟。建武新政に上杉憲房とともに雑訴決断所の奉行。幕府成立後、侍所頭人となる。新田義貞、北畠顕家を討ち取る。1351年「打出浜」で直義に破れ。「観応の擾乱」に上杉能憲に討たれる。尊氏派。

高ノ師夏 〈-〉 (1339~1351)武蔵五郎。師直の息(養子カ?)尊氏派。

上杉顕能 〈-〉

岩松頼有 〈-〉(*)禅師。岩松経家の弟。1336年高氏西国落ちに従軍。1340~41年伊予国守護、1351~1352年備後国守護。1351年備後国人:長井貞頼の援軍を得て統治を進める。<新田(田島遠江守)又五郎・経政と同一人物とも。>

↑細川頼春 〈-〉(1299・*1304~1352)源九郎・源蔵人・讃岐守・刑部大輔。侍所。三河党。細川公頼の次男。足利高氏の側近旗元衆。1337年足利直義に従い北畠顕家を迎撃。1338年阿波国守護。(備後守護とも)。1342~1349年伊予国守護。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。足利直冬に属した河野通盛を討つ。足利義詮の補佐役。越前国を巡り、直義派の斯波高経と激しく対立。1352年南朝軍の入洛に義詮を守って京都で戦死。息に細川頼有、頼之、頼元、詮春、満之。

-1363年-「足利直冬の乱」宮兼信・長井貞頼が尊氏方。

⇔▽渋川義行 〈-〉(*)九州探題職。足利一門。渋川義季の孫。母は高師直の娘。1366年19歳にして九州管領に抜擢される。今川貞世解任後、息・満頼が九州探題職を継承。大友・大内氏の援助で肥前国入り。少弐氏と抗争する。息に渋川満頼(1372~1446)。

今川仲秋 〈-〉備後国人:長井貞広が九州に従軍。

▽長井貞広 (*~1375)長井貞頼の息。九州探題:今川貞世の統一戦に従軍。1375年「水島の変」にて筑後山崎に戦死。養子の毛利広世が備後長井家を相続。

⇔山名時義 〈1372-1389〉(*~1389)次郎・六郎・弾正少弼・伊予守・左京権大夫・時幸・侍所頭人。山名時氏の息(5男)。山名惣領家。伯耆・但馬守護家。のち備後守護。師義・氏清の弟。兄・師義の跡職を継承する。息に山名時煕(1367~1435)、師義の実子・氏之(氏幸)が勢力を持つが、氏清・満幸が不満を持ち1390年に家中が分裂する。三開山城から、出石子盗山城を本拠とする。美作・但馬・備後守護家。息に時熈、氏幸、時長。
山名義照 〈1390-*〉(*)義煕。山名師義の息。山名義幸(義之)の弟。

⇔細川頼之 〈-〉(*~1392)管領。三代将軍・足利義満の管領。足利幕府の全盛時代を作り出す。九州探題・今川貞世の盟友。将軍権力の強化と有力守護を抑圧する政策を推進したため守護大名から倦厭される。やがて管領職から失脚し、新管領には穏健主義の斯波義将が迎えられる。1392年没。

細川頼長 〈-〉
細川基之 〈-〉

備後守護 その2:山名家支配

△山名時熈 〈1392-1433〉(*~1435)宮内少輔・右衛門佐・入道常煕・時熈。伯耆・但馬守護家。山名惣領家を継承した山名時義の息。弟に氏幸、時長。1389年病気療養の父・時義に代わり、厳島参拝の将軍・義満の接待役。1390年将軍・足利義満の命で一門の山名氏清、山名満幸により、従兄弟・山名氏幸(氏之)とともに討伐される。1391年備後にて蟄居、足利義満の赦免を請う。1391年「明徳の乱」のち但馬一国の守護。息に山名持熈、持豊(宗全)、熈高。

山名持熈 (*)時熈の息。1435年父が死去。1437年弟の家督相続に不満を抱き、備後で反乱。持豊に鎮圧される。

ー1467~1477年「応仁の乱」ー

⇔↑山名持豊 〈1436-1458〉(1404~1473)右衛門佐・右衛門督・入道宗全。山名惣領家。伯耆・但馬守護家。山名時熈の息。山名時義の孫。1435年に家督相続。但馬・因幡・伯耆・備後を回復。将軍・足利義勝の代。1441年「嘉吉の乱」に赤松満祐を播磨木山城に攻略し、将軍・足利義教の仇を討つ。播磨・石見守護。一門の教清が美作守護、教之が備前守護となり山名一門の守護領国は9カ国に及び勢力を回復。1467~1477年「応仁の大乱」の西軍総大将。初期・足利義尚、のち足利義視を擁立。1477年に両軍総大将の死により講和。弟に熈高。息に山名教豊。

▽山名教豊 (*)山名持豊(宗全)流。山名持豊(宗全)の嫡男。1450年父から侍所所司を譲渡される。1467~1477年の「応仁の乱」に陣没。弟に政豊、豊詮。弟の政豊を養子とする。

山名是豊 〈-〉(*)山名持豊(宗全)の息。山名教豊の弟。山名惣領家。美作・但馬・備後守護家。

山名政豊 〈-〉(1441~1499)小次郎。山名惣領家。美作・但馬・備後守護家。山名持豊(宗全)の息。山名教豊の弟。兄の養子として家督継承。1474年細川政元と講和し「応仁の乱」を収束させる。将軍・義政の「政」字を下賜される。将軍・義尚の後見人に選ばれる。息に常豊、俊豊、致豊。
山名俊豊 〈-〉山名政豊の息。山名惣領家。美作・但馬・備後守護家。弟に致豊、誠豊。

 ‐1523年「日明貿易」京兆家・細川高国と大内義興の抗争。「寧波の乱」勃発‐

「応仁の乱」1467~1477 細川勝元 VS 山名持豊(宗全)

ここから先は

17,491字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?