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6世紀~9世紀にかけての倭(大和)朝廷軍。継体朝の古代軍事豪族軍 その1


大王武烈崩御により大和王朝嫡流の断絶、倭国の王権争い


(北近江の大王) 

稚沼毛 二派王(ワカヌケ クマタ王)の子孫 「三尾ノ公」

乎非ノ 王 (*)気長・弘斐王・乎斐王・おいのおおきみ・(こいのきみ)・宇斐王。応神系皇族。意富富杼王(近江の息長大々杼王)の息。母は中斯知姫。牟義都(美濃武儀)国造伊自牟良君の娘婿。兄弟に阿居乃王。息に汗斯王(彦主人王)。<継体天皇の祖父。私斐王とも表記される。>

▽汗斯ノ 王 (*)気長・彦主人王・ひこうしおおきみ・(かしのきみ)。応神系皇族。乎非王の息(乎非王と同一人物とも)。近江国高島郡の豪族。越高向の豪族・乎波智君の娘婿。息長沙禰王の娘・真若郎女の娘婿。近江国高島郡の豪族。息に袁本杼命(大々杼命)。


六世紀 562年任那滅亡。
→継体天皇 →安閑天皇 →宣化天皇 →欽明天皇


袁本杼ノ 命 (*~531)乎富等大公王・大々杼命・男大迹王・おおどのみこと・「継体天皇」・オオト。応神系皇族。彦主人王(汗斯王)の息。(越前国三国坂)中井ノ振姫の息。越前高向・近江高島付近の豪族。506年武烈天皇の死により即位。武烈天皇の姉(妹)である直系の手白香皇女を室とする。527年九州にて「磐井の乱」勃発。息に安閑・宣下・欽明天皇。<気長・息長氏の一門でしょうか。越前・三国氏、近江・坂田氏、三尾氏、息長氏、尾張・尾張氏に擁立される。><「男大迹」は主人のことを「おとど」と通称することに繋がるのでは。><のちの富本銭の「大・十」の組み合わせにも通じる気がします。>

▽馬飼ノ 荒籠 (*)(河内)・首・あらこ。継体天皇の将。早くから袁本杼ノ命を支持。畿内入りに助力。<河内国の有力者。>

▽近江ノ 毛野 (*~530)(武内・波多・羽田)・臣・えみの。羽田一門。継体天皇の将。527年「新羅征伐軍」を率い出陣。九州にて筑紫君磐井により討たれる。対馬にて死去。<継体の先祖、若野毛二俣王と名が似ている。> <継体帝の支持基盤、近江三尾と関連ありか。>

▽物部ノ 麁鹿火 (*~536)大連・阿良加比・荒甲・あらかび。麻佐良の息。弟に物部更衣連。継体天皇の将。大伴金村とともに軍事力の中核をなす。527年筑紫国造「磐井の叛乱」を鎮圧。息に石弓・磐弓、毛等稚児。

▼物部ノ 石弓 (*)伊波由弥・連・磐弓・いわゆみ。物部ノ麁鹿火の息。息に物部眞手連、物部小熊連・乎久麻連。

▼物部ノ 毛等稚児 (*)もとわこ(えみとわこ)。物部ノ麁鹿火の息。磐弓の弟。

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(九州の独立) 527年筑紫国造の乱「筑紫ノ磐井の乱」

筑紫ノ君 磐井 (*~)竺紫石井・君。新羅と結ぶ。527年継体天皇に反乱。御井郡(筑紫三井郡)「筑後川の合戦」に敗北。息の葛子は降伏臣従。<北九州の王、本来の天津国の直系でしょうか。「月」とか「津」とか「櫛」とか国名に関連していくようになり「筑紫」でしょうか。>

豊国ノ 直 (*~)豊ノ直。長峡流域の豪族。景行天皇に従った菟名手の子孫。527年筑紫君と結び、継体天皇に反乱。<磐井の一門か。乱の途中で継体軍に離反とも。>

肥国ノ 君 (*~)火ノ君。八代郡氷川流域の豪族。神八井耳命の後裔。志貴多奈彦命の息・火国君遅男江の子孫。527年筑紫君と結び、継体天皇に反乱。<磐井の一門か。乱の途中で継体軍に離反とも。>

≪個人的感想≫  九州王朝があったとかではなく、
オオキミ(大王)を中心とする連合王国(戦陣で同じ釜の飯を食った仲)の中の、
九州の王達が、連合から抜けようとしたということでは?。


「安閑天皇」


531年日本の天皇(安閑?)及び太子・皇子ともに崩御『百済本記』

▽勾ノ 皇子 (*)勾ノ大兄(大江?)・広国押建金日命・「安閑天皇」・タケカナヒ。継体天皇の息。母は尾張目子媛。<大兄=長男ではなくて、大兄=大江に通じ淀川流域の大王という意味があったりして。><押や建は尊称。金日が名でしょうか。大伴金村と関係がありそうです。>

▼巨勢ノ 男人 (*)許勢・大臣。河上の息。大伴ノ金村、物部ノ麁鹿火とともに継体天皇に従う。娘婿に安閑天皇。


「宣化天皇」


▽建 小広 国押楯 命 (*)「宣化天皇」・タケオヒロ。継体天皇の息。安閑天皇の弟。536年蘇我ノ稲目を登用。娘婿に欽明天皇。

蘇我ノ 高麗 (*)蘇我ノ馬背(うませ)・こま。韓子の息。母は高麗(高句麗)媛。葛城郡の豪族。息に稲目。<渡来系の有力者でしょうか。>

▼蘇我ノ 稲目 (*~570)いなめ。葛城郡の豪族。蘇我高麗の息。仏教導入派。552年百済聖明王の仏教布教を享受。物部氏と対立する。娘(堅塩姫)婿に欽明天皇。小姉姫の婿にも欽明天皇。<二人の娘で天皇家と二重に強く縁を結ぶ。>

▽志帰嶋ノ 皇子 (*)しきしま・斯帰斯麻・「欽明天皇」・ハルキヒロニワ。継体天皇の息。母は武烈天皇の姉(妹)である直系の手白香皇女。蘇我稲目の娘婿。息に敏達天皇、用明天皇、推古天皇(女帝)、桜井皇子。孫に押坂彦人大兄皇子。<磯城嶋の原点に戻った感じがします。>

▽息長ノ 真手ノ 王 (*)杭全。近江の豪族。欽明天皇の将。息の真戸王が事故死。継体天皇の息・厚ノ皇子が入婿(黒郎媛)し相続、息長阿豆王と称す。孫(比呂媛)娘の婿に敏達天皇。<近江との結びつきを残すための婚姻でしょうか。>

(坂東の独立) 535年武蔵(むざし)国造の乱「笠原ノ小杵の乱」

笠原ノ使主 (*)笠原・直・おみ。胸刺(むなさし)国造家(南部武蔵?)。武蔵国造の地位を小杵と争う。乱後、大和朝廷に屯倉を寄進。坂東に朝廷の直轄領出現。<埼玉県稲荷山鉄剣の文章のヲワケ、父のカサヒヨと関連するか。><のちの源氏系・小笠原など、国造家に婿入りした皇族が、名乗ったのでしょうか。>

笠原ノ 小杵 (*~534)笠原・直・おき。无邪志(むざし)国造家(北部武蔵?)。武蔵国造の地位を使主と争う。大和朝廷軍に敗北する。

上毛野ノ 小熊 (*~534*)上毛野君・おぐま。上毛野国造家。笠原家の内紛に介入。小杵を後援する。大和朝廷軍に敗北する。

知知夫部ノ* (*)ちちぶ・知々夫・大伴部。秩父国造家(武蔵西部)。八意思兼命の子孫。知知夫狭手男(412~453年間)の後裔。のち「大化の改新」により秩父国は、无邪志(むざし)国と合体。<のち多治比氏、のち平ノ良文の入婿があり、同一化するか。>


「欽明天皇」


斯帰斯麻天皇 (509*~571*)天国排開広庭天皇・志帰嶋天皇・「欽明天皇」。継体帝の息。母は手白香皇女(仁賢天皇の娘)。室に宣化天皇の娘(石姫)。また、蘇我稲目の娘婿(堅塩姫、小姉君)。義兄弟に蘇我馬子。息に敏達天皇(母は石姫)、用明天皇(母は蘇我堅塩姫)、穴穂部皇子(母は蘇我小姉君)、崇峻天皇。娘に推古天皇。<斯麻宿禰と関係のある系譜か。>

⇔▽穗積ノ押山 (*)物部・穂積臣・臣・忍山。継体帝の家臣。大倭国山辺郡穂積邑の豪族。任那加羅多利国の国守に派遣される。512年大和から百済への使者。任那4県を百済に譲渡する案を推進したという。<のち嫡流は藤白鈴木氏。>


(大伴 <大連>家) 伴氏。大伴部・久米部を従え軍事行動。


▽大伴ノ 金村 (*~*540)大連・かねむら。葛城の豪族。大伴ノ談の息。大伴ノ室屋の孫。武烈天皇の将。498年仁賢天皇の死後に平群真鳥、鮪(しび)親子を討ち取り、武烈天皇の擁立に軍功。506年続いて越前の皇子・継体天皇の即位にも軍功。512年百済の圧力、540年新羅により任那を失う。穂積氏との政治方針を物部ノ尾輿の糾弾され失脚。息に磐、咋、狭手彦、糠手古、阿被布古、宇遅古、咋子(阿被布古の息とも)。<佐伯氏と同族らしい。源ノ頼義の家宰が佐伯を名乗るのは、故事を踏襲したのでしょうか。>

▼大伴ノ 磐 (*)いわ。大伴金村の息。弟に狭手彦。537年筑紫の那津官家(大宰府)にて新羅に備える。<朝鮮との前線、九州の王。磐井に繋がる人物では。>

▼大伴ノ 狭手 彦 (*)佐提比古郎子・サデ ヒコ。大伴金村の息。537年朝鮮に渡海。562年再度渡海。台頭する蘇我稲目との関係に腐心する。<松浦佐用姫との伝説を残す。>

▽久米ノ * (*)来目・久味・(組)。大友氏族。久米部を従え、大伴氏配下。軍事・刑罰を司る。

▽勒負部ノ * (*)弓削・ゆげい。大友氏族。大伴氏配下。


(物部 家) 神前裁判の刑罰を司る。大和国山辺郡石上神宮を拠点とする。


▽物部ノ 尾輿 (*)おこし。荒山の息。安閑、欽明の大連。531年廬城部枳?喩(いおきべのきこゆ)の娘が尾輿の首飾りを盗難。540年大伴ノ金村を失脚させる。中臣ノ鎌子とともに廃仏運動。570年蘇我稲目建立寺院の襲撃。女婿に蘇我ノ馬子。息の守屋は蘇我ノ馬子と対立。外孫に蘇我ノ蝦夷。

(出雲 家)
出雲ノ 美許 (*)出雲国造。21代。意岐苦の息。息に叡屋、宇礼、黒万呂。

(東漢 家) 東漢坂上氏。渡来系氏族。坂上ノ田村麻呂の先祖。

東漢ノ 磐井 (*)磐・直・いわい。蘇我氏と結ぶ。息に駒。

▽東漢ノ 駒 (*~592)こま・駒子・直。磐井の息。蘇我氏と結ぶ。592年馬子の命で崇峻天皇を殺害。直後に蘇我ノ河上娘との交際で罪を得て殺害される。


(秦 家) 渡来系氏族。秦家分流の明法博士・惟宗氏は九州(薩摩・大隈)の島津氏、越中の神保氏、対馬の宗氏の祖。

秦ノ 河勝 (*)山背国の豪族。秦ノ国勝(または丹照)の息。聖徳太子の側近。644年駿河に出陣し大生部多(大生部王)を討伐。

埼玉県稲荷山鉄剣銘文、
「辛亥(471)年 七月中 記、乎獲居(オ別)臣、上祖名 意富比(「四道将軍」大彦)□□、
其児 多 加利足尼(タ カリ[宿禰もしくはワケ])、其児 名 弖已加利獲居(ナ テハカリ別)、
<多が大田田根子や物部のタの姓を表すものとすれば、次の名と冠する文字も、
 「その名」と読むではなく、人名の一部として読むべきなのでは・・。
 「多ノ加利足尼(タノカリワケ)」に相当する大彦の息子は、「武沼河別」タケヌナカワワケか。>
其児 名 多加披次獲居(ナ タカヒジ別)、其児 名 多沙鬼獲居(ナ タサキ別)、
其児 名 半弖比(ナ ハテイ)」
「其児 名 加差披余(ナ カサハヨ)、其児 名 乎獲居(ナオ別)臣、
世々 為杖刀人首、奉事 来至今、獲加多支鹵大王 寺在 斯鬼宮 時、吾左 治天下、
令作 此 百練利刀、記 吾奉事 根原也」


<天下の思想がこの頃からあることが、驚異的です。天下=アマタラスと読むのでしょうか。
崇神天皇に仕えた四道将軍・大彦が私(鉄剣の持ち主)の先祖で、
その息、建沼河別もしくは、伊那許士別。許士と書いて、加利(足尼=ワケ?別?)
タカヒジ別で、該当者が判らなくなりますが、のち関東の有力者、崇神の息・豊城入彦とは別系譜とすれば、
崇神の母系の有力者、物部ノ 建 膽心(タケイココロ)を、建 膽心(タケヒジ)と読んでみては・・・。
(中略)
「志紀ノ宮」のワカタ○○大王の左にあって、○○に入る発音は、
<支鹵=シロ?シル?シキ?シハ? 何故にケルと読めるのか?>
アメタラスの系譜で、ワカタラシとか、若(稚)足下、の意味なのでは?
稲荷山古墳は、豊城入彦系(上毛野)系譜ではなく、物部系の将軍の墓。
年代は笠原国造関連の531年ではなく、470年代で良いかと思われます。
崇神天皇の代から天下統一の為、物部氏が各地に遠征していることは間違いなく(大彦の子孫も)、
それ以前にも(欠史八代)、統一王朝を夢見る勢力が、畿内に存在したことは間違いないことだと
思います。
崇神帝以前は虚構と断じる「歴史を否定する歴史学」こそ、「史学に益なし」です。



→敏達天皇 →用明天皇 →


「敏達天皇」


沼名倉太珠敷 命 (*~585)渟中倉太珠敷尊・他田天皇・「敏達天皇(ビタツ)」・ヌナクラ フトタマシキ。異母弟に用明天皇。室に堅塩姫の娘・額田部皇女。欽明帝の跡職を継承。587年中臣勝海が竹田皇子を呪詛。廃仏派で物部守屋を重用。息に彦人皇子。

【糠手ノ姫 皇女】 (*)田村皇女。母は采女・伊勢大鹿ノ首ノ小熊の娘。押坂彦人大兄皇子の室。息に田村皇子(舒明帝)。

↓[推古 天皇] (554~628)炊屋姫皇后・額田部皇女。母は蘇我稲目の娘。欽明天皇の皇女。異母兄の敏達天皇の室。592年崇峻天皇の死により即位。竹田皇子が早世し継承者を亡くす。息に竹田皇子、尾張皇子。娘婿に聖徳太子、彦人皇子、舒明天皇。

▽三輪ノ 逆 (*)君・サカウ。大和の豪族。徳牛の息。敏達天皇の側近。物部守屋、中臣磐余とともに蘇我氏の寺塔を襲撃。穴穂部ノ皇子と敵対し、物部守屋、蘇我馬子軍に攻囲され、一門の三輪白堤、三輪横山の離反で、息子たちとともに戦死。<全豪族から敵視されたのは嫉妬からくるものでしょうか。>

▲息長ノ 阿豆ノ 王 (*)厚ノ皇子・亜豆ノ王。継体天皇の息。母は和珥ハエ媛。欽明天皇の弟。娘・比呂女命は敏達天皇の后。孫に忍坂彦人太子。<皇室の長老的な人物のわりに事跡不明。>

(出雲)


出雲ノ 叡屋 (*)出雲国造。22代。美許の息。息に帯許。


600年 遣隋使『隋書』「東夷伝 倭国条」。阿毎多利思比弧(アメタラシヒコ)・阿輩?弥(オオキミ)。
天を兄とし、陽を弟とする。夜に政治を執り、昼は(太陽である)弟に任せる。<天の「月読」は大王自身の事かもですね。600年代の大王が兄弟ならば天は?、太陽は?>


「用明天皇」


橘ノ 豊日ノ 命 (*~587)(蘇我)・大兄(大江?)・池辺皇子・「用明天皇(ヨウメイ)」。欽明天皇の息。母は蘇我稲目の娘(堅塩姫・キタシヒメ)。敏達天皇の異母弟。室は穴穂部ノ皇女。587年病死。義兄弟に穴穂部皇子、崇峻天皇。崇仏派の蘇我馬子を重用。息に多米王、厩戸王(聖徳太子)、久米王(来目皇子)、当麻王(タザマ)。<大兄=大江で淀川の大王・・>

【穴穂部ノ 間人ノ 皇女】 (*)あなほべ。欽明帝の娘。母は蘇我ノ小姉。用明帝の后。帝没後、田目皇子と再婚。息に厩戸皇子。

▽穴穂部ノ 皇子 (*~587)(蘇我)・あなほべのおうじ・天香子皇子・住迹(スミノト)皇子・須売伊呂杼(すめいろど)。欽明天皇の息。母は蘇我稲目の娘(小姉君)。敏達天皇の弟。弟に泊瀬部ノ皇子(崇峻帝)物部守屋と結び敏達天皇の腹心、三輪ノ逆を討つ。穴太部・三枝部を率いる。皇位を望み、甥の厩戸ノ皇子に阻まれる。敏達帝后(推古帝)に無礼を働き誅殺される。

宅部ノ 皇子 (*)宣化天皇の息。物部守屋との関係から蘇我馬子の刺客に害される。

<息長系皇族>



▽彦人ノ 皇子 (*)(息長)・押坂彦人・麻呂子ノ皇子。敏達天皇の息。母は息長真手王の娘・比呂女(廣姫)。外祖父は息長阿豆王。忍坂部、丸子部を支配。587年中臣勝海により呪詛。室に異母妹の小墾田皇女。587年皇位を望まず大和水派宮に隠居。息に舒明天皇(田村皇子)、茅渟王。孫に天智天皇、天武天皇。<押坂=息長か。天智が大江(大兄)と名乗り、近江に拠点を持つのも納得がいくような気がします。><押坂=大坂に繋がっていくと地名的にもおもしろいのですが(妄想~。>

▽茅渟ノ 王 (*)(息長)・チヌ・茅渟皇子・智奴王。押坂彦人皇子の息。母は大俣王姫。田村皇子(舒明帝)の弟。欽明帝の息・桜井皇子の娘(吉備姫王)婿。子に宝女王{皇極(斉明)帝}、軽王(孝徳帝)。<大俣姫の兄が漢王(あやのおう)とされる。河内の息長河派の系譜の姫、かつ東漢氏との所縁が推測されます。><茅渟は大阪湾、和泉の海域の事を指す。近江息長、河内息長、和泉湾岸の息長の勢力圏が推測されます。>


587年「丁未の内乱」(廃仏(物部) VS 崇仏(蘇我))


(物部軍団)
物部ノ 守屋 (*~587)大連。河内渋川郡の豪族。物部尾輿の息。母は弓削倭古の娘。敏達天皇(廃仏派)の将。中臣勝海とともに廃仏運動。585年蘇我馬子建立の大野丘ノ塔を襲撃。穴穂部皇子を擁立するが蘇我氏に阻まれる。「餌香河原の合戦」に敗北。河内国八尾渋川の本拠地「衣摺の合戦」に滅亡。<物部の稲城という砦が存在するようです。>
中臣ノ 勝海 (*~587)連・大夫。物部家一門。彦人皇子、竹田皇子を呪詛。
物部ノ 八坂 (*)物部家家人。中臣勝海の死後に蘇我馬子への使者。
大市ノ 小坂 (*)造。物部家家人。中臣勝海の死後に蘇我馬子への使者。
漆部ノ 兄 (*)造。物部家家人。中臣勝海の死後に蘇我馬子への使者。
捕鳥部ノ 萬 (*~587)物部家家人。難波宅を守備し奮戦。自害する。

→崇峻天皇 →推古(敏達后)天皇 →舒明天皇


「崇峻天皇」

泊瀬部ノ 皇子 (*~592)長谷部若雀天皇・「崇峻天皇」。欽明天皇の息。母は蘇我稲目の娘。敏達天皇の弟。穴穂部皇子の弟。室は大伴ノ糠手の娘(小手子)。蘇我馬子の娘(河上娘)。用明帝の跡職を継承。蘇我氏により擁立される。592年東漢直駒により殺害される。兄弟に穴穂部皇子。息に蜂子ノ皇子、錦手ノ皇女。
▽蜂子ノ皇子 (*)崇峻帝の息。母は大伴糠手の娘。崇峻帝の死により、出羽落ち。出羽三山を開山するという。
【蘇我ノ河上郎】 (*)馬子の娘。崇峻帝の女御。姉妹に聖徳太子妃の刀自古郎女。
▽竹田ノ 皇子 (*~*587)敏達帝・推古帝の息。587年中臣勝海により呪詛。物部氏討伐に出陣。以降消息不明。姉婿に厩戸皇子。
難波ノ 皇子 (*~*587)(春日)。敏達天皇の息。母は春日臣仲君の娘(老女子)。物部氏討伐に出陣。以降消息不明。
春日ノ 皇子 (560~615)(春日)。敏達天皇の息。母は春日臣仲君の娘(老女子)。物部氏討伐に出陣。以降事績不明。
田目ノ皇子 (*)多米王。蘇我ノ小姉の娘・穴穂部間人皇女(元・用明帝后)と婚姻。娘に佐富姫。

【推古天皇】(敏達后)


【額田部皇女】 (554~628)[推古 天皇]・豊後食炊屋姫・炊屋姫皇后・額田部皇女。欽明天皇の皇女。母は蘇我稲目の娘・堅塩姫。用明帝の妹。崇峻帝の跡職を継承。最初の女帝と呼称される帝。異母兄の敏達天皇の室。592年崇峻天皇の死により即位。摂政に聖徳太子。無礼を働いた穴穂部皇子を処刑する。竹田皇子が早世し継承者を亡くす。息に竹田皇子、尾張皇子。娘婿に聖徳太子、彦人皇子、舒明天皇。
【小墾田皇女】 (*)敏達帝・推古帝の娘。異母兄弟・押坂彦人皇子の室。
尾張ノ皇子 (*)敏達帝・推古帝の息。娘(位奈部橘皇女)婿に厩戸皇子。
▽穂積ノ磐弓 (*)推古帝に出仕。室に笠味夫の娘・黒斗売(姫)。息に祖足。
▽穂積ノ祖足 (*)推古帝に出仕。600年征新羅副将軍として、新羅出征。五城を抜く。

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