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10世紀以降の大和朝廷豪族軍。武家の世まで その1 私設軍と新興武士団


第59代宇多帝~第81代安徳帝

<歴代天皇> 宇多帝→醍醐帝→朱雀帝→村上帝→冷泉帝

宇多天皇 (867~931)源ノ定省。光孝天皇の息。第59代天皇<在位:887~897>。父の急死により、関白・藤原基経の後見で即位。菅原道真を登用。<宇多源氏の祖。>

菅原道真 (845~903)下野権少掾・讃岐守・右大臣・参議。菅原是善の息。母は伴ノ真成の娘。醍醐天皇の時に右大臣。901年左大臣・藤原時平との政争に敗れ大宰府に左遷される。死後に天変地異が多発。朝廷貴族に畏れられ、のち「天満天神」として祀られる。息に高視。

▽藤原時平 (871~909)関白・藤原基経の息。母は人康親王の娘。醍醐天皇の代に左大臣。901年大納言・源ノ光とともに菅原道真を失脚させるが、909年病没する。源ノ光は913年に溺死。

醍醐天皇 (885~930)維城・敦仁親王。宇多天皇の息。母は内大臣・藤原高藤の息。第60代天皇。藤原時平、菅原道真を左右大臣とする。901年菅原道真を大宰府に左遷。時平死後は弟の忠平を登用。<醍醐源氏の祖>

朱雀天皇 (923~952)第61代天皇<在位:930~946>。醍醐天皇の息。母は藤原基経の娘。叔父・藤原忠平が摂関。935年「平ノ将門の乱」。936年「藤原純友の乱」。藤原忠文を征夷大将軍に任じる。藤原秀郷、橘ノ遠保の活躍で乱を鎮圧。

村上天皇 (926~967)成明親王。第62代天皇<在位:946~967>。醍醐天皇の息。母は藤原基経の娘。949年藤原忠平の死後は親政。摂関家の藤原実頼、師輔兄弟を登用。

冷泉天皇 (950~1011)第63代天皇<在位:967~969>。村上天皇の息。弟に円融天皇(守平親王)。弟の為平親王(源ノ高明の後見)と守平親王の間で「安和の変」が起き、譲位する。<「安和の変」藤原秀郷の息・千晴失脚>

十世紀
「もののふから、さぶらうものへ。」 侍の始まり


滝口武者=宇多天皇統治時期 887~897年。当初10名定員。 

平安・鎌倉時代に蔵人所に属して禁中の警固にあたる武士。宇多天皇(889~897)が創設。清涼殿の東庭北方にある御溝水落口(滝口)の番所詰め。
宇多天皇の890年代から白河天皇の1070年代まで、「北面の武士」が創設されるまで、180年近く歴代の天皇に仕える歴代の「兵道(武芸・射芸・馬芸)の達人」がいたのでしょう。武者を輩出する家が「つわもの(兵)の家」として洗練された武芸道を極めていった事でしょう。
平ノ将門が一時、滝口を姓とするのは、滝口に選ばれることがとても名誉なものだったからでしょう。

≪個人的感想≫ 古代遺跡から中国などでよく用いられてる「弩・ど・(ボーガン)」が遺跡から出土しているようなので、大陸的な武器が、日本に伝わってることは伝わってるみたいです。それが何故、鉄砲のように独自に発展しなかったのか・・・・。
 戦闘スタイルが馬車ではなく騎馬だから? 弩は一射すると装転に時間がかかるから? 飛距離が西国九州の強弓に比べて短いから? それとも東国の騎射用の弓よりも飛距離が長すぎるから? などいろいろ考えるんですが・・。
戦闘の目的が大陸の戦争のような大量殺人を目指していないとかなのでしょうか・・。
 「侍」は少人数でゲリラ的に個人を襲撃するため、「弩」は実戦にそれほど有効でないとかでしょうか。
それとも、芸道として己の武芸を磨く侍には、射術の差が表れない「弩・ど」のような兵士量産型武器に魅力が感じられなかったプライドの問題なのか・・。
 (そういえば弩は、アイヌでは「仕掛け弓」として獲物を24時間狙えるすぐれものに発展しています。しかも矢には毒塗りで。)
 源ノ満仲の息子の源ノ頼親が貴族に「殺人の達人」とよばれていますので、武士はもっともスマートに
一瞬で殺人できることに美学が求められていたのかもしれませんね。
現代でも「瞬殺」という言葉もありますし。毒矢でじわじわ というのとは目指しているものが違うのかもしれません。
「弩」が無くなったのは、やはり精神上の問題で、「武士道」の殺しの方法から、はずれるのが最大の原因でしょうか。

 「前九年の役」では頼親の一族の子孫・源ノ義家が、蝦夷の戦士も驚くほどの「殺人マシーン」ぶりを発揮して、戦況を一変させていたりしています。
武士の中でもずば抜けた「鬼武者」だったのでしょう。
平安時代は、「つわものの家」では、子供は幼少から芸道として武芸を訓練されて、とんでもない殺人鬼が作り上げられていたのかもしれませんね。
「八幡太郎は恐ろしや。」

 日本人の大半は農民とはいいますが、それは最終的な明治の時点での状況であったろうし、戦乱の中でばらまかれた侍の遺伝子が、
何度かの循環(敗者になって帰農したり)でシャッフルされているでしょうし、列島人の大半は「侍」的な遺伝子要素をもってるんじゃないでしょうか。
戦乱の数百年、さかのぼって始まりからの二千年の間に、平和だった時代なんて一瞬だったんじゃないでしょうか。
よく現代の人達はうちは農家やからとかいいはりますが、代々農家やから「侍魂なんてない」 なんて思わないで下さい。 今、自分の存在があるということは、
先祖が頑張って、過酷な日本列島の戦乱の中で生き抜いてきたということですから。

十世紀~

歴代の天皇
円融帝→花山帝→一条帝→三条帝→後一条帝

円融天皇 (959~991)朱雀院上皇。第64代天皇。村上天皇の息。母は藤原師輔の娘。967年藤原実頼が摂政。以降、「摂関常置」。関白・藤原頼忠。

⇔▽藤原兼通 (925~977)関白・堀河殿。実頼の弟・藤原師輔の息。伊尹、兼家は兄弟。974年太政大臣。「藤原長者」を頼忠から譲渡される。

⇔▽藤原頼忠 (924~989)関白・太政大臣。実頼の息。兼通の死により「藤原長者」に復帰。藤原兼家との政争に敗北。一条院の代に隠居。

⇔▽源ノ高明 (914~983)西宮左大臣。醍醐天皇の息。藤原師輔の娘婿。968年冷泉天皇により左大臣。為平親王の外戚。969年源ノ連、橘ノ繁延の謀反に家臣・藤原千晴が関わり連座。源ノ満仲、藤原善時により館を包囲される。息の忠賢とともに大宰府に配流される。<「光源氏」のモデルという説も。源氏の息子の夕顔も出世するので、兼家・道隆か、道長・頼道とを混ぜて生み出されたような気もします。>

⇔▽藤原兼家 (929~990)摂政・関白・太政大臣。藤原北家。藤原師輔の息。母は藤原経邦の娘。孫の一条天皇を即位させ権勢を得る。息に道隆、道兼、道長。

⇔▼藤原有国 (943~1011)石見守・越後守・在国・「弼宰相」。豊前守・輔道の息。関白・兼家の家宰。道長の九州経営の代官として太宰権帥。道隆の家督により失脚。秦ノ有時の殺害容疑者となる。道長に仕え太宰大弐。<藤原北家を支える藤原氏。>

⇔▼平ノ惟仲 (944~1005)中納言・美作守・筑後守・相模守・肥後守・太宰権帥。桓武平氏・高棟流。美作介・平ノ珍材の息。藤原兼家・隆家・道長の家宰。同僚の藤原有国に代わり太宰権帥。九州にて死去。弟に生昌。息に平ノ道行。娘婿に源ノ頼光。養子に忠貞(源ノ致治の息)。<源氏が棟梁となる以前に、平家がすでに権勢を・・。><伊豆守・惟房の「惟」の字は・・>

花山天皇 (968~1008)第65代天皇。冷泉天皇の息。母は摂政・藤原伊尹の娘。関白・藤原兼道。977年兼道、弟の兼家を失脚させる。986年藤原道兼に騙され出家。異母兄弟に三条天皇。息に清仁親王。

⇔▽藤原義懐 (957~1008)権中納言。摂政・藤原伊尹の息。花山天皇の外叔父として重用される。

十一世紀~ 

後朱雀帝→後冷泉帝→後三条帝→白河帝

坂東、平ノ将門の本貫地と周辺豪族

一条天皇 (980~1011)懐仁親王。第66代天皇。円融天皇の息。986年即位。関白・藤原頼忠。外祖父・藤原兼家が摂政。990年藤原道隆が関白・摂政。995年道隆に続いて藤原道兼死去。996年花山上皇に藤原伊周、藤原隆家兄弟の不敬事件。

⇔▽藤原道長 (966~1028)摂政・太政大臣・御堂関白。道隆の息、伊周との政争に勝利。息に頼通、頼宗、顕信、能信、教通、長家、長信。

⇔↓▽藤原伊周 (974~1010)道隆の息。996年花山上皇への不敬事件により、検非違使別当・藤原実資に館を包囲される。のち大宰府に配流。息に道雅。

⇔▽藤原実資 (957~1046)小野宮。藤原斉敏の息。祖父・実頼の養子。検非違使別当。<九州太宰権帥・藤原隆家と懇意>

⇔▽菅原孝標 (*)因幡掾・上総介・常陸介。資忠の息。道真の曾孫。藤原倫寧の娘婿、高階成行の娘婿。息に定義、基円。

<道長随身>
⇔下毛野公忠 (*)右近衛府生。右近将監・敦行の息。後一条天皇の代に近衛。藤原道長の随身、頼通の随身。1018年摂関家執事・有国の息、播磨守・藤原広業に無礼を働き失脚。

⇔下毛野光武 (*)右近衛府番長。部領使に立候補。太宰使に推挙される。1018年摂関家執事・藤原有国の息である播磨守・藤原広業に無礼を働き失脚。

⇔播磨貞安 (*)右近衛府番長。部領使に立候補。山陽道部領使。播磨国の相撲人を従える。1018年摂関家執事・藤原有国の息である播磨守・藤原広業に無礼を働き失脚。<姓からして播磨の豪族か。播磨守・広業と何か対立する問題が起きたか。>


三条天皇 (976~1017)第67代天皇<1011~1016>。冷泉天皇の息。母は藤原兼家の娘。花山天皇の異母弟。藤原道長の娘(中宮妍子)婿。藤原済時の娘・?子を皇后とし道長と対立。

後一条天皇 (1008~1036)第68代天皇。敦成親王。母は藤原道長の娘(中宮彰子)。室に道長の娘(威子)。1017年即位。摂政・藤原道長。その息・藤原頼通が同年に継承。1018年元服。1019年「刀伊の入寇」。1027年藤原道長没する。1028年「平ノ忠常の乱」。検非違使・北条直方・中原成道が追討使。1028年大和守・藤原保昌が金峯山宗徒に訴えられる。1030年甲斐守・源ノ頼信が追討使。1036年病没。


1028年

⇔▽藤原頼通 (992~1074)摂政・関白・太政大臣・宇治殿。道長の息。母は源ノ雅信の娘。後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇を補佐。関白を50年間勤める。平等院鳳凰堂を建立。

⇔▽菅原定義 (1002~1065)和泉守・文章博士。菅原氏長者。孝標の息。藤原相任、在良、実方の娘婿。息に是綱、忠章、在良、清房、正長、輔方、茂富、定快。
 
後朱雀天皇 (1009~1045)敦良親王。第69代天皇<1036~1045>。一条天皇の息。母は藤原道長の娘(中宮彰子)。1036年即位。67代三条天皇の娘婿。藤原道長の娘(嬉子)婿。1037年東大寺と興福寺騒乱。1051年「安陪頼時の反乱」。

後冷泉天皇 (1025~1068)親仁親王。第70代天皇<1045~1068>。後朱雀天皇の息。母は藤原道長の娘。

後三条皇 (1034~1073)尊仁親王。第71代天皇<1068~1073>。後朱雀天皇の息。藤原氏の勢力を排除することに専念。
 
白河天皇 (1053~1129)貞仁親王。第72代天皇<在位:1073~1087>。後三条天皇の息。母は摂関家以外の藤原氏の中納言・藤原公成の娘(茂子)。異母兄弟に実仁親王。

東国の争乱

 
 白河帝→堀河帝→鳥羽帝→崇徳帝→近衛帝

十世紀~ 兵(つわもの)・兵家(つわものの家)


<894年新羅海賊、対馬襲撃。対馬島司・文室善友が撃退。>


⇔↓○藤原利仁 (*)鎮守府将軍・上総介・武蔵守。藤原北家・魚名流。藤原時長の息。母は秦ノ豊国。越前国敦賀の豪族・藤原有仁の娘婿。911年上野介、つづいて上総介、下総介、武蔵守に任官。915年下野の高倉山蔵安、高坐山蔵宗の山賊を鎮圧し鎮守府将軍に任官。息に公統、叙用。娘は秀郷の孫・文脩の室。

⇔上毛野基宗 (*)上野国の豪族。915*916年上毛野貞並とともに上野介・藤原厚載を討ち滅ぼした事を奏上、基宗・貞並は武蔵で捕縛される。上野大掾家・藤原連江は中立。<中山道混乱。>


<932年 摂政:藤原忠平 追捕海賊使を定める>


○藤原利行 (*)山本・鎮守府将軍。藤原北家。藤原利仁の息(4男)。越前国角鹿出身。朱雀天皇に出仕。912年利仁に従い下野従軍。のち重症を負い931年越前帰還。黒龍村毛谷神社の神官家となる。

⇔小野春継 (*~932)讃岐介。藤原純友の妹婿。私怨でもって伊予国大洲館の藤原純友を攻撃し、逆襲にあい戦死。朝官の「介」の同僚を殺害したため純友が海賊化したとも。

<933年備前国に海賊横行><山陽道混乱>

⇔○平ノ良望 (*~935)平ノ国香・常陸大掾・鎮守府将軍。
⇔○平ノ良兼 (*~939)鎮守府将軍。高望王の子息(次男)。
⇔○平ノ良将 (*)鎮守府将軍。・良持。高望王の子息(三男)。下総の豪族・犬養春枝の娘婿。鎮守府将軍となる。平ノ将門の実父。下総国豊田郷を領す。遺領を兄・良望(国香)が収めた為、子息の将門が平家一門から叛乱する。

平ノ将門の乱と討伐軍


[日本国の乱逆のはじまり]
[ 平ノ将門 ]・[ 藤原純友 ]

平ノ将門 (902~940)相馬・滝口・小次郎。下総国出身。①高望の三男・良将の息。平下総介・良兼の娘婿。京都で藤原忠平の郎党を務める。将門は下総を本拠とし、935年源ノ護・平良兼と争う、また領地をめぐって叔父・良望(国香)と対立し殺害。939年「平ノ将門の乱」を起こす。「新皇」と称し、関八州を席捲する。王城を下総猿島郡石井郷に造る。940年平ノ貞盛・藤原秀郷の連合軍に破れ、猿島で討死。下総国豊田郷を領す。<叔父・平ノ良文とは同盟関係にあるようです。父の良将と良文の母つながりなのでしょうか>

坂東、平ノ将門の勢力圏

⇔935年 源ノ護の三子息と平ノ良望(国香)が、[ 平ノ将門 ]に敗死する。<平家の系譜のページを参照してください。>


▽源ノ頼重 (*)望月頼重・諏訪・左衛門尉・重頼・忠頼。醍醐天皇の家臣。信濃国望月(諏訪?)の領主。息に甲賀三郎。<伝説上の人物です。>
▽望月頼平 (*)源・望月・太郎・信濃守・重宗・諏敏。信濃源氏。弟に甲賀三郎。若狭国高懸山の賊を討伐。下野国宇都宮に移住。<伝説上の人物です。>

▽望月頼忠 (*)源・諏訪・次郎・美濃守・定頼・貞頼・諏任。信濃源氏。弟に甲賀三郎。若狭国高懸山の賊を討伐。若狭に移住。<伝説上の人物です。>

鬼愉王 (*)高懸(こうか)・鬼輸王。若狭国高懸山の豪族。近江伊吹山に進出。勅命を受けた甲賀三郎に討伐される。<伝説上の人物です。>

●藤原忠文 (873~947)宇治民部卿・征夷大将軍(4代940)。藤原枝良の息。母は息長息継の娘。

⇔↓○藤原秀郷 (*)田原藤太・俵藤太・下野守(国司)・下野押領使・武蔵守(国司)・鎮守府将軍。下野大掾家。下野の安蘇郡佐野荘の豪族。916年罪を得て流罪される。939年「平ノ将門の乱」で将門を討ち取る。<近江粟田郡田原か、相模大住郡田原の出身。弓術に秀で近江三上山の大ムカデ(大蛇)退治に活躍。><子孫の藤原秀康は「承久の乱」の大将。>


935年 海賊大将・[ 藤原純友 ]蜂起

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<936年↓南海道使:紀ノ淑人、伊予に派遣さる>

<南海道混乱>

<938年橘ノ近安、朝廷の追討令により関東の諸氏に追捕さる>

<関東混乱>

<938年出羽国の俘囚叛乱>

<奥州混乱>

⇔●藤原忠文 (873~947)宇治民部卿・征夷大将軍(4代:940)。藤原枝良の息。母は息長息継の娘。

⇔○平ノ貞盛 (*)鎮守府将軍。
▽甲賀兼家 (*)諏訪・一二郎。平ノ貞盛の家人。諏訪重頼の息。伊賀の豪族。939年平ノ将門討伐に従軍。軍功により甲賀郡司。<伝説上の人物です。>

▽甲賀諏方 (*)高懸三郎・望月兼家・隠岐守・頼方・頼形。安寧天皇の後裔。甲賀権守諏胤の息。兄に太郎、二郎。室は春日権守の娘。朝廷の命で若狭国高懸(こうか)山の賊・鬼愉王を討伐。939年平ノ将門討伐に従軍。勲功により伊賀、近江半国守護。<伝説上の人物です。>


<947年陸奥国鎮守府役人、蝦夷人に殺害さる>

<947年鎮守府将軍:平ノ貞盛が狄賊坂丸を討つ>

<奥州混乱>

⇔源ノ信明 (910~970)若狭守・備後守・越後守・陸奥守。右大弁・源ノ公忠の息。朱雀天皇の蔵人。息に国定。娘婿に藤原伊尹。

⇔○源ノ信孝 (*)鎮守府将軍。右大弁・源ノ公忠の息。信明の弟。息に信輔、加賀守・兼澄。

⇔平ノ繁盛 (*)陸奥守。常陸平氏。平ノ良望(国香)の息。将門を打倒した貞盛の弟。右大臣・藤原師輔の家人。986年武蔵平氏の平ノ忠頼(忠常の父)に比叡山への寄進を妨害される。息に平ノ兼忠、維茂、維幹。

⇔平ノ維叙 (*)右衛門少尉・肥前守・上野介・常陸介・陸奥守。平ノ貞盛の息。藤原実資に出仕。京都の警備にあたる。弟に維将、維衡、維敏、(維幹?)。息に平ノ永盛(永成)、維輔、貞叙。孫に信盛。

⇔平ノ兼忠 (*)上総介・出羽守。平ノ繁盛の息(3男とも)。平ノ忠頼・忠常親子と対立。息(養子?<叔父・貞盛の養子となる>)に平ノ維茂(城ノ維良)、多気(海道)維幹。

⇔藤原義理 (*)出羽守・義雅。1001年出羽城介・源ノ信親を害する。「出羽争乱」。

⇔平ノ季信 (*)出羽城介。1002年源ノ信親の後任。娘は出羽弁という有名な歌人。

⇔藤原実方 (*~998)藤中将・陸奥守。定時の息。父の死により叔父・済時の養子。母は源ノ雅信の娘。一条天皇に出仕。天皇御前にて藤原行成と喧嘩。995年陸奥守。清少納言の恋人として有名。奥州名取郡笠島にて落馬死。<平ノ将門は祖・藤原忠平の元家人。>

⇔橘ノ道貞 (*~1016)下総守・陸奥守。橘諸兄流。仲任の息。藤原道長の家人。大江雅致の娘(和泉式部)婿。1004年陸奥守。友人に尾張守・大江匡衡。息に通道。

⇔藤原済家 (*)陸奥守。藤原北家・山蔭流。清通の息。兄に輔公。1009年陸奥守。

<953年駿河益頭郡司:伴ノ成正 賊徒に殺害さる>

<東海道混乱>


<954年駿河介:橘ノ忠幹が賊徒に殺害される>

<東海道混乱>

⇔藤原敏有 (*)武蔵守。娘婿に源ノ経基。孫の源ノ満仲、満政、満季が武蔵守・武蔵介を継承。

⇔○藤原善時 (*)武蔵介。969年「安和の変」に源ノ満仲と結んで、藤原千晴・久頼親子を追い落とす。<藤原北家の武士か。>


969年「安和の変」源ノ高明、源ノ連、平ノ貞節、橘繁延、藤原千晴・久頼親子が配流される。


<988年尾張国司:藤原元命の悪政 百姓ら31か条の「尾張国解文」を奏上、藤原元命罷免さる>


○藤原文脩 (*)鎮守府将軍。藤原秀郷流。藤原千常の息。藤原利仁の娘婿。下野国にて軍功。988年鎮守府将軍に任官。

⇔↑○▽藤原千常 (*)鎮守府将軍。藤原秀郷の息(5男)。息に秀清、文脩。

十一世紀~


⇔平ノ維衡 (*)上総ノ介・常陸ノ介・帯刀舎人・陸奥守・出羽守・伊豆守・下野守・上野介・佐渡守・伊勢守・備前守。伊勢平氏の祖。平ノ貞盛の息。京都で藤原道長、藤原実資、藤原顕光の郎党を務める。998年平ノ公雅、平ノ致頼と伊勢の所領を巡り合戦に及ぶ。1006年伊勢守として任地に赴く。85歳。伊勢国桑名郡を領す。『十訓抄』に平ノ致頼・藤原保昌とともに優れた武者と記される。一条天皇の御世(986~1011)「平ノ維衡・平ノ致頼(良兼の孫)のふたり、天下の一物也。」と『続本朝往生伝』大江匡房により名を記される。従兄弟に城ノ維茂(惟茂)、多気維幹。息に平ノ正輔(正清)、正度、正済兄弟。

⇔平ノ正済 (*)出羽守。貞盛の孫。源ノ頼義の娘婿。平ノ維衡の息(3男)。平ノ正度の弟。京都の警備にあたる。信濃に所領。息に(出羽守)貞弘、(信濃守)正家。孫に正弘、資盛。<子孫に平ノ家弘(1156年没)。>

○▽藤原兼光 (*)鎮守府将軍。藤原秀郷流。藤原文脩の息。藤原利仁の孫。1012年鎮守府将軍。

⇔源ノ親平 (*)1012年出羽守。
⇔大中臣宣言 (*)1017年出羽守。

⇔○藤原諸任 (*)出羽の豪族。藤原秀郷の孫。余五将軍・平ノ維茂と抗争。『今昔物語』に登場。<武蔵権介・平ノ義盛と、余五将軍・平ノ維茂は同時代の英雄でしょうか。>

⇔▽藤原千清 (*)<斎宮頭?>。藤原秀郷流。藤原千晴の息。息に正頼。養子に頼遠。従兄弟に鎮守府将軍・文修(千常の息)。<陸奥権大掾・坂上有行の息・頼遠(坂上有遠の弟)を養子とするとも。><千清は『結城系図』藤原諸任と同一人物とも。>

⇔平ノ貞弘 (*)出羽守。平ノ正済の息。<信濃に勢力をもっていたのでしょうか。出羽守となり、城氏とは、どういう関係だったのか気になります。>

⇔平ノ維茂 (*~1022)信濃守・出羽介・鎮守府将軍・「余五将軍」。常陸の海道平氏。将門を打倒した平ノ貞盛の15番目の息(養子とも、実父は平ノ繁盛)。1003年下総国府を焼き討ち。押領使・藤原惟風に追討され越後に逃亡。藤原諸任と抗争する<陸奥の豪族・藤原師種を討つ。諸任=師種は同一人物?>。1014年藤原道長に贈答品を送り鎮守府将軍。のち出羽に派遣され土着。「余五将軍」と武勇を賞賛される。<山城の鬼女を退治した伝説を持つ。><1018年鎮守府将軍の平ノ永盛との関係が気になります。><平ノ維良と同一人物とも。>

⇔平ノ維良 (*)鎮守府将軍。兼忠の息。1003年下総国府焼き討ち。越後に逃亡。1014年鎮守府将軍拝領のため藤原道長に贈答品。1016年鎮守府将軍。1018年陸奥守・藤原貞長と合戦。<平ノ維茂と同一人物とも。>

⇔藤原貞仲 (*)陸奥守。1016年鎮守府将軍。1018年鎮守府将軍・平ノ維良と抗争。

⇔平ノ永盛 (*)「平群将軍」・鎮守府将軍・永成。平ノ維叙の息(秋田城介・平群利方の息とも)。母は平ノ貞盛の娘。兄弟に貞叙、維輔。平ノ季信の娘婿。1018*19年鎮守府将軍。息に筑後守・頼義。
<名前の「永」の字が安倍氏の娘婿、平(伊具)ノ永衡(*~1056)に通じるような気がしますが。永盛の子孫が伊具に土着などしてないものでしょうか。><息子の平群将軍・頼義は、安倍頼義とも名が通じる気がするのですが。平群頼義、安倍頼義、源ノ頼義と流行の名だったのでしょうか。>

⇔↓橘ノ則光 (*)陸奥守・陸奥前司。藤原道長に近侍。1019年陸奥守。任地にて砂金を収集。

⇔平ノ孝義 (*)相模守・陸奥守。1008年相模守。1023年陸奥守。

⇔▼▼藤原頼行 (*)鎮守府将軍。藤原秀郷流。兼光の息。1025年鎮守府将軍。

⇔多米国隆 (*)出羽守。1027年出羽守。

1028年「平ノ忠常の反乱」
(1030年源ノ頼信の関東進出)

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