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織田軍その3 六道大軍団長(西東海・東山道):瀧川一益・一忠の家臣団と軍団

瀧川一益(滝川一益)の略年表と家臣団と軍団

織田家畿内主力軍 二大軍団のひとつ瀧川軍大将。 のち東国・関八州警固役。

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瀧川一益 肖像のつもり。

 「 先駆けは瀧川、 殿軍も瀧川。 」 

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一益の担当圏、更に
信長公の御名代、織田信忠を後見・補佐し畿内を制圧。


瀧川一益の略年表 (*1525~1582)

略年表 仮称・関東方面軍軍団長。
 近江国甲賀郡大原出身。近江五反田城主、伴(大原・富永)資清の息。池田恒興の縁戚。<南近江出身なのは間違いないようです。近江佐々木・大原一族と縁があるとのことですが、近江には佐々木(源氏)より古く、先に大伴氏族が土着しているので、地元有力者に迎えられる形で近隣名族は全て、たび重なる婚姻により血縁関係が存在していたのではないでしょうか。一益自身が旗印として伴氏の家紋を使用しているので、血統を自己主張している通り、先祖は大伴氏族だと思います。織田方について大原一族から除名されたとかでなく、最初からある程度の距離感を持った地縁なのでは・・。その地縁の「つて」で故郷の豪族の調略の為に書状を送ることはあると思います。池田・瀧・中村等の縁戚も含めて一益の先祖を考えたいと思います。冨永(設楽)氏も大伴氏ばかりでなく佐々木(富永荘)の血が入ってるといわれます。母方か父方か、古代からの大伴の(荘園)地盤に佐々木(源氏)が根を降ろす中で婚姻関係がきっと結ばれたのでしょう。><一益の先祖が大伴系のほうが、軍団長として東北に派遣される事に、古代からの理由(大伴家持とか)があっておもしろい感じはします。神主の織田家は神道に通じているでしょうし、織田家の行動パターン的に信長様はきっと古代史や歴史の事情通だったと推測されます。周りにも「天道」を説くアドバイザーがいたのだと思えます。>

30歳(1555) この頃、六角義賢に追われ、信長の美濃攻めに加わると伝わる。<1554・1557六角家臣・小倉河内守の伊勢侵攻>
*年 7/18:津島天神祭りの踊り御張行にて瀧川左近衆を率いて「餓鬼」役を務める。
<自分の部隊をもつ程の役職にあったようです。>
31歳(1556) 守山城主・織田信次が服部友貞に敗北する。
35歳(1560) 永禄3年。「桶狭間の合戦」に先駆けを務める。
36歳(1561) 三河国松平氏との同盟交渉に功あり。

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<吉良家重臣・富永(松平清康と富永忠安が義兄弟)の旧縁か?設楽・瀧川一族のつてか。>

39歳(1564) 織田家に内通した美濃国・徳山則秀の元に明院良政とともに使者として派遣される。11/*:北伊勢の長野家老・分部光嘉が音信。
<1566年瀧川彦右衛門、美濃国境へ出陣。>

40歳(1565)服部友貞の不在を突いて、市江島に進出。鯏浦城を築城。

41歳(1566)桑名に出陣し下深谷城の近藤家教を討つ。1567年北伊勢を攻略するための「東海道(西)方面軍」の成立。

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42歳(1567) 永禄10年。2/*:北伊勢に侵攻。上木・木股・持福氏を調略し員弁郡、白瀬・浜田・高松氏を降す。桑名郡を攻略、木造氏の瀧川(木造)雄利を養子に迎え調略。木造具政の弟・瀧川雄利が傘下に加わる。8/*:伊勢長島に斉藤(一色)龍興が逃走し追撃。

43歳(1568) 永禄11年。2/*:宇野部・蘆生氏を従え北伊勢に侵攻。信長「桑名」に後詰。「楠木城攻略」楠木十郎を従える。高岡城・山路弾正と抗戦し敗北。 蟹江城を正式に拝領。<安濃津城に津田一安入城。>1569年南伊勢を攻略するための「南畿(東)方面軍」の成立。

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44歳(1569) 永禄12年。2/*:高岡城攻囲。神戸城の神戸具盛と婚姻、同盟。峯氏、鹿伏兎、国府も従う。瀧川(木造)雄利の兄・木造具康を調略。長野家老・細野藤敦の「安濃城攻囲」。細野藤敦の養子に瀧川八麿。
長野城の長野(北畠)具藤が家臣に追放される。織田信良(長野信包)が養子入りし家督相続。8/*:北伊勢侵攻、具康の父・木造具政(北畠具教の弟)が内通。家老・柘植三郎、「阿坂城攻略」。9/*:南伊勢進攻、北畠具教の「大河内城攻囲」城下を焼き討ち・兵糧攻め。10/4:南伊勢・北畠具教、長野具藤、北畠具房の拠る「大河内城」を奪取(和睦するとも)。<1569年瀧川彦右衛門、伊勢「大河内攻略戦」出陣、尺限廻番衆。津田一安が武田家に使者として派遣される。>

45歳(1570) 元亀元年。南近江、甲賀攻め。1570年伊勢長島一向一揆蜂起、小江木城主・織田信興が討死。

46歳(1571) 1/*:近江日野に蒲生賢秀の計略で神戸具教を幽閉。神戸家内部粛清、山路弾正殺害。伊勢長島一向一揆勃発。顕正寺証意、長島城主・伊藤長時を追放。<瀧川彦右衛門、信長より勘当される。>高岡城に小島兵部が入城。5/12:第1次「伊勢長島一向一揆征伐」柴田・佐久間両大将。氏家卜全戦死。

47歳(1572)
伊勢表で、家老の茂福城主・山口四郎右衛門(四郎次郎)が、赤堀氏(羽津城主・田原国虎)を毒殺。<1572年11月北近江浅井戦で瀧川彦右衛門、武功をあげ赦免される(伊予守就任?)。><1572年12月徳川援軍、瀧川伊予守参陣。> 12月22日武田対徳川「味方ケ原の合戦」。

48歳(1573) 天正元年。近江日野に蒲生賢秀の計略で関盛信を幽閉。4/*:足利義昭に対し和睦の奉行。8/*:浅井・朝倉戦従軍。
<瀧川彦右衛門(伊予守?)、北近江大高城攻囲。>9/*:第2次「伊勢長島一向一揆征伐」林通政・加藤次郎左衛門が戦死。

49歳(1574) 天正2年。7/*:第3次「伊勢長島一向一揆征伐」。九鬼嘉隆、伊勢志摩水軍動員。長島(顕正寺)一向一揆殲滅。
関一門の峯、鹿伏兎の当主が戦死。北伊勢・五郡を領有し長島城城主となる。峯城に岡本良勝が入城。

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伊勢長島城(想像図)
50歳(1575) 天正3年。5/21:「長篠の合戦」に武田勝頼を撃退。6/*:北畠具房から北畠(織田)信雄が家督相続。
<12月瀧川伊予守、伊勢金剛寺から訴訟される。>

1576年信忠を補佐し畿内を平定するため「東海道(西)方面軍」から「準近衛軍」への発展。
惟住軍とともに畿内平定戦の為の織田家中核軍・主力軍団を形成。
<後半の動因率の低い惟任・佐久間軍団は主力としては一時格下となるか。>

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→ 織田信長の準近衛軍・他国衆軍団 畿内での旗頭を勤める。
 毛利家の東進〈外様先方衆の活躍〉。軍団長:荒木村重の離反。


51歳(1576) 天正4年。4/*:摂津石山攻囲。第1次「木津川河口の海戦」で毛利水軍に敗退。
<6月瀧川伊予守、山科言継の取次ぎ。興福寺別当の件で丹羽長秀と上洛。>11/*:信雄が北畠具教を暗殺(瀧川雄利・長野左京・軽部左京)。田丸城にて長野具藤、北畠親成、坂内具義、大河内教道、波瀬具祐を誅殺。津田一安、誅殺される。

52歳(1577) 2/*:紀伊国「雑賀攻略」。細野藤敦出奔。具教の弟、「北畠具親の乱」。伊賀・吉原氏と抗争。8/*:加賀国援軍。10/*大和信貴山城攻略。

53歳(1578) 天正6年。信長宿老10人に安土で茶を持成す。(3/*:北畠信雄、天正伊賀の乱「丸山城落城」)。4/*:丹波・播磨出陣。7/*:「神吉城攻め」。10/*:荒木村重謀反、「有岡城攻囲」。<一益の畿内の活動を、縁戚の池田恒興が継承する形。柴田→原田と同様。>11/6:第2次「木津川河口の海戦」で、鉄甲船で毛利水軍に勝利。12/*:「有岡(伊丹)城攻囲」、中西新八郎を調略。

54歳(1579) 天正7年。(7/*:柘植三郎、伊賀乱入)。池田(荒木)久左衛門を調略、尼崎城・花隈城を抜く。11/19:摂津「有岡城攻略・奪取」。

55歳(1580) 大和国検地。関東 北条氏政調略。
56歳(1581) 天正9年。9/3:織田軍・第二次「伊賀乱入」、平定。

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57歳(1582) 天正10年。2/2:「甲州征伐」信濃・甲斐に乱入。信濃大島城、下条九兵衛・熊谷玄蕃調略。

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 嫡男・瀧川一忠と真田家娘との婚姻。

1582年東国を平定するため「準近衛軍」から「関東方面軍」への発展。3/23:上野国、信濃二郡(小県郡・佐久郡)を領す。

信長から一益に「山東制法15章」。「東国警固役(実質・関東管領職とも)」

4/*:上野国箕輪城に入城、つづいて上野国厩橋城(前橋)城主となる。
<瀧川儀太夫益重、1582年2月「甲州乱入」に活躍し、上野国沼田城主。1582年5月上杉方の「宮野城攻囲」敗戦。>
<佐治新介益氏、1582年5月「上杉征伐」に先陣。>
(中略)
61歳(1586) 9/9:没。(死の真相は諸説ありです)

 当時を記すものとして、『勢州四家記』=神戸良政の先代執筆・『勢州軍記』・『勢州兵乱記』=神戸良政(1624~1644に成立)、『木造記』・『北畠物語』に詳しい。


 <「味方ケ原」に出陣した瀧川伊予守は、一益ではなく瀧川一門の誰か別人の事だろうと思います。 瀧川伊予守は一益の一族で、且つ一益の代理人を務められる地位の人物と考えられる事から、一益の一族で本当の長男・八麿さんじゃないでしょうか。「本能寺の変」の後に羽柴秀吉と最後まで争った息子・一忠は次男だったと伝わりますので、長男が存在したと考えられます・・。>

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1576年頃:東海道(西)方面軍。


瀧川一益の家臣団と軍団

○信長与力(目付) 織田信忠(1557~1582)世代 (*=生年怪しい)
 北伊勢、東海道(西)方面軍旗頭。<東海道(東)方面軍の徳川とは対照となるか。>

 のち畿内平定戦に織田信忠の後見人。大和国に対して惟任光秀とともに「城割」を実施。
 1581年伊賀平定戦に信雄の後見人。1582年「甲州乱入」に川尻秀隆とともに信忠後見人。

瀧川一益 (*1525~1586)<大伴・富永・池田>・(久助?)・左近将監。近江甲賀郡大原出身。近江五反田城主、伴(大原・富永)資清(一勝)の息。父が池田恒興の縁戚で、織田家の女婿(信秀の娘か?)として迎えられる。1557年頃には側近として登場。1567年北伊勢侵攻の旗頭として軍功を重ねる。1571年伊勢の茂福盈豊を長島に誘殺。1572年畿内京洛の政務も担当。1573年4月足利義昭との起請文に織田家重臣として名を連ねる。1574年伊勢長島一向一揆を殲滅。北伊勢五郡を支配する。長島城主。1575年「長篠の合戦」に従軍。1575年「伊勢浜田の合戦」に浜田元綱親子を破る。1578年10月摂津の荒木村重の離反に対して織田信忠に従い鎮圧に出動。1578年播磨「神吉城攻囲」に出動し負傷。1582年織田信忠の「甲州乱入」に補佐役として従軍。武田勝頼を討つ。上野一国と信濃国小県・佐久二郡を与えられる。関東上野国にて箕輪城主から厩橋城主。のち桑名城主。<最初の遊撃軍団長です。服部友貞を騙して蟹江城を奪ったという伝承の件、北伊勢に何か特別な地盤を持つ武将だったかもしれません。北伊勢の守護といえば土岐嫡流家・・。><東条吉良家の家老・富永(大伴)一族が同祖の親戚とすれば、三河国にも由緒があり瀧川さんが尾張・三河同盟を結ぶことに一役買ったというのも納得がいくような気がします。三河(吉良)衆がけっこう瀧川氏の配下となるのにも、牛頭天神神官・富永(大伴)氏との縁がからんでいるのかもしれませんね。「味方ケ原」等に瀧川一門が派遣されるのもその縁かと(設楽の瀧川助義が参加)。それに三河「長篠の合戦」武田撃破の戦場、長篠・設楽は富永・瀧川氏にとっては地元・・。><伴氏ということで羽柴家の中村一氏も親戚。伊勢方面の鳥屋尾氏とも関係があるかもしれません。家康の父・松平広忠が「守山崩れ」に吉良家老・富永氏を頼り、伊勢大湊に逃してもらったという伝説があり、松平/瀧川が富永氏を通して三河・伊勢への線がつながります。一益さんが伊勢方面担当となるのも伊勢での大伴氏族の知名度が高かったからでしょうか。>

<瀧川一益の一門衆(連枝衆)> 

*縁戚 ○織田信長直参家臣。一益の家臣ではない。
瀧川* (*)(細野)・八麿・八丸。一益の息(長男・庶子?)。瀧川一門衆。1568年北伊勢の豪族・細野藤敦との和議の為に、細野家に養子。1577年長野信包の攻撃により細野藤敦の出奔。<この人なら伊勢に領地もあるだろうし、伊勢金剛寺に訴えられた瀧川伊予守の可能性があるのでは。>

瀧川一忠 (1553~1615)三九郎。一益の息(2男・嫡男扱い)。瀧川一門衆。上野国の豪族・真田昌幸の娘婿か(息・一積が昌幸婿とも)。真田信之、信繁(幸村)と義兄弟。織田信忠の「忠」拝領か。「甲州攻め」、その後、関東攻略に活躍。厩橋城城代。のち秀吉と激しく対立する。伊勢長島城主。家督剥奪後は真田家の食客。息に一積。<年齢的には次男・一忠にしても佐久間信栄や信忠さんと同世代でもあるので、一益の長男さんが早くから親とは分立して部隊を率いて第一線(三河「味方ケ原合戦」に出陣したり)で活躍していてもおかしくはないです。><秀吉に敗れてから真田に身を寄せることから妻は真田昌幸の娘、その子は真田信繁(幸村)の娘婿と理解したほうがすんなりときます。どうでしょうか、真田家と秀吉との関係もかなり複雑かもですね。>

第一世代   →    第二世代   →    第三世代
瀧川一益(1525~1586)瀧川一忠(1553~1615)瀧川一積(1583~1660)
      真田昌幸(1547~1611)真田信繁(1567~1615)
              真田於菊(*~1666)
              於菊の世代・・

降伏臣従の政略婚であるなら、昌幸の娘婿は一忠だと思いますが・・。なぜ一忠が真田家に身を寄せたのか、於菊が息子一積の室となるメリットが良くわかりません。真田二世代の重婚が一つに纏められたのでは?。本来は、信繁の娘婿が一積なのではないでしょうか。
家康への遠慮で本当(反逆者信繁の娘)の事が伏せられているのでは?。その後は江戸時代ですから。
真田昌幸が、瀧川家を「良き縁」として喜んだという事は、昌幸在命の時代のことでしょうし。信繁が死んでからの蒲生氏との縁組となれば、誰が真田に良き縁を運んだのか・・。現在の一積説は政略婚の成り立たない変な話だと思います。

瀧川一時 (1568~1603)八郎・久助。一益の息(3男)。瀧川一門衆。1582年北条家との「神流川の合戦」に従軍。北条家の捕虜になりかける。のちに秀吉の命で嫡男・瀧川一忠が追放された為、瀧川家家督。息に一乗。

↓▽古市* (*)九郎兵衛。北伊勢の豪族。伊勢神戸出身。瀧川軍団所属。一時の臣。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。北条軍の捕虜となった一益の次男・瀧川一時を救出する。<松永久秀に仕える古市家あり。越智氏と結び筒井氏と抗争。この一門か。>

⇔↓*滝川雄利 (1543~1610)木造・三郎兵衛・下総守・一路・友足・源浄院主玄。伊勢の豪族。木造具康の息。瀧川一益の娘婿。瀧川一門衆。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益の養子となる。1577年「北畠具親の乱」に伊勢「森城攻略」。1578年伊賀の下山甲斐と丸山城築城。「伊賀の乱」に敗走。1581年伊賀平定戦に長野信包の副将。息に正利。<北畠信雄の与力(組下)大名。><木造氏は信忠の息・秀信の家老に。><友足の名は弥富の服部友貞に関連ありか。>

*滝川忠征 (1558~1635)木全・彦次郎・豊前守。尾張中島郡出身。木全忠澄の息。瀧川軍団所属。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益の養子となる。<戦功により瀧川姓を与えられたとも。>1578年播磨「神吉城攻囲」に従軍し負傷。尾張蟹江城主。のち秀吉に出仕。「小田原征伐」に活躍。<木全氏の祖が伴氏ならば、瀧川家とは同祖。><桑名衆の木俣隠岐守との関連が気になります。>

瀧川法忠 (*)木全・出雲守・彦五郎。木全忠澄の息。<忠征が彦次郎ならば、法忠は彦五郎であり、素直に弟と考えるべきか。>

*○津田秀政 (1546~1635)織田秀政・小平次・正秀。織田家一門。織田信秀の叔父、織田秀敏の孫。津田(織田)秀重の息。瀧川一益の娘婿。瀧川軍団所属。瀧川一門衆。織田信長の命により、瀧川一益の与力となる。のちに徳川家に出仕し、江戸幕府の奉行として、西尾吉次(東国担当)とともに各国の地域図を作成。上野国松井田(松枝)城主。<正のつく名は津島の堀田氏に関連する名でしょうか。>

瀧川* (*~1582)孫平。信忠馬廻衆。「本能寺の変」に明智軍と戦い戦死。<瀧川一益の一門か。>

⇔雲林院祐光 (*)工藤祐光・氏井・(長野・瀧川裕光)。伊勢安濃郡雲林院の豪族。長野氏一門。出羽守・祐基の息。瀧川一益の娘婿。義理の兄弟に矢部家定。家老の野呂長門守は長野信包に討たれる。追放されるが後に信長の直臣となる。<長野氏、細野氏は同族。>

<瀧川一益の一門衆(連枝衆) 同一人物?編>

瀧川一勝 (*)(伴・大原)・瀧・豊後守・資清。貞勝の息。兄弟に高安範勝、池田恒利。息に一益。<設楽富永(伴)荘の瀧川と同族ということは大伴氏の系列でしょう。>

▲瀧川範勝 (*)(高安)・池田・三四郎・紀伊守。貞勝の息。瀧城主。<一益が、高安某を殺害して出奔した・・。>

瀧川詮益 (*)儀大夫。瀧川一門。弟に権三郎。<一益と兄弟か。><詮益の息は益重か。それとも同一人物か・・。>

*瀧川益重 (*)<大伴・富永・池田>・儀太夫・義大夫・益氏・(詮益?)。瀧川一益の弟(または甥とも)。瀧川軍団所属。瀧川一門衆。儀太夫益重は天正10(1582)年~15年にかけて活躍が伝わる<それ以前の事跡が不明瞭>。1582年2月「甲州征伐」に活躍し上野国沼田城主。1582年5月上杉方の「宮野城攻囲」敗戦。「本能寺の変」後、伊勢峰城主。津田盛月、松下之綱とともに津田宗及茶会に度々参加。息に辰政。辰政は池田家に出仕。<一益の長男が彦右衛門と仮定すれば、家督ではないのは庶流の為か、もしくは1571~72年に信長様に一時「勘当」されているので廃嫡され次男・一忠が嫡子になったとか・・。更に、一益「甥」の佐治益氏と、「益重・益氏」で名が重複し同名、同じ「甥」ということで立場的にも事績が混同されている可能性もありえます。><前田慶次・利益の父とも。佐治益氏か滝川益氏か、どちらかが父親のようです。>

*佐治益氏 (*1527~1635)(前田・瀧川)・新介・氏益・(益重?)。一益の従兄弟(or 甥)。瀧川軍団所属。瀧川一門衆。天正10(1582)年5月、先鋒として越後国人を三国峰に撃退。関東撤退のち伊勢亀山城主。息に(前田)利益。<前田慶次・利益の父と考えられる。><尾張知多半島の豪族・佐治氏の一族か。佐治嫡系は織田弾正忠家と婚姻を繰り返し繋がりが深い。><瀧川儀太夫・益重さんも、名が重複する「益氏」なので、同じ「甥」の関係ということで事跡が混同されているかもしれません。><1579年信忠小姓衆の争いで、佐治新太郎が金森長近の長男・甚七郎を生害して切腹しますが、「佐治」ということで関連をもつ人物なのでしょうか・・。>

○瀧川* (*)彦右衛門。織田信長直参家臣。瀧川彦右衛門は信長の馬廻りとして活躍し、1566年佐久間信盛とともに美濃出征。1569年大河内攻略戦。1571~72年織田信長に一時「勘当」追放される。1572年11月浅井七郎との合戦で軍功。1573年8月大高城攻めに参加後、消息が不明。<瀧川一益の長男か?もしくは、自分の中では、彦右衛門=伊予守=儀太夫で、「瀧川益重」と同一人物説です(笑。><なので前田慶次の父親も瀧川益重か佐治益重か、どっちのことなのか不明。父親が武辺は確かな方なのですが、彦右衛門が失態と勲功を繰り返す奔放な方なので、そんな親の元ではということで、息子の慶次は前田家で育てられたとか・・・。>

○瀧川* (*)伊予守。織田信長直参家臣。1572年一益の名代として三河・徳川家康の援軍。1572年12月徳川家康「味方ケ原の合戦」佐久間信盛とともに出陣し敗走。1975年伊勢に所領を持つ。<1572年からの瀧川伊予守は一益の長男に与えられた官位では?。>< 1575年伊勢金剛寺からの横領を朝廷に咎められているという事件もあるらしいので、横領の罪でなんらか処分があったのかも・・『京都御所東山御文庫記録』。><不破光治が息・勝光の嫁を瀧川氏(一益娘か、長男の娘か)から貰う約束をしていたことが反故にされ、面目を失い瀧川館を襲撃したとかいう話もあるようなので、なにかしら瀧川家関係にて、まずい事件があって存在が薄くされたんでしょう。>

瀧川秀景 (*)木全・右京進。<茂福城主となる山口氏、幕臣の山口秀景と関連ありか?。>

瀧川* (*)木全・刑部少輔。大矢城主。<木造雄利とは官位的に別人か?。>

山口秀景 (*)甚介・玄蕃・光広・長政。公家の葉室家臣。足利義昭に仕え幕府足軽衆。1573年将軍追放後は織田家に出仕。山城国宇治田原城主。

(尾張 池田家)
池田恒利 (*~1538)瀧川恒利。瀧川貞勝の息(次男)。室は池田政秀の娘。池田家を継承。室(養徳院)は織田信長の乳母。息に恒興。

⇔○*※池田恒興 (1536~1584)勝三郎・紀伊守・経与・(信輝)・勝入。愛知郡荒子出身。恒利の息。尾張譜代衆。織田信長の乳兄弟。信頼厚く旗本の中核となる一族。縁戚の瀧川一益を信長に仕官させる。1561年美濃「十四条の夜合戦」に佐々成政とともに軍功(敵将・稲葉某を討つ)。1563年美濃「新加納の合戦」では敗北。1569年対北畠氏の「伊勢侵攻」に従軍。与力の朝日孫八郎・波多野弥三が戦死。1570年「姉川の合戦」に従軍<惟住長秀とともに徳川軍の加勢にまわり朝倉軍を撃破したとも、これが江戸時代の脚色なく真実か?>。1571年「比叡山焼き討ち」に従軍。1574年2月織田信忠に従い川尻秀隆(神箆城主)とともに東美濃の「明智城救援」に従軍し小里城主。1574年7~9月「伊勢一揆平定」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍。1578年荒木支城の「花隈城攻略」に軍功。荒木村重討伐後の摂津の支配者に抜擢される。羽柴秀吉の与力として中国陣に加入の予定。息に之助、輝政、長吉、長政。摂津国有岡城主。<一時、東美濃で織田信忠の後見人的な役割をしていたと考えられます。信忠軍団が松永久秀征伐、雑賀征伐、別所、荒木征伐に活動しはじめたので、畿内の抑えとして信忠軍団から抜擢だったのかもしれません。それにしても稲葉良通の一族を討ち取っていたとは、小牧長久手は仕組まれた敗戦かもしれませんねえ。>

⇔○*▽※池田 (1559~1584)勝九郎・紀伊守・・(信輝)。尾張譜代衆。恒興の嫡子、塩川長満の娘婿、織田信忠の義兄弟。池田氏は信長の信頼厚く旗本の中核となる一族。信長に父と別行動で一隊を統率することが許された織田家中きっての若手将校。武に秀でる。1574年2月織田信忠に従い東美濃の「明智城救援」に従軍し、川尻秀隆(神箆城主)とともに小里城主の父・恒興を助けて東美濃にて武田家との前線を支える。1578年摂津有岡城の付砦・倉橋砦守将。荒木元清の籠る「花隈城攻略」に貢献。1581年京都馬揃えに父に代り参加、弟・輝政を従え入場。父と行動を別とし、1581年11月淡路島に上陸、岩屋城を制圧する。安宅清康を降し安土に同行する。1582年甲州征伐に従軍。信長本軍として諏訪に在陣、人数もち諸将に名を連ねる。摂津伊丹城主。変後、美濃大垣城主。長久手に散る。26歳。<四国征伐組で動くと推測される。羽柴隊とは協力しつつ信長様直属として別行動のようです。池田家の子孫に之の字を用いる人が多いのですが、元助じゃなくて之助がほんとは正しいのでは・・。><「信輝」を名乗るとすれば恒興よりも元助の方ではないのかなと思いますが。同じ紀伊守ですし。>

瀧川* (*)万五郎。池田家家臣。<一益の息とも。瀧川一門なのでしょう。>

⇔○*▽※池田輝政 (1564~1613)古新・三左衛門・照政。池田恒興の次男。中川清秀の娘婿。尾張清洲城の生まれ。池田氏は信長の信頼厚く旗本の中核となる一族。1580年荒木村重征伐に初陣16歳。1581年馬揃えに兄と共に出場。摂津尼崎城主。1584年美濃大垣城主。<兄「信輝」の跡職を継承したから「輝政」なのではないでしょうか。>

⇔○*※中村一氏 (*~1600)多喜・滝・孫平次・式部少輔。近江衆。中村一政(または一成)の息、瀧川一益の縁戚。上月城救援の先手武将。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。豊臣三中老のひとり。岸和田城、17万5千石。瀧川一忠の息・一積が中村家に出仕。<その家柄から、織田信長様の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。1579年頃には仙石秀久とともに一軍を率いる将。><竹生島奉加帳に登場しないようですが、信仰上の問題で登場しない家臣もいたりするんじゃないでしょうか・・。逆にどう考えても秀吉家臣じゃない近隣の武士も詣でているし、よく検討すべきだと思います。信長様が詣でているんだから織田家家臣というくくりじゃないでしょうか。すべて秀吉家臣と考えるのが危険なように思えます。>

⇔○*※▽中村一栄 (*~1604)多喜・滝・彦右衛門・氏次。近江衆。一氏の弟。瀧川一益の縁戚。兄の死により、甥・一忠を後見。家老・横田村詮(元・三好康長の臣)とともに中村家を支える。息に栄忠。<1600年関ヶ原の前哨戦に島左近に敗北するとも。>

<瀧川一益の御由緒家(畿内)>

 *縁戚 ○織田信長直参家臣。※一益の直参家臣ではない。
木全忠澄 (1534~1610)(木俣)・紀ノ忠澄・又左衛門。征詮の息。父の代に浅井政高に降伏臣従。苅安賀城主・浅井政貞の家臣。のち瀧川一益に出仕し家老職。美濃国境の一揆鎮圧に軍功。息に瀧川一門に加えられた瀧川忠征、木全河内守・木全兵部、友田新右衛門。<先祖は大伴氏族とも。とすれば瀧川家とも同祖の縁となります。><桑名衆に織田家の先陣を引き受けた桑名衆の木俣氏あり。同族か。>

⇔○↓*※秋山家慶 (*~1600)次郎・右近太夫・右近将監・直国。北畠四管領。大和宇陀三人衆のひとり。秋山宗丹の息、秋山遠江守の弟。瀧川一益の娘婿。瀧川一門衆。北畠信雄に出仕し、1579(天正7)年第一次伊賀乱入に参加、殿軍を勤める。1582(天正10)年「本能寺の変」に際して、伊賀国の一揆を鎮圧する。のち信雄から離反し羽柴秀吉、蒲生氏郷、福島正則に仕える。<北畠信雄の与力(組下)大名。>

⇔○※革島一宣 (1509~1581)河島長成・新五郎・越前守・左衛門尉・就宣。南山城衆。藤孝の古参の与力。瀧川一益は縁戚。1534年家督相続。足利義昭の上洛に細川藤孝の与力。のち所領を没収される。1572年織田家に出仕し所領安堵。藤孝与力に復帰する。<山城国の河島家が瀧川家と縁を結んだのは、一益が畿内の平定軍として長島平定後から関東移封までの期間に織田家の中心軍として活動していたということを証明するものではないでしょうか。><一門衆として一益に通じる「一」の字を名としたのでしょうか。>

⇔▽*※革島秀存 (1528~1582)河島長俊・犬坊・市介。南山城衆。一宣の息。弟に忠宣。藤孝の古参の与力。瀧川一益の娘婿。瀧川一門衆。1570年越前朝倉攻めに従軍。1574年家督相続。<長岡藤孝の与力からは外れる様子です。京都「馬揃え」には丹羽長秀に従い行進。><「本能寺の変」により存在が掻き消されてしまいますが、重要人物だったんじゃないでしょうか。><「長」の字を信長様から与えられていたりして・・。>

《個人的感想》 秋山、革島家との繋がりは、瀧川一益が畿内の織田主力軍大将として、摂津方面でも旗頭として君臨していたことの証拠となる縁組なのではないでしょうか。
のちに信濃真田家が瀧川家と婚姻関係を結んだことを良縁と感じたのは意味があると思います。
不破家が瀧川家との婚姻に執着したこと、前田家と瀧川家の前田慶次を通してのつきあい。瀧川の血筋は重要だと思います。「天下」の簒奪者である秀吉、家康により、織田宿老達の系譜は抹殺や改変をうけたのでしょう。

<遠い縁戚(大伴氏族)>

 三河の武士。 ※直参家臣(部下)ではない
⇔※富永忠元 (1537~1561)伴・五郎・忠元。東条吉良義昭の家老職。上野城・松平好景を討つ。1561年「西尾城の攻防」に敗戦。続いて東条城表「藤波畷の合戦」に本多広孝・酒井正親に討たれる。<吉良家の勇将。松平元康を度々破る。のちの天下人の徳川家康を苦しめすぎて歴史上封印される源家ゆかりの富永家。><富永の祖・大伴氏族は瀧川一益、池田恒興、中村一氏と同祖先。北畠の家老・鳥尾屋氏も伴一門。松平広忠が伊勢に逃れたとき、伴の縁でお世話したかもですね。>

滝川助義 (*~1575)冨永・四郎・源右衛門・定雄。三河設楽、滝川郷の領主。滝川助近の息。設楽貞通の家臣。のち瀧川一益家臣。瀧川一門衆。1575年「長篠の合戦」に従軍。滝川一益隊に属し追撃戦に勝頼側近、笠井満秀と組討戦死。<味方ケ原に従軍した滝川伊予守という人物も元々・三河に所領を持つ人かもしれませんね。><北条家の軍奉行の富永家が近江・三河の富永一門の出身ならば、瀧川一益が関東管領として北条家に対した時に、信長様にはその血縁(大伴系)関係に何か期待するところがあったかもしれませんね。>


<遠い縁戚(大伴氏族)> 伊勢の武士。 ※直参家臣(部下)ではない
⇔※鳥屋尾満栄 (*~1577)富永・鳥屋野尾・とやのお・石見守。外様の沢・秋山氏、水谷氏とともに北畠四家老のひとり。伊勢富永の領主。1569年「大河内城の攻防」に主家に従い活躍。織田家に降伏臣従。1574年信雄に従い大湊衆を率いて「長島一揆討伐」に参加。1577年北畠具親とともに蜂起。飯南郡。福本城主。<甲賀・大伴姓の富永氏とすれば、三河東条吉良家の家老職・富永忠元と遠い縁戚?>

⇔※鳥屋尾* (*~1577)富永・右近将監。満栄の息。北畠家老家。1574年信雄に従い大湊衆を率いて「長島一揆討伐」に参加。1577年織田信雄の攻撃をうける。伊勢富永の領主。

⇔↓▽富永勝秀 (*~1592)冨永・(松田)・久兵衛・式部太夫・筑後守・冨知。北伊勢衆。員弁郡の豪族。富永勝知の息。三河設楽富永家分家。1568年瀧川一益に降伏臣従。のち加藤清正に出仕し朝鮮にて客死。員弁郡長深城主。息・勝吉は織田信忠の息・織田秀信の家臣。<先祖に池田入道という人物あり・・。><北伊勢国人・大木兼能と縁があるようです。柴田勝家の北ノ庄落城の際に勝家家族を護衛する富永氏があります。><織田家嫡流の家臣となったことも家康の気分を害したかもしれません。>

伴 盛兼 (1547~1584)(関?)・五郎兵衛・若狭守。伊勢亀山城主。「本能寺の変」に家康の帰還を援助。1584年「小牧長久手の合戦」に戦死。<居城の立地と、大伴子孫の姓から一益の縁戚に間違いないでしょう。><伊勢亀山城をめぐり、伴氏と関氏の関係が気になるところです。おそらく血縁的につながりがあるのでしょう。>

⇔※伴 長信 (*~1582)太郎左衛門。信長馬廻衆。近江甲賀21家のひとり。1582年「本能寺の変」に明智軍と戦い戦死。<一益と同郷の侍。古参の織田家臣です。><長信って名前が最近挙がってきましたが・・、信長の忍者頭が、長信って(笑。>
 富永・冨永(大伴)氏は源ノ頼義・義家に従い奥州遠征、さらに大伴氏といえば陸奥守・征夷大将軍として大伴家持など奥州と深く関わっていましたので、信長様的には過去の辞令を踏襲して、瀧川家に東北は任せたという気分だったのかもしれませんね。

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