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織田軍その8 徳川家康の家臣団と軍団:信長的旗本馬廻衆の強化編成

徳川家康(松平元康)の家臣団と軍団。

織田信長に従属する大名。

歴代 松平家当主 桜井・三木松平氏が強力な分家。松平惣領家から離反する武将。×桜井・三木松平=親織田派。 親今川派

1360年代、管領・仁木義長の三河守護代・西郷(菊池)氏。吉良満貞と同盟し、畠山国清と合戦。

戸田氏は管領代・細川成之の三河守護代。←正統な三河の守護家、今川が横領するということは細川家とは絶縁・・。

細川家の直轄支配地・勢力圏

三河守護・一色家臣に牧野氏、波多野(秦野)氏、(石川氏も?)。

一色家勢力図

<三河国守護、高橋分郡守護の時代あり>

鵜殿氏(親今川で駿河今川家に重用される)、井伊氏、大河内氏(斯波家の遠江代官)は南朝方有力武将。

吉良・今川氏の勢力図

朝廷直参(守衛)の富永氏、武家方足利家直参(旗本)・吉良家家老の冨永氏。

足利同族の吉良氏。中条氏守護代の三宅氏。三河に所領をもつ政所執事・伊勢氏←松平家と敵対した幕府政所所司・伊勢氏の一族。

以上の有力諸家の狭間で、富永氏との縁戚関係の下、松平氏が勢力を伸ばす。

足利幕府の変遷

松平長親 (1473~1544)左京亮・蔵人・出雲守。松平五代当主。松平親忠の息。1496安城(安祥)城主。1501~1506年今川家の伊勢長氏(北条早雲)と抗争するという。三河岩津城にて今川大将・伊勢長氏(1432~1519)を退けた。1508年頃隠居。息に松平信忠。信忠・清康の二代で一族の織田派・松平信定と抗争。<松平家の先祖は、幕府政所執事・伊勢氏の家人だったようです。今川軍を率いる伊勢長氏が敗北することはないような・・(松平先祖賛美の粉飾では?)。><西条吉良の将として、東条吉良、今川家と抗争するか?><安祥七譜代=酒井、本多、大久保、石川、阿部、青山、植村> <松平長忠と同一人物とされるが別人らしい。>

▽松平信忠 (1490~1531)左京亮・越前守・左近蔵人佐。安城松平氏。松平長親の息。1506年今川の三河進出。父・松平長親は今川家と抗争。1508年頃家督相続。1523年家老・酒井忠尚の勧めで隠居。息に松平清康、松平信孝。<伊勢長氏との和睦により、父が隠居させられ家督を相続し親今川派に転向?。><信忠=長忠か?。東条・吉良持広の家老・富永忠安(忠康)を娘婿に?。という流れが自然な気がします。>

松平清康 (1511~1535)世良田・次郎三郎。親今川(東条吉良)派。安城城主、松平信忠の息。東条吉良家老・富永忠安(忠康)の義兄弟。1523年13歳で家督相続。山中城主・西郷信貞を破り、叔父・福釜親盛・桜井信定・東条義春・藤井利長を従え西三河の領主。1529年東三河の雄・牧野伝蔵を降し、田原城主・戸田康光、作手城主・奥平氏、長篠城主・菅沼氏を降す。1529年尾張岩崎城を落とす。1530年宇利城主熊谷忠重、1533年東広瀬城主・三宅高貞、寺部城主・鈴木氏、金谷城主・中条氏、上野城主・阿部氏を降す。1535年12月美濃と結び尾張乱入。織田信光(桜井松平信定の娘婿)の内通の誘いで守山に向かうが「守山崩れ」事件で死亡。25歳。息に広忠。<家康さんの尊敬する清康公です。三河の織田勢力を駆逐しているように思えます。主筋・吉良家の為にという名目で諸豪族と戦ったということでしょうか。長宗我部氏が一条氏を担いだみたいに大義名分でどこかと結びついいていたことでしょう。><松平長忠の娘婿が富永忠安。長忠は長親と同一とされるが確証はない。長親の長男・信忠は暗遇で、隠居させられ清康が跡職となるというが、長忠は信忠と同一世代の人物であり、長忠の息子が清康なのではないでしょうか。家康が大恩ある忠安の息子・富永忠元(伴ノ五郎)を討った事から、全力で富永家との婚姻関係を歴史から抹消して、神君家康の下剋上を消したのではないでしょうか。祖父・信忠という存在を偽装してまで・・。>

(※家臣ではない)

⇔※吉良義安 (1536~1569)西条(西尾)義康・東条吉良・三郎・上野介・義康。西条(西尾)・吉良義堯の息。東条吉良持広の養子。反今川派。1537年今川家に通じた荒川義広との抗争で兄・義郷の死により家督相続。織田信秀と同盟し今川家と敵対。1549年今川義元に討伐される。織田信広とともに人質として駿府に幽閉される。1555年今川家での松平竹千代の元服に立会。1563年吉良義昭の出奔により、東条・西条吉良惣領に復帰するという。

⇔※富永忠安 (*~1539)伴・冨永・備前守・右京大夫・(忠康)。設楽郡野田(冨永・富永荘)の豪族。富永正安の息。東条吉良持広の家老。松平長親(長忠とも)の娘婿。松平清康と義兄弟。1536年松平信定に追われた松平広忠を保護。1539年主・吉良持広とともに、今川方の吉良一門・荒川義広と戦い戦死。室城主。

<松平長忠の娘婿、東条・吉良持広の家老・富永忠安(忠康)と義兄弟なのでしょう。東三河にも勢力を有する大宮司・富永家の協力あってこその台頭では。><独立大名として頭角をあらわしたというのは・・・(後世の先祖賛美の粉飾では?)。>

 

<1535年松平清康の選定・岡崎五人衆:天野貞有、石川忠輔、植村新六(氏明に相等?)、内藤義清(息に清長)、林藤助。>


⇔×松平信定 (*~*1537?)桜井・松平・内膳。松平長親の息。松平信忠の弟。親織田(西条吉良)派。守山城主・織田信光は娘婿。1529年「岩崎城攻略」に子息・清定とともに先陣の武功。尾張品野城主。清康亡き後、清康祖父、松平長親の命で松平の盟主となり、広忠を岡崎から追放。刈屋・水野、大給・長沢の松平と婚姻関係。清康の弟・三木信孝と鵜殿康孝も従う。1537年不在時に岡崎城を奪取される。家老・石川康長、その息・石川康利、康定兄弟は殺害される。<今川から織田に乗り換えたということでしょう。><尾張から三河に帰還することが、桜井松平家の宿願だったと想像されます。家康が惣領として織田家に認められるということは、桜井家にとっては(織田家に捨てられた)屈辱だったかもしれませんね。>

≪個人的感想≫ 織田信光の罠にはまり、清康が命を落とすような話になっていますが、真相は不明です。

江戸時代に改変されたり、書き足されたり、牛一の原本はどうなっているのでしょう・・。

長忠が系図にある末弟の張忠の事で、江戸時代に清康を信忠の実子とするために、系図の長忠の長の字に弓を書き足して張忠へと変えたのかもしれませんね。

清康を嫡流に近づけようと操作しているのでは?


 三河国要所図

東条吉良氏の保護下

<親今川派 松平一門>

 大給・桜井・五井・滝脇・東条・竹谷。

松平広忠 (1526~1549)千松丸・仙千代・次郎三郎。親今川(東条吉良)派。水野忠政の婿。1535年父・清康急死。桜井松平信定に追われる。家老・阿部定吉に補佐され伊勢に落ちる。東条・吉良持広の協力で縁戚の吉良家老・三河牟呂城主・富永忠安(忠康)に保護される。1537年今川義元の協力で岡崎城奪取。1543年水野信元が織田に臣従したため水野氏の妻を離縁。1545年9月三河「安祥城攻囲」、織田援軍に敗戦。1547年田原城主・戸田康光、政直親子(宗光、尭光親子とも)の謀略で竹千代が織田信秀に奪取される。1548年織田方の三河山中城主・松平重弘を攻撃。のち三河広瀬城主・佐久間全孝の刺客・岩松八弥に殺害される。24歳。息に元信(徳川家康)。<東条・吉良持広の家老・富永忠安(忠康)に保護される。><乳兄弟に本多広孝。>

×三木松平信孝 (*~1548三木信孝・松平・与十郎・蔵人佐。信忠の息。松平清康の弟。1535年守山崩れの後、織田軍を弟・鵜殿康孝とともに撃退。反信定派。1540年6月織田信秀が三河「安祥城攻略」。のち親織田派。織田家に臣従し、親今川の宗家・松平広忠を岡崎より追う。苅谷城主・水野忠政、上野城・酒井忠尚、佐崎城主・松平忠倫、山中城主・松平(西郷?)重弘、大原左近、今村伝次郎、大叔父・岩津親長の協力を得る。1542年頃三木城を広忠派に奪取され、織田信秀を頼り大岡城主。上和田城に松平忠倫。1547年織田信秀から「三河切り取り次第」の許可。1548年「岡崎城攻撃」に戦死。息に重忠。<岩津領は信孝とその弟・康孝が横領したとも。><『三河物語』では康孝の三木領を信孝が横領したという。広忠の行状を正当化する操作でしょうか。>

×佐崎松平忠倫 (*~1547)佐々木忠倫・三右衛門。織田氏と縁戚。親織田派。1540年6月信秀に従い安城長家(親忠の息)を討つ。碧海郡筒針村。1543年佐々木上和田城主。松平信孝と結び宗家打倒を謀るが松平広忠の計略により、筧兄弟により暗殺される。弟・直勝が跡職を継承。

徳川家康(松平元康)の家臣団と軍団 


(1550~1582頃)三河国の戦国大名。

 主家・伊勢氏の代官から独立。東条吉良氏の保護下から独立。今川氏の保護下から独立。織田家に臣従。ライバル冨永・大河内、水野信元、小笠原長忠、三宅・牧野・戸田氏、大須賀康高、高木清秀を抑え主導権。<信長様の寵愛があってこその開運と、旗元衆の軍事力のおかげで出頭か。>

吉良家一門・荒川氏、吉良家宿老・冨永氏=(富川の意か)、太守・今川氏の姓を真似て 「徳川」の成立か。<けっこう周りに影響を与えていそうな豪族がいます。三者に対して特に冨永(富永)氏。縁戚でもあり、「富」に対して松平は「徳」でという対抗意識とかあったんじゃないでしょうか。南朝名門の井伊家が配下になったことから、世良田(得川)の名を知り、源氏の名門にたまたま結びついた気がします。>

 1563年「家康」に改名。 * 家康の縁戚、もしくは由緒のある者。

松平元康 1542~1616)「徳川家康」・竹千代・二郎三郎・元信。織田家(1547~1549)の人質、今川家の人質(1549~1560)となる。親今川派。1555年に大原雪斎が死去するまでその薫陶をうけるという。1557年関口氏広の婿。1558年に岡崎譜代衆を率いて初陣、寺部城・鈴木重教を攻撃。援軍にきた織田信長と初対戦。元康と改名。三宅正貞を降す。1560年「桶狭間の合戦」後に独立。親織田派。1561年父・広忠を匿った富永忠安(忠康)の息で、東条吉良家家老・富永忠元を討つ。1563年家康に改名。1566年12月徳川に改姓。「三河守」任官。1568年「遠江侵攻」。1570年「姉川の合戦」に兵力5000人動員。1570年曳馬(浜松)城主。1572年「味方ヶ原の合戦」に兵力8000人動員。1574年遠江高天神城・小笠原長忠の離反。1579年嫡子・岡崎信康の離反。1580年12月織田信長の奉行、西尾(吉良)吉次・猪子高就・福富秀勝・長谷川秀一が領内を査察。1582年織田信長「甲斐乱入」後に東海道を視察。1582年6月上洛。「本能寺の変」。北条を抑えるという名目で付近の城主を糾合。信濃・甲斐を制圧。息に信康、秀忠。<松平蔵人佐・元康のまんまでもカッコよかったのにねえ~(え。「味方ケ原」の敗戦後は織田信長の支援がなければ・・・。><1560年代独立大名として頭角をというのは・・・(粉飾では?)。改姓理由は今川⇔徳川⇔富永>

⇔※富永忠元 (1537~1561)伴・冨永・五郎・忠元。東条吉良義昭の家老職。富永忠安(忠康)の息。上野城・松平好景を討つ。深溝松平伊忠と抗争。1561年「西尾城の攻防」に敗戦。続いて東条城表「藤波畷の合戦」に本多広孝・酒井正親に討たれる。弟・徳玄も戦死。室城主。25歳。

*内藤信成 (1545~*)(徳川・松平)・三左衛門。内藤家長の庶兄(清長の養子)。松平広忠の息(徳川家康の異母兄弟)、母は清長の姉。松平元信(徳川家康)の「信」字を与えられる。内藤家家老。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。<実の兄弟で、影武者ってことでしょうか。><三河内藤氏は、若狭内藤氏との関連が気になるところです。>

*竹谷松平家清 (1566~1610)(今川・鵜殿)・(徳川)・与二郎・玄蕃頭。1581年家康の異父妹と婚姻。側室に久松氏。二重に家康と縁戚関係を結ぶ。酒井軍団に所属。のち駿河衆興国寺城。1582年甲斐平定戦では北条軍を勝沼に撃退する軍功。長久手戦では北条軍の抑えとして国境を守備する。<当初は秀康よりも一門として頼りにしていたかもですね。><今川義元の付けた与力(目付?)に平岩氏。>


<家康の室 出自(本能寺の変以前の婚姻)>

関口親永 (*~1560)関口義広の娘とも。娘婿に松平元康。1559年信康誕生。1560年亀姫誕生。

鵜殿長忠 (*)三河国西郡の豪族。娘婿に松平元康。1565年督姫誕生。<鵜殿氏が大伴高倉下の末裔を名乗ることは、大伴系で富永氏と同族でもあり、家康が富永氏の血脈を再び松平の血に取り込んでいるとも解釈できます。>

永見吉英 (*)志摩守。三河鯉鮒(知立)の神官。娘婿に徳川家康。1574年於義丸誕生。<姓は永井ではないようです。>

戸塚忠春 (*)三河国八名郡の豪族。娘婿に西郷義勝(死別)。娘婿に徳川家康。

西郷清員 (*)戸塚忠春の娘を養女とする。娘婿に徳川家康。1579年秀忠誕生。

秋山虎康 (*)越前守。武田家家臣。娘婿に徳川家康。

穴山信君 (*)武田家家臣。秋山虎康の娘を養女とする。娘婿に徳川家康。1583年万千代誕生。

飯田* (*)武田家家臣。娘婿に今川家臣・神尾忠重(死別)。娘婿に徳川家康。

三井吉正 (*)武田家家臣。1582年娘婿に徳川家康。

宮崎泰景 (*)武田家家臣。信濃国の豪族。娘婿に徳川家康。

市川昌永 (*)武田家家臣。1582年娘婿に徳川家康。

1569年頃の東海道情勢 

 1566年12月「徳川」に改姓。

▽徳川信康 15591579)松平・次郎三郎・岡崎信康。徳川家康の嫡男。母は関口義広の娘。1566年12月徳川に改姓。1567年織田信長の娘(五徳姫)婿。1570年岡崎城主。家老職に長沢松平康忠、大草松平康安が付属される。1575年遠江国で武田勝頼との対陣で殿軍を務め活躍するという。家老の大賀・石川の謀反発覚。1579年父・家康と不和。三河衆の旗頭として期待されるが、武田家に内通の疑惑があり誅殺される。21歳。娘は本多忠政、小笠原秀政の室。<徳川とは名乗ってないらしいですが・・・、プライド?父への反逆心?。織田領化が浸透する現状を憂えたのかもしれませんね。><殺意は武田晴信(信玄)⇔武田義信親子の関係のようなものでしょう。>

大賀* (*~1575)大岡・弥四郎。徳川(松平)信康の側近。岡崎町奉行。山田重英(八蔵重秀)、小谷甚左衛門、倉地平左衛門とともに、1575年武田家内通が発覚し誅殺される。<かつての北条時政と縁が深い大岡氏との関連が気になるところです。>

↓▽石川春重 (*~1575)徳川(松平)信康の付家老。1575年大賀と謀反を計画し誅殺される。松平新右衛門、江戸右衛門、天野貞久、榊原清政、鳥居重正、本多重富。

▽天野貞久 (*)岡崎信康与力。「信康事件」に連座。<九州や、安芸の天野氏との関連が気になります。>

▽榊原清政 (1546~1607)孫十郎・七郎右衛門・政長。長政の息。榊原康政の兄。岡崎信康与力。「信康事件」に連座。のち久能城主。平岩親吉とともに信康供養の江浄寺を建立。息に照久。

▽本多重富 (*)本田。本多重次の兄。岡崎信康与力。「信康事件」に連座。息に富正(結城秀康の側近)。

≪個人的感想≫ 徳川家に仇名す者の系統が、大賀→大野→大石→大塩と「大」が付くのも面白いですね。家康の旗が「大」なだけに何か縁があるのでしょうか。

↓▽*長沢松平康忠 (1545~1603*1618)源七郎・甚太郎・上野介。長沢松平嫡流。1560年「桶狭間の合戦」に戦死した長沢松平政忠の息。清康娘が母で、広忠娘と婚姻する。家康と一番血縁が強い。17歳の頃「康」の字を下賜される。1566年二連木、牛窪、八幡攻略に従軍。のち酒井軍団に所属。1570年「姉川の合戦」に奮戦。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。のち徳川(松平)信康の家老となるが、失職。再び家康に出仕する。1582年家康とともに上洛。「本能寺の変」に家康とともに伊賀越えで帰還。江戸時代徳川16神将のひとりに撰ばれる。57歳。<吉良家の家老職家、大河内氏とも由緒がある様子です。>

↓▽大草松平康安 (1555~1623)(西郷・大草)・善兵衛・石見守・伊予守。大草松平嫡流。松平正親の息。1560年善四郎・正親は丸根砦攻略に戦死。元一向宗。徳川(松平)信康の家老職。のち石川軍団に配属。1572年「味方ヶ原の合戦」に従軍。1575年「長篠合戦」従軍。息に正朝。<青木貞治・中根正照とともに二俣城に籠城した。><信康付とすることで、桜井松平から引き離したか?。>


徳川秀康 (1574~1607)結城・於義伊。母は正室・築山殿の腰元、三河池鯉鮒(知立)神官の娘。1584年羽柴・徳川講和の際に11歳で羽柴秀吉の養子となる。越前北ノ庄75万石。34歳で病没。

↓拠点白抜きが織田家城砦。紫染めが吉良一揆。

ピンク部分=織田領(1561年三河侵攻以降)。水色部分=荒川・吉良領(1563年一揆領域)。黄緑部分=松平領。

オレンジ色部分は野田大宮司・富永家領。

薄緑・黄色部分は鵜殿・牧野・西郷などの国人領主。


 《個人的感想》 徳川300年で、三河守護・細川家、遠江守護・斯波家、三河守護・吉良家、親今川氏国人、織田信長の支配の痕跡を徹底的に歴史に残らないようにしているかも。とゆうか、戦火や、その後の歴史家の意識的、無意識的取り扱いで伝承は消えていったのかもしれません。

 なので、東海道の中条家や、橘家などの古い歴史がさっぱりわかりません・・・。

斯波家勢力図

 三河豪族と吉良家との関係が気になります。東条吉良の家老・富永家と、松平一門のただならぬ関係や、西条吉良家の大河内家と松平一門のただならぬ関係。松平一族の出自はどちらかの両・家老家の陪臣だったんじゃないでしょうか?。

 東条吉良の家老・富永忠安(忠康)と、西三河の松平清康は縁戚。1535年松平広忠は「守山崩れ」での父・清康の死により富永氏を頼ります。西条吉良家と東条吉良家の抗争に松平家は分裂して抗争していたのでしょうか・・、のち松平一門に吸収される大河内(後裔に松平伊豆守)氏は、どの世代まで主筋の立場だったのか・・。大草松平は仁木氏の三河守護代・西郷(南朝の忠臣・菊池)氏の吸収された姿か。

 吉良抗争の分裂が今川支配下でもひきずり、大給松平・桜井松平は親織田派、東条松平は親今川派だったのでしょう。今川派の松平元康の織田家支持に転じた姿勢は、どれほど一門に影響をあたえたでしょうか。

(桜井松平氏が実は惣領家だったりする可能性もあるのでは?、酒井(坂井)忠尚や石川某も、桜井松平に出仕していたのでは?。)

 織田家の縁者となった信康ですが、岡崎信康の死後に、誰を一時的に自身の後継者と認定したのでしょう、幼い秀康だったか、娘婿の奥平信昌だったのか・・。また、どのように織田家と今後の友好を結ぼうとしていたのか気になるところです。

<松平家に関して江戸からの歴史学者は、不用意な発言をすると命に関わる事件につながるかもしれなくて言えなかっただけかもしれませんね。 現代に生まれてよかった(ホ。>

津島の神官・大橋家と、同じ三河牛頭天神社の富永家。両家とも南朝勢力とも関連。


大橋家は井伊、中根、川口(福富と縁戚)、長田(永井)、熱田千秋家、大河内、斯波と縁戚。織田信長とも近い。

そして、大河内家の「於富」と、水野家の「於大」、母方の系譜の血。

家康が今川義元に、一門の遠江堀越今川氏の娘「筑山殿」との婚姻を仲介されるほどに重要視されたのは、かつての大敵・大河内家の血筋だからなのでは。

←三河守護家、細川家の他に仁木・伊勢・中條などの分郡守護の家系あり。 

<松平・徳川一門、御由緒衆> ×親織田派。≪いかに一門衆の勢力を削いで、本家の権力を高めるかに神経が注がれる≫

[徳川家康・直属の一門]


1560年家康に従軍する一門=竹谷・形原・大草・深溝・福釜・藤井。

宗家 松平由重 (*~1603)太郎左衛門。松平郷を領する。松平親長の息(次男)。父・親長は1555年尾張蟹江城攻略に、大給松平親乗に従い軍功。1560年「刈谷合戦」に負傷し歩行障害。兄の戦死により家督。息に尚栄。<鈴木重愛も転封には従いません。>

(尾張久松党)織田家直参。

一色家勢力図

<三河国守護、高橋分郡守護の時代あり。>

⇔↑×*久松俊勝 (1526~1587)(菅原)・佐渡守・久松長家・定俊。久松定義の息。一色詮勝の娘婿。のち水野忠政の娘(於大)婿。尾張知多郡阿古屋城、坂部城主。織田信長家臣。佐治氏と抗争。松平広忠の元妻と再婚。三子と四女をもうける。1562年鵜殿長照の上ノ郷城を奪取。西郡を支配。息に定員、康元、勝俊、定勝。娘婿に桜井松平忠正、松平康長、松平家清。<二連木・戸田家との結びつきは織田信長の意向によるものか。><長家の長は信長からの一字宛がいか?。それとも、長家が信長の加冠に関わるか?><菅原を祖とするという点で、前田利家とも関連ありか?。>

⇔↑×久松定員 (*~1577)弥九郎・信俊。久松俊勝の息(嫡男)。佐治対馬守の娘婿。尾張知多郡阿古居荘の豪族。織田信長家臣。1546年佐治氏との縁組により同盟。佐久間信盛の与力武将として天王寺城在番。水野信元の罪に連座し自害。佐久間軍により阿久比は落城。阿久比城主。<水野信元とともに佐久間信盛により追い落とされた武将ということです。1580年信長様の佐久間追放の折檻状に与力を苛めたとあるのは、この方のことでしょうか。><家康が俊勝には黙って処刑を行ったらしいです。俊勝はショックで隠居したそうです。><佐久間軍が阿古屋城を襲撃したらしいですが、大阪表にいるのに実行できたのでしょうか。徳川軍なのでは?。>

×*久松康元 (1552~1608)松平康元・三郎太郎・因幡守・勝元。織田信長家臣、久松俊勝の息。家康の異父弟。母は徳川家康の実母。1572年「味方ヶ原の合戦」に13歳で従軍。三河西郡城城主。息に忠良、政良、康久。

▽金田宗房 (*~1572)*負。久松康元の家臣。1572年「味方ケ原合戦」に従軍、戦死。

×*久松勝俊 (1552~1586)松平勝俊・源三郎・康俊家康弟。織田信長家臣、久松俊勝の息。母は徳川家康の実母。今川氏真の下に人質。のち駿河に侵攻した武田家の人質。のち甲斐を脱出。駿河久能城主。のち水野忠分の五男を養子に迎える。

×*久松定勝 (1560~1624)松平定勝・三郎四郎・隠岐守。家康弟。織田信長家臣、久松俊勝の息。母は徳川家康の実母。兄弟中もっとも家康に寵用される。


(三河国人領主)

×▽*奥平信昌 (1553~1628)松平信昌。徳川家康の娘婿。元・武田旧臣。1570年「姉川の合戦」に奮戦。1575年長篠城城主として武田軍から死守。信長に賞賛される。小牧長久手に本多忠勝の与力。のち京都所司代となる。

↓▽*戸田康長 (1562~1632)松平康長。徳川家康の娘(養女・久松俊勝娘)婿。三河国二連木城主・戸田忠重の息。1564年に徳川家に臣従。1567年父・忠重の死により、母方の戸田吉国が後見し家督。高天神城攻略に初陣。<久松家との結びつきは織田信長の意向によるものか。>

<御由緒衆> 赤文字は松平惣領家から離反する武将。 親今川派

林 忠満 (*)藤助・藤五郎・藤八郎。松平草創期からの譜代家臣の一門。宿老職。林忠長の息。清康と広忠の二代に五奉行「岡崎五人衆(八国甚六郎・大久保忠俊・成瀬正頼・大原左近右衛門)」。息・藤五郎は家康に出仕するが、以降の消息不明。<美濃斎藤家、織田弾正家、三河松平の宿老家が、林という姓を持つ一族なのがとても不思議。>

大久保忠茂 (*~1547)(宇都宮)・宇津(宮)・七郎左衛門。松平清康の家老。山中城・岡崎城奪取に軍功。息に大久保忠俊、忠員。上和田城主。<親今川派の旗頭として活躍した東条松平の当主も名前が忠茂。大久保家は南朝方にあった宇都宮氏の子孫。南朝方の井伊家とは近い関係にあり。九州宇都宮(城井)氏との関連が気になります。>

阿部定吉 (1505~*)源次郎・大蔵・正澄。阿部定時(道音)の息。弟に定次。松平清康の家老。松平内膳・信定と昵懇の為、謀反を疑われる。息の弥七郎・正豊が主君・清康を討つ。「守山崩れ」。植村氏明が正豊を討つ。松平広忠の家老。1549年松平広忠暗殺事件後、親今川派として岡崎奉行。安祥城攻略に失敗。<植村氏明と阿部弥七、松平清康の三人でいる時に2名が殺害される。植村による阿部への罪なすりつけか。当主は桜井信定となり、清康の敵だった織田信秀配下となる。弥七の父・阿部正澄は幼君・広忠を連れて吉良、今川へと渡る。結果的に暗殺者は植村で、織田信秀の謀略が成功したということか。>

鳥居忠吉 (*~1572)伊賀守・入道。鳥居忠明の息。矢作川沿岸の豪族。松平広忠の家老。1549年松平広忠暗殺事件後、親今川派として岡崎奉行。阿部定吉とともに広忠を支える。息に忠宗、元忠、忠広。娘婿に三宅正貞、松平重勝。三河渡城主。<蓄財家として有名。><次男は京都誓願寺で修行。三河光善寺住職。>

石川清兼 (*)助十郎・安芸守。忠輔の息。松平広忠の家老。広忠と同じく水野忠政の娘婿。石川康正(数正の父)、一政、石川家成の実父。<広忠の家老に石川忠成。忠成は清兼の息で早世したとも。一色守護代家の石川家との関連が気になります。伊勢の本田党との結びつきも想定されます。>

石川康正 (*)与八郎・左近大夫・広成。石川清兼の息。石川数正の実父。1549年から阿部定吉とともに松平家老職。1563年三河一向一揆に一向宗側の旗頭として叛乱。小川城主。弟に一政(~1549)、家成、義兄弟に安藤基能、平岩某、酒井正親、伊奈某。<元々は吉良家家臣か。><岡崎信康の家老に小川城主・石川春重あり。信康自害に失脚する。>

酒井忠尚 (*~*1563)(坂井忠賀?)・左衛門尉・将監。酒井忠次の叔父、または兄。1542年松平信孝に従い叛乱。与力に榊原長政。1546年10月石川式部とともに今川軍に従い「吉田城攻撃」。1563年三河一向一揆に一向宗側として叛乱。上野城主。乱後は今川家に逃走。<忠賀と同一人物か。与力に榊原長政。大須賀康高。同盟者に夏目吉信、大草昌久、桜井家次、蜂屋貞次、内藤清長、加藤教明など。>

<1563~1564年、一揆拠点>東条城・吉良義昭を擁し挙兵。本多正信・蜂屋貞次。大草松平昌久、桜井家次。

土呂本宗寺:<土井本多と対陣。土呂は石川数正の拠点となる。>

佐々木上宮寺:住職:勝祐、信祐親子。<桜井松平と共闘。>刈安賀に退去。<尾張浅井氏と関連持つか?>

針崎勝鬘寺:住職:了顕は信濃井上に退去。<大久保家と対陣。>

野寺本證寺(本証寺):<藤井松平と対陣。>

《個人的感想》 1519年に尾張北部品野城の坂井(酒井)秀忠が松平軍の攻撃で滅亡し、一族は片草城に逃れるという。品野城は桜井松平信定、家重、家次の三代が継承する。桜井松平と酒井氏。何か繋がりがあるかもしれませんね。

 石川氏の先祖が本願寺系寺院に従って三河に下ったという話は、江戸時代に徳川家の為に出自を変えられたものなのではないでしょうか?。一揆の責任を負わせようとしているのでは?

 出奔した石川数正の先祖を貶める事、何か政治力が作用しているように思えます。

 1575年「長篠(設楽ケ原)の合戦」

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