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12世紀 平家討伐軍、源ノ義経の家臣団と軍団

源ノ義経の家臣団と軍団

 源ノ義経の兄弟一門衆 (実母が九条院雑仕常盤)

源ノ義経 (1159~1189)牛若丸・遮那王丸・九郎大夫判官。源ノ義朝の九男。鞍馬山に育つ。鎌田正家の息・三郎正親から出自を教えられる。金売吉次の行商旅団に加わり、奥州の藤原秀衡を頼る。1180年8月頼朝の挙兵に応じる。「富士川の合戦」搦手大将。1181年7月頼朝命令の馬曳きを拒絶し衝突。1183年木曽義仲が入京。1184年「宇治川の合戦」に木曽軍を破る。平家軍に対し「一ノ谷の合戦」搦手軍大将10000余騎を率いる。31歳。

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<義経血縁衆(義経同母の兄弟達)> ※家臣ではない


⇔※源ノ全成 (1153~1203)阿野全成・今若丸・愛智・悪禅師・隆超・阿野法橋。北条時政の娘婿。醍醐に住する。1580年頼朝の挙兵に関東に下向。下総国鷲沼にて面会。駿河国阿野荘を与えられる。後に謀反の疑いで誅殺される。息に頼全、時元(隆元)。娘婿に三条公佐。息・頼全も京都にて誅殺される。娘は三条公佐と婚姻し息・阿野実直が再興。

⇔※源ノ円成 (1155~1181)源ノ義円・乙若丸・今禅師・横川卿公。八条宮の坊官。1180年頼朝の挙兵に関東に下向。1181年行家とともに尾張国に進出。「墨俣川の合戦」に敗北し、平家軍に討ち取られる。

⇔※一条能成 (*)藤原。常盤御前と一条長成の息。義経の異父弟。義経の西国落ちに従う。後に朝廷に復帰。

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源ノ義経の家臣団① 


*頼朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党) *先代(義朝・義平)からの御由緒家(譜代郎党)

源ノ義経 (1159~1189)牛若丸・遮那王丸・九郎大夫判官。源ノ義朝の九男。鞍馬山に育つ。鎌田正家の息・三郎正親から出自を教えられる。金売吉次の行商旅団に加わり、奥州の藤原秀衡を頼る。1180年8月頼朝の挙兵に応じる。「富士川の合戦」搦手大将。1181年7月頼朝命令の馬曳きを拒絶し衝突。1183年木曽義仲が入京。1184年「宇治川の合戦」に木曽軍を破る。1184年兄・頼朝に無断で任官し弾劾を受ける。平家軍に対し「一ノ谷の合戦」搦手軍大将10000余騎を率いる。31歳。

<義経四天王>

**鎌田盛政 (*~1184)藤太。源氏譜代の郎党、鎌田正清(政清)の息。父は「保元・平治の乱(1156~1159)」に活躍。摂津国「一の谷の合戦」で討死。義経四天王のひとり。<山内首藤家と親戚。>

**鎌田光政 (*~1185)藤次・弥藤次。源氏譜代の郎党、鎌田正清(政清)の息。盛政の弟。讃岐「屋島の合戦」で討死。義経四天王のひとり。<山内首藤家と親戚。>

*佐藤継信 (*~1185)三郎兵衛。陸奥国信夫郡の豪族、佐藤元治(基治)の息。奥州・藤原秀衡から義経に付属され、以降義経に従う。1185年後白河法皇により義経部下として任官。讃岐「屋島の合戦」で平ノ教経の強弓から義経を庇い討死。義経四天王のひとり。

*佐藤忠信 (*~1186)四郎兵衛・兵衛尉。陸奥国信夫郡の豪族、佐藤元治(基治)の息。佐藤継信の弟。奥州・藤原秀衡から義経に付属され、以降義経に従う。義経四天王のひとり。京都に潜伏しているところを糟屋有季に襲撃され自害。<1184年義経とともに任官し頼朝の弾劾を受ける。>

<義経の親衛隊(旗元)> *義経と個人的に深い関係の武将。

*武蔵房弁慶 (*~1189)鬼若・入道。熊野別当弁正の息トモ。元比叡山の僧侶。「宇治川、一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦」に参加。奥州衣川で自害。


*伊勢義盛 (*~1186)三郎・能盛。伊勢鈴鹿の土豪。早くから義経の直参。木曽義仲を討ち取るとも伝わる。四国にて水軍衆・田口教能、近藤親家を誘降する。1185年「屋島の合戦」に義経軍。「壇ノ浦の合戦」では平家の大将・平宗盛、息子・平清宗を捕縛するという。1185年義経一行から逸れ潜伏するが、1186年幕府に捕縛される。追加の義経四天王のひとり。

*鈴木重家 (*~*1189)三郎。紀州雑賀の出身。熊野社家。鈴木重国の息。新宮十郎・行家との関係から義経従者となる。1185年「屋島の合戦」に義経軍。

*亀井重清 (*~1189)六郎。紀州雑賀の出身。熊野社家。鈴木重国の息、重家の弟。1185年「屋島の合戦」に義経軍。奥州衣川で自害。

*駿河清重 (*~1189)次郎。1180年義経直参となる。「宇治川、一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦」に参加。義経を襲撃した土佐房昌俊を討つ。奥州衣川で自害。追加の義経四天王のひとり。<駿河=三浦とも。義家の頃、安西(三浦)為景が駿河八郎と名乗る。>

**片岡経春 (*~1189)千葉・海上・太郎・八郎・常春・経治。千葉常幹の息、母は佐竹太郎の娘。義経の側近。下総国三崎荘を領する。佐竹氏の反乱に連座し失領。1185年「屋島の合戦」に義経軍。奥州衣川にて討死。

*常陸房海尊 (*~*1189)入道残夢。元園城寺、または比叡山の僧侶。1185年「屋島の合戦」に義経軍。

*堀ノ景光 (*~*1189)弥太郎。「平治物語」に金商人と記される。伝説的人物、金売吉次(京都三条住人・吉次信高「義経記」、京都五条住人・橘次末春「源平盛衰記」)の後身とも。1185年「屋島の合戦」に義経軍。1186年幕府に捕縛される。

*鷲尾義久 (*~1189)三郎・十郎・経春。丹波国の土豪・鷲尾武久の息。1184年「一ノ谷の合戦」では義経軍の道案内を務める。1185年「屋島の合戦」に義経軍。奥州衣川で自害。

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将軍:源ノ頼朝 (1147~1199)征夷大将軍。源ノ義朝の嫡男。
(1)平家討伐軍本隊 源ノ範頼の軍団  軍監:和田義盛
(2)平家追討軍別働隊 源ノ義経の軍団  軍監:梶原景時

 源ノ義経の家臣団② 
*頼朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党) *先代(義朝・義平)からの御由緒家(譜代郎党)


源ノ義経 (1159~1189)牛若丸・遮那王丸・九郎大夫判官。源ノ義朝の九男。鞍馬山に育つ。鎌田正家の息・三郎正親から出自を教えられる。金売吉次の行商旅団に加わり、奥州の藤原秀衡を頼る。1180年8月頼朝の挙兵に応じる。「富士川の合戦」搦手大将。1181年7月頼朝命令の馬曳きを拒絶し衝突。1183年木曽義仲が入京。1184年「宇治川の合戦」に木曽軍を破る。平家軍に対し「一ノ谷の合戦」搦手軍大将10000余騎を率いる。31歳。

<義経一門衆> *義経と個人的に深い関係の武将。


**⇔↑河越重頼 (*~*1185)秩父・太郎。秩父党。武蔵国の豪族、秩父重綱の次男。河越能隆の息。武蔵国河越荘の領主。妻は頼朝の乳母・比企ノ局の娘。1180年頼朝の挙兵には畠山重忠とともに三浦一族を攻撃。のち頼朝に臣従。1184年源ノ義経に従い西国遠征。義経軍。1184年源ノ義経を頼朝の命で婿とするが、義経事件に連座し誅殺される。<畠山・江戸氏と縁戚。>

**▽河越重房 (*~*1185)重頼の息。秩父党。武蔵国の豪族。武蔵国入間郡河肥荘の領主。畠山重忠と共に義経軍の先陣を務め、平家方の多くの武将を討ち取る。<畠山・江戸氏と縁戚。>

*源ノ有綱 (*~1186)伊豆・右衛門尉・検非違使。摂津源氏。渡辺党。源ノ仲綱の息(次男)。1180年「以仁王の挙兵」の際に、伊豆に在居し生き延び頼朝に従う。源ノ義経の妹婿となる。1182年土佐国に源ノ希義を殺害した平家方の蓮池家綱・平田俊遠を在地の豪族・夜須行宗とともに討伐。1185年義経の西国落ちに追従するが船が難破、義経とともに吉野に潜伏。大和に残るが平ノ(北条)時定に追撃され大和国にて自害。

*▽平ノ康盛 (*~1191)右衛門尉。摂津源氏の有綱郎党。1191年有綱の仇を討つため北条時定を襲撃するため鎌倉に潜伏し梶原景時に捕縛され処刑。

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河越重房の肖像のつもり。


<義経の家人(源氏他流)>


*⇔↑多田行綱 (*~*1185)多田・六条・六位・太郎・蔵人・惟綱。摂津源氏。摂津多田党。源ノ頼盛の息。1177年藤原親成の陰謀を平ノ清盛に密告する。「源平の争乱」では平家方として行動。1183年摂津・河内で反平氏に働く。しかし上洛した源ノ義仲の命には従っていない。義経の帷幕にあり、頼朝に疎まれる。1184年「一ノ谷の合戦」では義経軍の副将を務め1000余騎を率い山の手の平家軍を討つ。1185年頼朝の命で源ノ義経を摂津に襲う。以降の消息不明。

*源ノ弘綱 (*)依田・八兵衛・左兵衛。1185年正月、院参の際に義経の郎従。奥州落ちに追従。<摂津源氏の仲綱の養子・広綱とは別人のようです。><信濃源氏か。>


<義経の家人(御由緒家)>


**後藤実基 (*)兵衛尉。京都武者。北面武士の藤原実遠の息。義朝、義平に従い「平治の乱」に軍功。1180年頼朝の挙兵に従う。義経軍に加わり平家追討軍。息に基清。

*↑後藤基清 (*~1221)京都武者。佐藤仲清の実子。源ノ義朝の側近、後藤実基の養子。1184年平頼盛の送別の宴に出席。1185年西国遠征に従い、義経軍にて屋島の合戦に軍功。讃岐守護。播磨守護。後鳥羽上皇に属し、「承久の乱」に誅殺される。<1184年義経とともに任官し頼朝の弾劾を受ける。>

*中原信康 (*)少内記。山城衆。明法家出身。義経の祐筆。

⇔*中原親能 (1143~1208)藤原・明法博士・斎院次官・掃部頭。相模の出身。中原広季の息。元・源ノ雅頼の家人。波多野経家の婿。頼朝に古くから近侍し、武家方の貴重な能吏として重用される。1184年公文所担当奉行。1184年「一ノ谷の合戦」義経軍。在京し頼朝の代行として奔走する。<1186・1197>京都守護四代。京都守護・六波羅探題。1189年「奥州征伐」に従軍。1191年政所奉行。66歳。

藤原時成 (*)左衛門尉。山城衆。1185年正月、院参の際に義経の郎従。
藤原康言 (*)左衛門尉。山城衆。1185年正月、院参の際に義経の郎従。

*藤原頼経 (*~1217)難波・飛鳥井・豊後守・刑部卿。難波頼輔の息。京都貴族。父・頼輔の代から九州に影響力を持つ。1183年緒方惟栄に平家追討を指示。義経の腹心となる。頼朝に疎まれ安房に配流、更に伊豆に幽閉される。息に藤原雅経。<四代将軍・藤原頼経とは別人です。>

*安達清経 (*)近江北浅井郡の侍。頼朝の雑色。1184年山木兼隆の父・平ノ信兼追討令を源ノ義経に取次ぎ。義経の旗指しとしてそのまま義経配下。1185年土佐坊昌俊の義経襲撃失敗を鎌倉に連絡。1186年磯ノ禅師、静香を自邸に幽閉。<源ノ義経の監視役として頼朝から付属される。>


<鎌倉軍軍団長級・御家人>
1184年1月「宇治・瀬田の合戦」


⇔梶原景時 (*~1200)侍所所司。播磨・美作守護。父は鎌倉景清頼朝の命で上総広常を謀殺する。源ノ頼朝の側近。上洛軍の目付。1184年「一ノ谷の合戦」範頼軍。一ノ谷・生田の森の合戦に奮戦する。四国攻め義経軍の副将。土肥実平とともに中国総追捕使。<お目付け役。父と子で前半、後半の義軍⇔範軍への配置換えは、頼朝の意向か。>

⇔土肥実平 (*~*1191)次郎。「宇治川の合戦」範頼軍の副将・2000余騎。1184年「一ノ谷の合戦」義経軍の副将・7000余騎。梶原景時とともに中国総追捕使。一族に中村、土屋氏。<お目付け役。義軍⇔範軍への配置換えは、頼朝の意向か。>

*熊谷直実 (1141~1208)次郎・蓮生。熊谷直貞の息。母は久下直光の妹。源ノ義朝に従い「保元の乱」に初陣。源ノ義平に従い「平治の乱」に出陣。乱後一族ともに平家の家人となる。1180年頼朝挙兵の際は大庭景親に従う。のち頼朝に臣従。1180年佐竹秀義討伐に従軍。1184年「一ノ谷の合戦」義経軍副将3000余騎、平山季重との先陣争い、平ノ敦盛を討取りで有名。武蔵国大里郡熊谷郷。出家遁世し京都東山に没す。68歳。

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平家討伐軍別働隊 源ノ義経の軍団② 

将軍:源ノ頼朝 (1147~1199)征夷大将軍。源ノ義朝の嫡男。

<鎌倉軍部隊長級 伊豆・常陸・武蔵> 部隊長として扱われたもの。 *義経と関係の深い御家人。


(義経の一門衆・御親類衆)


⇔▽大内惟義 (*)平賀・大内・冠者・太郎・右衛門・相模守。信濃源氏。伊賀・美濃守護。平賀義信の息。伊賀国大内荘。1184年「宇治川の合戦」義経軍。源ノ義経の平氏追討軍に参加。「一ノ谷の合戦」に義経軍で軍功。同年伊賀国守護を拝領。伊勢羽鳥山に志田義広を追撃する。1185年(文治元)年に頼朝の推薦で後白河院から相模守を拝領。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1190(建久元)年に頼朝と共に上洛。主に在京し京都の治安維持にあたる。

⇔山名義範 (*)三郎・伊豆守。上野源氏。新田義重の嫡男。いち早く臣従し、新田一族中で一番厚遇される。源ノ義経の平氏追討軍に従軍。1184年「一ノ谷の合戦」義経軍。1185年(文治元)年に頼朝の推薦で後白河院から伊豆守を拝領。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1190(建久元)年に頼朝と共に上洛。1196(建久6)年にも頼朝に従い参内する。

▽安田義資 (*~1194)源ノ・武田・田中・太郎・越後守・従五位下。義光流甲斐源氏。武田信義の弟・安田義定(遠江国守護)息。頼朝に厚遇され武田家から独立する。1185年(文治元)年に頼朝の推薦で後白河院から越後守を拝領。越後国守護(国司)。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1190(建久元)年に頼朝と共に上洛。1194年法皇の怒りをかって討たれる。


平家討伐軍別働隊 源ノ義経の軍団①

*義経と関係の深い御家人。*頼朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)
*先代(義朝・義平)からの御由緒家(譜代郎党)


<鎌倉軍軍団長級・準一門武将>

 将軍の信頼厚く頼朝との由緒があり御家人の旗頭に抜擢された者、軍団の統率者として才能を認められたもの


⇔安田義定 (*)武田・遠江守。甲斐源氏。源ノ清光の息、武田信義の弟。1180年以仁王の令旨に従い挙兵。遠江に進出し領国化する。本家とは独立した動きを見せ、木曽義仲に一時従う。源ノ範頼・義経兄弟の義仲追討軍に呼応。1184年「宇治川の合戦」義経軍。1184年「一ノ谷の合戦」義経軍。のち頼朝の命で失脚。息に安田義資。

*⇔山内経俊 (1137~1225)滝口・首藤・三郎・刑部大夫・刑部丞。首藤経通の息、俊綱の弟。父兄は「平治の乱」に戦死。1180年頼朝の挙兵に応じず、頼朝の鎧に一箭を的中させ逆鱗に触れる。母が頼朝乳母のため、先祖の功とその哀訴の為赦免される。1184年波多野泰通、志田義広を伊勢に破る。伊勢守護に任官。1184年伊賀平氏の乱を鎮圧。1185年4月後白河法皇により義経部下として任官。1185年義経の副将・伊勢義盛を討伐する。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1204年平盛時、平基時ら平家残党に攻撃され逃亡。将軍・実朝に所領を没収される。<1184年義経とともに任官し頼朝の弾劾を受ける。>

*山内重経 (*)縫殿助。武蔵の豪族。<1184年義経とともに任官し頼朝の弾劾を受ける。>

*⇔八田知家 (*)源ノ・宇都宮・小田・四郎・右衛門尉・筑後守・朝家。下野国の有力豪族、宇都宮氏の一門、宗綱の息。父は源ノ義朝、母は宇都宮朝綱の娘で、外曽祖父の宗綱が養子として迎え養育したともいう。1180年の頼朝挙兵以来従う。1183年「野木宮の合戦」では小山朝政、下河辺等の小山一族と、志田義広を撃破する。1184年、中国攻め範頼軍。1185年4月後白河法皇により義経部下として任官。奥州征伐東海道軍両大将。常陸守護職。1191年には北陸道管領職。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。「承久の乱」では執権・北条義時を補佐し鎌倉に留まる。<1184年義経とともに任官し頼朝の弾劾を受ける。>

⇔▽小山朝政 (1158~1238)小四郎・右兵衛尉・左衛門尉・下野守。小山惣領家。下野国の豪族。藤原秀郷流。実父・小山政光の妻が源ノ頼朝の乳母。1181年志太(志田)義広・足利忠綱に攻撃されるが、源ノ範頼の救援にて是を撃退する。1183年志田義広を「野木宮の合戦」で破る。1184年、中国攻め範頼軍。1185年4月後白河法皇により義経部下として任官。1185年頼朝に無断で任官し叱責される。1189年「奥州征伐」に従軍し、「阿津賀志山の合戦」に奮戦。1190年頼朝の上洛に従い右兵衛尉に任官、下野守護。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。のち常陸村田荘の地頭、播磨守護を拝領する。「承久の乱」には鎌倉留守居。81歳。<1184年義経とともに任官し頼朝の弾劾を受ける。>

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 佐藤兄弟の肖像



(準一門衆・御由緒家)


田代信綱 (*)田代冠者。輔仁親王から五代孫。源ノ為経の息。母方の祖父・狩野(工藤)茂光の元で養育される。11歳で伊豆の頼朝に出仕。1180年「石橋山」の敗走に祖父・茂光の介錯。1184年「宇治川の合戦」に義経軍。1184年「一ノ谷の合戦」に義経軍。1185年「屋島の合戦」に義経軍。1185年頼朝と義経の兄弟不和に、義経配下の御家人に義経の命令に従うべからずと内々の命令を伝える。<安達清経とともに義経の目付け的な存在。>

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