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12世紀~13世紀 源ノ頼朝の家臣団と軍団、鎌倉幕府創設。鎌倉御家人軍団

源ノ頼朝の側近 幕府行政官 (奉行・右筆)もと平安貴族。
将軍:源ノ頼朝 (1147~1199)征夷大将軍。源ノ義朝の嫡男。


<頼朝準一門>
 *頼朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)
 *先代(義朝・義平)からの御由緒家(譜代郎党)


*一条能保 (1147~1197)ichijyou,yosiyasu/(源ノ義保)・藤原・左典厩・右馬頭・権中納言・良保・義康・保蓮。藤原通重の息。妻が源ノ頼朝の血縁(頼朝の姉婿)。1183年鎌倉下向。1185年平ノ宗盛を鎌倉に護送。1186~1194年京都守護。1191年検非違使別当。娘婿に摂政・九条良経。

⇔一条能成 (1163~1238)ichijyou,yosinari/(源ノ義成)・藤原・良成。常盤御前と大蔵卿・一条長成(良成)の息。源ノ義経の異父弟。入京した義経と親しく、1185年西海落ちに随行するが嵐の為に渡海失敗。親義経派の廷臣として頼朝に弾劾される。1208年に廷臣に復帰する。

*二階堂行政 (*)nikaidou,yukimasa/(熱田)・藤原・白尾・三郎・主計允・民部少丞。藤原行遠の息。母は熱田大宮司・藤原季範の妹。京都の貴族であり頼朝の縁戚につながる者として重用される。鎌倉二階堂に居館を構え姓とする。1184年幕府の公文所の設置と共にその奉行。1189年「奥州征伐」に従う。1191年政所の設置によりさの奉行。1199年将軍の独裁から、宿老13名の合議制になるに及び、大江広元・三善康信・中原親能等の京都出身の官僚とともに名を連ねる。<熱田藤原家は頼朝の母の実家。駿河守を代々務めた工藤家の家柄の出身という説も。>

▽二階堂行光 (1164~1219)nikaidou,yukimitu/(熱田)・藤原・掃部允・民部丞・信濃守。二階堂行政の息。1194年幕府政所の奉行。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。1218年政所執事。

<義経血縁衆(義経同母の兄弟達)> 源ノ義経の軍団


源ノ全成 (1153~1203)阿野全成・今若丸・愛智・悪禅師・隆超・阿野法橋。北条時政の娘婿。醍醐に住する。1580年頼朝の挙兵に関東に下向。下総国鷲沼にて面会。駿河国阿野荘を与えられる。後に謀反の疑いで誅殺される。息に頼全、時元(隆元)。息・頼全も京都にて誅殺される。北条に血の連なる4男・時元(隆元)も義時に謀殺される。娘は三条公佐と婚姻し、その息・阿野実直が家門を再興する。

⇔源ノ円成 (1155~1181)源ノ義円・乙若丸・今禅師・横川卿公。八条宮の坊官。1180年頼朝の挙兵に関東に下向。1181年叔父・行家とともに尾張国に進出。「墨俣川の合戦」に敗北し、平家軍に討ち取られる。

<頼朝側近の文官>


中原光家 (*)藤原・岩手・小中太。1180年頼朝挙兵の際に安達盛長とともに東国御家人召集の密使として働く。1182年信頼厚く頼朝の愛妾・亀前を自邸に匿う。1186年幕府使節として上洛。1191年政所知家事に任ぜられる。

*中原親能 (1143~1208)藤原・式部大夫・明法博士・斎院次官・美濃権守。相模の出身。中原広季の息(藤原光能の実子で、大江広元の兄とも)。元・源ノ雅頼の家人。大友(波多野)経家の婿。頼朝に古くから近侍し、武家方の貴重な能吏として重用される。1184年公文所担当奉行。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。「一ノ谷の合戦」義経軍。在京し頼朝の代行として奔走する。京都守護・六波羅探題。1189年「奥州征伐」に従軍。1191年政所奉行。66歳。<美濃に所領を持つか。>

▽中原仲業 (*)藤原・右京進・左京進・民部大夫。中原親能の家人(一門か)。のち頼朝直参。頼朝右筆。1204年頃から政所・門注所の奉行を兼任。のちに三浦義村の推薦で梶原景時糾弾の連判書の筆をとる。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。<陪臣から幕府重臣の出世。>

▽中原季時 (*~1236)藤原・右京進・行阿。中原親能の息。幕府の代行として京都との折衝にあたる。1194年頃右京進任官。1204頃駿河守。1205年京都守護。1219年に退任。「承久の乱」には鎌倉留守居。

中原是重 (*)中・四郎。1189年「奥州征伐」に従軍。
中原久経 (*)典膳大夫。1185年頼朝の命により近藤国平とともに対朝廷使節として上洛。

▽*大友能直 (1172~1223)近藤・古庄・(中原・波多野)・左近将監。相模国の豪族。近藤能成の息。頼朝の側近・中原親能に養育される。母方の波多野(大友)経家の大友郷を相続。母・利根局は頼朝の側室となり、頼朝の保護を得る。1189年「奥州征伐」に従軍。1195年大和東大寺供養の供奉。叔父に武藤(少弐)頼平、息に親秀。<頼朝の御落胤説あり。豊後大友家の祖。>

*大江広元 (1148~1225)藤原・中原・大膳大夫・(安芸介)・因幡守・因幡前司・公文所別当・政所別当。藤原光能の息(中原親能の弟とも)。母は大江維順の娘。母の兄弟・大江維光の養子になる。母が中原広季と再婚し、一時・中原姓。中原親能との縁で1184年頃三善康信らと鎌倉に出向したと推測される。1184年平頼盛の送別の宴に出席。1185年守護・地頭の設置を進言。頼朝の信任厚く、政所別当。弟に大江別当・季厳。

*▽大江親広 (*)藤原・源・江間・蔵人・遠江守・武蔵守。一時、源ノ通親の養子。1216年大江姓に服す。1203年鎌倉薬師堂寺社奉行。北条義時の娘婿になり江間親広とも称する。1219年京都守護。洛中警護を伊賀光季と務める。1221年「承久の乱」に上皇方に属し、敗戦後奥州に潜伏。

大江久家 (*)江・右近次郎・山城江次。頼朝の側近。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1191~1193年の奉行人。

大江景遠 (*)(加藤景遠)・藤原・加藤・長門江七。加藤景通の息。大江大学頭・通国の猶子。1192年の奉行人。

*三善康信 (1140~1221)大夫属入道・入道善信。母の姉が頼朝の乳母。配流先の源ノ頼朝と連絡を取り続ける。1180年源氏追討令に、弟・康清を頼朝の下に派遣し逃亡を促す。1191年鎌倉幕府問注所執事。

▽平ノ時家 (*)美作守・前少将・時実・信時。清盛の妻・時子の弟・平ノ時忠の息。上総広常の娘婿。清盛の後妻に嫌われ源平合戦前に伊豆に配流される。1582年上総広常の推挙により頼朝の右筆となる。1184年平頼盛の送別の宴に出席。

平ノ盛時 (*~1212)平五・民部丞。1184年問注所別当・三善康信の与力。大江広元とともに頼朝の右筆。幕府政所の知家事(副長官)。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1191年公事奉行人。<後北条氏の祖、伊勢盛時と同じ名なのがおもしろいですね。北条家ゆかりの平家でしょうか。>

*橘ノ公長 (*)右馬允。四国出身。讃岐国の豪族。橘ノ公光(公重)の息。元・平家家人。平ノ知盛の家臣。1180年平家方から離反する。加賀美長清の仲介で息二名を伴い頼朝に出仕。1184年上方の情勢に通じることから頼朝の鎌倉の政権に参画する。1184年平頼盛の送別の宴に出席。息に公忠、(小鹿島)公業。<先代、源ノ為義の家臣の斉藤実盛、片切景重と争うが為義の仲介で和解。>

*後藤基清 (*~1221)新兵衛・左衛門尉。京都武者。佐藤仲清の実子。源ノ義朝の側近、後藤実基の養子。1184年平頼盛の送別の宴に出席。1185年西国遠征に従い、義経軍にて屋島の合戦に軍功。讃岐守護。播磨守護。1195年大和東大寺供養の供奉。後鳥羽上皇に属し、「承久の乱」に誅殺される。

*足立遠元 (*)(藤原?)・右馬允・左兵衛尉・藤内・左衛門尉・公文所所司。武蔵国足立郡を領す。武蔵国足立氏族。足立遠兼の息。母は豊島康家の娘。源ノ義朝に従い「平治の乱」に従軍。源ノ義平に従い内裏東門を守備した17騎のひとり。1180年頼朝の挙兵に従う。幕府の公文所の所司(代官)となる。1184年平頼盛の送別の宴に出席。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1190年頼朝の上洛に従い、勲功から左衛門尉を拝領する。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1195年大和東大寺供養の供奉。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。畠山重忠、北条時房、藤原光能は娘婿。子息に足立元春、遠光、養子に天野遠景。<「将門記」にみえる武蔵武茂の子孫とも。><頼朝の側近・安達(足立)盛長は一族。または、まったくの別系統という説もあり。両者とも京都に縁があり上方の情報に通じるという点では共通している。>

⇔近藤国平 (*)七。相模国の豪族。近藤能成の従兄弟。1185年頼朝の命により中原久経とともに対朝廷使節として上洛。源平争乱後、頼朝の行政官として畿内の平家残党の掃討に派遣される。1199年後藤基清に替わり讃岐守護。息に国重。<平家の残党狩りに送られた、天野、宇都宮、近藤、みな藤原系統。>

#藤ノ邦通 (*)安達邦通・(足立)・藤大和判官代・邦通。大和判官代。頼朝の側近。安達盛長の推挙で、平ノ時家とともに頼朝祐筆。<安達家とのパイプ役です。>

伊沢元景 (*)留守元景・左近将監。元・九条大納言光頼の家人。北条時政の推挙により出世する。1190年「大河兼任の乱」ののち陸奥国留守職「奥州総奉行」、多賀国府を統括する。のち一門は武士化し留守家の祖となる。

惟宗広言 (*~1187)秦・(比企)・太宰少監・筑後守。惟宗日向守・基言の息。室は比企能員の妹(丹後局)。元・後白河法皇の側近。息に惟宗(島津)忠久、津々見忠季。<ご子息達の好待遇の出世ぶり、比企一門と何らかの係わりがあるとしか考えられませんね・・。>

⇔*#安達清経 (*)(足立)・新三郎・清恒。頼朝の雑色の長。近江北浅井郡の侍。1184年山木兼隆の父・平ノ信兼追討令を源ノ義経に取次ぎ。義経の旗指しとしてそのまま義経配下。1185年土佐坊昌俊の義経襲撃失敗を鎌倉に連絡。1186年磯ノ禅師、静香を自邸に幽閉。<源ノ義経の監視役として頼朝から付属される。>

⇔源ノ光行 (1163~1244)河内守・大和守。鎌倉幕府政所初代別当。元・平家家人。源ノ光季の息。宗季の従兄弟。父の助命嘆願の為に鎌倉入り。頼朝側近に採用される。「承久の乱」に上皇方として失脚。助命される。

(源氏の挙兵)

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<石橋山の合戦:1180> 相模の大庭景親が、熊谷直実・渋谷重国・梶原景時を率いて、
山木兼隆を討った頼朝を敗走させる。頼朝は景時に見逃され一命を保つ。
 源ノ頼朝の家臣団・鎌倉軍の編成 1184年1月「宇治・瀬田の合戦」~1189年「奥州藤原征伐」の頃の武将です。


<鎌倉軍 軍団長級 武将>  

後に失脚する武将。軍団長級のカリスマと指揮力を保有する武将は、軒並み抹殺される。
将軍:源ノ頼朝 (1147~1199)征夷大将軍。源ノ義朝の嫡男。
*頼朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)
*先代(義朝・義平)からの御由緒家(譜代郎党)


(鎌倉殿一門・御親類家の軍団長)  

将軍の信頼厚く一門として御家人の旗頭に抜擢された者、軍団の統率者として才能を認められたもの。↑上記参照

⇔*源ノ範頼  (*1153~1193)浦冠者・三河守。源氏一門衆・遠江国浦御厨で成長する。頼朝の異母弟。安達盛長の娘婿。のち武蔵国比企郡吉見を領す。甲斐源氏と深く関わりを持つ。「富士川」大手軍大将50000余騎。「一ノ谷の合戦」50000余騎。1184年6月頼朝の上奏により「三河守」任官。1184年8月鎌倉に召集され頼朝激励、出陣式。

⇔*源ノ義経 (1159~1189)「富士川」搦手。「一ノ谷の合戦」搦手軍大将10000余騎。<河越・下河辺氏と縁戚。>

⇔*足利義兼 (*~1199)源ノ・蔵人・上総介。義国流下野源氏。兄・義清は木曾義仲に従い戦死。北条政子の妹を娶り、頼朝の義弟となる。下野国の豪族。1184年8月鎌倉に召集され頼朝激励、出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。1190年第二次奥州征伐軍大将。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。

⇔*河野通信 (1156~1223)越智・四郎・観光。河野通清の息。北条時政の娘婿。源ノ頼朝の義兄弟。伊予豪族。1180年父・通清は源ノ希義の挙兵に呼応し討死。1181年平家方を伊予から放逐し伊予統一。1185年屋島の源ノ義経に合流。義経軍の水軍の将。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。1221年「承久の乱」に上皇方に属し、奥州に配流される。


(鎌倉殿準一門・御由緒家の軍団長)

将軍の信頼厚く頼朝との由緒があり御家人の旗頭に抜擢された者、軍団の統率者として才能を認められたもの

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⇔**八田知家 (*)hatta,tomoie/源ノ知家・(宇都宮・小山)・小田・四郎・武者・右衛門尉・筑後守・朝家・友家。下野国の有力豪族、宇都宮氏の一門、八田宗綱の息(養子)。実父は源ノ義朝、母は宇都宮朝綱の娘で、外曽祖父の宗綱が養子として迎え養育したともいう。1180年の頼朝挙兵以来従う。1183年「野木宮の合戦」では小山朝政、下河辺等の小山一族と共に、志田義広を撃破する。1184年平頼盛の送別の宴に出席。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。奥州征伐東海道軍両大将。常陸守護職。1191年には北陸道管領職。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。「承久の乱」では執権・北条義時を補佐し鎌倉に留まる。娘婿に中条(出羽守)家長。

⇔*比企能員 (*~1203)hiki,yosikazu/藤四郎・右衛門尉・義員。阿波出身。源ノ頼朝の乳母・比企尼の養子。妹(丹後局)は頼朝の恋人。北条政子に追われ安達盛長の妻。安達景盛は甥。1184年、中国攻め範頼軍。奥州征伐北陸道軍両大将。第二次奥州征伐東山道軍大将。上野・信濃守護。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1195年大和東大寺供養の供奉。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。1203年北条時政に討たれる。息に弥四郎・時員。<丹後局の息・安達景盛は頼朝の御落胤とも。><丹後局の息・島津忠久は惟宗広言(または頼朝の後落胤とも)の息。>

⇔*比企朝宗 (*)hiki,tmomune/藤内・藤内所。父母不詳。比企能員と兄弟とも。木曾義仲の滅亡後に北陸道勧農使<1184-1191>。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。1185年に源ノ範頼に従い西国遠征。1186年頼朝の命で京都に上洛。一条能保を補佐し、大和国興福寺に源ノ義経の家人を追討する。1189年「奥州征伐」に従軍。1191年越後守護。1192年北条義時を娘婿に迎える。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。

⇔多田行綱 (*~*1185)tada,yukituna/源ノ・多田・六条・六位・太郎・蔵人大夫・惟綱。摂津多田源氏。「源氏嫡流」。源ノ頼盛の息。1177年藤原親成の陰謀「鹿ケ谷事件」を平ノ清盛に密告する。「源平の争乱」では平家方として行動。1183年摂津・河内で反平氏に働く。しかし上洛した源ノ義仲の命には従っていない。1184年「一ノ谷の合戦」では義経軍の副将を務め1000余騎を率い山の手の平家軍を討つ。1185年頼朝の命で源ノ義経を摂津に襲う。以降の消息不明。

⇔武田信義 (1128~1186)takeda,nobuyosi/源ノ・竜光丸・太郎。甲斐源氏惣領、武田清光の息。源義光の曾孫。兄に逸見光長。1140年源ノ為義の加冠で元服。武河庄武田を領する。1180年以仁王の令旨に従い挙兵。信濃に平氏与党を討ち、駿河に進出して橘遠茂を撃破する。「富士川の合戦」に奇襲を掛け勝利。駿河を領国とする。1584年源ノ範頼に従い西国遠征。1184年「宇治川の合戦」に範頼軍。のち子息・一条忠頼が謀反の疑いで誅殺される。頼朝により甲斐国甘利武田館に蟄居、不遇のうちに死去。59歳。

⇔一条忠頼 (*~1184)ichijyou,tadayori/源ノ・武田・次郎。武田信義の息。甲斐源氏の惣領。1184年「宇治川の合戦」範頼軍の副将・6000余騎。天野遠景、工藤祐経、小山田有重に誅殺される。

⇔逸見有義 (*~1200)itumi,ariyosi/源ノ・武田・兵衛尉。義光流甲斐源氏。武田信義の息。平ノ重盛の家人。父に従い平家を離反し、京都の妻子は処刑される。1184年「宇治川の合戦」範軍。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」範頼軍。一条忠頼の誅殺後、甲州武田軍を率いる。1184年8月鎌倉に召集され頼朝激励、出陣式。1184年源ノ範頼に従い西国に遠征。中国攻め範頼軍。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1200年梶原景時の謀反に同心し、戦死。<当初武田一門でも一条や安田に対して、有義の方が頼朝に親しく重く用いられている様子です。一族分断作戦ですね。>

▽*石和信光 (1163~1248)isiwa,nobumitu/源ノ・武田・伊沢・五郎。甲斐源氏。武田信義の五男。鎌倉幕府に出仕。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。兄達の死により家督。1195年大和東大寺供養の供奉。「承久の乱」に東山道大将軍として上洛。

⇔安田義定 (1134~1194)yasuda,yosisada/源ノ・武田・三郎・遠江守・義貞。甲斐源氏。源ノ清光の息、武田信義の弟。逸見家の養子となり安田荘を相続。甲斐国加納庄・牧庄を領する。1180年以仁王の令旨に従い挙兵。平家方、俣野景久を攻撃。遠江に進出し領国化する。本家とは独立した動きを見せ、木曽義仲に一時従う。源ノ範頼・義経兄弟の義仲追討軍に呼応。1184年「宇治川の合戦」義経軍。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」義経軍。のち息・義資の事件に連座し、甲斐国芳光寺にて自害。

▽安田義資 (*~1194)yasuda,yosisuk/源ノ・武田・田中・太郎・越後守・従五位下・義助。義光流甲斐源氏。武田信義の弟・安田義定(遠江国守護)息。頼朝に厚遇され武田家から独立する。1185年(文治元)年に頼朝の推薦で後白河院から越後守を拝領。越後国守護(国司)。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1190(建久元)年に頼朝と共に上洛。1194年法皇の怒りをかって討たれる。

⇔*加賀美遠光 (1143~1230)kagami,toumitu/源ノ・武田・小笠原・豊松丸・二郎・次郎・信濃守。甲斐源氏。源ノ清光の息、武田信義の弟。和田義盛の娘婿。1157年新田義重の加冠で元服。1180年武田信義に従い「富士川の合戦」に従軍。「宇治川の合戦」範頼軍。1184年源ノ範頼に従い西国に遠征。1185年(文治元)年に頼朝の推薦で後白河院から信濃守を拝領。頼朝に厚遇され武田家から独立する。信濃国守護。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。88歳。<源ノ頼朝の同世代の武将です。1194年頃隠居するか?信濃守・遠義は家督継承者の長清のことか?。>

⇔▽加賀見長清 (1162~1242)kagami,nagakiyo/源ノ・加ケ美・小笠原・次郎・二郎・信濃守・遠義。甲斐源氏。遠光の息。母は和田義盛の娘。1180年頼朝の挙兵時に京都在番、兄・光朝は在留するが京都から脱出。1181年上総広常の娘婿。1184年「宇治川の合戦」範頼軍。1186年信濃国伴荘の地頭。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。「承久の乱」に東山道大将軍として上洛。阿波守護となる。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。

(鎌倉軍 軍団長級 ・有力御家人)

将軍の信頼厚く御家人の中から旗頭に抜擢された者、軍団の統率者として才能を認められたもの。
*頼朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党) *先代(義朝・義平)からの

御由緒家(譜代郎党)


⇔*上総広常 (*~1183)介八郎・上総権介・広経・弘経・弘常。上総国の国人領主。20000余騎を率いる。上総常澄の息。千葉常胤と又従兄弟。娘婿に加賀美長清。上総国守護。上総曹司と尊称された源ノ義朝に従い、1156年源ノ義朝に従い「保元の乱」に従軍。1159年には源ノ義平に従い「平治の乱」に従軍する。1159年源ノ義平に従い内裏東門を守備した17騎のひとり。1180年叔父・印引常茂<印東常義カ?>を討ち頼朝に合流。一族の伊北常仲、天羽直胤、相馬常清、金田頼次、印東常範、白井親常、匝瑳常成、佐是禅師円阿らを率いる。

⇔*千葉常胤 (1118~1201)正六位上・下総権介・千葉介。千葉常重の息。上総広常は又従兄弟。1156年源ノ義朝に従い「保元の乱」に出陣。1180年子息以下300余騎とともに参陣し、頼朝に鎌倉を拠点とすることを進言。1180年下総国の千田親政、常陸国の佐竹秀義を討伐し地盤を固める。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」に範頼軍。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。中国攻め範頼軍。1185年豊後に渡り軍功。1189年奥州征伐東海道軍両大将。1190年第二次奥州征伐東海道軍大将。1190年頼朝に従い上洛。東国御家人の重鎮として幕府に重きをなす。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。84歳。

⇔*和田義盛 (1147~1213)杉本・三浦・小太郎・太郎・左衛門尉。三浦一族、杉本義宗の息。侍所別当。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍、範頼軍の軍奉行。山陽道から九州に上陸し、平家の背後を抑え退路を断つ。1189年「奥州征伐」に従軍。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。のちに北条義時と対立し滅亡。<三浦一族は義朝の長男・鎌倉義平の軍団の中核でもあった。><三浦系子孫、織田姓権下の佐久間信盛を見ているようです。歴史は繰り返される・・。>

⇔*梶原景時 (*~1200)平三・侍所所司。播磨・美作守護。父は鎌倉景清。頼朝の命で上総広常を謀殺する。源ノ頼朝の側近。上洛軍の目付。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」範頼軍。1184年土肥実平とともに中国総追捕使。美作・播磨の支配を委託される。一ノ谷・生田の森の合戦に奮戦する。四国攻め義経軍の副将。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1195年大和東大寺供養の供奉。<小野氏の「野三」とか、梶原氏の「平三」とか、武家の中で通じる意味があるんでしょうね。>

⇔*土肥実平 (*~*1191)次郎。駿河中村家の庶流。頼朝の信任厚く惣領家を凌ぐ。「宇治川の合戦」範頼軍の副将・2000余騎。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。「一ノ谷の合戦」義経軍の副将・7000余騎。梶原景時とともに中国総追捕使。備前・備中・備後の支配を委託される。一族に中村、土屋氏。息(養子とも)の土肥遠平が跡職を継承。

⇔*熊谷直実 (1141~1208)次郎・蓮生。熊谷直貞の息。母は久下直光の妹。源ノ義朝に従い「保元の乱」に初陣。源ノ義平に従い「平治の乱」に出陣。乱後一族ともに平家の家人となる。1180年頼朝挙兵の際は大庭景親に従う。のち頼朝に臣従。1180年佐竹秀義討伐に従軍。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」義経軍副将3000余騎、平山季重との先陣争い、平ノ敦盛を討取りで有名。武蔵国大里郡熊谷郷。出家遁世し京都東山に没す。68歳。息に直家、実景、直勝。

⇔宇佐美実政 (*~1190)大見・平次・家秀。遠江の大見を領する。1180年頼朝の挙兵に兄弟の大見政光とともに参陣。1189年「奥州征伐」に従軍。奥州征伐北陸道軍両大将。藤原泰衡の重臣・由利惟平を捕縛し武功を立てる。津軽国地頭。1190年「大河兼任の乱」に防戦し討死。<伊豆国の住人?。><平次とか、藤次とか、武家の中で通じるなにかが・・。>

(鎌倉殿認定 地方探題職(軍団長))

将軍の信頼厚く御家人の旗頭に抜擢された者、軍団の統率者として才能を認められたもの。

▽*葛西清重 (*)豊島・三郎・右兵衛尉・左兵衛尉。豊島清元の息。下総国葛西荘を領する。武蔵国隅田川に頼朝を迎え臣従。武蔵国丸子荘を拝領する。1184年、中国攻め範頼軍。1189年「奥州征伐」に従軍し軍功。陸奥国御家人統括「奥州総奉行」。平泉検非違使、胆沢・磐井・牝鹿郡を領する。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1195年大和東大寺供養の供奉。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。1205年「畠山重忠の乱」に鎮圧軍として出動。

*天野遠景 (*~*1203)足立遠景・藤原・藤内・民部丞・入道。藤原南家。伊豆国の住人。藤原(天野)景光の息。足立遠元の養子。弟に光家。頼朝の不遇時代(1167~1180)に友人として育ち、頼朝の信任厚い。1180年伊東祐親を捕縛。1184年甲斐の一条忠頼を討つ。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。1186年「九州総追捕使」、以降10年近く宇都宮信房と平家残党狩りに活躍する。九州で圧制を強いたため召還される。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。息に政景。<同族に吉川(橘川)氏。>

宇都宮信房 (1156~1234)藤原信房・中原・所ノ・大和守。下野蔵人所衆。宇都宮(中原)宗房の息。兄弟に中原宗隆、野仲重房、山田政房、深水興房、西郷業政、廣澤直房、那須有家、江里口業俊。1180の頼朝挙兵に呼応する。1183年「志田義広の挙兵」を鎮圧。1185年豊前に領地を拝領する。1187年鬼界島の平家残党を追討。1192年豊後・日向に所領を得る。のち出家遁世。79歳。

*▽橘ノ公業 (*)小鹿島・次。伊予国の豪族。1184年平家追討軍から外された義経に代わり、四国攻めの代官として渡海。讃岐の豪族を調略する。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。奥州藤原氏征伐に活躍。秋田郡・男鹿郡地頭職。北に由利氏、南に大河氏を睨む。のち大河兼任が叛乱する。<平家家人・橘ノ公長の息らしい。>

<鎌倉軍部隊長級>

  1184年1月「宇治・瀬田の合戦」~1189年「奥州藤原征伐」の頃の武将です。 赤文字は後に失脚する武将。
≪個人的感想≫ 部隊長級は先陣を切る侍大将といったところの武将です。
⇔将軍:源ノ頼朝 (1147~1199)征夷大将軍。源ノ義朝の嫡男。1181年頼朝が35歳時に親衛隊を創る。

<鎌倉殿本座者(一門衆・御親類衆)御家人>

 *頼朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)*先代(義朝・義平)からの御由緒家(譜代郎党)

平賀義信 (1143~1207)源ノ・大内・四郎・武蔵守・義宣。義光流信濃源氏。佐久郡平賀郷を領する。義光流の盛義の息。源ノ義宗の養子。源ノ義朝からの累代家人。一門衆筆頭。「平治(1159)の乱」に参戦。1180年頼朝が挙兵すると直ちに参じた。1184年(元暦元)年に頼朝の推薦で後白河院から武蔵守を拝領。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。<木曽の義仲とは微妙な距離感です。>

⇔▽*大内惟義 (*~*1220)源ノ・平賀・大内・冠者・太郎・右衛門尉・相模守。義光流信濃源氏。伊賀・美濃守護。平賀義信の息。伊賀国大内荘。1184年「宇治川の合戦」義経軍。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。「一ノ谷の合戦」に義経軍で軍功。源ノ義経の平氏追討軍に参加。同年伊賀国守護を拝領。伊勢羽鳥山に志田義広を追撃する。1185年(文治元)年に頼朝の推薦で後白河院から相模守を拝領。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1190(建久元)年に頼朝と共に上洛。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1195年大和東大寺供養の先陣。主に在京し京都の治安維持にあたる。<南北朝室町期の中国地方の多々良の大内氏とは無縁。><「承久の乱」の直前に寿命が尽きる様子です。乱に参加してるのは息子だけ。肩書だけを旗印に利用されてしまったのかもしれません。>

▽平賀朝信 (*)源ノ・三郎。義光流信濃源氏。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。

⇔山名義範 (*)源ノ・三郎・伊豆守。新田義重の長男(私生児)。いち早く臣従し、新田一族中で一番厚遇される。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」義経軍。源ノ義経の平氏追討軍に従軍。1185年(文治元)年に頼朝の推薦で後白河院から伊豆守を拝領。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1190(建久元)年に頼朝と共に上洛。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1196(建久6)年にも頼朝に従い参内する。

⇔▽板垣兼信 (*)源ノ・武田・三郎。甲斐源氏。武田信義の息(三男)。1184年「宇治川の合戦」に範頼軍。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1185年土肥実平とともに西国遠征。中国総追捕使・土肥実平の越権行為を頼朝に訴える。頼朝の実平への信頼厚く逆に叱責される。1589年朝廷に非礼を働き隠岐に配流される。遠江(駿河?)の所領は没収される。

▽加賀美長綱 (*)源ノ・小笠原・太郎。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。

▽秋山光朝 (*~1185)源ノ・加賀美・武田・太郎。甲斐源氏。加賀美遠光の息。平ノ重盛の娘婿。1185年親平家派と考えられ頼朝に討伐される。両鳴城にて防戦するも自害。家督は上総弘常の娘婿の弟・長清が相続。
浅利義成 (1148~1221)源ノ・武田・与一・浅利冠者・遠忠・遠義・義遠・長義。義光流甲斐源氏。武田一門衆。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。比内郡地頭職。

南部光行 (*)源ノ・次郎・三郎。義光流甲斐源氏。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1195年大和東大寺供養の供奉。

*源ノ頼隆 (*)源ノ・森冠者。八幡太郎義家の末子・源ノ義隆(陸奥六郎)の息。源ノ義隆は源ノ義朝に従い討死したため、千葉常胤の下で養育される。源ノ頼朝に供奉する。

⇔↑摂津広綱 (*)源ノ広綱・駿河守。摂津馬場源氏。源ノ頼政の息、兄・仲綱の養子。1184年駿河守に任官。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1190(建久元)年に頼朝と共に上洛。その後出家し上醍醐に隠居する。<仲綱の実子(甥)の伊豆右衛門尉・有綱は家督のライバルか。><源ノ弘綱は同姓同名の別人。>

*⇔源ノ弘綱 (*)依田弘綱・八兵衛・左兵衛。1185年正月、院参の際に義経の郎従。奥州落ちに追従。<摂津源氏の仲綱の養子・広綱とは別人のようです。><信濃源氏か。>

↑*北条時政 (1138~1215)四郎。伊豆の豪族・北条時方の息。1160年源ノ頼朝の監視役を伊東祐親と共に命ぜられる。1170年伊豆大島の「鎮西為朝の乱」鎮圧に出動。長女・政子が頼朝の妻となる。政子の妹婿に稲毛重成。頼朝の岳父として帷幕の中心。甲斐武田氏を調略し「富士川の合戦」に参陣させる。以降・頼朝の側近として活躍する。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。後年、政敵の比企氏・畠山氏を討滅。息に宗時、義時、時房。<前室・伊東祐親の娘。後室・牧宗親の娘(牧の方)。もうひとりの室は、世代的に足立遠元の娘ではなく、遠元の父・藤原遠兼(妻・豊島氏)の娘とかでしょうか。>

⇔▽*北条義時 (1163~1224)(伊東・工藤)・江間・四郎・小四郎・陸奥守・右京権大夫。伊豆の豪族。北条時政の次男。伊東祐親の娘婿。のち比企朝宗の娘婿。「石橋山」100余騎。兄・宗時の死により家督。武芸に優れ1181年頼朝の命で身辺警護担当(親衛隊)。1184年、中国攻めに範頼軍。1185年九州渡海に先陣の四将、原田種直軍を破る。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1195年大和東大寺供養の供奉。<母は伊東祐親の娘とも・・。><親子二代で伊東祐親の娘婿。しかも頼朝の政子の前の元彼女が室。><伊豆江間郷を領する。江間という分家から北条家惣領に?。><頼朝の仲介で比企氏と縁を結びます。>

⇔▽*北条時房 (*)五郎・時連。伊豆の豪族。北条時政の息。足立遠元の娘婿。義時の弟。1189年「奥州征伐」に従軍。<北条時政の妻も足立遠元の娘となっていますが。世代的にどうなんでしょう・・。>

⇔*安達盛長 (1135~1200)(足立・比企)・小野田・藤九郎・六郎・入道蓮西。藤原北家魚名流。小野田兼盛(兼広)の息。武蔵国の豪族、足立氏族。比企能員の妹婿。源ノ頼朝配流時代からの側近。1180年頼朝の挙兵に参陣する。中原光家と共に東国御家人召集の密使として活動。娘婿に源ノ範頼。1184年頃から上野国の奉行人。1189年「奥州征伐」に従軍。頼朝の二度の上洛に供奉する。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1199年頼朝の死により出家。将軍頼家の元で重臣13人合議制のひとり。梶原景時弾劾の連署に、息・景盛と親子で署名する。66歳。<下野掾の小野田家を相続し、武蔵足立家の遠元の父・遠兼と血縁関係があるようです。比企氏の縁で下野国から伊豆の頼朝を支援するか。><政子と頼朝の縁を取り持ったらしい。>

⇔▽安達景盛 (*~1248)(比企)・藤九郎・上野守・摂津守・右衛門尉・出羽守・秋田城介。安達盛長の息(養子とも)。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。1205年「畠山重忠の乱」、1213年「和田の合戦」に北条方。<秋田城介・景盛は頼朝の御落胤とも。><藤原魚名流。>

<鎌倉軍部隊長級(準一門衆・御由緒家)御家人>

 *頼朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)*先代(義朝・義平)からの御由緒家(譜代郎党)


⇔↑**小山政光 (*)太田・五郎・左馬助・下野守・入道・下野大掾。大田行政の息。小山惣領家。下野国都賀郡小山荘を領する。妻は八田(宇都宮)宗綱の娘、頼朝の乳母・寒河尼。小山朝政・結城朝光・小山宗政の父。「宇治川の合戦」範頼軍。<藤原秀郷流。>

⇔↑▽*小山朝政 (1158~1238)太田・小四郎・右兵衛尉・左衛門尉・下野守。小山惣領家。下野国の豪族。藤原秀郷流。実父・小山政光の妻が源ノ頼朝の乳母。1181年志太義広・足利忠綱に攻撃されるが、源ノ範頼の救援にて是を撃退する。1183年志田義広を「野木宮の合戦」で破る。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」範頼軍。1184年平頼盛の送別の宴に出席。1184年、中国攻め範頼軍。1189年「奥州征伐」に従軍し、「阿津賀志山の合戦」に奮戦。1190年頼朝の上洛に従い右兵衛尉に任官、下野守護。のち常陸村田荘の地頭、播磨守護を拝領する。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1195年大和東大寺供養の供奉。「承久の乱」には鎌倉留守居。81歳。

⇔↑▽*長沼宗政 (1162~1240)小山・五郎・淡路守。小山政光の息(五男)。1183年志田義広を「野木宮の合戦」で破る。「宇治川の合戦」範頼軍。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年中国攻め範頼軍。1189年「奥州征伐」に従軍。1190年「大河兼任の乱」に足利義兼らとともに出陣し鎮圧。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。1203年「引企能員の乱」の残党を鎮圧。1221年「承久の乱」に北条泰時・時房の軍に従軍し上洛。1221年摂津守護、淡路守護に任官。79歳。

⇔▽*結城朝光 (1168~1254)小山・七郎・宗朝。下総国の豪族。小山政光の息(七男・養子とも)。1184年平頼盛の送別の宴に出席。1184年「宇治川の合戦」範軍。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。中国攻め範頼軍。第二次奥州征伐軍。母は源ノ頼朝の乳母。梶原景時と並ぶ、源ノ頼朝の側近。足利氏と同格に位置付けられる(足利義氏と対立)。畠山重忠の友。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1195年大和東大寺供養の供奉。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。1199年梶原景時に替わり播磨守護。1221年「承久の乱」に東山道の大将として出陣。<頼朝の庶子と噂がある。>

⇔下河辺行平 (*)(小山)・庄司。藤原秀郷の子孫。小山一門。下総国下河辺荘の領主。源ノ頼政の家人・下河辺行義の息。以仁王の挙兵を頼朝に伝える。1183年「志田義広の挙兵」に小山朝政、弟・政義と共に撃破。1184年平頼盛の送別の宴に出席。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」範頼軍。1185年九州渡海に先陣の四将、原田種直軍を破る。1185年播磨守護。1189年「奥州征伐」に従軍。弓射に優れ、将軍・頼家の弓術師範。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1195年源家一門に加えられる。

⇔▽下河辺政義 (*)(小山)・四郎・政能。下総国の豪族。源ノ頼政の家人・下河辺行義の息。行平の弟。河越重頼の娘婿、源ノ義経と義兄弟。1181年志田義広を破る。1184年、中国攻め範頼軍。1185年源ノ範頼に従い九州渡海。1185年義経事件に連座し所領没収される。1187年洛中にて挙兵、千葉常胤に鎮圧される。1192年永福寺工事に参加する。<息子・時員は野本氏の養子に。>

⇔阿曽沼広綱 (*)小山・四郎。下野国淵名流足利氏。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。

⇔小野寺道綱 (*)小山・太郎・光綱。下野国須藤氏。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。

河越重頼 (*~1185)太郎。武蔵国の豪族、秩父重綱の次男。妻は頼朝の乳母・比企ノ局の娘。義経を娘婿。武蔵国入間郡河肥荘の領主。1180年頼朝の挙兵には畠山重忠とともに三浦一族を攻撃。のち頼朝に臣従。1184年源ノ義経に従い西国遠征。源ノ義経を頼朝の命で婿とするが、義経事件に連座し誅殺される。

⇔田代信綱 (*)田代冠者。輔仁親王から五代孫。源ノ為経の息。母方の祖父・狩野(工藤)茂光の元で養育される。11歳で伊豆の頼朝に出仕。1180年「石橋山」の敗走に祖父・茂光の介錯。1184年「宇治川の合戦」に義経軍。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」に義経軍。1185年頼朝と義経の兄弟不和に、義経配下の御家人に義経の命令に従うべからずと内々の命令を伝える。<義経の目付け的な存在。>

⇔▽**八田知重 (*)源ノ・宇都宮・小田・太郎・左衛門尉・朝重。下野国宇都宮氏一門。八田知家の息。1181年頼朝の命で身辺警護担当(親衛隊)。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。1195年大和東大寺供養の供奉。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。<子孫に宍戸家。>

**宇都宮朝綱 (1122~1204)八田・三郎・左衛門尉・左衛門権少尉・尾羽入道。下野一宮宇都宮宮司。八田宗綱の息。稲毛重成の叔父。1180年京都大番役。頼朝が挙兵したため、平ノ貞能の管理下に置かれる。1183年平家都落ちに平ノ知盛に帰郷を許される。<藤原道兼流。>

**宇都宮成綱 (1156~1192)八田・大庭・次郎・左兵衛尉・左衛門尉・業綱。下野国宇都宮氏一門。伊予国守護。1189年「奥州征伐」に従軍。早世する。

▽**宇都宮頼綱 (*)小山・弥次郎・弥三郎・掃部助・越中守・入道蓮生。宇都宮成綱の息。母は平ノ長盛の娘。小山政光に養育される。宇都宮第五代。北条時政・梶原景時・稲毛重成の娘婿。1189年「奥州征伐」に従軍。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。

*毛呂季光 (*)藤原・太郎・豊後守。武蔵の豪族。太宰権師藤原(毛呂冠者)季仲の子孫。新田家の娘婿。源ノ頼朝の側近。伊豆配流時代の食料の世話をする。1189年「奥州征伐」に従軍。1195年大和東大寺供養の先陣。のち中条家長と怨恨あり。頼朝死去後、隠居。<横山党の中条氏と小競り合いができるほどの実力者。>

▽毛呂季綱 (*)次郎。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。<子孫は戦国時代、後北条氏の家臣に。>

⇔*大庭景義 (*)景能。相模国大庭御厨の領主。大庭景親の兄。「保元の乱」に源ノ為朝に足を射抜かれた傷がもとで引退。弟・義親の滅亡後、再び惣領職。一門に豊田景俊。

*▽和田常盛 (1172~1213)三浦・杉本・兵衛尉・新左衛門尉。和田義盛の長男。弟に朝比奈義秀。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。1203年「比企能員の乱」に追討軍。1213年将軍・実朝の暗殺計画に弟の義直、義重が係り、北条義時と対立。「和田の合戦」に戦死。

*津々見忠季 (*~1221)惟宗・島津・次郎・左兵衛尉・若狭兵衛尉。惟宗流島津氏一門。惟宗広言の息。薩摩守護・島津忠久の弟。若狭島津の祖。1196年頼朝の意向で若狭の国人・稲庭時定の旧領を拝領する。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。

<鎌倉軍部隊長級(東国豪族・譜代家老衆)御家人>

 (伊豆国衆)*頼朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)*先代(義朝・義平)からの御由緒家(譜代郎党)

*佐々木定綱 (1142~1205)(源・宇都宮)・検非違使・左衛門尉。近江守護職。佐々木秀義の長男。母は下野宇都宮の娘。1180年頼朝の挙兵から軍功を重ねる。近江日吉神社と抗争し次男・定重は切腹。定綱と長子・広綱は薩摩に配流される。1193年の恩赦により、長門・石見・隠岐に所領を得る。1195年大和東大寺供養の供奉。1221年「承久の乱」に弟・経高、息・広綱が幕府に反乱する。

▽佐々木経高 (*1147~1221)(源・宇都宮)・次郎・中務丞。佐々木秀義の次男。母は下野宇都宮の娘。「平治の乱」で近江の領地を失う。1180年兄・定綱とともに頼朝挙兵に参加。淡路・阿波・土佐守護職。京都の警備に当たる。1203年後鳥羽上皇の院宣で延暦寺を攻撃。1221年「承久の乱」に上皇に近侍。北条泰時の降服勧告をいれず自害。

⇔▽佐々木盛綱 (1151~*)三郎・左衛門尉・三郎兵衛・入道。佐々木秀義の第三子。頼朝の側近。1184年「宇治川の合戦」義経軍。1184年、中国攻め範頼軍。1184年平行盛を「藤戸の合戦」で備前児島に破る。伊予、越後守護。1189年「奥州征伐」に従軍。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。将軍・頼家の不興を買い、隠居する。1201年城資盛の挙兵の際に、幕命で鎮圧の将として御家人を率いる。

⇔▽↑佐々木高綱 (*1160~1214)(源・宇都宮)・四郎・左衛門尉。佐々木秀義の第四子。母は下野宇都宮の娘。1180年「石橋山」に頼朝の影武者を務める。1184年「宇治川の合戦」に義経軍。宇治川で先駆け一番手。長門守護。1195年出家、息・重綱に所領を譲る。息に重綱。

⇔▽佐々木義清 (*)(源・渋谷)・五郎・左衛門尉。母は渋谷重国の娘。渋谷荘で養育され、1180年の頼朝挙兵には外祖父・渋谷重国に従い平家方。のち頼朝に臣従。1184年父・秀義とともに伊賀に平氏を追討する。1189年「奥州征伐」に従軍。1221年「承久の乱」に幕府方、後に出雲守、隠岐守に任命される。

⇔工藤祐経 (*~1193)伊東・宇佐美・左衛門尉・一臈・相模武者所所司。伊豆国の住人。工藤祐継(伊東祐次)の息。元・平重盛の家人。伊東祐親に所領を奪われ1176年富士野にて伊東祐親を攻撃し、子の伊東祐泰を討つ。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。1193年「富士野の巻狩」にて曽我兄弟に襲撃され落命。

⇔↑宇佐美祐茂 (*)工藤・三郎・右衛門尉・助茂。工藤祐継(伊東祐次)の息、工藤祐経の弟。伊豆国の住人。1180年頼朝の挙兵に参陣する。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。1189年奥州征伐に従軍。1190年の頼朝上洛に従軍。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1212年常陸国の地頭職。

工藤景光 (*)庄司。伊豆工藤氏。工藤景澄の息。1189年「奥州征伐」に従軍。

工藤行光 (*)次郎・小次郎。伊豆工藤氏。1189年「奥州征伐」に従軍。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。

工藤助光 (*)三郎。伊豆工藤氏。1189年「奥州征伐」に従軍。

狩野宗茂 (*)工藤・伊豆介・狩野介。狩野(工藤)茂光の息。伊豆大島を領する。1180年父・茂光は頼朝挙兵に参加し、敗戦後自害。1184年捕虜・平ノ重衡を預かる。

狩野親光 (*)五郎。伊豆工藤氏。1189年「奥州征伐」に従軍。

伊東* (*)三郎。伊豆工藤氏一門。伊豆の豪族。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。

伊東茂親 (*)四郎。伊豆工藤氏一門。伊豆の豪族。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。

⇔仁田忠常 (1168~1203)新田・日田・四郎。伊豆国の住人。1180年頼朝挙兵以来これに従う。1184年中国攻め範頼軍に従軍。1189年「奥州征伐」に従軍。1190年頼朝の上洛にも従軍。1193年「富士ノ巻狩」に曽我祐成兄弟の私闘を鎮圧。1195年大和東大寺供養の供奉。1203年「比企一族の乱」に巻き込まれ、北条時政に討たれる。<北条義時と年齢的にも近しい関係。>

仁田忠時 (*)新田・日田・六郎。伊豆の豪族。1189年「奥州征伐」に従軍。

⇔加藤景員 (*)五・入道。藤原利仁流。伊勢加藤氏。伊豆国に移住し加納茂光の後援で土着住人となる。1184年伊賀平氏の乱を鎮圧。

⇔▽加藤光員 (*)藤太・太。加藤景員の息。藤原利仁流。伊豆国加藤氏。1180年甲斐武田氏に従い駿河目代の橘ノ遠茂を討取る。1189年「奥州征伐」に従軍。

⇔▽加藤景廉 (*~1221)次・藤次郎。加藤景員の息。藤原利仁流。伊豆国加藤氏。頼朝の側近。1180年頼朝の挙兵に参加し、伊豆の代官・山木兼隆を討ち取る。頼朝とともに安房には渡らず甲斐に走る。1184年西国攻め。1189年「奥州征伐」に従軍する。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。1200年梶原景時と昵懇の為、事件に連座し失脚。「和田合戦」に力戦し帰参する。西行法師の親戚。

天野保高 (*)右馬允。伊豆の豪族。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。

天野則景 (*)六郎。伊豆の豪族。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。

堀ノ* (*)藤太。伊豆の豪族。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。

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