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戦国その27 信長政権「天下の奉行衆」と戦国「大航海」時代の豪商たち

信長家臣団と軍団。信長政権「天下の奉行衆」、戦国時代有力商人衆、切支丹大名・伴天連町人・南蛮貿易商人のページです。

普請(公共事業)大好き!

織田信長政権

「天下の奉行衆」


 幕府を支えた政所執事・伊勢家の系譜。

<京都 所司代・町奉行>


⇔↓村井貞勝 (*1528~1582)吉兵衛・民部丞・民部少輔・長門守・春長軒・「天下所司代」。弟に宗信。1556年織田信勝の降服を取次ぐ。美濃三人衆からの人質をあづかる。1568年足利義昭の出迎え奉行。上洛後は京都に駐留する。島田秀順とともに将軍邸造営。朝山日乗とともに禁裏の再建。島田秀順とともに信長宿所の造営。1573年将軍追放後に京都所司代。織田家の雑掌から天下の執事に。1576年二条新御所の普請奉行。息子・貞成は京都の都督。清次は信長馬廻。二条御所(二条城)で討死。55歳?。<フロイス談「都の副王、信長の家臣にして、パードレの友、村井殿という異教徒。」><孫に朝日勝七。><室町幕府の所司代として、三好家と同盟した伊勢伊勢守貞孝の伊勢家の跡職を継承したような存在かと。>
▽村井宗信 (*~1582)新右衛門尉。貞勝の弟。1575年頃から吉田兼見と親交を深める。1576年兼見より30疋(賄賂?)を贈られる。<村井家は近江の出とも。>

▽村井清三 (*~1582*)村井貞勝家臣。村井一族。1576年兼見より20疋(賄賂?)を贈られる。1578年村井貞成により追放される。1579赦免され出仕。病中の貞勝の代理。山科言経から薬等を取次。1580年関東北条氏の使者を取次。本能寺の変に在命。信孝に出仕し、命により桑原貞也と共に光秀・利三の首塚を建造。

▽村井清次 (*~1582)専次。貞勝の息(2男)。京都二条御所(二条城)にて戦死。

▽村井貞成 (*~1582)作右衛門尉。貞勝の息。1576年兼見より50疋(賄賂?)を贈られる。

前田玄以 (1539~1602)孫十郎・基勝・民部卿・半夢斎。美濃安八郡前田出身。尾張小松寺住職。村井貞勝の婿。織田信忠付の奉行。1579年7月赤座長兼とともに井戸将元処刑の奉行。本能寺の変に信忠から後事を託され、長谷川丹波守とともに三法師を岐阜から清洲に移したという。織田信雄から京都所司代に指名される。のち秀吉に仕え5万石。<織田信忠の奉行のページにも登場します。信忠から託された貞宗を自分のものとするか?>

↓長谷川宗仁 (1539~1606)刑部卿法印・源三郎。京都町衆。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。京都に朝倉義景・武田勝頼の首を晒す奉行。織田家の広報官。

<安土奉行>


 福富秀勝 肖像のつもり。
⇔↓⑪福富秀勝 (*~1582)福住・福角・平左衛門・行清・定次。愛知郡岩塚村出身。貞家の息。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の4番)。室は朝倉景紀の娘。1561年「軽海の合戦」に従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年「越前侵攻」に従軍。1573年8月「朝倉征伐戦」に軍功。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。紀州雑賀攻撃に従軍。1578年「有岡城攻囲」に軍監。中川清秀の誘降に尽くす。近江国安土城城下の都督(警察長官)。1581年「能登平定」に従軍、富来城番。1582年「本能寺の変」に二条御所にて討死。<福住といえば伊賀の忍者の頭領の・・・(安直ですが服部半蔵的な役割でしょうか、まさかね~(笑。><川口宗勝は娘婿。>

<清州奉行衆>

 1560年頃
⇔↑村井貞勝 (*1528~1582)吉兵衛・民部丞・民部少輔・長門守・春長軒・「天下所司代」。弟に宗信。1556年織田信勝の降服を取次ぐ。美濃三人衆からの人質をあづかる。1568年足利義昭の出迎え奉行。上洛後は京都に駐留する。島田秀順とともに将軍邸造営。朝山日乗とともに禁裏の再建。島田秀順とともに信長宿所の造営。1573年将軍追放後に京都所司代。織田家の雑掌から天下の執事に。1576年二条新御所の普請奉行。息子・貞成は京都の都督。清次は信長馬廻。二条御所(二条城)で討死。55歳?。

⇔↓島田秀順 (*~*1576)所之助・秀満。村井貞勝とともに織田家の財政実務を担う。1568年の上洛後は京畿の政務。将軍邸の普請奉行、1572年信長の京都宿所の普請奉行。禁裏の賄料を創出するため兵糧の貸付業を開業。1573年対立する足利義昭と信長との間の通信使。(天正3)年4月から消息不明。

⇔↓坂井一用 (*~1570*)酒井・好斎。信長の奉行衆。初期官吏。1568年から佐久間・木下などの武将と京畿の政治に係る。1569年岐阜に来訪した山科言継を訪問。今井宗休に対して但馬国「生野銀山」の吹屋銭の督促をし、山科言継との取次ぎを務める。

祖父江秀重 (1522~1585)金法師・五郎右衛門尉。津島牛頭天王社社家。氷屋光大夫・秀時の息。尾張奉行。信秀時代からの官吏。永禄7年~天正2年にかけて伊勢一向一揆と五明表で対陣。安土城二の丸留守居。のち織田信雄に出仕。

桑原家次 (*)四郎左衛門。信長の奉行衆。初期官吏。1562年池山・武田とともに尾張密蔵院領の奉行。

池山信勝 (*)久左衛門。信長の奉行衆。初期官吏。

武田左吉 (*)佐吉・左吉。甲斐出身。元・今川家家臣。信長馬廻衆。1562年頃から側近奉行として活動。林高兵衛、長坂助一とともに山城直轄地代官。1578年12月摂津の荒木村重謀反に際し、馬廻衆として出動し、降服した高山右近の高槻城の在番となる。1579年12月山城の代官、長坂助一・林高兵衛とともに岩清水八幡宮の再建を奉行する。

<岐阜奉行衆> 

1569年頃
織田信広 (*~1574)津田・三郎五郎・大隈守。織田信秀の長男。信長の兄。1540年三河国安祥城主。1548(1549)年今川家に捕虜になる。松平元康と人質交換で尾張に戻る。信長に対して1557(弘治3)年美濃の斉藤義龍(もしくは龍興)、岩倉の織田信賢、犬山の織田信清と結び弟・信長の清州城を奪取しようとするが失敗。降伏臣従。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。1570年「比叡山攻囲」。美濃岩村城城番。1573年足利義昭との和睦交渉を成立させる。1574(天正2)年「伊勢長島」に戦死。娘は丹羽長秀の室。

⇔林秀貞 (*)織田弾正忠家宿老。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔武井夕庵 (*)元・斎藤家家臣。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔松井友閑 (*)友閑入道。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔明智* (*)市尉。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔丸毛光兼 (*)丸藻。丸毛邸に一条内基が滞在。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔↓坂井一用 (*~1570*)酒井・好斎。信長の奉行衆。初期官吏。1568年から佐久間・木下などの武将と京畿の政治に係る。1569年岐阜に来訪した山科言継を訪問。今井宗休に対して但馬国「生野銀山」の吹屋銭の督促をし、山科言継との取次ぎを務める。

⇔坂井利貞 (*~1620)酒井・文介・文助。元・信長馬廻衆。信長の奉行衆。信忠の尾張四奉行のひとり。1569年岐阜に訪れた山科言継を訪問接待。山科言継から贈答品を貰う。土木工事に才覚あり、尾張・美濃の普請奉行として活躍。1574年11月~1575年10月尾張国中の道路・橋・水道整備の奉行。織田信忠家督相続後は信忠の奉行。信忠、信雄、羽柴秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直に出仕する。

⇔▽坂井* (*)酒井・隼人。利貞の息。幼少の頃から奉行として頭角。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。1571年山科言継の接待。変後、信雄に出仕。以降消息不明。

⇔島田秀満 (*)1569年坂井利貞・飯田某・塙直政と共に山科言継から贈答品を貰う。

⇔飯尾尚清 (*)飯尾・毛介。信長の馬廻衆。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔菅屋長頼 (*)菅屋・長。織田信長の小姓衆。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔豊島* (*)十郎。信長の馬廻衆。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔野々村* (*)又右衛門。信長の馬廻衆。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔山口* (*)太郎兵衛。信長の馬廻衆。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔鳴海* (*)助右衛門。信長の馬廻衆。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔佐々* (*)一兵衛。信長の馬廻衆。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。

⇔飯田* (*)信長の馬廻衆。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。山科言継から贈答品を貰う。

⇔塙直政 (*)原田直政。信長の馬廻衆。1569年岐阜を訪問した山科言継を接待。山科言継から贈答品を貰う。

⇔稲葉良通 (*)因幡・伊予守。元・斎藤家家臣。1569年岐阜を訪問した三条西公国を接待。


<側近衆(右筆・各種奉行)>

官僚グループです。
(右筆)
明院良政 (*~*1570)明王院良政・明印御坊。1564年頃に信長に出仕。美濃の徳山則秀を取次。1568年の上洛頃から祐筆・奉行として活躍。1568年9月禁裏との取次ぎを務める。佐久間信盛、丹羽長秀、木下秀吉、村井貞勝とともに京都奉行として駐留。1570年頃から消息不明。<禁裏との遣り取りは朝山日乗がその代役となったか。>

↓松井友閑 (*~*1584)宮内卿法印・徳庵・徳斎。元清洲の商人。織田信長の茶頭。坊主衆。堺代官。1568年の上洛頃から奉行を務める。1569年春、丹羽長秀とともに京都の「天下名物」収集の代官。1569年岐阜に来訪した山科言継を訪問。1570年堺の名物狩り。天正3(1575)年、信長家臣として任官。三好笑岩とともに本願寺和睦の交渉役。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会(友閑が茶頭)に列する重臣12人のひとり。1581年馬揃え坊主衆にて参加。「本能寺の変」事、家康・信君接待。上杉家、伊達家、大友家との取次ぎ。<日本海の水軍大将・松井康之は甥とも。友閑は松井越前守・長之の次男で山城守・正之の弟らしい。(平成23年に飛び出してきた新説です。><上洛してからの右筆ではあるし、松井康之がそこまで重用されることに友閑の存在が大きかったと考えれば合点がいかなくもないですが。真相はわかりません。>

武井夕庵 (*~*1585)二位卿法印・肥後守・璽雲・妙伝。斎藤家三代の右筆。1560年「桶狭間」の際、熱田神宮に奉納する信長の願文を清書したという。1568年入京後、畿内の政務にも携わる。1569年岐阜にて山科言継の接待。毛利氏、武田氏との取次を担当。変事、家康・信君接待。天正3(1575)年、信長家臣として任官。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。1581年馬揃え・山姥(70歳頃という)。変後消息不明。<斉藤道三と息子・義龍の仲を引き裂いた人物。義龍から織田家を内から撹乱するために策略で送り込まれたのでしょうか。><どうしてこんなに重用するのでしょうか。謀略家の力量を買ったのでしょうかねえ・・・。敵対国の武田、毛利相手の取次ぎとして、老練な外交手段を駆使していたのでしょう。>

楠木長韻 (1520~1596)式部卿法印・河内守・長庵・長安・正虎。坊主衆。元・足利義輝、松永久秀右筆。1570年頃から信長に出仕。1578年万見重元とともに佐久間信栄との取次ぎ。九州大友氏との取次を担当。1580年8月佐久間信盛の譴責使。1581年馬揃え坊主衆にて参加。のち秀吉の側近。<楠木末裔というからには河内に家があったのでしょう。佐久間軍団の監察官として厳しい目を光らせていた様子です。><伊勢の楠木氏とも縁戚のようです。>

↓長谷川宗仁 (1539~1606)刑部卿法印・源三郎。京都町衆。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。京都に朝倉義景・武田勝頼の首を晒す奉行。織田家の広報官。

和久宗是 (1535~1615)又兵衛・自庵。元・三好氏家臣。足利義昭、信長右筆。のちに秀吉、伊達政宗に出仕。

朝山日乗 (*~1577)出雲出身。天台宗、または日蓮宗の僧侶。尼子氏から逃れ毛利家に出仕。その後上京し禁裏に仕える。後奈良天皇に日乗上人の称号を与えられる。毛利家の勢力を背景に松永久秀を支援。1568年信長の上洛に際し、禁裏との仲介者として起用される。村井貞勝とともに内裏の再建奉行。キリスト教を憎悪する。切支丹弾圧に執念を燃やす。1569年4月切支丹修道士ロレンソと信長の御前にて宗教争論で対決するが敗北する。1573年に足利義昭が追放されるまで織田信長との仲裁に務めるが成らず。その後消息を絶つ。<ロレンソを刺そうとして信長様に一喝されたらしい。切支丹からは「ルシフェル」と呼ばれ怖れられた怪僧。>

(同朋・坊主)
一雲斎針阿弥 (*~1582)一雲軒。同朋衆。大和国関連の奉行。1578年近衛前久に信長が鷹狩で捕獲した「鶴」を届ける使者。1579年楠木長韻とともに法隆寺奉行。興福寺大乗院、薬師寺、国衆・箸尾為綱との取次ぎ。本能寺で討死。

 *長雲軒 (*)長雲・妙相。信長坊主衆。右筆を兼ねる。1575年妙顕寺の能会に供奉。1581年「京都馬揃え」に参加。1582年安土聡見寺にて徳川家康の接待。織田信忠の守役。<信忠のいる岐阜とのパイプ役。><姓が伝わりませんが、長を姓と考えると、能登の長(ちょう)氏の生き残りで、長連竜の一族かとも思えます。><畠山氏とも繋がる縁かもしれませんね。>
 

<所司代(町奉行・都督)・各種奉行>


<各種奉行>
織田吉清 (*)修理亮。信長の側近・奉行。一門衆としては遇されていない。1568年大和国の寺社に対して奉行。

⇔正実坊掟運 (*)元幕臣。幕府政所公方御倉、納銭方御蔵番。のち信長直轄領代官。

⇔竹田* (*)梅松軒。元幕臣。1598年秀吉の代に庭奉行。のち細川家臣。娘婿に松井之勝。

⇔荒川* (*)治部少輔。元幕臣。足利義栄に出仕。義昭の代は失脚するか。1573年信長から知行を宛がわれる。<伊勢貞為と同じ経歴です。>

⇔山口秀景 (*~1583)甚助。公家・葉室頼房の侍。足利義昭の足軽大将。元幕臣。1569年義昭の使者として信長に謁見。1571年にも使者を務める。義昭追放後は直参。山城宇治田原城主。本能寺の変に際し、居城に家康を保護する。

⇔伊勢貞為 (*)伊勢貞良の息。祖父と父は専横の罪で、足利義輝と三好範長(長慶)により排斥される。貞興の庶兄。元幕臣。三好家の擁立した足利義栄に出仕。1568年義昭の上洛により引退。弟の貞興が家督継承。<明智光秀の家臣団と軍団のページ参照してください。><明智光秀の与力という中央政治からのハズレ方に傷心し、弟は本能寺や二条城焼き討ちの凶行に走ったのでしょうか。平家伝来の名刀が伊勢氏に伝わっている点も平家嫡流を名乗る織田家との軋轢となったのでしょうか。>

⇔伊勢貞知 (*~1627)因幡守・(貞常?)。伊勢家庶流。貞助の息(貞倍の息とも)。元幕臣。貞倍の所領である丹波桐乃、河内等を相続するが、後に没収される。その後、九州に派遣され大友氏と島津氏の和平を仲介。息に貞俊。<貞為とは嫡流と庶流の隔たりはあったのでしょうか。>

関東北条⇔伊勢⇔明智光秀のライン

<尾張・伊勢>
津田一安 (*~1576織田忠寛・掃部助・掃部介。織田氏一門。筑後守寛真の息。北畠信雄の家老。1569年北畠氏「大河内城攻略」に従軍。北畠信雄の後見人として南伊勢を支配。1573年頃伊勢大湊にて船運の掌握に務める。勢南奉行として権力を振るうが、私利に走り1576年12月成長した北畠信雄に田丸城において誅殺される。

⇔↑島田秀順 (*~1574*)所之助・孫右衛門・但馬守・秀満。初期の奉行。1568年足利義昭の迎え。入京後禁中の修理奉行。義昭邸の普請奉行。1569年岐阜に来訪した山科言継を訪問。1573年頃まで畿内の諸政に活躍する。伊勢長島征伐に従軍後、消息不明。<伊勢での前線での活躍は小荷駄担当奉行ということでしょうか。>

上部貞永 (1529~1591)二郎右衛門・越中守・(上部)大夫。伊勢神宮大神官。1574年尾張の所領を安堵される。1582年伊勢神宮再建の奉行となる。補佐役には弓衆筆頭・平井久右衛門(長康)。のち秀吉に出仕。<信長様は神道系とは合うようです。>

<尾張> 坂井利貞ら「尾張四奉行」は織田信忠家臣団を参照してください。
坂井一用 (*~1570*)好斎。初期官吏。1568年から佐久間・木下などの武将と京畿の政治に係る。1569年岐阜に来訪した山科言継を訪問。今井宗休に対して但馬国「生野銀山」の吹屋銭の督促をし、山科言継との取次ぎを務める。

⇔↑祖父江秀重 (1522~1585)金法師・五郎右衛門尉。津島牛頭天王社社家。氷屋光大夫・秀時の息。尾張奉行。信秀時代からの官吏。永禄7年~天正2年にかけて伊勢一向一揆と五明表で対陣。安土城二の丸留守居。のち織田信雄に出仕。<馬廻衆のページにも登場します。>

祖父江信勝 (*)勝久・祐斎。津島牛頭天王社社家。のち福島正則に出仕する。<一族代表の信長様小姓の祖父江氏は本能寺にて戦死。>

⇔埴原常安 (*)次郎右衛門尉・加賀守・(長久?)。平手養女(中条氏)の婿。信濃出身の武士。諸国巡礼の旅の途中、信長の直参となる。1568年に所領を与えられる。1577年失脚した信雄家老・津田一安の家財を与えられる。尾張清洲城主。清洲町奉行。のち織田信雄に出仕。五徳姫の側人として尾張に居す。息(養子)に左京。平手政秀の息を養子とするとも。<信長様の抜擢というが、尾張の権限は信忠さんに移譲されていたであろうし、信忠の尾張家老でしょうか。下尾張に埴原、上尾張(犬山)には弟・織田勝長(信房)が又守護という感じでしょうか。><1570年埴原新右衛門が瀬田橋の関所奉行を村井貞成とともに勤めるということは、村井家と特別な由緒を持つということか>

<越前>
津田元嘉 (*~1582)九郎二郎・九郎左衛門・九郎次郎。比良城主・津田元定の息。織田信長の妹婿。1570年近江志賀にて戦死した信長弟・九郎信治の跡職を継承し野夫城主。1573年北ノ庄において越前の支配に携わる。1574年一揆蜂起の際には朝倉景健の協力で脱出。1582年「甲斐乱入」に従軍し、甲斐恵林寺焼き討ちの奉行。「本能寺の変」に二条御所にて討死。<越前退却後は織田信忠軍団に属すか。>

魚住* (*)隼人正。尾張時代から馬廻衆として戦場でも働く。1560年「桶狭間の合戦」に武功。1568年摂津池田の攻城戦に負傷。1580年4月木下祐久とともに加賀の柴田勝家軍の軍監。越前、加賀、能登の奉行を務める。変後、前田家家臣。<一族代表の信長様小姓の魚住氏は本能寺にて戦死。>

木下祐久 (*~1584)助右衛門・助左衛門・入道助休。ねねの父。羽柴秀吉は娘婿。1569年山城国金剛院の所領安堵。1572年大徳寺の代官。1573年8月朝倉滅亡後、北ノ庄で津田元嘉・明智光秀(代役・溝尾茂朝)と越前三奉行を務める。1574年1月一向一揆の蜂起により退却。1580年4月魚住隼人とともに加賀の監察官。のち羽柴秀次の後見人。1584年「小牧長久手の合戦」に戦死。<羽柴軍の代表者です。>

 
<近江 安土 町奉行>
佐久間家勝 (*~*1582)与六郎。官吏。安土城二の丸留守居。五器所城主。<佐久間盛重の一族か。盛重戦死後の五器所の惣領となるか。>

木村重高 (*~*1582)次郎左(右)衛門・高重。沙々木神社神職。近江出身、六角旧臣。多くの普請事業に関わり職人頭。1575年瀬田(勢多)大橋の造営。信長の大納言任官の御座建立。安土城の(天主閣)普請奉行、緒職人を束ねる。安土(山下)町奉行として商工会の管理。安土城二の丸留守居。信長家族を避難させ、安土城を守備する。以降消息不明。<百々橋にて、安土城を接収にきた明智軍と戦い戦死するとも。><⇔信長の近衛軍(旗元馬廻衆)のページにも登場します。><秀頼の側近、木村氏に関連ありか?>

国友* (*)藤二郎・藤次郎。近江坂田郡国友村。河原方代官。鍛冶職人。1544年近江に避難していた将軍・足利義晴から善兵衛が鉄砲の製造を委託される。秀吉保護の下で鉄砲を生産。<もともと、将軍の直轄地で「石火矢」や、唐物の「てつはう」等を生産していた工匠集団の長だったのでしょうか。硝石の生産地、飛騨との関わりも気になるところです。京極家の先端技術も担っていたのでしょうか。>

≪個人的感想≫ 尾張岩崎城主・丹羽氏勝が、伊吹山山中で何かをしていて、部下が見学に来た上様に落石をあててケガを負わせそうな事故があったと伝わりますが。宣教師に許可した西洋医術の「薬草園」があったともいいますし・・。アヘンなどでしょうか。
 岩崎丹羽家も伊吹山で何をしていたのだろうと素朴な疑問が生じます。柴田勝家の与力ならば、伊吹山でなく、長光寺城付近でも良い気がしますが。

<摂津国 平野郷> 1568~ 直轄領・平野から鉄甲船のための「九鬼兵糧」を用意したらしい。
⇔武田左吉 (*)尾張時代1562年頃からの官吏。畿内の領地支配に活躍。1578年荒木村重の「有岡城攻囲」に参陣、高槻城城番となる。1580年山城の代官、長坂助一・林高兵衛とともに石清水八幡宮の再建造営の奉行。<畿内の前線での活躍は小荷駄担当奉行ということでしょうか。>

末吉増久 (*)末吉東家・藤左衛門。摂津平野郷の豪商。末吉行増の長男。織田信長直轄領。商業市場の権益を持つ、租税請負の代官を代々勤める。

末吉利方 (1526~1607)末吉西家・勘兵衛・道勘。摂津平野郷の豪商。馬座を経営。末吉行増の次男。織田信長直轄領。82歳。

<和泉 堺 代官>
⇔↓↑松井友閑 (*~*1584)宮内卿法印・徳庵・徳斎。堺代官。元・清洲の商人。坊主衆。1568年の上洛頃から奉行を務める。1569年春、丹羽長秀とともに京都の「天下名物」収集の代官。1569年岐阜に来訪した山科言継を訪問。1570年堺の名物狩り。天正3(1575)年、信長家臣として任官。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会(友閑が茶頭)に列する重臣12人のひとり。三好笑岩とともに本願寺和睦の交渉役。1581年馬揃え坊主衆にて参加。「本能寺の変」事、家康・信君接待。上杉家、伊達家、大友家との取次ぎ。
▽富田* (*)清左衛門。松井友閑の側近。堺の都政に係わり、1575年から津田宗及と親交。

<和泉国 堺 町衆> 1568~
津田宗及 (*~1591)「天王寺屋」・助五郎・幽更斎・天信。宗達の息。堺町衆の有力者。九州方面の産物を取り扱う。1566年父の死により家督。1573年11月妙覚寺茶会に信長から名馬を拝領する事から、その頃臣従か。1574年正月、岐阜に御礼。息に津田宗凡。
天王寺屋道叱 (*)堺の町衆、商人。大友宗麟のお抱え商人。

今井宗久 (1520~1593)大蔵卿法印・彦右衛門・彦八郎・兼員・昨夢斎。近江高島郡今井城主、今井氏高の息。納屋宗次に養育される。武野紹鴎の娘婿。堺町衆の新興商人、納屋業(金融・倉庫・火薬業)。「茶の湯」を通して三好実休、松永久秀と交流。1568年9月信長の上洛により、10月「松島の茶壷、紹鴎茄子茶入」献上、信長の収集欲を刺激する。武野宗瓦と遺産相続で争い信長の仲裁を仰ぐ。但馬の鉄資源を入手すべく長谷川宗任とともに山名韶熈を援助し、信長の加勢を得る。

千 宗易 (1522~1591)与四郎・利休。堺の町衆、商人。1570年4月堺で信長を接待。1575年越前出兵の際鉄砲玉を献上。1575年10月妙覚寺茶会の茶頭。<松井友閑は茶頭のライバルか。>

小西隆佐 (1520~*)弥九郎・ジョアチン。キリシタン商人。薬種商。キリスト教布教の許可を得るため、フロイスに岐阜行きを勧める。京都にも進出。備前浮田氏の御用商人として瀬戸内海の通商に特権を持つ。秀吉の命で長崎にてポルトガルとの生糸貿易を開始。

小西如清 (*)隆佐の長男。堺の町衆、商人。秀吉の側近・小西行長の兄。堺政所を継承する。
日比屋了珪 (*)ディオゴ。堺の町衆、商人。大友宗麟のお抱え商人。

<河内国 八尾・久宝寺寺内町>
⇔安井定次 (*)清右衛門。河内豪族。畠山姓。

⇔安井成安 (1533~1615)市右衛門・道頓。安井定次の息。河内豪族。畠山姓。

水走* (*)河内枚岡神社神職。河内畠山家家臣。新開池・深野池などに通じる河内の湖沼河川の水運を管理する。1579年兵火で社殿が損傷する。

(御用商人)

 1569年3/*:「管領・副将軍」を辞退、近江草津大津、和泉に代官設置の許可を得る。

<甲斐国 府中> 1582~
坂田* (*)源右衛門。伊勢出身。塩・魚問屋業を営み、甲斐府中の豪商となる。武田信玄の御用商人。のち徳川家に甲州一円の海産物統制の特権を保障される。

<駿河国>
友野* (*)二郎兵衛。信濃国伴野が祖の地。今宿の商人。江尻・沼津等で木綿の座を支配。1553年今川義元に権益を保障される。跡職は次郎右兵衛尉(宗善)。

▽友野宗善 (*)次郎兵衛尉。駿河国府中に拠点を置く。今川家の商人頭。「友野座」を持ち、木綿、油、茜、米、酒を管轄。伝馬業も支配した。

<越前国>
神宮寺* (*)慶松・太郎三郎。神宮寺下町の豪商。朝倉義景から特権を保障される。朝倉家滅亡後は織田家に従う。

橘屋* (*)三郎左衛門。越前北ノ庄の商人。唐人(唐物・輸入物)座・軽物座(絹織物)座長。1557・1571年朝倉義景から「調合薬」売買、酒売買座の特権を保障される。朝倉家滅亡後は織田家に従う。役銭の納入を義務付される。1584年領主・丹羽長秀から保護を受ける。
 

<尾張国 小折村> 1550~
⇔↑○生駒家長 (*)八右衛門。丹羽郡小折村領主。生駒蔵人・家宗の息。妹・生駒吉乃は信長の準正室。織田信忠は甥。灰・油の商売を主とする。1560年9月織田家より諸荷物馬一匹の関税を免除される。1570年「越前進攻」での敗戦に信長の身代わりとなり負傷。「姉川の合戦」にも佐々成政与力として軍功。<黒幌衆の生駒正助はこの方だと思っています(私見)。>

<尾張国 清州町>
伊藤* (*)惣十郎。清州商人。織田信長に出仕。尾張国・美濃国の唐物取扱い商人・呉服商人達の元締めとして登用される。
津島牛頭天王神社イメージ図

<尾張国 津島町(津島天王社門前町・津島五ケ村)> 1530~ 勝幡城により支配。

堀田道空 (*)美濃斎藤家の重臣。斎藤道三の側近。織田弾正忠家とも親交。1553年道三・信長の正徳寺の会見での随行者のひとり(春日丹後・猪子兵助)。尾張津島に館があり、織田信長の踊り興行が披露された。道三没後は信長に出仕カ。<斎藤道三の家臣団を参照してください。>

⇔大橋重一 (*)大橋重長の父。津島の有力豪族。<斯波氏とも縁戚関係。川口氏や千秋氏、長田氏とも縁を結んでいる有力家。>

⇔水野範直 (*)太郎左衛門。1562年織田信長から尾張での熱田の鉄屋より優位な「鉄製品」特権の継続を承認される。

服部* (*)弥六郎。津島商人。信長から特権を承認される。

氷室* (*)(祖父江)・兵部少輔。津島神社神主。社領の保護を受ける。
虚空僧坊 (*)津島神社社僧。信長から特権を承認、保護される。

⇔ 津島衆
 
<尾張国 熱田(熱田神宮門前町・宮宿町)> 1500~
熱田神宮イメージ図
加藤順光 (*)東加藤。加藤惣領家。熱田加藤12代目。加藤景繁の息。加藤延隆の兄。

加藤順盛 (1514~1588)東加藤・図書助。熱田東加藤家。加藤順光の息。熱田加藤13代目。羽城に居し東加藤と呼称される。次男・弥三郎は信長の赤幌衆。一時尾張の人質となった、松平竹千代(徳川家康)を預かる。次男・弥三郎は信長の赤幌衆。<弥三郎は信長奉行・赤川景弘(坂井道盛)を殺害し出奔。>

加藤延隆 (*)全朔。熱田西加藤家。順盛の叔父。織田信秀から保護され要脚・徳政の免除、船運の利権を与えられる。

<知多郡>
大森* (*)平右衛門。織田家家臣。知多郡代。1552年織田信秀の跡職を継承した信長より、守山から篠島間の商人の管理を任されている。

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