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父の誕生日

法被装束に身を包むと、少し照れ臭そうにしながら父はカメラの前に立った。80歳という年齢相応ながら、誇らしくもちょっぴり嬉しそうでもあった。きっと遥か昔に、賑わう祭りの日のために揃えたのであろうその衣装も、母の管理が行き届いているためか、真新しい感じさえした。
紺色地のピーンと張りつめた木綿布から、しょうのうの香りが漏れた。
愛犬をだいて、満足そうな父の姿の数メートル手前で、シャッター音を数度聞いて、簡素な記念撮影は終了した。
その後、近所の馴染の鮨屋で、ささやかな乾杯の宴を催すことにした。
愛想の良い板前と、良くこなれた店員とが、テンポよく注文を聞いていく。
その小気味よさが、温かみの残る舎利や新鮮なネタたちと相まって、より一層の食欲をそそっていくようであった。
ひとつのテーブルを囲んで、話題はいつものたわいのない出来事に終始した。外へ出ると、夏の強い日差しが照りつけていたが、木立の隙間をすりぬける涼風に乗って蝉の鳴き声が盛んであった。
一瞬、老いることの意味が目の前を横切った気がした。
ひとつ大きく深呼吸をすると、頭の中がすっきりとした。
幾十年という年月を重ねてもなお、それぞれの人生を胸に秘めて、それでも前へと歩いていく、この何とも頼りなげな存在感こそが幸せの象徴なのかも知れない。
おしまい。

あとがき
この翌年父は虹の橋を渡って逝った。
この日の普通であり普通でなかった一日が特別な日として
心に残っています。


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