しあわせ

読んでくださる方、恐れ入ります。
さらには「スキ」までくださる方、まことにありがとう存じます。
わたくしの頭のなかにあるぼやっとしていることを、
ことばにして、見つめなおして、お出しさせていただく練習にと存じていたところでございましたが、何かしらの反応があると嬉しゅうございます。

書かせていただく理由は、また後日にさせていただくとして、
今回は、何のために生きているかについて述べてみたいと存じます。
とは申し上げても、人はしあわせになるために生きております。
むしろ、しあわせにならなければいけなっくって。
わたくし自身がしあわせで、みな様方もしあわせであれば素敵なこと。

しかしながら、「そもそも、しあわせって何でございますの?」となると難しゅうございます。
よろしいことが起こったときに、しあわせになります。
もう少し丁寧に申し上げるなら、欲望が満たされない苦しさが解消されたときに感じる気分でございましょうか。
しあわせでなくなったときに、「しあわせだった」と感じることが多いようにも存じます。
好ましい状態であることを「感じる」こと。
ただ、その「好ましい状態」は、そうではない状況もあることで得られる感覚かもしれません。

お子様の排泄の躾に関して、おもしろい話を拝読いたしました。
小さいお子様は「尿意・便意」を初めのうちはわからないらしいですね。
内臓筋の収縮によっておこる、「何かしら、いつもと違う」身体の感じ。
それも自分の内部から出たものともお思いにならない。
何度も失敗なさりながら、溜まっていく感じを「不快」、括約筋が緩むのを「快」と覚えていかれるようでございます。

内臓感覚の不快が人の苦のもともとの引き金となっているようでございます。
お恥ずかしいことですが、大人になってからでも体調の良し悪しで気分から考え方までも変わってきてしまうのはよくあること。
心臓を「こころ」、内臓を「はらわた」とお呼びになって「感じるもの」となされますが、頭脳を「あたま」として「考えるもの」と分けられる場合もございます。
同じ精神活動としてごちゃ混ぜになることの方が多いでしょうが、お互いに影響をお与えになりやすいので、致し方のないことと存じます。
本能から生まれる欲求と、他の方との関わりといった高次の精神活動から生じる欲望。はっきりと分けることは難しゅうございます。

解釈は違いますが、「考えるな、感じろ!」を思い出しました。

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