見出し画像

古事記の旅の行きつく先は!

  • 歌劇ふることぶみⅢ~ゆらめく歴史篇~*やまと郡山城ホール-2023.12.

 古事語り部座は、2009年に古事記ふることぶみをお芝居にするために結成され、2012年には「歌劇 ふることぶみ」として上演されました。その後も、大和郡山市にまつわるお話を続けて上演し、2021年には「歌劇 ふることぶみ2021」が新演出で上演され、2022年には「歌劇 ふることぶみⅡ〜愛と哀しみのヤマト篇〜」を経て、今回は「歌劇 ふることぶみⅢ〜ゆらめく歴史篇〜」で古事記の上中下巻の三部作が完結します。「ふることぶみⅢ」では、中巻のラストから下巻までの数々のお話をぎゅっと凝縮してお届けしました。


 古事記の下巻は、上巻の日本を造った神々の話や中巻の初代神武天皇の誕生からその支配権の拡張展開のお話とは異なり、極めて人の世の色彩が濃い内容となっています。
 天皇の妻問いや皇位継承をめぐる反乱、皇子たちの殺害、有力氏族の抵抗・滅亡という波乱万丈の朝廷内部の様相や支配者としての天皇像が鮮明に描かれています。
 沢山の登場人物やエピソードが書かれた古事記。劇中は、ゆらめき男がゆらりゆらゆらとゆらめきながら語っていきます。
 ここでは劇中に登場する大王たちを中心に何の学術的根拠もない勝手な想像を交えてフランクに紹介してみようと思います。「そこは変だよ、それは間違いだ」という所が多々あるかと思いますが、そこも含めてゆらめく歴史の中を漂っていただけたら幸いです。なお、難しい漢字は割愛し、フリガナのかな使いなどは簡単なものにしております。


ふることぶみⅢに登場の大王おおきみ

第14代仲哀(ちゅうあい)大王

仲哀大王はヤマトタケルの第2皇子で、妻は神功皇后。神功皇后は神託に従って三韓征伐を成し遂げた勇ましい武の側面をもつ人物として描かれています。仲哀大王は、神功皇后に宿った神からのご神託を疑ったために儀式の中で死んでしまいます。

第15代応神(おうじん)大王

母の神功皇后とともに全国にある八幡神を祀る八幡宮の御祭神です。
神様と名前を取り替えるお礼に大量のイルカをもらったエピソードがあります。

第16代仁徳(にんとく)大王

山上から家々の竈の煙が出ていないことを見て嘆き、民の家々から竈の煙が立ち上るまで税を止めたという聖帝伝承が有名です。また反面、恋多き帝として語られ、后のイワノヒメが嫉妬するエピソードが多々あります。

第17代履中(りちゅう)大王

兄弟の反乱にあい、伊勢神宮に逃げている最中も度々立ち止まっては歌を詠むのが印象的な大王。肝が据わっているのか、呑気なのか。

第18代反正(はんぜい)大王

履中大王を襲ったスミノエノナカツミコをその家来のソバカリを煽って殺させ、褒美をやった後で殺してしまう。身長が高くて歯が大きくて立派だったという記述がある。

(番外)武内宿禰(たけうちのすくね)

大王の家臣ですがご紹介。
孝元天皇の孫で、12代から16代まで、5代に渡る大王に仕えたとされています。300歳前後(書物によって様々)まで生きたとされていますが。。。。

第19代允恭(いんぎょう)大王

氏姓の混乱を正すために盟神探湯(くがたち)を行ったと言われています。
盟神探湯とは、神に誓いを立てて熱湯に手を入れさせ、正しい者は火傷をせず、邪な者は火傷をするとされていました。無茶苦茶ですね。

第20代安康(あんこう)大王

暗殺されたと明確に記された最初の天皇です。大日下王(おおくさかのみこ)を謀反の罪(家来の偽報告の濡れ衣)で攻め殺し、その妻を自分の妻とし子どもの目弱王を自分の子として育てていましたが、目弱王にそのことがバレて本当のお父さんの敵として暗殺されてしまいました。

第21代雄略(ゆうりゃく)大王

埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣にその名が刻まれていたことから、実在がほぼ確定している最古の大王です。兄弟をはじめ、次々とライバル達を殺して大王の座に就きました。国内の統一に精力を傾け、大国・宋とも堂々と渡り合いました。強大な権力をもった専制的君主であったとみられています。

第22代清寧(せいねい)大王

生まれながらの白髪であったとされる大王で、妻も子もいないまま逝去。雄略大王が王家一族を殺しまくったため大王を継ぐ者がなく、大王不在の中、飯豊皇女が、政務を執っていました。

第23代顕宗(けんぞう)大王

権力争いで大泊瀬皇子(雄略天皇)に父(イチベノオシハ)を殺され、播磨国に兄と共に馬飼いと牛飼いとなって身を隠しました。兄が「オケ(意祇)」弟が「ヲケ(袁祇)」。奉公先での宴席で二人は舞と歌を披露し自分たちの身分を明かしました。その後、弟のヲケが顕宗大王となりました。
昔は言い分けられていたであろう「オ」と「ヲ」の発音、現代ではしゃべり言葉での表現が難しくてややこしいです。

第24代仁賢(にんけん)大王

弟(顕宗大王)の後に兄のオケが大王となる。仁賢大王の時代は国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。

第25代武烈(ぶれつ)大王

『古事記』には妻子がいなかったことと死後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体大王)が皇位継承者として招かれたことの2つの記述ぐらいしかありません。『日本書紀』には、この天皇は数多の悪行をして、そのサイコぶりに人民は恐れ慄いたとされています。

第26代継体(けいたい)大王

地方出身者(越前三国)として初めて大王に即位した人物で、即位したときの年齢は57歳。応神天皇の5代目の子孫。名はヲオド。
継体大王の治世中には朝鮮半島における日本の勢力が衰え、また国内でも筑紫の国で磐井の乱が起こりました。

第27代安閑(あんかん)大王・第28代宣化(せんか)大王

継体(けいたい)天皇の長子が安閑大王、第2子が宣化大王。
何やらもやもやとしたこの時代は、名前だけの紹介。

第29代欽明(きんめい)大王

百済から仏像と経文が伝来し、仏教を受け入れる蘇我氏と日本古来の神々を信奉する物部氏の間で対立が起こりますが、欽明大王は仏教を許容します。しかし、翌年に疫病が流行したことを受け、物部氏は「外国の神を信奉したからだ」と蘇我氏を激しく非難、欽明天皇もまた仏教廃止へと転じました。

第30代敏達(びだつ)大王

敏達大王は廃仏派寄りであったため、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立していました。蘇我馬子が寺を建て、仏を祭ったタイミングで疫病が発生したため、物部氏の進言を受けて仏教禁止令を出し、仏像と仏殿を燃やさせました。そのバチかどうか疱瘡の病に倒れ、亡くなります。

第31代用明(ようめい)大王

欽明大王を父とし、蘇我稲目の女堅塩媛を母とする。聖徳太子の父である。この方も疱瘡で亡くなります。

第32代崇峻(すしゅん)大王

蘇我と物部の対立が激化し、ついに蘇我が勝利し覇権を取る。のちに馬子と対立し東漢直駒(やまとのあやのこま)に暗殺される。

第33代推古(すいこ)大王

物部氏が蘇我氏との戦に敗れ、勢いづいた蘇我馬子が実質的に権勢を握っていた中、正式に初の女性大王として即位、摂政に甥の厩戸皇子を置きました。厩戸皇子は死後に聖徳太子の名を送られ、冠位12階や憲法17条や遣隋使、四天王寺、法隆寺などの寺院の建立などなど学校で習って馴染み深い超有名人ですが、果たして実在したのか、複数人の業績を併せて作られた虚像なのか。飼っていた犬まで厩戸皇子の影響を受けたのか犬離れした能力が伝わっていますが、もしかしたら人だったのかも。。。

時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心
稗田阿礼という人物が、男だったのか、女だったのか。果たして実在したのか、しなかったのか。
神様が生まれた経緯は書かれているのに、神話のパターンでよくある神様が人を作られたことは書かれていないような、そもそも国津神ってどこからどう生まれたのか、古事記に書いてありましたっけ?私の記憶にはないのですが、そんなことはもう横に置いておいて、古事記が面白いのことは確かなので、取りつきやすい漫画あたりから読んでみませんか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?