ありがとうございます。をあきらめない

私は某チェーン牛丼屋で働いている。そこは私の通う大学近くの、二車線の国道に面したゆったりとした広い空間が特徴的な牛丼屋だ。昨年末に働き始めて、今ちょうど調理のいろはを習得し終えた段階だ。牛丼屋は、まずレジ打ちをマスターしてから、調理を学び始める。だが調理を習得段階の私でも、シフトや忙しさによって全然接客をする。

こんにちは。
店内でお召し上がりですか?
こちらが店内メニューになります。
現在キャンペーン実施中ですが、いかがでしょうか。
~~~ですね。こちら、ドレッシングがゴマと和風ございます。以下がなさいますか?
ありがとうございます。以上でよろしいでしょうか。
確認させていただきます。
~が一つ。~が一つ。以上で間違いございませんでしょうか?
ありがとうございます。
お会計~~円になります。
ポイントカードなどお持ちでしたら、ご提示ください。
ちょうどお預かりします。
こちらレシートになります。おかけになってお待ちください。

といった風に、私は接客をする。マニュアルがあるわけではなく、私なりにミスが少なくなるようにしたテンプレだ。この中で注文によって文言を変えたり、相手の年齢層をみて確認をより重ねたりするわけだ。これも一種のコミュニケーションなわけで、生活の一部であると私は考えている。

お店をお客様が出て行かれるときに、私たちは、「ありがとうございました。」という。これは、私たちにお金をくれてありがとう。という意味だ。

そのありがとうございました。に対しての返答がない。
今日は、ほとんどの人がなにか大事な用事が詰まっているかのように足早に。

この返答が来ないのには理由がある。まず私が勤めているお店がチェーン店だからだ。人はパターン化されたものを人間の仕業とはかけ離れたものとみなしがちだ。私たちを一人の人として見てくれてはいないだろう。つまるところ、目の前で鉢巻をして必死な顔をして湯切りをするあのラーメン店主たちとは違うわけだ。

もう一つの理由として、コミュニケーションが億劫。ただそれだけ。まったくもって理解できない他人と少しでも、距離をとっておきたい。そういうことだろう。

圧倒的な幸せを手に入れているはずの、高級車に乗って孫を連れてお店にやってきたおじいさん。おじいさんは、とってもぶっきらぼうな言いぐさで注文をして、自分の理解不足であるにもかかわらず、私の活舌の悪さに責任転嫁を行って、勝手に不機嫌になったりする。孫の前で。

文化的な生活を享受していることを暗にアピールしつつ、文化性のかけらもないように見えるほかの大学生を見下している、経歴は立派な先輩。彼は私と少し面識がある。だけれど、何にも声をかけることはなくて、ごちそうさまを言わずに出ていった。レジ打ちの時も、意気揚々と文化をひけらかしているときとは打って変わって、何の意志も持たないAIのようだった。

ママ友二人組。メニューの端から端まで、指と目を走らせて、二人の中で注文の決定が行われた。そこに私は介入していないし、ただはたから見ていただけなのに、勝手にそれを注文の宣言と同じものだとされてしまった。彼女らは、わかるでしょといったような雰囲気を出していたが、こっちだって人間だ。確認が必要だ。

ありがとうございました。これは、食べてくれてありがとう。お金を払ってくれてありがとう。それ以前の意味を持つと思う。

ぶつぶつ交換までさかのぼれば、こういう場で生まれるありがとう、それは交換してくれてありがとうといういみなんじゃないか。このありがとうは、両者に生まれるものなんじゃないのか?ありがとうの欠損は、価値の否定かもしれない。こちらは、あなたがお金を払う。食べてくれる。そういうのにありがとう。じゃあそちらは???人それぞれの事情がある。いうのが恥ずかしいだとか、そういうのもある。せめて心で思っていてくれ。ありがとうと。

そうじゃないとやってられない。しょうがないで片づけないでいようよ。私はあきらめないよ。君たちが、しっかりと価値を再確認して、幸せを再確認して、ちゃんと苦しんでくれるのを。

ありがとうと言わないのは、価値観の欠損。コミュニケーションへの侮辱。そううけとっちゃうぞーーーーーーーーー。いわなくてもいいからおもっててーーーー。

あと態度がでかいジジイとババアとヤンキーは、てめえの会社にふにゃふにゃ盆踊りで商談に行っても、腹たてねぇでいられるんだよなぁ????覚悟してろよ。エントランスでおしっこ漏らしたる。




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