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中国恋愛時代小説 「残照〜琥珀の誓い〜」〜青桐の章〜

【あらすじ】

はるか古代、「天然資源の宝庫、霊山山脈」を取り囲み各国が割拠していた。李国の若き君主遼玄は、諸国へ同盟を打診したり、有望な人物を登用したりと仁政により、国力を強めていった。
一方、斎国の君主脩眞は武力と脅威によって近隣諸国を次々と制圧。さらには霊山山脈から強力な武器となる資源を発見し、覇道の王者を突き進もうとしていた。同じ頃、霊山山脈の霊山神が予知し、胡国に誕生した流蘭公主に琥珀色の瞳と髪と異能の力を授け、良き君主を見つけ脩眞の野望を阻止する天命を授ける。李国に侍女として呼ばれた崔琳は遼玄に惹かれ、義兄青蓮は崔琳への叶わぬ愛を糧に軍師となる。

【青桐の章】
綾衣を着た童子達が鞠(まり)で興じている。
「私も入れて」振り向くと、髪は琥珀色、瞳も同じ色の女童が立っていた。
「流姫は、私達と遊んじゃいけないんだって。母上が言ってた。」
「どうして?」
「流姫は、てんめいをもってるからだって」
「てんめい?」
「だってほら、髪の色も目の色も、わたしたちとはちがうでしょ」童子達は鞠を持って、去って行った。一人残され、佇んでいる女童に声かける者がいた。
「流蘭(りゅうらん)様、この桂藤(けいとう)と遊びましょう」
流蘭は桂藤を見つめた。
「桂藤、てんめいってなに?」桂藤は流蘭の目線と同じにしゃがんで、両肩にそっと手をかけた。「‥‥それぞれのいきる道のことですよ」
流蘭は理解しようと、目を大きく見開き、琥珀色に揺れる瞳でじっと桂藤を見つめた。

男が城楼から眼下を見下ろしている。
禁門内には宏壮な苑、殿閣、厩舎が連なる。
禁門外ではひしめきあう、町の家々。そしてはるか彼方に見えるは、屹然と、高く険峻な連山、霊山山脈。侍臣が声をかけた。
「主君どの、先ほどから、小汚い商人のような者が、主君にお目通りしたいと申しております」
男は幹州君主、斎脩眞(さいしゅうしん)である。
「ふん、何用か」眼前を見つめたままである。「なんでも霊山山脈の件だそうです」
「何?」脩眞は振り向いた。
「通せ!だが、君主が直々に目通りするのだ。事によっては斬首すると言っておけ」

脩眞が侍従を連れて庁堂に入ると、小汚い貧相な男が、図田袋を大事そうに持っていた。
脩眞を見ると、叩頭してひれ伏した。
「霊山山脈とは、どのような事だ。早くて短かに話せ」
男は、ゴソゴソと図田袋から取り出してみせた。男が差し出したのは石の塊だった。
「これがなんだというのだ。」
「たいした用でなければ、斬首するとおっしゃってましたが、その前に、この石を、そちらの鉾でお斬りくだせいまし」
脩眞は鉾(ほこ)を佩いた侍従に目配せした。侍従が石に近づき鉾を振り上げ石にぶつけた。脩眞も侍従も驚いた。鉾がひしゃげ、石はびくともしなかった。
「鉾の厚さであろう。もっと厚いので、やってみろ」侍従が様々な鉾をもってしても、石は割れなかった。
「呉鉤(ごこう)を持ってこい!」侍従が奥から、大きな曲刀を持ってきた。侍従が曲刀を振り上げた。石と曲刀がぶつかるのが戛然と響いた。曲刀もひしゃげ、石にはひびひとつはいらなかった。脩眞も侍従もしばし茫然として、声も出せずにいた。
「これを霊山山脈で見つけたと言ったが、どうやって見つけた。あそこは白虎が出る故、誰も近づけないだろう」
男は笑いを抑えられない顔で、「うちの一番下の坊主が、子供一人入れるくらいの穴を見つけまして、中に入ってみましたらなんと空洞になっておりまして、この石の山がごろごろしていたそうで」
脩眞は男を暫し見つめ、口を開いた。「なるほど、それで、その話は誰か知っているのか?」
男は手をいっそう擦り合わせて、
「下の坊主とかかあと、お話した君主様だけでございます。で、その、その見返りは‥」
脩眞は男に背をむけ、侍従に下知した。
「この男を牢に入れて、穴の場所と住む村を聞き出せ」
「そ、そんな!君主様!」喚く男の両腕を掴み、侍従二人が男を引きずっていった。
「念の為、村ごと殲滅しておけ」

脩眞は城閣から霊山山脈を眺めた。
『これは、選ばれし者に天が与えたもうた僥倖よ』

霊山山脈の山麓に2騎、馬に跨った風態の悪い男達が馬を止めた。茂みの中から女人の声が聞こえるのである。馬からそっと降り、茂みに近づくと、茂みで見えない相手に話しかけていた。男の一人がもう一人に、
「見ろよ。髪の色は変わっているが、すげえ、上玉だぜ」
「掻っ攫って、遊郭に売りゃあたんまりもらえるぜ」男たちは、茂みを分けて、入って行く。
「嬢ちゃん、俺たちともあそぼうぜ」
男たちは、茂みの中にいるものに視線を移した。と、同時に声もだせず、腰を抜かした。
そこに居たのは、十尺ほどもある、数頭の白虎だった。白虎は男たちに視線を移すと大きく咆哮した。男達は腰が立たないまま這いつくばり、逃げ去っていった。

霊山山脈が舂(うすづ)いていく。峻険な山々が残照を受け、徐々に赫く染まっていく。流蘭は立ち上がり、白虎を従え霊山山脈をみつめた。
風に靡く髪と瞳は赫く染まっていった。

美しい雌鹿が草を喰んでいる。矢尻の先が雌鹿に向けられる。と、矢尻の先を掴むと、
「やめろ!」と制する者がいる。
「遼玄(りょうげん)様」
「よく見ろ。近くに小鹿がいるではないか。そちはあの小鹿を余と同じ目に合わすのか」侍従は小息をついて弓矢を降ろした。
「先ほどから、兎を見れば、親がいると仰せです。今日は田猟に参ったのではないのですか?」「生あるものをむやみに殺傷するのは天より疎まれるぞ。田猟は口実だ。霊山山脈に一度来て見たかったのだ。見よ、山紫水明の地。芳しい樹木の香り。生きとし生けるものの宝庫であるぞ」
「まあ、たしかに、、、それでは、そろそろ帰りましょう。虎が出るそうですぞ」
その時、背後で音がした。遼玄が振り向いた。「そうだな‥帰るか」二人の後ろ姿を葉陰から見つめる女人がいた。

十年後ー
遼玄が弓を射ている。上半身の衣は脱いで、汗が筋肉のついた胸を滴り落ちる。侍女の崔琳(さいりん)や宮仕えの女人達は弓を射る遼玄の端正な顔立ちと、上背があり筋肉質の体に、魅入っている。弓は中央にほぼ的中していて、十数本放ったのち、近くで手巾を持って見つめている崔琳に声をかけた。
「崔琳、手巾を」
遼玄に声をかけられ、慌てて、拝跪して手巾を手渡した。遼玄は汗を拭いた手巾を返し、その場を離れた。残された女人たちが崔琳の元に集まる。「君主様の侍女なんて、崔琳どのが羨ましいですわ。次は寵妃のご下命では?」
崔琳はうろたえ顔になった。 「とんでもございません!もっと相応しい方がいらせられます!」「趙軍師様とは故国が同じでお親しくしてらっしゃるし!彼の方も見目麗しくて、お強くて!あの逞しい胸に強く抱かれるなら、骨が折れてもいいですわ!」
「李国のお二人に奥方様がいらっしゃらないなんて、どういう事なんでしょう」
「私達にも希はあるって事ですわよ!」
宮仕えの女人達が騒ぐ様子を、大樹に腕を組んで寄りかかり眺めていた長軀(ちょうく)の風姿秀麗な男がいた。李国の若き軍師、趙青蓮(ちょうせいれん)であった。

深更、燈火もまばらな廊を歩いてきた青蓮が一室の前で止まった。「趙です」小声で扉の中に声かける。「入ってよし」中の声を待って、扉を開ける。扉を開けると、遼玄と鬢に白髪の混じった初老の男がいる。青蓮が叉手礼(注1)した。
「主君、漊丞相(ろうじょうそう)様、ただいま参りました」
「奥の部屋へ」漊は手で促す。三人は八角の卓に座った。遼玄が書簡を卓の真ん中に置いた。
「その方ら、胡国(ここく)は知っておろう。流蘭公主からこれが届いた。」
「胡国といえば、小国なれど由緒ある国。霊山山脈の鎮守国でもありますな」漊は長く白髪混じりの髯を触りながら言った。
「聞くところによりますと、流蘭公主は琥珀色の髪と瞳で異能の力を持っていると」青蓮が続ける。
「で、主君、書簡の内容は?」漊が尋ねた。
「我が国の属国になりたいとの事だ」
「自ら、属国になる事を申し出るとは、なに故でござりましょうか」漊が髯を触り続けつぶやく。「幹州の脩王がここのところ、勢力を増して近隣諸国を蚕食していってる事に関係あるのではないでしょうか?」青蓮が答える。
「そうかも知れぬ。青蓮、流蘭公主の異能の力とはどのようなものか聞いておるか」
「胡国近くに送っております間諜(注1)によりますと、隣邦の蝟集した匪賊が胡国を小国と高を括ったようで、攻めたそうです。ところが返り討ちに遭い、壊滅されたとの事であります」遼玄が眉をよせた。
「壊滅?どのように?」
「唯一生き残った者がいまして、皆、龍に焼き殺された、と……それ以降、胡国に攻め入る者はおりません」三人はしばし黙した。
「流蘭公主の異能の力ですかな。一人わざと残しましたな。胡国の威光を流布させるため」漊がつぶやいた。
「流蘭公主に直接会ってみようと思う。
青蓮、引き続き幹州の動きも探ってくれ」
「御意」青蓮は抱拳礼(注2)をしたまま後ろに下がり、部屋を後にした。
「趙を軍師にして然りでしたな」「うむ」

(注1)叉手 ─ 立った姿勢で両手を胸のまえで重ねる

遡る事、半年前ー
遼玄は駕州(がしゅう)李国の属国になることを楊州橈郡(ようしゅうじょうぐん)に打診。趙太守(ちょうたいしゅ)は快諾した。遼玄は時の橈郡都尉(ちょうぐんとい)青蓮に漊を伴い呼び寄せた。
「青蓮どの、そのほう、楊州橈群の趙太守の養子で都尉と聞く。楊州は隣州に強国がおりながら、攻め入られることなく泰然としているようであるが、有事の際の策はあるのか」
「有事、、、戦さでございますなら、戦わば必ず勝つ戦で戦いますが、極力さけ、
各州に間諜(注3)のうち、郷間(注4)がおります。おかしな動きがありますなら、相手国の者を反間(注5)にして、切り崩しを計ります」
「内部瓦解か‥‥」
「青蓮都尉の智略により、隣邦の二群は属国となったようでございますぞ」遼玄は趙を見つめて問うた。
「相手国の者を反間にするにはどうする?」
「欲しいものを探ります」
「欲しいものがない時は?」
「失いたくないものを探ります」
遼玄は、目線を落としたままの青蓮をずっと見つめたあと、漊に視線を移し、目が合うとにわかに頷く。
「そなた、李国の軍師になってくれないか?」
青蓮が顔をあげる。
「は、それは、身に余るお話しではありますが…
しかし‥」漊があいかわらず髭をいじりながら呟く。
「崔琳どのは主君が侍女にと申し上げたところ、お受けなさいましたぞ」
青蓮の眉が微かにうごく。暫し俯いて、顔をあげ、抱拳礼をして声を発した。
「謹んでお受けいたします」

(注2)─ 右手をこぶしに、左手を手のひらにして胸の前で合わせる。武術の中では挨拶として必ず使う
(注3)間諜─間者
(注4)郷間─敵国の住民を使って情報をとる
(注5)反間─ 敵の間諜を手なずけ、こちらの
 間諜とする

崔琳は水亭に座り、玉池の水面をただ見つめていた。遼玄の侍女の申し出を受けたことを思い出していた。父である趙太守が属国になる事を承諾するため、父と李国に来た時、遼玄とまみえた。義兄青蓮とかわらない歳で、眉目秀麗で理智も備わっているように感じられた。その遼玄からの侍女の申し出に狼狽した。
「私などが君主様の侍女に!」
「漊丞相からの勧めがあったのだが、余も適任だと思う」漊丞相がにこにこ笑いながら、
「侍女にと自ら申し出る者は数おりますが、真の目的は侍女なのか、怪しい者が多いものでしてな。清廉な崔琳どのならと」
「そ、そんな!‥‥でも、真の目的とは?」
漊丞相がにたにた笑っている。遼玄が答えた。「い、いや、何でもない。考えておいてくれ。これは下命ではない。そなたの気持ちひとつだ」

崔琳は、さざなみがたつ水面を見つめた。
『真の目的とは寵妃になる事なのだ』と悟った。自分ならそういう下心が無いと思われたのだろうが、当たってはいなかった。なぜなら遼玄に心惹かれるものがあったから。寵妃など、大それた願いはないが、側にいたいと思った。
「琳姫(りんき)様」振り向くと、青蓮が立っていた。
「青蓮、もう、私は姫ではないのよ。李国で軍師のあなたが侍女をそう呼ぶのはおかしいわ」
「では、崔琳殿とお呼びしてもいいのですか?」崔琳はわずかに微笑んだ。
「姫がつかなければ何でも」
崔琳はそう言うと、水亭から去って行った。
青蓮は崔琳と出会った時の頃を思い出していた。楊州の隣に位置する某州で農民だった家族を匪賊に殺され、一人で彷徨っていた時、楊州橈郡趙太守に拾われた。都尉になる為、厳しさの中で愛を持って育ててくれた。趙の群主崔琳は、出会った頃より、兄のように慕ってくれた。自分の気持ちは崔琳が思うような兄妹のそれとは違っていた。崔琳は常に仁に生きる女人だった。どんなに薄汚く悪臭がする物乞いが寄ってきても、嫌な顔ひとつせず、その時持っている金銭を与えたり、近隣の病にかかった貧民には親には内緒で自分の着物を売り金銭に変えて与えていた。自分が青年を過ぎると、貧富に関係なく美しい女人が寄ってきた。一夜を供にする事は少なくなかったが、思いはいつも崔琳にあった。
あの珠玉にも似た光を放つ心根には、どんな女人も及ばなかった。遼玄の軍師の申し入れも崔琳が残ると聞いて受けた。『あなたが笑顔でいるのを傍で見つめられれば、それでいい。
誰を好いていようと、、』青蓮の見つめる水面は、蕭々と風が吹き始め、波立ってきていた。

李国の関所の門から車駕が現れた。護衛兵は一騎もおらず、車駕には錦繍などの装飾はなく、窓には珠簾(しゅれん)もない。地味な車駕だけである。車駕に付けられた「胡」の文字の入った数本の幟旗(のぼりばた)だけが颯々と吹く風に翻っている。路傍の民、田畑の農夫達が手を休め、見つめる。「胡国だ。胡国の流蘭公主が李国にいらした」「李国と同盟をむすんだろうか。心強いことじゃ」中にはひれ伏して拝む者もいる。車駕は李国の禁門に近づいて行った。

「胡国の流蘭公主が只今、到着されました」
庁堂には玉座に座る遼玄の両側に漊丞相、青蓮が立っている。庁堂の入り口から、二人の沓音(くつおと)が響く。女人二人が叉手礼して顔を伏せたまま、並んでいる百官達の間を歩いてくる。
先に歩いてくるのは琥珀色髪の女人、流蘭公主であろう。髪は簪(かんざし)も刺していない。わずかに紐で括った下ろし髪である。後から付いてくるのはお付きの侍女のようで、二人とも、驚くほど質素な着物だった。遼玄の前で止まる。
「はるばる胡国からお越し頂き、申し訳ない。お顔をあげられよ」
流蘭公主が叉手した手をはずした。白皙の顔に瞳が琥珀色に輝き、仙女のごとき美姫であった。「………」遼玄は暫し言葉を失った。
漊丞相が咳払いをした。
遼玄がはっとして、「すまぬ、余が思ったいた姿と余りにも違っていたので」
流蘭はにっこりと笑い、「山峡に住む妖女ですか?皆、そのように思っておいでです」
「い、いや、そんな事は、、、では、早速お話をお聞かせ頂こう」

遼玄は漊丞相、青蓮を伴って流蘭公主を帷幕(いばく)の室に通した。壁に霊山山脈と諸国の地図が貼られている。流蘭が、一点を指さした。流蘭が指さしたのは、霊山山脈と李国が接している箇所だった。
「ここを狙って、幹州君主、斎脩眞が攻め入ってまいります」全員、気色ばんだ。
「何!我が国を攻めると!」遼玄が声を発する。「李国というより、斎脩眞が、ここから霊山に入れる手立てを知ったのです」
「霊山山脈に入って、何か欲しいのでしょうか?」青蓮が眉をひそめる。
「刻下(こっか)、あまねく諸国で使われている戦さの武器を上回る硬質のものが作れる資源」「脩眞は武力によって天下統一を成さんとしておるのか」漊丞相がつぶやく。
「李国、諸国、ひいては霊山山脈をお守りするため、阻止せねば成りません」
「うむ」遼玄が思慮している。
「私が属国に願い出ましたのは、李国をお助けするため。この身は霊山神より霊山山脈をお守りするためのもの」暫し沈黙が続いた後、
遼玄が声を発した。「やらねばなるまい」
流蘭の琥珀色の瞳が燭(しょく)が灯ったように明るくなったようにみえた。

崔琳が遼玄の着替えの間で、着替えを手伝っている。
「遼玄様、先ほど流蘭公主様をお見かけいたしました。仙女のごとくお美しい方でございますね。李国にご滞留されるのですか?」
「…滞留ではない。李国に身を置きたいとの事だ」崔琳の手がとまった。
「そうなのですか…」
「流蘭公主の侍女にもなってくれないか?歳はそなたより一つ下だ。他国にきて、戸惑う事もあるだろう」
崔琳は鏡に映った遼玄に微笑んだ。
「承知致しました」

李国の禁門の前に胡国の車駕が留まっている。
車駕には一緒に来た侍女だけが乗っていた、見送るため車駕の外にいる流蘭に声をかけた。
「それでは、流蘭様、どうか無理なさらず、ご健勝でいらせられませ」
「大丈夫です、桂藤。心配は無用です」流蘭公主はにっこり笑った。車駕は行きとは違って、李国の護衛兵が付いて、出て行った。

賀州と幹州の国境付近、壮麗な建物、梅妓院がある。日は落ちて、数多く吊り下げられた提灯の灯りは燦々と灯り、さながら、昼間のようである。車駕が止まり、青蓮がおりてきた。豪奢な広い間口に足をふみいれた。
老鴇(ろうぎ)の吉瑞が出てきて、叉手礼をした。
「いつもご贔屓(ひいき)頂きありがとうございます。さ、こちらへ」
大広間に通され、真ん中に祇女が舞いをする円を囲み、一段上に客用の席があり、青蓮は一番前に促された。丁度そのとき、奥から、嬌艶な女人を先頭に祇女達が出てきた。琴と笛に合わせて、華麗な舞が披露される。先頭に出てきた祇女は舞いながら客席に視線を移す。青蓮を見つけると、顔はほころび、舞いを存分に披露する。青蓮は表情は変わらず腕を組んで眺めていた。祇女達の舞いが終わると、立ち上がり、広間を後にした。
広間から出て来た先頭で踊っていた祇女が、老鴇の吉瑞に呼ばれた。
「芳仙(ほうせん)、白檀の君の軍師さんが部屋で待ってる。早く行きな。さっきからまってる客に気がつかれないように」
芳仙は踊って紅潮した顔をさらに赤く染め、その場を去った。
「お待たせ致しました」芳仙が部屋に入ると、青蓮は泰然として酒を飲んでいた。部屋は青蓮が焚きしめている白檀の香がわずかに薫る。芳仙は嬉々として隣に座って、空いた酒盞に酒を注いだ。
「また、舞いの腕が上がったようだ。そなた一人の舞いでも客は堪能するのではないか」
「お上手ね」芳仙が話を続けようとすると、「で、例の件は?」青蓮が問うた。
芳仙は高揚した気持ちがすっと萎えた。
「あ、それは、これに…」芳仙は文を渡した。
青蓮が文を開いて読む。「………」
「お役に立てたかしら」
「ああ、ご苦労であった。また文にて送るので、頼む。何度も言うが、決して無理はするな」
青蓮は文を懐入れ、ずっしり重い茶巾袋を出して、芳仙の前に置いた。
「また、半刻ほど眠りたい。そなたは好きにするがよい」そう言うと、青蓮は壁を背に腕組みをして目をとじた。
「そう…」芳仙は青蓮の端正な顔をいつまでも見つめ、部屋を出ることはなかった。

半刻後、芳仙は青蓮と一緒に間口に向かって歩いていた。間口で商人が広げたものを包もうとしていた。簪やら耳飾りやら宝飾品らしく、ほとんど佳品のようだった。
「商人、待て。芳仙、好きなものを選ぶが良い」
「えっ!」芳仙の顔がほころぶ。
商人が広げてみせた。
「遠慮せずに気に入った物を選ぶがいい」
「は、はい」芳仙が簪を数個、手にとって見ていた。
青蓮はある佳品に目が止まった。白い玉が付いている、清楚な光を放っている簪だった。手に取ってみる。
「旦那、それは海の宝玉で、真珠というものです。佳品ですが、芳仙さんにはちと地味でございましょう」
芳仙は青蓮を見つめた。真珠を通して映る何かを感じているようだった。
「いや、これはまだ…よい…」
『まだ…?…女人だ』芳仙は女の感で悟った。 
「芳仙、決まったか?」
「はい。ではこれを…」
芳仙は赤い翡翠の簪を選んだ。

芳仙は青蓮の車駕を見送った。
『真珠が似合う女人が好きなのだ…』初めてもらった翡翠の簪を握りしめ、心の中は雲霧が広がっていった。

流蘭は賓客室の窓から見える、霊山山脈を眺めていた。
「遼玄である。入っともよいか?」
流蘭はふりむいた。「はい」
遼玄は流蘭の隣に座り、霊山山脈を見つめた。「十年前ほど前、君主に立した時、霊山山脈の岳麓に行ったことがある。日々、君主になるために日に何巻もの兵法を読み、武芸の稽古に明け暮れ、息抜きがしたかった」
「そうでしたか…」
「あまたの栖息する生類がおり、美しく、気高く、まさに神々が住もう群峰だった。それを蹂躙しようとは…脩眞、許せぬ」
流蘭は遼玄の横顔を見つめた。
「皇后様の事、聞いております。たいへん美しいお方で、自害なされたとか。お気の毒な事でございました」
「脩眞にしてみれば李国は小国だが母上は一国の正妃だ。それを寵妃の一人に差し出せとは…母上は父上の懊悩を慮(おもんぱか)り…脩眞に殺されたようなものだ」
流蘭は遼玄の強く握った拳にそっと手を当てた。「お気持ちはお察し致しますが、今は私怨はお捨てになって、力をあわせ、大計を立てましょう」遼玄は流蘭の琥珀色の瞳を見つめた。
「そうだな」
どこからか、琴の音が聞こえ始めた。
「…美しい音色」
「侍女の崔琳だ。故国ではたいへんな琴の名手だったそうだ。崔琳の人柄もだが、琴も聞いてみたくて侍女にした」
音色は風に吹かれ、李国を癒していくように聞こえた。

斎国、帷幕の室には脩眞に呼ばれた小柄な挧(く)宰相、美丈夫の曹烈(そうれつ)大司馬が顔を出していた。大理石の卓の真ん中には霊山山脈から持ち帰った石が置いてある。曹烈が石を人差し指で、コンコンと叩く。
「これが欲しいのはわかるが、我が国から李国までの距離を考えると、大遠征ってことで、李国に着いた頃には、兵はくたくた、兵糧は尽きて戦いどころじゃねえだろう」曹烈がぽつりとつぶやく。
「た、た、たしかに、ほ、ほ骨折り損のくたびれもうけでは、、、」挧が小さい体をさらに萎ませ、発言した。
「挧、おまえ、帷幕会議でも吃音で話すのはやめろ!話に無駄な時間がかかる!」
「ひ、ひゃい、、」
「あんたが脅して宰相にしたんだ。吃音にもなるだろう」曹烈がつぶやく。
「ふん、誰が遠征すると言った。李国までの国は斎国が人質を取っている。通りがてら、兵と兵糧を差し出させ、休息しながら進軍していけば良い」
挧と曹烈は言葉を発しなかった。と、その時、
扉の外から声を発する者がいる。
「ご報告したい儀がございます!」「何だ。そこで申してみよ」
「はっ!李国から今帰った、伝騎からの報告によりますと、胡国が李国の属国になったそうです!李国、その周辺の国はその話が流布しているそうです」
「何!」
「おっと、こちらの動きを察知したかのようだ。流蘭公主の異能の力とやらですかね」曹烈が可笑しそうにいった。
「り、流蘭公主、、り、龍を出現させる!」
脩眞が卓を叩いて立ち上がった。
「異能の力だか何だか知らんが、兵も武器も、どこにも負けん。胡国が龍なら、斎国は虎!恐るる事はない!」

李国の夕刻、今日も琴の音色が朗々と流れる。崔琳は琴を弾きながら、ここ数日、人の気配を感じていた。帷(とばり)の陰からそっと見ている者に心あたりがあった。崔琳は弾く指を止めた。「流蘭公主様、そろそろこちらにいらっしゃってくださいな」流蘭は少し驚き、はにかんだ様子で、帷の後ろから、部屋にそろそろ入ってきた。「ここにどうぞ」崔琳は椅子をポンポン叩いて促した。
「すみません」流蘭はそっと座した。
「琴はお好き?お弾きになられるのかしら?」
流蘭はかぶりを振った。
「公主に生まれましたが、嗜(たしな)みは一つもありません。琴を習いたいと父上に申し上げましたら、必要ないと、、、、」
崔琳は存外に思った。
「お父上様はお国に?」
「三年前、病気で、母上は私を産んで一か月後に亡くなりました」
「………ごめんなさいね……」
「いえ、いいんです」
崔琳は次の言葉が出なかった。思い浮かばず、
琴を見た。
「それでは、琴、お教え致しますから弾いてみます?明日からでも」
流蘭の顔に笑顔がこぼれた。
「是非に!」
青蓮が二人の様子を回廊から見ていたが、流蘭が立ち上がると、部屋に入ってきた。
「あら、青蓮、今日は早いお帰りなのね」
青蓮は部屋を出て行く流蘭に叉手礼をする。流蘭はすれ違いざま、青蓮にぽつりと言葉をかけた。
「真珠の簪、きっとお似合いですわ」
青蓮は、驚いて声を漏らしそうになった。
「青蓮、どうかした?」
「い、いえ、別に…流蘭公主と早速、よしみになったのですね。帷幕の時とは別人のように、無邪気な年相応の女人になっていた。あなたの前だと虎も猫になってしまうようだ」
崔琳は回廊を歩いてゆく流蘭公主を見つめてつぶやいた。「あの方、ずっと胡国を守ってらしたのね。御身一つで…」

李国から西に隣接する楽州栄国—
鏡中には嬋娟(せんけん)たる女人が紅を引いている。
「貴華姫様!ご報告が!」侍女の声で、引いた紅がはみ出て、口が裂けたようになった。 
「何なの!想像しい!紅がずれてしまったではないか!」
貴華の傍らで侍女が拝跪礼した。
「申し上げます。胡国が李国の属国となり、胡国の流蘭公主が李国に留まる事になったそうです」「胡国の流蘭公主といえば、異能の力を持つ茶髪の化け物であろう。そんなに騒ぐ事か?」
「そ、それが、かんばせはたいそう美々しい姫だそうで…」
「何!」
「あ、いえ、貴華姫様には及ばないと思いますが…」
貴華は眉間に皺を寄せ、顔色は赤くなる。
「そういえば、遼玄様に婚姻による同盟の書簡を送ったが、返簡が届いていないのか!父上はどこじゃ!」貴華は憤慨して、立ち上がった。
「主君は只今、朝堂において朝議中でございます」
貴華は侍女が言い終わる前に部屋を出て行く。朝堂では、文武百官の前に栄国君主徳(とく)が玉座に座位し、周宰相の献策に耳を傾けていた。「父上っ!」朝堂の扉が勢いよく開けられる。
徳君主、満座した百官達の視線が一斉に向けられる。
「李国遼玄様との婚儀による同盟はどうなりましたのでしょうか!」
「これ、貴華、朝議のさなかであるぞ。下がりなさい」
百官達は、またかと言わんばかりに辟易した顔を隠さない。
「もうすぐ、朝議が終わる。父の執務室で待っておれ」
「……」貴華は乱暴に扉を閉めて、朝堂を後にした。
執務室で、貴華は腕を組み、落ち着かず、部屋の中を歩き回っていた。執務室の扉が開けられ、徳が入ってきた。恰幅の良い丸顔で、貴華は母親似のようだった。
「貴華、朝議の最中に入るでないと、あれほど申したではないか」
「父上っ!遼玄様との婚儀のお話はどうなりましたのっ!」貴華は聞く耳もたない。
「李国にその儀の書簡を送ったが、いかんせん、返簡はまだ届いておらんのう」
「もう、悠長に!わたくし、早く遼玄様と婚儀を挙げとうございます!」
「し、しかし、返書がないのではそうもいかんであろう」
「なんでも胡国が李国の属国となり、流蘭公主が居座っているそうですのよ。妃の座を狙っているのですわ!父上~!」
貴華は徳の着物の腕を掴む。
「そなた、以前は政略結婚は嫌だと申していたではないか」
「それは遼玄様と会う前のこと。遼玄様でしたら話は別ですわ。いいえ、遼玄様でないと、貴華は婚姻は致しません!」
貴華は憤怒で散々息巻いていたが、次はさめざめと泣き出した。気性の激しい女の性向である。「やれやれ…」徳は長嘆息をついた。

李国帷幕室室に、遼玄が入ってくる。待っていたのは、いつもの面子、漊丞相、青蓮に加えて流蘭である。みな、叉手礼でむかえる。卓に座る。「脩眞はどう出ると思う?漊」漊は髭を触っている。考える時の癖のようだった。
「すぐには進軍して来ないでしょうな。ここまでの遠征に必要な準備がございましょうから」
「そうであろうな。まだ時間はある。だが、正面切っての戦は避けたい。兵も武器も李国の倍だ。青蓮、その方の情報はどうなっている?」
「これを」青蓮が文をさしだす。遼玄が受け取って、読む。
「それは?斎国の挧宰相、曹烈大司馬の、、、?」漊丞相が問う。
「いかにも。しかし、この両名、特に曹烈大司馬という男、家族もおらず、色と金には興味がない。得体の知れない男です。欲しいものも無ければ、失いたくないものもない。だが腕っぷしが強い知将で、どこからか脩眞に手腕を買われて斎国にいるのですが、何のためにいるのか、、、」「青蓮どの、そなたと似ているのではないですかの」
『自分は失いたくないものはある。唯一…』
流蘭が視線を自分に向けた時、心を見透かされそうな気がした。『真珠の簪、、、異能の力なのか』「で、挧宰相の方はどうなのだ?」青蓮は話題を変えられてほっとした。
「挧宰相、頭はまわるが根っからの小心物。この男も脩眞が他国から呼び寄せらがしいですが、日々、脩眞を恐れて言いなりのようです」
皆、沈黙した。
「あの…」流蘭が口を開いた。
「何だ?」斎国の動き、人脈で軍師さまが諜報でお探りする一方で、私は池上からお探りいたします」
「どうやって?」遼玄が問うた。流蘭が自分の目を指さした。「これで」皆、解せぬという面持ちだった。

帷幕会議が終わり、遼玄からぞろぞろと室から出きたが、漊丞相だけ、座ったままだった。流蘭は気になり、漊丞相の元に戻った。
「どうされましたか?」 
漊丞相は顔の色が悪く、腹に手を当てていた。「いやな、持病が最近年のせいで治りが悪い。構わず、お下がりくだされ」
「でも…」
「流蘭どの、年寄りの言う事は聞くものですぞ」「……は、はい」流蘭は後ろ髪を引かれるように室を後にした。

「厩舎に行きたい?」遼玄は流蘭に問うた。
「はい。霊山山脈に参ります。胡国にいた時はよく一人で参りました。馬を一頭お借りできぬかと」
「馬に乗れるのか。わかった。予も一緒に行って選んでやろう」

季国の厩舎は広く、兵馬、車駕用の馬とかなりの数がいた。流蘭はその中で一頭だけ、隔離された様に隅に繋がれている馬がいる事に気がついた。筋肉の付き具合も毛並みも良く一目で俊馬とわかる。 流蘭は近づいて行った。
「その馬はだめだ。近づくと危険だぞ。良い馬だが気性が荒い悍馬(かんば)だ。兵馬にも車駕用にも使えん。近々、食用にされる」
流蘭は遼玄の言葉が聞こえぬかのように近づいて行く。馬は体を振るわせ威嚇する。流蘭の目と馬の目が合う。馬は流蘭の琥珀色の瞳を見つめるうち、徐々に大人しくなった。流蘭は、馬に近づき立髪を撫でてやった。馬は抵抗せず、じっとしている。馬を繋いでいた鎖を解くと、轡(くつわ)を付け外に出してやった。遼玄はその光景に唖然とした。流蘭は颯爽と馬に跨り、厩舎を走り回る。遼玄の元に戻ると微笑んだ。
「私はこの馬が気に入りました。食用にされるなら頂けませんか?」
遼玄は流蘭の笑顔に胸の奥が疼いた。
「よいだろう。予も久々に遠乗りしたい。一緒に行くぞ。」

遼玄が馬に乗り禁門の外で待っていた。近くに護衛兵が二人いる。「遼玄さま!」遼玄が振り向くと、流蘭が先ほどの馬を連れて現れた。手には薬籠を持っている。
「それは?」
「あ、霊山山脈の薬草になるものを摘みに行きとうございます。
「そうか、それでは参ろう。護衛兵が霊山山脈までは護衛すると利かぬ。霊山山脈には入れば、おかしな輩はいないだろう」
「はい。虎も出ますからそのご心配はないかと」「やはり虎が出るのか!」
「でも、わたくしと一緒でしたら大丈夫です」
遼玄は流蘭の穏やかになった馬をちらりと見た。「そ、そうだな。」遼玄、流蘭、護衛兵ニ駒が城を出た。遼玄がちらと背後を振り返る。颯爽と駆ける馬の鞍上の流蘭は琥珀色の髪が風になびいていた。

遼玄は護衛兵を麓に残したまま、霊山山脈の中腹ほどまで来ていた。
「この辺りに致しましょう。私は薬草を取って参ります」
「そうか、余はここで待っている」遼玄は、小高い岩の上に座った。中腹までくると、霊山山脈の連峰が迫ってくるようで圧巻であった。おそらく、ここまで来れる者はそういないのだろう。遼玄は何故か母のことが思い浮かんだ。母が亡くなってから、父は、後の妃を迎え入れることを拒んだ。塞ぎ込まれ、病気がちになり、君主を辞された。田舎の小城に移られ、その後ひっそりと逝去された。自分が君主に立すると、百官達が娘を次から次へと後宮に送り込み、夜の相手をさせた。血気盛んな年頃だったので、相手をするのは悪くなかったが、次第に辟易としてきた。おそらく、想いがなかったからであろう。自然に絶っていた。
母は皇室に出入りしている香木の商人の娘で、「香道」を父に伝授していた。佳人で温雅であったそうで、「香道」を通じて自然に夫婦になった。母が好きだって沈香(じんこう)の香は今でも焚きしめている。遼玄は、流蘭は茂みの中で草を摘んでいる姿をじっと見つめていた。

流蘭が薬籠に草をぎっしり詰めて、戻って来た。「お待たせしました」
「すごい量だな。何に効くのだ?」
「あの…漊丞相さま、何か持病のようなものあるのですか?」
「いや、しかしここのところ、具合が悪そうだ。今日も朝議に出ていなかった」
「面倒を見てくださるご家族は?」
「漊は父上の頃から、献策してくれて、家族を持つと欲が出ると言って、おらぬ。真に純忠の家臣である」
「……」
「山が舂いていてきた、そろそろ戻るか。ふもとの護衛兵も待ちくたびれているだろう」
流蘭は、薬籠から一枚の葉を引き抜いた。
「しばし、お待ちを!」葉を少し丸めてくちびるに当てて吹いた。音は嫋嫋(じょうじょう)と流れ、霊山山脈に広がっていくようであった。
と、彼方の山から一点の黒いものが飛翔してこっちに向かってくる。遼玄が叫ぶ。「あれは?!」一羽の見たこともないような大きな美しい鷹であった。鷹は徐々に速度を落として、流蘭達の上を旋回し、高く上げた流蘭の腕を掴んだ。流蘭は鷹を見つめ、鷹もじっとして、流蘭を見つめる。暫くすると、鷹は羽をばたつかせ、飛び上がり、旋回して、霊山山脈に消えて行った。隣にいた遼玄は唖然としていた。
「今、何をしたのだ?」
「私の目になってくれます。
斎国に行かせました」
「そなた、普段話していると普通の女人なのに、やはり異能の力を持っているのだな」
「そのために生まれてきたのですから…」
遼玄は、そう言った、流蘭の横顔に寂寥感を感じた。

崔琳は香木を持って、廊を歩いていた。遼玄が好きで着物に焚きしめている「沈香」だ。商人が来たらまとめて買うよう頼まれていた。崔琳は青蓮が焚きしめている「白檀」が好きだが、「沈香」の香りがすると、遼玄を近くに感じ、陶然(とうぜん)としてしまう。
窓から馬の蹄の音が聞こえた。遼玄が戻ってきたようだ。そのあとから、馬がもう一頭。鞍上には流蘭が乗っていた。先に降りた遼玄が流蘭に手を差し伸べて、降りるのを手伝っている。
二人は何やら楽しそうにその場を去って行った。崔琳は、暫く、愁然(しゅうぜん) として佇んでいた。

青蓮が放った18本目の弓矢も的の中心に打ちこまれた。その様子を遼玄が傍らで眺めている。青蓮が19本目の弓を引いた時、
「青蓮、そなた、妻は娶らないのか?」19本目の矢は、的も大きく外れて、飛んで行ってしまった。
「何です?!いきなり!」
「いや、すまん!そなたなら妻になりたいと思う女人が引きも切らずおるのではないかと思うし、そんな話もあるであろう」青蓮は弓具を置いた。「必要ないから…ではお答えにはなりませんか?目下、斎国の事もありますし、戦で命を落としたら、残された妻が不憫では?主君こそ、いまだ正妃さまも寵妃さまもいらっしゃらない」
「そうだな…邪魔をして悪かった」遼玄はその場を去って行った。
君主ともなれば、胸中は憂悶すること多々あるのだろうな。
縁組といえば、楊州橈郡にいた頃―
青蓮が義父、挙晶(きょしょう)、義母、明(みん)、崔琳とで、あさげを取っていた時。室の端の卓に巻き物が山と積まれてあった。
「義父上、あれは何ですか?」
「うむ、崔琳との縁組の申し出の相手の絵姿じゃ」青蓮は箸を持つ手が止まった。
明が、「もう、そろそろ嫁にいっても早い事はないと思いますよ。女子は何と言っても若いうちに、良いお話がございますもの」崔琳は関せず汁をすすっている。
「青蓮、お前にも届いておるぞ。崔琳の隣の山じゃ」青蓮は目も向けない。
「私はまだやらねばならない事がありますゆえ…」崔琳が口を開いた。
「青蓮の方がずっと歳が上なんですもの。青蓮が先ですわ。青蓮が身を固めたら、私も考えるます」
「何を言ってるの!男はいくつになってもお話はきますけど、女子はとうが立ったら、ぱたりと来なくなりますよ」
「一度にまとまる良い解決策がある」明が言い終わる前に挙晶が声を発した。
「青蓮が崔琳を娶ればよい」「………」
明と崔琳は目をしばたたいた。青蓮は視線を落とす。
「いやだわ。父さま、人間の同腹は犬や猫と違って夫婦になれないのよ」
「何を申しておる。青蓮とお前は血縁ではないぞ」
「崔琳、あなたが青蓮を連れて来たんじゃないの!」
「えっ!そうなの!」崔琳が唖然とする。 
「お前は小さい頃から犬やら猫やら拾ってきたから、ごっちゃになっておるんだろう」
崔琳は記憶を辿っているようで箸を持ったまたま黙している。青蓮は声も出せない。『犬、猫、……と一緒』
そのあとのあさげは、妙な静けさのまま終えた。崔琳はその後、青蓮を男として意識し始めたのか、一週間ほどぎこちなかったが、またいつもの崔琳に戻った。それまで兄だったから男としてみてくれなかったのかと思い、一縷の望みはもてたものの、記憶が犬猫と一緒なのは、心痛かった。

李国の本城から、十里ほどに漊丞相の屋敷がある。邸館とは言い難い、質素なものであった。
薬籠を持った流蘭が柴門をくぐる。侍女に案内されて通された室の奥、床の寝台に漊は横臥(おうが)していた。流蘭の顔を見ると起き上がった。「おお、流蘭どの、どうされた。こんな所においでくださって」
「漊丞相さま、どうかそのままで!」流蘭は寝台の前の椅子に座った。
「これを」流蘭は、微笑んで薬籠を差し出した。「近頃、お体の具合が芳しくないとお聞きして、霊山山脈の薬草を取ってお持ちしました」
「おお、それはありがたい。李国の侍医に診てもらい、薬も飲んでいるが、一向に良くならない。霊山山脈の薬草なら、霊験あらたかで、効きそうじゃ」無理して笑顔を作っている様で、顔色も悪かった。症状を聞いているうち、父親と同じ病だと思い始めた。
「あの…漊丞相さまは李国のために、ずっとお一人で、ご家族がいらっしゃらないとお聞きしました」漊丞相は薬籠の薬草をじっと見つめ口を開いた。
「もし、農民に生まれていたら、もし、職人に生まれたいたら…おそらく嫁を娶り、子をつくり、家族に囲まれていたでしょうな。しかしな、今を生きているのは、己が都度(つど)選んだ道なのです。もしあの時と、悔いて戻る事は出来ない。己が道を選んで行きておれば、悔いはないのでしょう。私は、一度も選んだ道を悔いたことはおりませんぞ…」流蘭が身を乗り出した。
「それは!天命のことなのでしょうか!?」
「天命…天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令のこと、ですかな。流蘭どのならやり遂げられると神が託したのなら、流蘭どのが選んだ道を選べば良い」
「私が道を選んでいい…」漊丞相が微笑んだ。
「ほれ、家族がいないおかげで、流蘭どののような美々しい温雅な女人が、霊山山脈の薬草を持って訪ねてくださった。それに、初めてちと、後悔したことが出来ました」
「何でしょう」
「流蘭どのような娘が欲しかった」
「今からでも!」「それは嬉しい」
二人は笑った。流蘭は、心の内が明澄になったような気がした。
「漊丞相さま、少し、失礼致します」流蘭は漊の背中にまわり、両手を腰にかざした。
「流蘭どの!何か熱いが…しかし、心地良い気が…」そう言うと、漊は、ぱたと寝台に倒れた。
流蘭は布団をそっと漊に掛け、室を出た。侍女がお茶を持って来た。
「今からおやすみになられます。朝までそのままにしてくだされ」
「承知いたしました」

深更。
満月の光は煌々と、苑に佇む流蘭を照らしている。流蘭は懐から巾着袋を取り出した。取り出したのは、紫翠(しすい)色の透き通った美しい石だった。手のひらに置くと、月の光を受け、中から燭(しょく)が燈ったように輝く。中心から徐々に輝きはじめたが、まわりは次第に輝きを失っていった。流蘭は石を握りしめ、祈る様に額に当てた。

李国朝堂ー
朝議には流玄、青蓮を筆頭に文武百官が出席して朝議が始まろうとしていた。今日は漊丞相も参席しており、椅子にも座らず佇立している。遼玄は驚いた。
「そなた、病は治ったのか?まるで病人の様子がない!」
「それが、一昨日、わが草庵に、流蘭どのがおいでくださって、それ以降記憶がないのです。しかし、翌朝起きると体の具合が良くなって以前の体に戻ったようで…」
遼玄と青蓮は視線を合わせ同じ事を黙考した。「失礼致します。ご報告いたします!」李国の伝騎が遼玄の階下に拝跪礼した。
「栄国の貴華公主ご一行が李国の関所を通って、本城に向かっているよしにございます」「何!栄国の貴華公主が!」
「政略結婚の返信はされたのですか?」青蓮が問う。「いや、保留としておる。また何故こんな時に…」
「貴華公主の悋気でございましょうなぁ」漊丞相はまた髭を触って言った。

李国の苑、琴の二重演奏が響きわたる。崔琳と流蘭公主が、同時に曲を終わらせた。
「すごいわ!流蘭公主様、筋がいいのね。こんなに早く弾ける人、いなくてよ」流蘭は顔を紅潮させた。
「ありがとうございます。ずっと弾きたかったのですが、こちらで思う存分弾けて、その想いが伝わったのかもしれません」流蘭が琴の弦を愛おしいそうに触れている。
『今公主のたしなみを拒むとは…』崔琳が立ち上がった。「ちょっと苑に出て、茶でも飲みましょう」「はい!」

苑の築山に崔琳と流蘭が座って茶を飲んでいた。崔琳は背後から近づいてくる気配にぞっとするものを感じた。 
「そなたが流蘭公主かえ?」二人振り向くと、貴華公主が数人の侍女達を従えていた。
『来訪の儀は遼玄さまから聞いていない。急な来訪はきっと流蘭公主様の事を聞いて…』
貴華は流蘭をじっと見つめる。「たしかに、かんばせはなかなかではあるが、髪がのう。女子の髪はからすの濡れ羽色が美々とされておる。その髪、目の色、そなたの母上は、異人と姦通でもしたのではないかえ?」侍女達が嘲笑する。
崔琳は茶碗を持つ手が震える。『なんて酷い事を…』流蘭は俯いている。
崔琳は茶碗を置いて、つぶやく。
「神は本当に公平でらっしゃいます」
「何か言ったか?」
「人は公平にお生まれになったと!流蘭公主様がこのようなかんばせで、髪も黒くお生まれでしたら、この世で比べるものがない美姫でござりましょう」
流蘭が潤んだ瞳で崔琳を見つめる。
貴華をおとしめてはいない、が、自分が一番だと思っている貴華には屈辱である。
「流蘭公主様、行きましょう!」崔琳は流蘭の手を取って、苑から出ていった。小走りでかなり歩き、禁門の近くまで来ていた。崔琳は肩で息をしている。
「流蘭公主様、気になさる事は…」
崔琳が言い終わる前に、流蘭は崔琳に抱きついてきた。離れようとしない。
『この方は、母上さまに抱かれたこともないのだ』崔琳は流蘭の髪をそっと撫でていた。
その様子を回廊から青蓮が見つめていた。
『恋敵であるのに…あの人は近くにいればいるほど、その心根の美しさの輝きを感じてしまう。普通なら逆のはずなのに』

貴華公主と侍女達がぞろぞろと回廊を歩いている。
「何ですの、あの女、流蘭公主が黒髪だったら、この世で一番みたいな言い方!」
「ふん、たかが群主の分際で、遼玄様の侍女らしいが、ちといい気になっておるな」
向かいから、青蓮が歩いて来る。青蓮は立ち止まり、叉手礼をして、去っていった。侍女は皆後ろ姿を見つめている。
「貴華さま、今の、誰ですの!色っぽくて凄くいい男!李国は男前が多いですわね!」
「趙軍師であろう。確かにいい男よの。だが軍師ごとき、わらわの相手ではないわ」
「では、貴華さまが遼玄君主さまとのご婚姻がお決まりになりましたら、軍師さまとのお目通りお願い致します」
「わかっておる。遼玄さまは誰にもわたさぬ」

崔琳は琴を一曲弾くとため息をついた。部屋に青蓮が入って来た。
「崔琳どのが貴華公主に啖呵(たんか)を切ったようですね」青蓮は柱にもたれ腕を組み、可笑しそうに言った。崔琳は琴の爪を外した。
「橈郡に栄国が攻めて来たらどうしよう…貴華公主様、あんなにお綺麗なかんばせなのにお言葉は酷くて…」
「外見だけでは人は計れませんよ。でも、流蘭公主には嬉しかったようで、抱きつかれていましたね。流蘭公主がうらやましかった」
崔琳は青蓮をじっと見つめた。青蓮は最後の言葉は余計だったと視線を外した。
「亡くなられた母上が恋しいの?」
「違いますよ!」
この人は普段は良く気がまわるのに、この手の話だとなぜ疎いのか…

遼玄の室ー
遼玄が貴族華の供の侍女は外させ、貴華と二人にさせた。
「貴華公主どの、突然のご来訪の向きは何であろうか」
「遼玄様、栄国と李国の婚姻による同盟のお話はどうなっておりますの?書簡をお送りしたのに、返書が届いておりませんわ!」
遼玄は無表情で答える。「まだ、保留である。国と国との婚姻の儀であるならば、栄国の徳君主はご一緒ではないのか」
「……」
「政は自局に鑑みて執り行わねばならない。今はその時ではない」
「では、胡国が李国の属国となったそうでございますが、公主の流蘭が李国にいるのは、どういう事ですの」
遼玄が瞼を閉じた。
「自国の内情を他国に話す必要はない」
貴族華の顔色が怒りで徐々に赤くなる。「異能の力が必要なのですね。それゆえ、栄国の力は必要ないと。流蘭公主は力を使うために、何を約束したのですか?遼玄様との婚姻でしょうか?」
「そんな約束はしていない!とりあえず、もう、お帰りいただこう。そなたと話す事はない。今日は長旅でお疲れであろうから、李国のそなたの満足する客舎(かくしゃ)を用意させる。泊まって、明日帰国すれば良い」遼玄はそう言うと室を出て行った。貴華は着物を握りしめた。

斎国ー
夜半、闇に包まれた町はまばらな燈火が点在している。脩眞は城楼から眼下を見下ろしている。背後から近づいて来る者がある。
「やっと出てきたか、随分間が空いたではないか」暗闇にいる者は、ふふと笑った。
「一仕事、終えにゃあ、あんたには会えないだろう」
「心得てるではないか、で、首尾はどうだ」
「隣国の涂州果国(ちょしゅうかこく)が遠征の際の兵糧、兵、駐屯させる場所を与えるとさ」「ほう、流石だな。まあ、どうやって説き伏せたかは聞かないでおこう」 暗闇にいる者は、
また、ふふと笑って去っていった。

涂州果国ー
城内の喬木の枝に鷹が止まっている。むしろをかぶせた荷車が何台も城内の離れた場所の館に運ばれて行く。鷹の目は琥珀色に変わり、城外に羽ばたいていった。

李国の苑から流蘭が霊山山脈を見つめている。 瞳は琥珀色から赤みがかった色に変わっていき、鷹が涂州果国で見た様子が映る。流蘭は館に入って行った。

李国帷幕室ー
「何!果国が遠征のための手を貸したと!」遼玄は卓の上に置いた手を握る。
「はい。駐屯する屋敷に続々と兵糧を運んでおります」
「予想外に動きが早うございますな。こちらもそろそろ手をうたねばなりませんと」漊が髭を触る。
青蓮は腕を組んで一人黙っていたが、つぶやいた。
「曹烈大司馬…私は何か気になります。何故、脩眞に付いているのか…私が生間になり(注5)になり、直接曹烈に見(まみ)えたいのですが…」
「だが、そなたは面がわれているだろう」
「しかし…他に…」 
「私が行きます!」「……」三人呆然とした。
「そなたはもっと目立つ!」遼玄が強く言った。「髪の色を染めて、夜、活動すれば瞳の色もわかりません」
「なるほど」青蓮は納得した。
「脩眞には近づくな。色狂いの男だ。そなたを見かけて、一晩相手をせよと迫ってくるかもしれん」
「そうなったら、お受け致します」
「何!」遼玄は声を発っしようとすると、漊が卓がばんっと、卓を叩いた。
「流蘭どのっ!李国のために操を捨てるなぞ、何てことを!!李国は女人の操を犠牲にしてまで、国を守りたいとは思っておりませんぞ!」
遼玄も青蓮も漊の憤怒に押されて黙り込んだ
「脩眞に強要されたら、その前、申しておきます。私と褥(しとね)を共にした男の方は、朝になると、その方の心の奥底にひそむ獣に変わっているそうでございます。脩眞どのでしたら、さしずめ虎、でございましょう、と」
「何!獣に変わるのか!!」
遼玄の言葉に青蓮は腕を組んだまま、にやにや笑っている。
帷幕会議は、流蘭が斎国に潜入する方向に進められたが、遼玄は何か他の事で気を取られているようであった。会議は一旦終り、遼玄と青蓮が立ち上がった。青蓮は室をでる時、遼玄にささやいた。
「主君はさしずめ龍ですかね」
「青蓮、そなた…」
漊は目を閉じたまま座っていた。
「流蘭どのはお残りください」
「は…い」
遼玄と青蓮は目を合わせ、室を後にした。
「あの…何か、私、漊丞相さまの気に触る事、致しましたでしょうか?」流蘭は小さくかしこまった。漊は目を開いた。
「流蘭どの、そなたが天命を全うしようとするのはわかる。だがな、その前にそなたは二十歳にも満たない女子なのじゃ。たしかに李国にはそなたが必要だ。だが李国も無力ではない。先程のように操を捧げてもよい等などと、この漊の前で申したら、尻を叩きますぞ」漊の説教は延々と続く。流蘭は漊の話を聞くうち、笑顔がこぼれてくる。「これ、何が可笑しいのじゃ」
「だって、漊丞相さまのお説教を聞いているうちに、なんだか、私が普通の女子になって、父上にお説教されいるようで、嬉しくなってしまいました」
「流蘭どの…」

(注6) 生間─敵国から生還し、報告をもたらす。

流蘭が室を出ると、遼玄が柱にもたれ立っていた。
「遼玄さま?」
「先ほどの話、本当なのか?」
「先ほどの、とは?」
「その、褥がどうとかいう…」遼玄は目を合わせない。
「あ、それは父上からそう答えておけと言われました。私は褥を共にしたことがないのでわかりません」遼玄は去って行く流蘭の後ろ姿を見つめていた。

流蘭は苑に立つ。彼方に見える霊山山脈が舂いていく。峻険な山々が徐々に赫く染まっていく。
流蘭の、風に靡(なび)く髪と瞳は赫く染まっていった。

〈青桐の章〉終




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