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幸福の条件

前回、孤独について書いた。

何事も気づくところからがスタートライン。
そういう意味で、今はスタートラインから数センチくらいのところにいる。

ちなみに、ここでいう孤独とは、
「他者との関係性構築の努力を放棄した状態」
と仮に定義したい。

意識的に放棄する奇特な人はあまり知らないので、たいていは無意識的に放棄している人を指すことになる。

この定義に当てはまれば、実家ぐらしの学生も、もちろん独身者も、あるいは結婚して家族の一員であったとしても、置かれた環境や状況にかかわらず、上記の定義に当てはまれば孤独といえる。

孤独のまま生き続けることはもちろんできる。
孤独はとてもラク。
そして、孤独なら他者とのしがらみも最低限で済む。
さまざまな個人的欲求も充足させやすい。

しかし、山奥の掘っ立て小屋に独りで住んで、仙人のような生活をするのではない限り、人は、結局は人とかかわって生きている
私の知る範囲で、私が「この人も孤独だなあ」と思える人は、たいていそれなりに人生を謳歌して幸せそうに見える。私もかつてはそうだった。

でも、その周囲の人々も本当に幸せなんだろうか、と時に思う。

その人が、意識的か無意識的かを問わず、孤独であることを選択している時点で、その人と生活や仕事を伴走する周囲の人びともまた、孤独にならざるを得ない状況に陥ってはいないだろうか。

本人が孤独を選択している時点で、周囲も思うような関係性を築きづらい。
本人の思いや考えもつかめず、信頼関係を築くことも甚だ困難となる。

そしてもう一つ思うのは、周囲だけでなく、結局のところ本人も本当の意味で幸福といえるのだろうか、という点。

選択理論心理学をベースとしたママカフェを最初に学んで思ったことは、
「自分自身は今、本当に幸福といえるのだろうか」
ということだった。

残念ながら、学び始め当初も今も、
「何の迷いもなく、自分は幸福」
とはちょっと思えなかった。

では、なぜ自分は幸福ではないかもしれないと思うのか。
あるいは、自分はどういう状態であれば幸福である、といえるのか。

その問いに対する自分なりの答えは、分厚いグラッサーの基本書の中に書かれていた。

このように外的コントロール心理学は幅広く使われているが、もっとも不思議な例外は、長年の親友にはめったに使わないということである。友人に対しては、私たちは無意識のうちに選択理論を使っている。選択理論の知識があるなしにかかわらず、友人への対応の仕方は、配偶者、子ども、生徒、従業員に対する対応とは異なることに、私たちは気づく。

長く続く幸せの最大の源は良い友人の存在にあることを、私たちは知っている。友人に無理強いすれば、友人を失うことになり、幸せも失われることを私たちは知っているようだ。どんなに人を強制することに何のとがめも感じていなくても、友人を強制することには躊躇する。その気持ちは親友を定義する良い方法かもしれない。もし私たちが誰に対しても選択理論を適用すれば、より多くの友人を持てるし、友人を持ち続けることもできるであろう。そして、私たちの幸福もかなり増大することであろう。

ウイリアム・グラッサー『グラッサー博士の選択理論』

ここには、幸福の最大化について書かれている。

長く続く幸せの最大の源は良い友人の存在
と幸福になるための要素がズバリ指摘されている。

逆に解釈すると、孤独では幸せにはなれないと割とハッキリ読み取れる。
自分のモヤモヤはここにあったわけだ。

私がママカフェを学ぶ目的(ゴール)は、
夫婦関係も親子関係も、親友のような関係性でありたい
という点にある。

このあたりは学び始め当初からもっていた願望で、今もまったくブレていない。

ただ、上記引用文には…

選択理論の知識があるなしにかかわらず、友人への対応の仕方は、配偶者、子ども、生徒、従業員に対する対応とは異なることに、私たちは気づく。

…と書かれている。

つまり、親友や友人には自然と選択理論的な外的ではないかかわり方をしている一方で、家族や従業員に対してはそうではない(=外的)ということであり、デフォルトのままでは親友のような関係性にはなれないともいえる。

転勤族で親友がいたことのない自分にとって、親友を「つくる」ことはそれ自体が至難の業。ただ、親友という存在には焦がれるほどの憧れがあった。

私は自分も周囲も幸せになることをあきらめるつもりはない。
自分のもっとも大切な家族と、親友のように信頼し合える関係性になるために。

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