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77.【読書と私】⑳育自書の一つと思って読んだ若者に関する本2冊

人生に何かとガイド本は必要。全くその通りにする気もないのだが、旅のガイド本や、育児書の類を見て少なからず参考にしてきたと思う。「こうしなきゃ」とは縛られないよういいとこ取りしたり、共感できることを何かみつけたくて読んでいたかもしれない。

各種性格タイプや占いを見るにつけ理想主義者なタイプと出る私は、例えば、携帯スマホのつきあい方など、上の子と下の子の時とでも随分違った時代の変化に戸惑いを感じつつ、子ども達が周囲との間で困らないようには折り合いをつけてきたつもり。子どもにすると頭堅い方の親だったかもしれないけど、「自分の時は…」「そんなのなし崩しでしょ」と時代の潮流をなかなか受け入れられない父親との防波堤にはなっていたと思う。

ヒトの成長過程として、その年頃の考え方や感じることに変わらない部分はもちろんあるだろうが、時代環境の影響って大きい。だから学ばないとねと、本を手にする。そんな中の最近読んだ2冊。一つは再読です。

『Z世代化する社会 お客様になっていく若者たち』船津昌平 2024


『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』金間大介 2022


『Z世代化する社会』は、新聞の書評で見て購入。読んでいると、以前に購入して読んだ『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』が思い浮かんできて、案の上か然るべくというか『Z世代化する社会』の方で、かなり参考にした本と挙げられていた。

ともに、その世代の特徴、空気感について触れている。世代の特徴については、自分の子についてばかりでなく、職場の若者について考える参考にもなる思って読んだ。

『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』の中ではタイトルが象徴するままに、周囲から浮かないことと、特別なことはしたくない一方で役に立ちたい感謝されたい気持ちがあること。また自分からは決めない、動かずに、主導権を持っているような姿が書かれていた。

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ふと思い出すのは、高校に入った娘にある時「お母さん!私に〇〇(幼児番組)ちゃんと見せてた?」とすごまれたこと。家事をすすめる都合上、うちでもちゃんと流れてましたけどね。保育園組ゆえどっぷり浸かって見る時間まではなかったか、彼女自身同じものを見ていても視点が違うところもあったので、(ある歌を口ずさんだ時、そこを歌う!?ということがあった)話が合わなず嫌だったんだろうね。それは氷山の一角にすぎないか、だんだん学校には居づらさを感じてきたようだった。


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話は本に戻って、『Z世代化する社会』の方は、「いい子」から更に進んだ世代像について触れていて、それは消費の主役世代というのも相まってか、利己的な側面が強くなっているようにも思えた。平均ちょっと上をめざす。ほどよく得できる。コスパの良い。「最適」という発想。

「唯言論」というのが、なかなか難しい話だったがよく出てきていた。相手の言い分について、内容をとらえない(とらえようとしない?)で、表面的なことだけを切り取って、ラベリングした言葉で無意味化してしまうよう。例えば、「説教ですか」「宗教みたい」のように対象を矮小化し、笑いものに出来る言葉で切り取る。

そしてZ世代は熱くならない。そんな生き方になるのもオトナがそれを奨励しているからという。社会的に「怒る」ということが難しくなってオトナが怒らない、だけど若者は怒られること自体は否定していなくて、怒られることは逆に見捨てられているような気がして、「いい感じに怒ってほしい」という。その都合良さに対してオトナが選ぶ選択肢は「めんどくさいから放っておく」

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時代ゆえと言ってしまえばそれまでか、でも、上の世代だって、中流意識とか、日本人の特性として同じような感覚はあるから、まさに子どもは大人の鏡。どこか、確実な最適解と思われるところに誘導しようとする大人は、口先だけで子どもを動かして、それを真似たのが唯言論みたいな状況なのか。そして、その結果として、就職活動や、仕事をする場面になって、指示待ちだったり、仕事が自分にフィットしていないという話になる。この辺は『傲慢と善良』にみる婚活と重なる話。

本で述べられていた提言は、やはり大人に返ってくるものだった。それと、すぐに結論を出さないで過ごすことが求められるものだった。二つの書籍に出てきたワードではないが、「ネガティブ・ケイパビリティ」というのも耳にしたことがある。何かと検索するとすぐに答えがみつかりそうに思える世の中では大事な考えだと思う。いや、でもそれだから「諦めない」世の中になったというのも、どこかで何かで読んだ気もする。

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娘の進路を考える時に、思いつきで言ったようなこと(としか思えなかった)に、私がうーんと考え込んだのは「否定された」と言われたことがあった。その時思ったのは、ここが自主性を育てるチャンスだったかということ。
曲がりなりにも考えたことに付き合うことが今大事なのかと思った瞬間。
以降、口を出すのはギリギリまで控えて、見守るようにして進めた。
そして、その後の結果にも付き合っていくしかないと思っている。

進路を決めるって本当に大変。自分は何だかんだ納得いく職業に就けた方と思うが、憧れがあって決められていたら良かったと思っている。働いてから尊敬できる同業者の方はいるけど、ああなりたいってモデルがいたらという気持ちがどこかあった。ただ、最近見た小説では、なかなか人には言えない自分でもよくわからないような理由で進路を決めた主人公が、ちゃんとその理由に沿うような行動をしていて、理由など明確でなくてもいいかとも、また思えた。

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オリンピック選手を見ていると、「恩を返す」とよく言っていて、メダルに挑む彼らは本に挙げられるような若者とは違う部分を生きている。恐らくきつい言葉にも内容や思いを受け止めることができるのは、「確かな目的」「共通した目的」があるからなんだろう。どこか羨ましい世界、だから見てしまうのかな。親子で目指す人たちも多い。

あらためて、私も何かに向かってチャレンジしていこう。それが、子どもにも親の背中を見せるようなことになっているといいなという気持ちで。そう言えば、バイト先のママさんはよく言っていた。「バカにならないと」って。それって本当にむずかしい。バカになって振舞えた方が、人を傷つけないことができるかな。無神経と傷つけてしまうことになるのかな。なんかまた思考がぐるぐるしそうだけど、この思考にも付き合っていこう、それも一つの挑戦だから。
全く、育児なのか育自なのか。
「子育てもう終わりでしょ」と簡単に言ってくれた人いるけど(旦那さん)、確かにね、手取り足取りのことを思えばそうだけど、そんなことないと思うんですけどね。
何だか最後はグダグダになってしまいました。



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