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ある調査

昔、ある行事の効果を分析した結果を県の指導主事が教員に発表した研究会がありました。
いろんな角度から分析がされていましたが、その中で男女別の効果の差を示すグラフもありました。

発表が終わって、質疑応答の時間になったとき中堅の女性教諭が質問しました。
「どうして、この行事の効果を男女別に分析したのか? それは、どういう意味があるのか」

その教諭は、男女に分けて効果を示すことが女性蔑視を含んでいると主張したのです。

質問された指導主事が明確な回答ができなかったために、その教諭はさらにフラストレーションをためた感じでした。

確かに、分析の対象となった行事は男女を分ける必要はなかったと私も思いました。
おそらく、指導主事は深く考えていなかったのでしょう。

でも、その後さらに続けてその教諭が述べた見解については、若干の疑問が残りました。
それは「何でもかんでも、男女の差を示すことは、分析する人の心に偏見があるからじゃないですか?」という意見でした。

私は、その時の分析対象が男女別に分ける必要はなかったとはいえ、男女差別の存在や、不当に女性が不利益を被っていることを明らかにするには、必要だったかもしれないと思ったのです。

そうした不平等は、どこに隠れているかわかりません。
一見男女別にする必然性がないと思っていることの中に潜んでいる可能性もあるのと思ったのです。
それは、男女別に分析しないと見えてこないものかもしれないのです。

今や、性はグラデーションだと言われています。
さまざまな性自認をする人が、どんな場面で不利益を被っているのかを明らかにすることは、偏見をなくすためにこれまで以上に重要となり、細かな分析が求められるでしょう。

これまでの常識にとらわれたステレオタイプの分析方法では、隠れた偏見は見えないままにされてしまうかもしれません。


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