見出し画像

しがない公民科教員は西田亮介のたった一つの誤解を解きたい~新しい合理的市民像とその緩やかな受容~


↑前回の記事の続きになりますが、この投稿から読んでくださっても大丈夫だと思います。

①なぜしがない公立高校公民科教員がこの本を手に取ろうと思ったのか(前回)

②本の中身についてのレビュー(この投稿)

初めに結論を述べます。

本書は最近読んだなかで一番高校生に勧めたい本です。そしてそれ以上に公民科の教員に勧めたい本です。

やや物騒なタイトルをつけてしまいました(スミマセン)が、もちろん理由はありますのでぜひ最後まで読んでいただけると幸いです。

西田先生、それ誤解です!

いきなり最後のページを引用します。

引用:西田亮介『ぶっちゃけ誰が国を動かしているのか教えてください』(2022)日本実業出版社  p.337。(傍線筆者。きったないラインひいてすみません……)

西田亮介と思しき人物と政治にさまざまな疑問をもつ女性(担当編集者でしょうか)の会話です。

(女性)「全編を通してコストという概念が出てきたのが印象的でした。」
(西田)「そうですね。政治学者の人たちには怒られるかもしれないですね(笑)」

(太字筆者)

西田先生、それ誤解です!

この本は政治学者に怒られる本ではなく、政治学者に評価されるべき本です。

なぜか。理由を申し上げたいと思います。

現代の政治学は「コスト」を重視している

この本に通底する理屈があるとすれば、先ほどの会話にも出てきたように「コスト」「インセンティブ」の重視、つまり

政治学・経済学でいうところの合理的選択制度論(もしくは新制度派組織理論)とプリンシパル・エージェントモデルが明確に採用されていると私は解釈しました。


※この投稿では、合理的選択制度論とプリンシパルエージェント論の詳細な説明をすることが本旨ではありませんし、非専門家である私が解説をすることも手に余るのですが、簡単なノートを作ってみました。

もしくは素人の説明なんか要らないぜ!という方は後述する教科書を読むか、cinii で「合理的 制度論」や「新制度論」で検索してオープンアクセスの論文を読むなどするとよいと思います。


要は今日の政治学においては「コスト」と「インセンティブ」を重視する考え方が主流だと言えます。以下、日本の政治学の教科書を見てみましょう。

上記の教科書は、国家公務員総合職(旧一種)や難関地方自治体の試験を受ける際には必読と言われています。この本に通底する視点はやはり合理的選択制度論とプリンシパル・エージェント理論です。ジュンイチロー・ミズホ・ヘイゾウ・ヨシヒコ・ノボルなどのキャラクターが登場するあたりに、危険な香り、そして読み物としての面白さがあります。

やや古い(2008)ですが曽我・建林・待鳥の本も定番でありも同様に合理的選択制度論とプリンシパルエージェントモデルを中心に記述されています。新制度論の記述に詳しいです。

上記の二冊『政治学』『比較政治制度論』両方に共通するのはアメリカの政治学における王道、キング・コヘイン・ヴァ―バ『社会科学のリサーチ・デザイン』(真渕勝監訳 2004 勁草書房)に強い影響を受けているところです。通称KKVと言われ、刊行から20年以上たった今日でも、KKVを読まねば政治学徒にあらず、と言われています(私は大学時代無理して原著を読もうとして挫折しました)。あまりにも影響力が強かったため最近はKKVを批判的に検討する向きも強いようです。『社会科学の考え方』はそういう本みたいです(未読。読まねば)

上記の最近改訂された砂原先生たちの入門書(2020)でも同様ですね。今気づきましたが取り上げた三冊とも有斐閣が出していますね。やっぱり有斐閣はすごいです。

上記の本たちが大学教育においてどれほどのシェアをとっているかは分かりませんが、さわりだけでも読めば現代の政治学が「コスト」「インセンティブ」を重視しているというところはご納得いただけるのではないかと思います。

「お説教本」への強烈なアンチテーゼ

では、『ぶっちゃけ、誰が国を動かしているのか教えてください』(以下、本書)の検討に戻ります。

上記で確認した通り、政治学のここ二十年ほどのトレンドはコストとインセンティブという概念を用いて人間の行動を理解することにありました。

ゆえに、本書の「損得勘定」という枠組み自体に新しさはないののだと思います。

ではなぜ、私はこの本を評価するのか。

それは高校生に向けた書籍でコストとインセンティブを用いて政治を説明したものを見たことがなかったからです(ほかにあればぜひ教えてほしい!)。

高校生など若年層の有権者をターゲットにした書籍のほとんどは、西田先生風に言えば、「お説教」や「お題目」のてんこもりです。

結論はたいていこうです。「みんな!選挙に行こう!」

本書はそのような結論をとりません。
本書における「お説教本」に対するアンチテーゼは明確です。

「投票に行けば変わる」とはやはり簡単には言えないと思うのです

以下太字筆者p.34

なんとか、投票に行かなくてもいいけど、行くのが普通かなみたいな状態にしたほうがいいとはよく思います。

p.329

僕にとっては政治について考えるのはすごく当たり前の事なんですが、でも普通はそうならないですよね
だから「投票してもいい事がない」という感覚もそこを出発点にしないと少なくとも普通の人に聞いてもらえないと思っています。

p.336-337

これらの言葉には、新しい「合理的市民像」で有権者をとらえる西田先生の立場が如実に表れています。

以下、合理的という言葉について検討したいと思います。

新しい合理的市民像の受容

先ほど取り上げた合理的選択制度論にもついている「合理的」というキーワード。

「合理的」という言葉は、長らく用いられてきましたが、その意味は一様ではなかったのだと思います。

18世紀、啓蒙主義の時代においては「合理的」な市民とは、主体的に政治に参加し、情報を十分にもって的確な政治判断ができる、という人のことを指していました。根っこをたどれば古代ギリシャやローマにもその考え方はあったのかもしれません。

一方今日における「合理的」とは、一般的な語彙の感覚にのっとればコストやインセンティブなど利益に基づいて物事を判断することを指しているように思います。

便宜上、18世紀的な合理的市民像を「旧合理的市民像」とし、現代における合理的市民像を「新合理的市民像」としたとき、両者に大きなずれがあります。

例えば、「選挙に行かない」ことにおいて、二つの合理的市民像は根本から対立します。

旧合理的市民像においては、政治に主体的に参加するということが「合理的」の条件なので、投票に行かない人は、その時点で非合理だとみなされます。しかし、新合理的市民像では、投票に行かないということも、合理的とみなせる可能性があります。

例えば、A・Bという二人の若者を想定します。

Aさんは選挙に行って投票しようと考えています。政治に強い関心を抱いており、日ごろから新聞などを中心に情報を集めています。Aさんが住む選挙区においては、二人の候補者の得票が伯仲することがあらかじめ予想されています。Aさんは選挙会場に徒歩3分の地点に住み、当日は晴のちくもりの天気予報です。
B さんは選挙に行くつもりがありません。今まで特に政治に興味はなく、新聞はおろかテレビすらも見ません。B さんが住む選挙区においては、立候補者が一人しかおらず信任投票になります。Bさんは選挙会場からおよそ5 kmの地点に住み、当日は雨の予報です。Bさんは選挙日にはデートの予定があります。

Aさんはまさに旧合理的市民像に照らせば、合理的な市民です。Bさんは、候補者や政党についての情報をきちんとあつめ、デートの約束をほっぽりだし、雨の中、片道一時間歩かなければ、旧合理的市民にはなれません。Aさんと B さんでは投票に行くコストが全く異なっています。Bさんが投票に行くことをコストとしてとらえているとすれば、やはりそれも合理的ということができます。Bさんは新合理的市民なのです。

本書の言葉を引用します。

認識の水準で政治参加をコストと考えている人がいるのであれば、一旦それはそれとして受け止めてから政治参加を促す方法を考えてみても良いのではないでしょうか。

p48

つまり西田先生はBさんのような有権者がいることも仕方がないことだ、とうけとめていらっしゃるのだと思います。これは既存の若者向けの政治本、「お説教本」には全くない考え方です。 

私は一部の新聞にみられる、投票率が低い選挙で選ばれた政権には政治的正統性がなく、投票率が高くなれば政権交代が実現できる、というような論調はどうかと思います。

選挙に行かない若者をけしからん!といったところで、投票率の低さはどうにもできないからまた別にインセンティブを設ける必要がある、西田先生のリアリズムには非常に共感いたします。

公民教科書は究極のお説教本

ところで、私はとある公立高校で講師をしています。

この度公民の科目を始めて担当することになり、最近は真面目に学習指導要領を読んでいました。文科省の公式見解として学習指導要領は「最低基準」であるということですが、読めば読むほど、うーむ……という気持ちになります。

公民科の目標を引用します。

https://www.mext.go.jp/content/20211102-mxt_kyoiku02-100002620_04.pdf

社会的な見方・考え方を働かせ、現代の諸課題を追求したり解決したりする活動を通して、広い視野に立ち、グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の有意な形成者に必要な公民としての資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

うーむ、公民としての資質・能力ってなんだろうか。以下は読み飛ばしても大丈夫です。

(1)現代の諸課題を捉え考察し,選択・判断するための手掛かりとなる概念や理論について理解するとともに,諸資料から,倫理的主体などとして活動するために必要となる情報を適切かつ効果的に調べ まとめる技能を身に付けるようにする。
(2)現実社会の諸課題の解決に向けて,選択・判断の手掛かりとなる考え方や公共的な空間における基本的原理を活用して,事実を基に多面的・多角的に考察し公正に判断する力や、合意形成や社会参画を視野に入れながら構想したことを議論する力を養う。
(3)よりよい社会の実現を視野に,現代の諸課題を主体的に解決しようとする態度を養うとともに,多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される,現代社会に生きる人間としての在り方生き方に ついての自覚や,公共的な空間に生き国民主権を担う公民として,自国を愛し,その平和と繁栄を図 ることや,各国が相互に主権を尊重し,各国民が協力し合うことの大切さについての自覚などを深める。

「事実を基に多面的・多角的に考察し公正に判断する力」「合意形成や社会参画を視野に入れながら構想したことを議論する力」「現代の諸課題を主体的に解決しようとする態度」ですか。

それができたら苦労せんわい!といつも思います。子どもどころか、大人ですらできる人は少ないです。私も同様です。

そこでさっきの「合理的市民」の話と接続します。どうにも公民としての資質・能力、言い換えれば公民科が抱く理想像は、18世紀的な旧合理的市民像をベースにしているとしか思えないのです

旧合理的市民像を理想とするべきか否かということに関して私は特段問題にしません。しかし、公民科の抱く理想(旧合理的市民)と現実が大きく乖離しているということは投票率の低下などを見ても事実といえます。だからこそ、公民科、シティズンシップ教育という言葉が注目されるのでしょうが。

現実に対して滔々と理想を語る、その意味で公民の教科書というのは究極の「お説教本」といえるのではないでしょうか

ゆえに、最低限コストの計算くらいはできる人間(新合理的市民)であってくれ、西田先生いわく「損得勘定」ができる人間であれ、というのは、かなり現実的な目標だなと思うのです。

高校生・若年層に向けた書籍ではありますが、全国の公民科の先生方も本書を読んでみてはいかがでしょうか

西田亮介はゴリゴリの強力効果論者なのか?

話を改めて、メディア論に関して面白いなと思ったことを述べます。

政治を動かすのは投票率よりメディアや報道

p.83

これは一講の途中の見出しなのですが、ここまではっきり言っていいのか!……?と。西田先生は、ゴリゴリの強力効果論者なのか?と。

大学のメディア・政治学の講義では、現時点で限定効果論と(新)強力効果論はどちらが間違っていてどちらが正しいともいえないという教えを受けました。大学の先生は、両者は相互補完的な関係にある、と述べていたと思います。

例えば、昨年の衆院選では、日本維新の党が大きく議席を伸ばしましたが、関西在住者のなかで「関西のテレビが維新をひいきしているから、維新の得票が伸びたのだ」という意見がちらほら見られました。私も以前は、関西に住んでいたので、在大阪メディアの維新推しは納得できます。しかし、それはあまりにも素朴な強力効果論です。テレビが投票行動に与える影響はそれほど大きくない(限定効果論)というのが、今の科学的な見方ではないでしょうか。

話を本書に戻します。強力効果論的な見出しに大きな違和感をおぼえていたのですが、読み進めていくと、なるほどと思わされました。

ぼくはネットや情報番組の論調など統計的な裏付けがあるわけではない一方で、なんとなく世の中の代表的意見のように見える「声」に耳を傾けるフリをしながら、その実自分たちの政治的影響力を確保するような政治のことを「耳を傾けすぎる政治」などと呼んで、論じてきました。

p.259

「耳を傾けすぎる政治」の例として「保育園落ちた日本死ね」ブログや検察庁法案事件を取り上げています。

政治学におけるメディア論(細分化すると政治心理学。あくまで非専門家である私が勉強した限り)と西田先生の考え方の大きな違いは、想定する回路にあるのではないかと思います。つまり、政治学では、テレビや新聞などのメディアが、世論を形成したり有権者の考えに影響を与えたりすることで、投票行動を変化させ、結果政治に影響を与える、という回路が想定されています。しかし、西田先生は、メディアがじかに政治に影響を与えてしまっているのではないか、ということをおっしゃられているのだと思います。

以下、イメージ図です。


○(私の勉強した)政治学の想定する回路

メディア(テレビ・新聞が主)→世論・投票行動→政治

○西田先生の回路

メディア→政治


「保育園落ちた日本死ねブログ」の件に関しては、結果として保育園の問題が改善してきたということはよかったのだと思います。しかし、この件にどうにも気味の悪さを覚えているという点で、私の認識は西田先生と一致します。

まず一つ目に、西田先生と同様に、SNSでバズった主張は民意なのか、という点はもっと深く考えるべきだと思います。西田先生は「かっこつきの民意」と表現しています。

そもそも民意とは何なのか、と言われるとなかなか難しいのですが、伝統的には選挙と投票が民意を表していると考えられてきました。しかし、普通に考えれば死票が生まれる以上、どんな選挙制度も民意を完全に反映できるわけではありません。そのような難点を認識しつつも、私たちはタテマエ上、選挙という「手続き」に政治家の正統性を見出してきました。

一方、SNSでバズった言説というのは、なんの手続きも経ていません。それをそのまま国会で取り上げるというのは慎重になるべきです。それなら公的な制度としてのパブリックコメントのほうが手続き上は「民意」です。

2つ目に、Twitterが政治を変えた、という言説に対する態度にも共感します。

本当に Twitter が政治を変えたのかということに関しては、丁寧に検証する必要があります。

p.263

2000年代の初頭、私が小学生や中学生だった時から、ネットが民主主義をさらに良くする、という言説はありました。しかし、残念ながら現状そうはなっていない。

保育園ブログの件でも、意見を表明する新しい民主的な回路が開かれた、と積極的に評価する論者が沢山いましたが、どうにもネットと民主主義に関するユートピア的な幻想の残滓に見えてしまいます。

ネットで発信した意見が世の中を変えるかもしれない、ネットの連帯が政治を動かす、とみんなが期待する様子は、なんだか気味が悪いなというのが本音です。

本書を読んでもっとメディア論を勉強しなければならない、と思いました。

「死」とメディアと教育政策

メディアが直接に政治を動かしてしまう可能性について、学校教育に関わるものとして真っ先に思い浮かんだのは、1998年の神戸連続児童殺傷事件です。この事件は当時(と言っても幼い私の記憶はありませんが)、「少年の心の乱れ」として新聞やテレビによってフレーミングされ、国会でも問題に取り上げられました。事件と政策との因果関係は厳密に考えるべきですが、その後、文科省は「心のノート」を配布するなど道徳に力を入れ始めます。

政策の実施にあたって3点ほど検証すべき点があったのではないかと思います。一つは本当に少年の心は乱れてきていたのか、という点。もう2つ目は、「心のノート」や道徳が少年の心を矯正できるのか、という点。3つめは少年の心を整える目的として十億円かかったと言われる心のノートという手段は適切であったのかという点です(日本の教育政策はコスト・ベネフィットの考えに乏しいのが問題だと思っています)

個人的な思い出ですが、私のクラスの場合心のノートは配られただけで一切使用することはありませんでした。

他にも、大津いじめ自殺事件(教育委員会制度に影響)、桜ノ宮高校体罰事件(橋本徹のやつですね)、池田小学校殺人事件(学校の防犯に影響)など、メディアのフレーミングが政策形成に影響をあたえたと考える事例はいくつも浮かんできます。

日本の教育を動かしてきたのは、「事故」と「自殺」と「殺人」とそれを極大化して報道するメディアかもしれない、と思いました。

地球の裏側の紛争で失われる罪もない人の命より、朝の通勤電車に飛び込んで失われる命より、学校教育の中で失われる、顔も名前も知らないたった一つの命の方を重く受け止めてしまうのはどうしてなんでしょうね。

その他も勉強になりました!

以上、 損得勘定とメディアの部分を中心にのべましたが、その他も大変面白い記述が見られました。

NHKに関する西田先生の語り口は率直にアツいな、と思いましたし(NHK のトピックだけ分量が多い笑)、「自民党はすごい」(p.95)も学者からはなかなか出てこない発言なのではないでしょうか。

大変恐縮ながら批判、というか疑問

ここまで私が良い、面白い、と思ったことを述べましたが、それだけではやはりブックレビューとしては不十分かもしれません。個人的に最近の書評は誉めるばかりで批判をあまり行わないのはどうなのか、と思っていますので、ささやかながら、批判というか疑問に思ったことを以下に述べたいと思います。

①日本は官僚国家だったか?

官僚国家だったのは昔のことです。

P.293

あらかじめお断りしておきますが、これは重箱の隅をつつくような指摘だとは自覚しています。

前回も取り上げた「誰が統治しているのか」「Who governs?」(ロバート・ダール)の問い。

本書の記述のみを読む限り西田先生は統治機構改革以前を官僚優位であったとみているようです。

たしかに日本において有力だったのは戦前戦後連続論・官僚優位論でした。本書で取り上げられている「国士型官僚」を描いた行政学者の辻清明、アメリカの政治学者のジョンソンが代表的な論客です。

しかし、1970年代以降、官僚優位論について疑問が呈されます。行政学では辻・村松論争として有名です。村松岐夫は、自民党政権下が長く続いたことによって、政治家の政策形成能力が向上した(族議員化)ことなどを理由に、政党優位論を唱えました。

今日、この論争に対する評価としては、辻が、戦後まもなくの政治を分析し、村松が長期政権を経た自民党を分析したという点で、異なった時期を扱ったと考えれば両方妥当といえるのではないか、という見解が示されています(曽我謙吾『行政学』2013有斐閣)。

個人的には、辻の研究には日本はまだ民主的な国ではないから官僚制の民主化が必要である、というようなやや啓蒙的な意識がみられるのが気になってしまいます。私の受けた講義の先生は、広くとらえれば村松の門下、系譜だったので、私も村松優位(政党優位)の認識を刷り込まれたのだとも思いますが。

しかし、もし政党優位論が正しいとすれば、実態としては政党優位であるのに、官僚優位であるという認識のもと、政治主導を目指す統治機構改革が行われたことになってしまいますよね……。

このあたりは待鳥聡史『政治改革再考』がめちゃくちゃ面白いです。私が政治学にのめり込むきっかけになった本です。

②ゆとり教育の評価

「学力の低下を生む」として評判の良くなかったゆとり教育ですが、実際には学力低下は観察されていないどころか、一部の項目においては改善されたことが知られています。

P.147

教育に関する言説は、政治に関する言説と同様に、イデオロギーにとらわれる傾向があり、語る人の立場を差し引いて考えなければならないと思います(これは自戒です)。

ゆとり教育の是非についてはいまなお論争があって、専門的に勉強していない私にそれを判断することはできませんが、理念としては賛成するが結果としては失敗だったのではないか、と考えています。

参考にしたのはやや古い本ではありますが、学力低下論争の当事者であった文科省のスポークスマン寺脇研と教育社会学者の苅谷剛彦の本を読んでそう考えました(根拠の詳細は書きませんがまた別でゆとり教育について書いてみたいと思っています)。

ゆとり教育による学力低下は観察されていない、という研究を読んでみたいです。

なお、本書では

学校、ずっと嫌いでしたよ。

P.148

との言葉があります。学校教育に携わるものとして忸怩たる思いになりますが、本音を申せば、私も学校はあまり好きではなかったし、教師である今もそうなので、実は共感します。

じゃあなぜ教師をやっているかと言われると、就活に失敗して飯を食うためになし崩し的にやっている、というのが客観的な理解です(死語ですがデモシカ教師と言われます)。

私は教師としてはアンモラルだと批判されることが多いのですが、たしかに非正規教員ゆえのシニカルな教育観を持っていると自分で思います。

例えば、子どもに「無限の可能性」はないし、教育でできることには限界がある、との考えです。

メディア・リテラシーの低さ、若年層の投票率の低下、少年犯罪、日本の国際貢献、いじめ、なんでもいいですがありとあらゆる社会問題の解決策として教育が取り上げられてきました。しかし、本当に教育は万能薬たりえるのでしょうか

あるいはメディア論的にかんがえるのであれば、教育を宣伝(プロパガンダ)、学校をメディアとしてとらえると、限定効果論が妥当するのでしょうか、強力効果論が妥当するのでしょうか。

おこがましいのは承知ですが、いつか西田先生のお答えを聞いてみたいと思っております。

③本書が想定した17歳とは

個人的な用途として高校の授業の参考にしたいと考えていたので、本書の副題「17歳からの民主主義とメディアの授業」に表れる17歳とはどのくらいを想定しているのか、本書のレベル感は重要でした。

率直に申し上げれば『ぶっちゃけ、誰が国を動かしているのか、教えてください』というタイトルから受ける印象としては、やや難しい、と感じました。

非常に勝手な理由ですので、制作サイドの方は聞き流して全く問題ないと思います。受け手の問題です。

私はやはり勤務校の生徒を基準に考えてしまいます。あまりよい表現ではありませんが、偏差値的にはmiddle -lowです。

勤務校の彼らが本書を読めるか、と言われると怪しいです。

例えば、彼らはまず、政治家と官僚を区別できません。両方、政治に関わる人ということで「政治家」ととらえてしまいます(しかし、この件は政治行政分断論的に物事を認識してしまう自分を相対化するきっかけになりました)。

国のトップに関して、大統領と首相という呼称をわけるのが、執政制度であるということもたぶん理解できていません。

生徒の能力のすべてを教師である自分の責任とするのは逆に無責任であると思うので、そうとまでは言いませんが、やはり自分の力不足を反省する日々です。

よくも悪くも投票がコストだと考えている人は、本書のような本をとることはまずありませんし

P.48

本書の想定した「17歳」のレベルは結構高めなのではないかと感じました。

しかし、ここは編集の方の妙があり、一問一答形式をとっているで、すべてを読みきることは難しくても、興味のあるトピックは読めるのではないかと思います。

終わりに

以上、ここまでで一万字です。

やっぱり書きすぎました笑

しかし、多忙のなかレビューを書きすぎてしまうほど、この本にはエネルギーがありました。

お付き合いいただきましてありがとうございました。

Twitterのフォローもぜひよろしくお願いいたします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?