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届かないかもしれない手紙

6年生が卒業していきました。

4月・5月・6月と本当に大変で、病みました。

自分が学んできたことを彼らに還元しようと必死になって、でも彼らには合わなくて。

多分、自分には担任が向いてないなあとつくづく思いました。(今も思っています。)

それでも彼らを見て、彼らに合うように修正していき、なんとか3学期にはそれなりに居心地が良いと感じていた人もいたみたいで、卒業間際には、とても寂しく思いました。

卒業式の度に思い出す話があります。

なぁ花本君

教師になんぞなるもんじゃないな

どんなに可愛がっても相手は卒業してゆくばかり

見送るだけの人生じゃ

卒業してしまえば次に会うのは何年も先

ヘタすりゃ2度と会う事もない

いったい教師というものは…

永遠に卒業できない

学校の亡霊のようなものなんだろうかの?

なぁ そう思わんか 花本君…

「ハチミツとクローバー」5巻 羽海野チカ


僕は、この「亡霊」を肯定的な意味で捉えることにしています。

卒業式が終わった後、教室に戻るとポツンと1人取り残されたような感覚。

あの感覚は、きっと人生で何度も味わえるものではない。と大事にしています。

エモい。ってやつです。

うまく文章にはできませんが、「葬送のフリーレン」からも同じエモさを感じています。いつか文章にしてみたいです。



去っていく彼らに何か贈り物を、と考えて「写真立て」を贈ることにしました。家によるけど、「写真立て」を持ってる子が少なそうな気がしたので。

全員が揃う日が片手で数えるほどしかなかったので、貴重な全員集合写真を入れることにしました。

手紙も添えて、、と考えたのですが、ふと写真の裏に手紙を書くことを思いつきました。

卒業式の日、「よかったらお家に飾ってね。」とだけ伝えて写真立てを渡しました。

手紙に気付くのは10年後かもしれない。

気付かずにゴミ箱へ捨ててしまうかもしれない。

そんなことも思いましたが、これでいいのだ。と思いました。

確かに、手紙をそのまま渡すとその場で喜んでくれて、涙を流す子もいたかもしれません。

それを見てまたこちらも嬉しい気持ちになるでしょう。

でも、僕には

こちらが時間をかけて、相手を想って贈った手紙は

「届かないかもしれない。」くらいが丁度いいと思ったのです。

もちろん、届けばいいなあと祈りはするけれど。

大人になって、届いた時に、友達同士で手紙を見せ合って飲みに行く約束でもしてくれたらいいなあ。

これって、僕にとっての教育のメタファーやなあ、って後から思いました。

今日蒔いた種が明日芽生えるかもしれないし、芽生えないかもしれない。

それならば意味がない!と種まきを止めるのはビジネスの考えで、

僕は、それでも種を蒔き続ける人になりたいなあと。


行方不明の手紙は、「デッド・レター」と呼ばれるが、決して死んでいるわけではない。それはある視点(コントロールセンター)から一時的に逃れただけで、いつの日か復活し配達される可能性がつねにある。とはいえ、その日が来るまでは(来るかどうかも分からないのだが)、行方不明の郵便は確かにネットワークからの純粋な喪失、死としてのみ存在する。

ジャック・デリダ 「存在論的、郵便的」


「亡霊」「死」と以前の僕ならネガティブにしか捉えられなかったのが、確実に別の見方もできるようになっている。と自身の成熟が少し進んだことをここに記して終わりにします。



P.S  届かないかもしない手紙は、卒業式の日に家で気づいた子が、クラスLINEで全員に拡散して、次の日にはほぼ全員に届いてしまったみたいです。ほんま、スマホ・SNSって邪魔やわあ。

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