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人生はビーズ細工かもしれない

私が小学生のとき、短い期間ではあったがクラスでビーズ細工が流行した。クラスきっての手先が器用な手芸好きの女子たちは、色とりどりのビーズを仕込んだケースを持ち歩き、休み時間のたびに小さなビーズを手際よく次から次へ糸に通し、かわいらしいブレスレットや動物のモチーフの作品を仕上げるのだ。手先が超絶不器用な私は興味の無いフリをしながら、その鮮やかな手さばきを内心忌々しい思いで横目でじっとりと眺めていたものである。

何故、突然に小学生の頃のビーズ細工を思い出したのかというと、人生もまたビーズ通しのようなものではないかと思ったからである。

人は生きてゆくなかで様々なものと巡り合う。人との出会い。好きな本、好きなアーティスト。挑戦したいこと、学びたいこと、なりたいもの、やりたいこと。その逆に、失敗や裏切り、妬みや哀れみ、憎しみや悲しみ。あれもこれもすべて人が生きる中で出会うものたちである。

思うに、これらのひとつひとつが実は小さな小さなビーズであったりするのかもしれない。目にも見えない分子のような、生涯で数えきれないほどのたくさんのビーズたち。これらで散りばめられた美しき世界の中で人は生きている。それぞれが優しい光や強い煌めきを瞬間、瞬間に放ち、様々な色合いをあわせもつ。

そして人は、それらを自分だけの細い糸に通す。数えきれない中から、ひとつ、またひとつ、指でつまんでは糸に通す。こうしていわばオリジナルのビーズ細工ができてゆく。首も肩も凝るし、繊細な途方のない作業ではあるけれど、それでも自分らしいビーズ細工をつくるため誰もが懸命に取り組んでいる。

私の場合、忙しなく生き急いできた性分のあまり、多くのビーズたちを、見過ごしてきたり、視野からいっそ追い出したり、まあ、そんなことをこれまで随分としてきたと思う。また、糸に通すだけの勇気が自分に足りなかったこともたくさんあったと思う。

当時は全く気付かなかったが、今となってはもう手に入れることの出来ない、澄んだ輝きを放つ私あてのビーズもあった。もしあのとき、私がこの糸に通していたならば、いまと異なる現実がここに宿るということもあったかもしれない。今更そんなことを考えてみたところでどうにもならないと自分に言い聞かせるが、あのころの自分の未熟さに対する悔恨の念を私は禁じ得ない。過去を振り返ることは自分らしくないと諫めてみるが、どうしたってこのような想念が頭から離れないときがたまにはある。これもすべて春の兆しのせいかもしれない。

世界はいつだって理不尽であり思いとおりに行くものでは決してない。しかし、その一方で目に見えないたくさんのビーズたちで世界はいつだって満ち満ちている。ビーズを糸に通すこの手をとにかくも私たちは止めてはならないのだ。


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