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Fall in love

「ちゃった」まさに「ちゃった」だ。
熊崎芽依は恋に落ちちゃったのである。
4年一緒に働いてきた同期の富原涼太のことが頭から離れない。集まりに涼太が来ると分かるとわけもなく胸が高鳴った。
今更どうこうなるつもりもなかったし、そういう対象として見ることはないだろうと芽依は思っていた。
なのに、なのに…。
恋に落ちちゃったのだ。
きっかけはきっとあれだな。と芽依はそんなに遠くもない日のことを思い出した。

8月の頃。
「今日は遅いんだね。」
印刷室で声をかけてきたのは、向こうもきっと残業であろう涼太だった。高身長でイケメン。なのにちょっと天然が入っている涼太はそのキャラから職場の同僚や上司からも好印象をもたれている。いつもはきっちりスーツを着こなしている涼太だったが、その日はジャケットを脱ぎ、ネクタイも緩めていた。
「そうなの。会議資料作るの頼まれちゃって。そっちもこの時間にいるなんて珍しいね?」
「来週提案する企画の内容練り直してた。考え過ぎてこれでいいのか逆に心配になってきた。」
涼太は今年とある企画のチーフを任されていた。チーフともなればやはりいろいろ大変なことがあるようで、会議が終わるたびに企画メンバーと練り直しをしているのをミーティングルームのガラス越しに見たことがある。芽依が「何か手伝えることある?」と声をかけたのも一度や二度ではない。
「それはもう限界が近い証拠でしょ。早く帰った方がいいんじゃない?」
「んー、でも何かやり残したことあるような気もするし、芽依もいるし…。俺帰っていいのかなぁ?」
頭を抱えて悩む涼太は、仕事は大変そうだが、やりがいを持って楽しんで仕事をしている。と少なくとも芽依には見える。前に芽依が今の涼太と同じようなポジションに立った時は、今の涼太のようには働けなかった。いっそ壊れてしまえれば楽なのに。と考えながら電車に揺られて出勤していた。だから「しんどい」と言いつつ、楽しそうに仕事をする涼太が羨ましかったし、悔しかった。これは内緒の話。

ぐぅううううーー

突然、印刷室にお腹の音が響いた。芽依もお腹は空いていたが、自分のお腹から発された音ではない。ということは…。涼太の方を見ると目線を外し、芽依から顔を背けているが耳が真っ赤だった。
「ほら、うちも仕事終わったし、今思い出さないってことはそんなに大事なことじゃないって。帰ろ?お腹の虫も泣いてることだし。」
と半ば無理矢理な理屈を捏ねて涼太を説得した。
「………わかった。」
「よし、帰ろ帰ろ。」
これでよかった。と芽依はほっとした。頑張り過ぎて会社を去っていった同期や先輩たちを何人も見てきたからだ。これ以上壊れていく人を見たくない。心強い同期ならなおさらだ。よかった。よかった。と思いながら印刷室を出たが、涼太が後ろからついてこない。不審に思って振り返ると、印刷室の中でしゃがみこんでいる涼太がいた。
すっと頭の中が冷えた。「ストレスが原因で突然動けなくなることがあります。」と会社で行われたメンタルケア講習で配られた資料に書いてあった文が思い出された。まさか…。
「涼太…?大丈夫?」
「……」
返事が返ってこない涼太に焦っていると涼太が小さくつぶやく声が聞こえた。
「……ない。」
小さすぎて聞こえない。
「え?何?どうしたの?」
「動けない…」
「は?」
「お腹減って動けない…」
へにゃっと笑う涼太に肩の力が抜け、笑いの波がくつくつと込み上げてきた。芽依の笑いの波がひと波超えたところで退勤した後にそのままご飯を食べに行くことにして、芽依たちは会社を後にした。
 ちょうど金曜日だったこともあり、適当に呑み食いできる居酒屋に入って遅めの晩ご飯になった。
「そういえば、今日出社する時に読んでた本が面白くて、危うく駅降りそびれるところだったんだよなぁ。」
「へぇー、涼太って本読む人なんだね。意外。」
「なんだよそれ」
「だって、本読んでる人の割には日本語が渋滞してること多くない?」
「う…、それを言われると反論できねぇ。」
「どんな本読むの?」
えーっと…と挙げられた本の題名は芽依も聞いたことのあるものだったが、なんとなく手をつけたことのないジャンルのものだった。
その後も、お互いの出身地のことや趣味の話など話題は尽きなかった。今までも話したことがないわけではなかったがこんなに会話を重ねたのは初めてだった。しかし、時には笑い、時に驚き、涼太との会話は芽依にとってとても心地よくて楽しい時間だった。帰りも涼太との会話を振り返って思い出し笑いするほどだった。
 夜の色っぽいことがあったわけでもなく、ただただお互いの話をしただけだったが、その楽しくて心地よい時間で「富原涼太」という人物に惹かれたのだ。その後もなぜか2人で担当する仕事を割り振られたり、食事に行ったりする機会があった。そのうち気づけば涼太のことを考えている時間が増え、会社でも目で追ってしまうことに芽依も気づいた。
「あれ…?もしかして涼太のこと、気になってる?」
単純接触効果と言われる関わる機会が多いと相手に好意を抱きやすいという現象があるらしいが、芽依には効果が高かったようで涼太に恋心らしいものを抱くまでにそう時間はかからなかった。

冬。
同僚たちと飲みにいくことになった。SNSを開けば「結婚しました。」「新しい家族が増えました」といった嬉しい報告が多くなってきた。芽依の知り合いでも結婚してパパママになったものがいる。そういう歳になったんだなと感傷に浸るのはこんなときだ。歳の近い年代が集まれば自然と話は恋愛のことになるのはお約束である。
「芽依はー?いい人いないのー?」
とお酒が入ってとろんとした顔になった先輩から声がかかった。
「うーん、いないですねぇ」
「えー、そうなの?」
「だってそもそも出会いがなくないですか?」
「たしかにねぇ…」
横で猫のように甘えてくる先輩はちゃっかり彼氏持ちである。芽依も一緒に遊んだことのある取引先の営業マンといつのまにかくっついていた。「芽依ちゃんいい子なのになぁ」と猫加減が増してきた先輩の腕をするりと外しつつ、「今日は彼氏さんお迎え来てくれるんですか?」と話を振ると「ちょっと聞いてよぉー」と愚痴というベールを被った惚気話が始まり、話題は芽依から先輩に移った。ほんと困るよねーと言う先輩の顔は幸せがこぼれているようだった。きっと本人は気づいていないだろうが。そんな恋ならしてみたいなって思っちゃうよね。と内心でつぶやいた。
「え!何お前別れたの?!」
と同じく恋バナをしていたであろう男子達でのグループから大きな声が上がった。
「なんで別れたの?お前の彼女めっちゃかわいい子だったじゃん!」
「まぁ、いろいろあったんですよ」
苦笑いをしながら答えていたのは涼太だった。そんな曖昧な答えで周りが満足するはずもなく、なぜ別れたのかを聞き出すべく躍起になっていた。イケメンで仕事もできる男の恋愛事情はその場にいる者の注目を集めるのには申し分なく、参加者を巻き込んだ。今回来てる女子の中でも涼太を狙っている者がいるはずだ。その強者達の中に入ろうとは思わないが、現在進行形で気になっている男の恋愛事情は知りたい。そこまで興味を持っていない風を醸し出しながらも芽依の耳もダンボになった。
「俺、前の彼女と付き合ってて分かったんですけど重たい女の子は無理でした。」
「お、というと?」
「付き合ったらずっと一緒にいたいっていう女の子いるじゃないですか。俺あれダメでした」
重たい女はダメ。心のノートにしっかりメモしておく。今さら涼太と付き合えるとは思っていないが参考までに、ね。1人趣味に没頭する時間がほしい。くりっとした目の方がタイプ。どちらかと言えば彼女に甘えたいなどなど。優秀な調査員のおかげで涼太に関する情報が集まった。
「俺、しばらく彼女とかいらないなぁ。」
ざわざわと騒がしい店内でなぜか涼太のその声ははっきりと芽依の耳に残った。
「えー、なんでだよー?」
だって…と続けた涼太の声がふいに耳に届かなくなった。恋愛の幕が降りた時点でよく聞くセリフ。たいてい本心からの言葉ではなくその場のノリで使われることが多い。もしくはタイプの子に出会ったらその子を振り向かせようと必死になって恋をする。でも、今涼太が発した言葉に嘘はないように感じた。女の勘ってやつだ。芽依の経験上、こうなった男を無理矢理振り向かせても長続きしない。素敵な夢を見ている途中に叩き起こされたような現実に引き戻される感覚を芽依は感じた。
 
 飲み会は楽しかった。だが、涼太の言葉が頭から離れない。少なからず芽依の気持ちは沈んでいた。もともと告白する勇気はない。まして「彼女は当分いらない」といった男には無理だ。告白に失敗して涼太と気まずくなるくらいなら、今のまま同期として涼太の隣にいれるだけで十分だ。
「だけどなぁ…。」
涼太と過ごしたあの時間を心地いいと思っていたのは自分だけだったのかという気持ちとそもそも大したアプローチもしていないくせに涼太に振り向いてもらおうとしていた自分への思い上がりを恥じる気持ちなどがないまぜになって芽依はなんとも言えない気持ちを抱えながら歩いた。いつもはそんなことしないのに帰りにコンビニに寄って追加の缶ビールを買って家に帰り、勢いに任せて缶ビールを煽った。まだ残っている心地よい酔いのふわふわとした感覚と目の前がぐるぐる回る悪酔いの感覚が芽依を襲った。
その感覚がまるで今の芽依の心の中のようで自嘲気味に笑う。
「ヘタレめ…。」
ベットに倒れ込んでそう呟いてからの記憶は芽依に残っていなかった。

 新年もあけて芽依が抱えていた名前のつけ難い感情にケリをつけられた頃。飲み会で猫のように芽依に甘えてきた先輩がおめでたになったり、おめでたの先輩の代わりに臨時社員が入ったりと明るいニュースが会社のフロアを駆け巡った。芽依もふとした時に涼太と重ねる会話を楽しみにしながら仕事に打ち込む日々を送っていた。しかし…

「ちゃった」まさに「ちゃった」だ。
熊崎芽依は気に入られちゃったのである。色んな意味で。
芽依をターゲットとしてロックオンしたのは先輩の代わりに入ってきた臨時社員の水島優弥だ。年齢は芽依の2個上で、元は芽依も聞いたことのある有名会社で働いていたようだ。
 顔はそんなに悪くない経歴がいい歳上の男に気に入られた。これだけ聞けばいい話のように聞こえるが、芽依の方からすれば結構なレベルでいい迷惑である。
何が原因か、どうして名のある有名会社に勤めていられたのかと疑うほど仕事ができない。以前の会社では使える人材だったのかもしれないが、芽依達の会社では完全にお荷物だ。なのに自分は仕事ができる人間だと思い込んでいる。さらに他人から自分のやり方について何か言われるのが嫌なのか、ミスを指摘するとゆでダコのように真っ赤になって怒るのだ。それが文字の打ち間違いであっても…。仕事を始めて「水タコ」というあだ名が広まるまでにさして時間はかからなかった。
「ねぇ、聞いて。さっきあの水タコに会議で使うサンプルを見たいから場所を教えてって聞いたら、まだ確認が終わってないから見せられないって言われたんだけど!何回目?サンプル届いたの1週間前だっつうの!」
「出た出た。水タコの収集癖。」
タコには気に入ったものを収集する習性があるそうだが、水島の行動と一致しすぎて水島はタコの化身で有名会社からではなく、海の底から来たのではないかと本気で疑ったものである。
遠くで芽依の名前を呼ぶ水タコ、いや水島の声が聞こえた。芽依は聞こえないふりをしておくことにした。
「芽依ー。タコが呼んでるよ。あのタコ大事なコレクションがいなくなったから必死で芽依のこと探してる。あいつそろそろ怒り出すよ。」
同期の朋花が給湯室にひょっこり顔を出した。
「芽依は特にお気に入りだもんねぇ」
同期が心底同情するという表情で言った。
「勘弁して、ほんとに…」
「今あいつが致命的なミスしないで済んでるのは芽依のおかげだから。適当なところでサルベージするよ。」
「助かる。よろしくね」
軽口は叩くけど芽依が困っていることをちゃんと分かってくれている同期たちだ。彼女達がいなければ芽依はとっくにつぶれていただろう。
気合いを入れなおし、120%営業用の笑顔の仮面をつけて芽依は水タコの元へ向かった。
「何かありましたか?」
「あぁ!熊崎ちゃん!探したんだよ。ちょっと確認したいことがあってさ…」
芽依が声をかけるとイラストのタコのように口を尖らせていた水島がパッと笑顔になってすり寄ってくる。仕事ができるというプライドはどこにいったというほど些細な確認事項を芽依にしてくる。湧き上がってくる嫌悪感を必死にいなしつつ、淡々と対応した。
「ありがとう!さすが熊崎ちゃんだね。頼りになるよ」その言葉で芽依が水タコから解放されたのは時計の長針があと少しで一周するかというと頃だった。誰か「ちょっと」の時間の定義を教えてほしい。
「サルベージに行く」と言った同期達もクライアントの急な対応に追われたり、上司の長い話を断ち切れずにいた。仕事のできない人に限って話が長いのはなぜなのか?
 今の時間があったらどこまで仕事が進んでいただろうかと暗澹たる気持ちを抱えてデスクに着く。社用のパソコンの横に「ファイト!」と書かれた付箋とともに小さなチョコが置いてあった。誰からだろうと周りを見渡すと涼太と目が合った。手振りで「チョコ食べてがんばれ!」と言っている。周りにバレないように気をつけながら口に入れたチョコレートはいつもより甘く感じた。涼太のおかげで芽依のささくれていた心が少しほぐれて仕事に集中することができた。

 その後も水タコが入社してくる前よりも増えてしまったストレスを趣味や飲み会などでガス抜きしつつ、たまにある涼太との関わりを楽しみに日々を過ごしていた。
なのに。
「熊崎ちゃん、ちょっといい?」
退勤まであと5分というところで水タコに絡まれた。
「何かありましたか?」
「いやぁ、悪いね。ここの修正手伝って欲しくてさ。」
「…今からですか?」
「悪いね、今日中に終わらせたいんだ。ここなんだけどさ…」
いいですよなんて一言も言っていないのに勝手に話を進めていく水島。
「あの、今日私予定があるんですけど…」
「そうかぁ。その予定ずらせないやつ?友達との飲み会ならまた別な機会にしてもらえないかな?」
予定があるなんて嘘だったが、プライベートの時間を大切にするこのご時世にとんでもない発言をぶち込んできたこの先輩に、芽依は一瞬呆気に取られて何も言えなかった。
その一瞬につけ込まれ、芽依はその日サービス残業をするはめになった。
残業してまですることか?と言いたくなるような修正、否、水島のこだわりに付き合わされて早1時間半。挙げ句の果てに企画書の修正とは全く関係のない書類のホチキス留めを頼まれた。さっさと終わらせて帰りたいのに水島は芽依に話しかけながらダラダラと仕事をしている。さっき芽依はこっそり同期の朋花に「このメールを見たら速攻で電話をかけて話を合わせて欲しい」とSOSのメールを送った。
早くメールに気づいてくれと念を送りながらじりじりと時間が進むのを見ていると水島が妙にそわそわしながら声をかけてきた。
「熊崎ちゃんってさ、あの子に似てるって言われない?」
水島が名前をあげたのは、今飛ぶ鳥を落とす勢いで名前が売れている女優の名前だった。
「いえ、初めて言われました。」
極めて端的に、かつ冷淡さを声に混ぜて返す。
「えぇー、ほんと?すっごく似てると思うんだけどなぁ。ほら、目元のあたりとか。」
突然体を寄せて芽依の顔を覗き込んできた水島に芽依は思わず体を引いた。
「うん、似てる。かわいい。」
相手が相手なら舞い上がるようなシチュエーション、タイミング、セリフだっただろう。でも芽依の胸にはときめきではなく嫌悪感が広がった。悪寒まで走った。それと同時にこの無意味な残業はこのためだったのだと、芽依に自分を意識させようとするためだったのだと芽依は悟った。好意を向けられて気持ち悪いと思うことがあるのだということを芽依は初めて知った。
「…そんなことないですよ。」
人の予定無視して無意味な残業に付き合わせるような男を好きになるやつがいるか、馬鹿。
より声の温度を下げて返事をしたつもりだが、水島には伝わらず、しかも芽依が照れ隠しをしていると勘違いしたようで口早に芽依のことを褒める言葉を並べた。もういい加減にしてくれと思った時に水島が
「熊崎ちゃんって、付き合ってる人いるの?」
と聞いてきた。こいつに1番触れてほしくなかった話題だが、この質問をかわす返し方を芽依は知らなかった。
「…いませんよ。」
「えぇ!そうなの?熊崎ちゃんかわいいからもう彼氏とかいるのかなぁって思ってた。」
聞くな。もう聞くな。お前が私の心の大事な部分に触れるな。お前が触れていい場所じゃないんだ。
心の中にどんなに固い防御の砦を築いても、言葉はいとも簡単にその砦を超えて芽依の心の大事なところを突いてくる。
「じゃあ、好きな人とか、いる?」
映画館のスクリーンに映されたように頭の中でいつかのへにゃっと笑った涼太の顔が思い浮かんだ。
今まではまだ言葉にしていないから自分でも「そんな気がする」だけですんでいたのに。自分でも気づかないふりをしていたのに。言葉にしてしまったら…。
「………いますよ。」
言葉にしてしまったから、芽依の気持ちは本当になってしまった。
――涼太が好き。涼太の笑った顔が好き。涼太の声が好き。涼太が紡ぐ言葉が好き。涼太が纏う雰囲気が好き――。
本当になってしまった芽依の気持ちが溢れて止まらない。今まで見て見ぬふりをしてきた反動か、芽依の胸に浮かんだ「好き」という気持ちは芽依の心、体の隅々まで駆け巡った。
「そっかぁ。そうなんだね。」
何を勘違いしたのか、水島はにやにやと笑みを浮かべながら頷いている。芽依の中ではっきりとしたものになってしまった好きという感情の輪郭をなぞりながらお前のことじゃないと強く思う。大事にしまっていた気持ちに名前をつけられたこと、そのきっかけになったのがよりにもよって水島だったことが悔しい。
スカートのポケットに入れたスマホが震えて着信が来たことを芽依に伝える。
「ごめん!遅くなった!どういう状況?」
待ちに待った朋花からの電話だ。家族が急に家に来たという程で話を合わせてもらい、ようやく芽依は水島との無意味で迷惑な残業から解放された。
手早く荷物をまとめ、飛び出すようにオフィスを抜け、ようやく1人になれたエレベーターの中に
「もうちょい電話が早かったらなぁ」
という芽依の独り言が響いた。

それから1週間後。
「芽依、こないだのサービス残業の時、水タコとなんかあった?」
給湯室で朋花が気まずそうに聞いてきた。
「水タコと?別に何もないよ。あ、好きな人はいるのか?とか聞かれたけど。」
「あんたそれなんて返したの?」
「え…、「います」って言ったけど…?」
「え!いるの!マジか!ほんと?え、待って。まさか水タコじゃないよね?」
「なわけないじゃん!!お金積まれたって何したって人の予定ガン無視して残業に付き合わせるあのタコ好きになるわけないし!」
「だよね。あぁ、よかった。」
芽依の好きな人は誰だろうとあれこれ考えを巡らせている朋花を見て芽依の胸にもやもやと嫌な予感らしいものが広がる。
「なんでそんなこと聞くの?」
「確認と注意。最近水タコが芽依が自分に気があるらしいみたいなことをちょろちょろこぼしてるの聞いてさ。あいつ、外堀から埋めようとしてるよ。」
嫌な予感らしきものが嫌な予感に変わって芽依の心を覆っていく。
「あぁー、最悪。ほんと最悪……。」
「なんで馬鹿正直に答えちゃったのよ。」
「だってなんて言ってかわせばいいのか分かんなかったんだもん…。」
「あの水タコ相手にそんな気使わなくったっていいじゃん。」
「あぁー、もう、最悪……。」
「まぁ、芽依ちゃんは真面目だからなぁ。」
うう…とうなだれる芽依の肩を叩きながら朋花が声をかける。
「全く。水タコのあの自信はどっから来るんだか…。で、相手は誰?どこの人?この際嘘でもいいから違う男だって話流しとかないとあんた水タコに捕まるよ?」
「それはやだ。でも…」
こんな形で涼太が好きだってことを知られたくない。本来なら胸の奥にしまってときどき眺めるだけでよかった気持ちなのだ。
「ほら、知られたくない気持ちも分かるけど。あたしとしてはあんたが水タコに絡め取られる方がいや。話流すの手伝ってあげるから。どういう設定にする?」
「……高校の同級生。こないだたまたま会って…。」
どうしてこれが水タコ相手に言えなかったのか。涼太とは全く違う架空の「芽依の好きな人」が今作り出されている。芽依の心が「好きだ」と認めたのは涼太なのに、これから芽依の周りでは勝手に自分に好意があると勘違いしている水島と居もしない高校の同級生が芽依の好きな人として知れ渡る。サイズの合わない椅子に座ったような心地の悪さを感じる。
それでも朋花は芽依の本当に好きな人を噂で流すようなことは促さなかった。だから「どういう設定にする?」と聞いたのだ。駆け引き上手な女はここで本当に好きな人の噂を流すのだろうが、芽依がそういうことは嫌がると知ってくれているのだ。そういう同期がいることが芽依にとってはありがたかった。

「今日は遅いんだね」
いつかと同じセリフをいつかと同じ印刷室で涼太が芽依にかけてきた。
「「今日も」ね。無駄な時間取られちゃって仕事が終わらなくて…。」
今日もまた水島のちょっとじゃない「ちょっと確認したいことがあるんだけど」の餌食になった芽依は残業して自分の担当の仕事をこなしているのだ。当の水島は退勤時間が来たらさっさと帰っていった。
「あぁ、水島さんね…」
涼太も苦笑気味だ。芽依は水島に変に気に入られちゃったが、涼太は涼太で変にライバル視されちゃっており、何か思うところがあるようだった。
「今日有川誠の新刊買って読みたかったのに…。」
いつか涼太が教えてくれた作家の本がちょうど昨日発売された。涼太に教えてもらったというおまけがなくてもその作家の作品の虜になった芽依は新作が出るのが今か今かと待つ程ファンになった。昨日も水島に捕まって本屋に寄ることができなかったのだ。今日こそはと思っていたがそれも難しそうだ。小さくため息をついた芽依の耳に得意げな涼太の声が届く。
「俺、昨日手に入れたもんね。新刊の「濡れ衣」。」
「え!いいなぁ!もう読んだの?」
「一気に読んじゃったよ。おかげで今日寝不足。」
「うらやましい…。おもしろかった?」
「めっっっっちゃおもしろかった。芽依もきっと好きだと思うよ。貸してあげようか?」
他愛のない話ではあったが、涼太と話せたことで芽依の気分もちょっとだけ晴れた。くすぐったいようなそれでいて息が詰まるようで喉の奥にちょっとだけ力が入る。残った仕事も頑張れそうだ。その時、「割って入る」とはこういうことかと思うような声が割り込んできた。しかもその声は今日はもう聞かなくてすむはずの男のものだ。
「あれ?熊崎ちゃんまだ残ってたの?」
芽依の勤務時間を奪い、さっさと退勤したはずの水島が印刷室の入り口から顔を覗かせていた。
「水島さん…」
「いやぁ、忘れ物しちゃってさぁ。熊野ちゃん達が残っててくれてよかったよ。」
本当に失礼で最低な男である。
「なんの仕事してるの?僕、なんか手伝おうか?」
着ていたコートを脱ぎ、本当に手伝おうとする水島に焦って声をかける。
「いや、大丈夫です。ほんとにもう帰れるんで!」
「そう?まぁ、ここで富原くんと楽しそうに話してたくらいだもんね。」
いつも腹の立つことしか言わないが、今日はなんだかいつにも増して腹が立つ。心なしかザラザラと嫌な感じがする。
「そうだ。全然関係ないんだけど、富原くんって今フリーなんだよね?」
「……そうですけど……」
一体何を言い出すんだ、こいつはと芽依も涼太も先が見えないまま黙る。
「芽依ちゃんは狙っちゃダメだよ。好きな人がいるから。」
ずいっと芽依のそばに寄って、芽依を見下ろす水島は笑顔なのに目が笑っておらず、得体の知れない何かを相手にしているようで心地が悪い。
「ね、芽依ちゃん?」
異様な目、急な名前呼びに芽依の体が強張る。
「なんだか高校の同級生が好きって言ってるらしいけど、僕はちゃんと知ってるよ。照れ隠しだもんね。」
は?何を言っているんだ、こいつは?
「芽依ちゃんはほんとは僕のことが好きなんだもんね。そんなとこもかわいいよね。前に一緒に残業した時にそう言ってくれたもんね。僕はちゃんと覚えてるよ。」
やめて。ちがう。お前じゃない。
「職場でそういうこと言うなんて大胆だなってびっくりしたけど、僕はすごく嬉しかったよ。芽依ちゃんも同じ気持ちなんだって。」
――気持ち悪い。怖い。芽依が水島に対して抱いてる思いが今明確になった。
「だから、富原くんは芽依ちゃんのこと狙っちゃダメだよ。芽依ちゃんは僕のだから。」
「っやめてよ!!」
たまらず大声が出た。言葉が溢れてくる。
「やめてよ!私はあんたの「好きな人いるの?」っていう質問に「います」って答えただけ!「あんたが好き」なんて一言も言ってない!」
やめてよ。よりによって涼太にこんなとこ見られたくないのに。大事にしまっていた恋を引きずり出されて挙げ句の果てに職場に撒き散らして。
「私のどこを気に入ったのか知らないけど、私はあんたのこと好きだなんて1ミリも思ったことありません!」
迷惑ですと言葉を投げつけると、目の色が変わった水島が大声で怒鳴った。
「そんなわけないだろ!」
オフィスに異様な空気が流れる。まだ残業で何人か残っていた社員が何事かと印刷室の様子をうかがっている。さっきの大声とはうって変わって猫なで声で芽依をなだめるように水島が芽依に声をかける。
「そんなわけないでしょ、芽依ちゃん。せっかくだから富原くんに伝えてみんなにも知ってもらおうよ。僕と芽依ちゃんは付き合ってるんだってこと。」
同じ言語を話しているのに、話が通じない人間がいることを芽依は、今身をもって理解した。何を言っても水島は都合のいいようにとらえ、話を進めていく。どうしよう、どうしたらこの状況を脱することができる?必死に頭を回すが、名案が閃く気配は全くない。
「水島さん、芽依にいつ告白したんですか?」
涼太が興味深々と言った顔で水島に聞いた。じりじりと芽依に近づいていた水島が涼太の方を向き、さも当然のように答えた。
「告白なんてしてないよ。そんなものわざわざしなくたって僕と芽依ちゃんの気持ちは通じあっているからね。」
「水島さん、それじゃダメですよー。」
 ぞっとする発言をした水島に、さもいい後輩の雰囲気をまとった涼太が言った。
「世の中の女性はきちんと言葉にしてもらったほうが嬉しいらしいですよ。俺らだってちゃんと伝えてくれた方が嬉しいじゃないですか。」
「そうなの?」
そうなんですよとニコニコしていた涼太の雰囲気がすっと引いたのを芽依は感じた。表情はそのままなのにそれまでのおどけた様子が一瞬でどこかにいった。
「あー、よかったぁ。水島さんがまだ芽依に告白してなくて。」
「え?」
「告白も返事もまだってことは、まだ間に合いますよね?」
「は?」
「ほんとはこんなとこで言いたくなかったんだけど、芽依、俺、お前のこと好き。だから付き合ってくれませんか?」
 芽依をまっすぐ見つめて涼太が言った。展開の方向と速さに芽依の方が対処しきれなかった。好きって言った?本当に?いやでもこの状況なら芽依を助けるための嘘の可能性が高い。この状況で告白くるなんてありえない。涼太も芽依と同じく水島の奇行に戸惑っているはずだ。何とかこの状況を脱するために、涼太が助け舟を出してくれているのだろう。ぐるぐると回る頭では整理がつかず、返事ができずにいると水島が慌てた様子で割り込んできた。
「それはだめだよ、富原くん。芽依ちゃんは僕と付き合ってるんだよ?」
「でも、芽依から明確な返事はないんですよね?ならここではっきりさせましょうよ。」
「ふん、仕事の時もそうだけど大した自信家だね、富原くんは。芽依ちゃんを振り向かせられると本気で思ってるなんて。いいよ。芽依ちゃんは必ず僕を選ぶけど、僕のこと恨まないでね。」
「お互い様ですよ。」
「ほんと、かわいくない後輩だね、君は。さぁ、芽依ちゃん。ちょっと恥ずかしいかもしれないけど、富原くんに遠慮なんかしなくていいからね。芽依ちゃんの本当の気持ちを富原くんに伝えてあげてよ。」
こんな時ですら、水島は自分が芽依のことをどう思っているかを伝えはしないのだ。本当に最低な男だ。ただ…。ただ、この最低な男のおかげで芽依は涼太に自分の気持ちを伝えることができる。水島と付き合っているという天地がひっくり返ってもあり得ない噂や架空の同級生ではなく、涼太が好きだと伝えられるのだ。涼太からすれば話に合わせただけの冗談だろうし、きっとこの印刷室を出たら「さっきの冗談だから。ごめん。」と謝られるのだろう。それでも涼太に想いを伝えられることができることに、その機会をくれたことにだけ水島に感謝した。
「私は…」
緊張でののどが渇いている。声が少しかすれた。この想いが正しく涼太に伝わらなくとも、それでも伝えられえるのだ。芽依の気持ちを。目線を上げると妙な自信を顔に浮かべ、興奮した様子の水島と本当の気持ちまでは読み取れないが、真剣な顔をした涼太が見えた。二人とも芽依からの答えを待っている。

 「私が好きなのは、涼太です。水島さんは好きじゃありません。」

「へっ?」
 水島の間抜けな声が印刷室に放りだされた。
「あっはは、あれ?聞こえ間違いかな?今好きじゃないって聞こえたんだけど。やだなぁ、芽依ちゃん。こんな時に名前間違えないでよ。まぁ、そんなところもかわいいんだけどね。」
 だんだん赤くなりながら、早口で水島がまくしたてる。慌てふためく水島をよそに涼太が芽依の隣に立った。
「先輩、往生際が悪いですよ。芽依は俺を選んでくれた。」
「いや、そんなはずは…、だって芽依ちゃんは僕のこと好きなのに、なんで?そうだよ、芽依ちゃん、なんで?どうしてそんな嘘つくの?芽依ちゃんは僕のこと好きでしょ?」
ぶつぶつとつぶやきながら芽依のブラウスの袖を水島がつかんできた。その異様な雰囲気に芽依が恐怖で動けなくなっていると
「俺の彼女に触らないでもらえます?」
とびっくりするほど冷たい声がして、涼太が芽依を守るように水島の前に立った。
「それと、自分の仕事は自分でしてください。資料のホチキス止めとか議事録の書き起こしとか簡単にできますよね。あの有名な会社で超優秀だった先輩なら、後輩の力を借りるんじゃなくてむしろ後輩の助けになってくださいよ。今のままだと無能な先輩にしか思えないんで。」
かっこいい先輩でいてくださいよ。と言い放つと涼太は芽依の手を取って印刷室を出ていった。印刷室を出ると蜘蛛の子を散らすように様子をうかがっていた社員が自分のデスクに戻っていく。何も聞いていない風を装っているが、ここまでの流れを見ていたのがバレバレである。そんな中で同期の朋花が親指を立ててgoodポーズをしていた。ウインク付きで。

手を引かれたまま、黙って二人で廊下を歩いた。休憩スペースの前まで来ても涼太が足を止める気配はなかった。水島とのやり取りや涼太からの言葉、一気に巻き起こった状況にぼうっとしながら芽依は涼太のあとを歩いていた。一気に起こりすぎてこの出来事は夢なのではないかと思った。冗談とは言え好きな相手から告白され、それに答えた。そして今その相手に手を引かれながら歩いている。
「涼太…?どこまで行くの?」
何も言わない涼太に声をかけると、さっきまでの冷たい雰囲気はどこに行ったのかと思うほどあたふたしながら振り向いた。
「あっ、ごめん、なんかもうほかの事考えられなくて…。あれ?なんで休憩スペース来てるんだ?」
どうやら無心でここまで歩いてきたらしい。あれ?あれ?とあわてながらもまだ手は繋いだままだった。
「あの、涼太…、手…。」
「え…?あ!ごめん!ごめん!ずっと繋いだままだったの気づかなかった!」
と言いながらパッと手を離す。夢はこれで終わりだなと離れていく涼太の手を見ながら芽依は思った。これからはまた心地のいい同期として関わっていくのだ。今日のことも何年後かに「あんなこともあったよね」とお互いネタとして笑いながら話すようになるのだろう。この気持ちはまた心の奥の大事な場所にしまっておこう。
「なんかごめんね。巻き込んで。涼太がいてくれて助かったなぁ~。」
いつもの声、表情を意識しながら話しかける。
「いやぁ~、びっくりしたなぁ。あんなことになるなんて。てか、水島さんってあんな感じにもなるんだね。ちょっと怖かった。」
「俺もびっくりした。どんどんヤバい感じになってって俺も実は怖かった。」
「そうなの?全然そんな風に見えなかったよ?」
「マジマジ、ちょっと足震えてた。」
「うっそだぁ。」
ああ、よかったいつもの涼太だと思いながら、いつものような会話に心が休まる。
「でも、あの助け舟、ほんとに助かった。よく思いついたね、告白するふりするなんて。冗談でも嬉しかったぞ、富原くん。ありがとう。褒めてつかわす。」
 おどけた要素も混ぜて、重くならないように感謝を伝える。
オフィスに戻ろうと涼太に背を向けた時、背中から涼太の声が追いかけてきた。
「ほんとに冗談だと思ってる?」
「え?」
「さっきの告白、俺は冗談じゃないよ。」
振り返るとさっきと同じように真剣な表情の涼太が真っすぐに芽依を見つめていた。
「ほんとは言うつもりなかったんだけど、水島さん見てたらなんか…、たまんない気持ちになって。最近芽依にいい感じの人がいるって噂も聞くし。芽依が誰かの彼女になるって思ったらなんかどうしても我慢できなくて。」
「嘘…」
「嘘じゃないよ。あんな流れのあとで信じられないかもしれないけど、俺、芽依が好きなんだ。」
 いつかのへにゃっとした顔で涼太が笑う。
「芽依は話合わせて冗談で言ってくれたかもしれないけど、俺が好きって言ってくれて嬉しかった。もういい感じの人いるらしいから無理かもだけど、芽依の彼氏役できて嬉しかった。」
冗談だと思っていた告白が本当の涼太の気持ちだなんて信じられなかった。こんなことがあるのかと芽依は少しの間言葉が出なかったが、思わず言葉が口からこぼれ出た。
「私も涼太のこと好き。冗談じゃなくて。最近いい人ができたっていう噂の方が嘘。水島さんから何とか逃げるために流した嘘。私ほんとは、涼太が好き。だから、もしよかったら、」
私と付き合って?と続けようとした芽依を涼太が突然抱きしめた。
「そこから先は俺に言わせて。冗談とかじゃなくて、俺と付き合ってくれませんか?」
耳元から涼太のささやく声がする。夢みたいな言葉とそのあたたかな声で芽依は目の奥がつんと熱くなった。もう芽依の気持ちを抑える必要はないのにあふれる何かを抑えるようにのどに力が入る。小さく息を吸うと、涼太の匂いがした。
「…はい。よろしくお願いします。」
その返事に涼太が嬉しそうに笑うのを、芽依は感じた。

「やっぱり芽依の本命は、涼太だったかぁ。」
お弁当をつつきながら朋花がひとりごちた。
「え、やっぱりって、気づいてたの?」
「もう、バレバレ。いっとくけど全然隠せてなかったからね、芽依」
「うそぉ…。」
「それに気づかない涼太も涼太よ。あっちが芽依のこと気になってんのもバレバレだったし。二人して鈍いんだから、このバレバレカップルが!」
「えぇ…、」
「フロア内で気づいてない人いないくらいだったから。…あぁ、一人いたか。気づかなかったの水タコぐらいのもんね。」
あれから水島から声をかけられることはなくなった。というか水島の方から芽依と接触するのを避けるようになり、廊下の先で見かけても、芽依に気づくとくるりと背を返して別なルートを通る徹底ぶりだ。
「そういえば水タコ、もういなくなるんでしょ?」
「ね、朝聞いてびっくりしたわ。」
「あまりの仕事のできなさに、クビになったとか?芽依にはそっちの方がいいんじゃない?」
「まぁ、絡まれなくなったからまだましだけど、会わなくて済むならその方が嬉しいよね。」
 まぁまぁ失礼な会話をしつつ、お昼の休憩時間を過ごしていた。今日の朝礼の時に水島が会社を去ることを伝えられた。詳細は伏せられていたが、多分解雇されたのだろう。水島が会社を去る理由に芽依はひとつも興味がわかなかった。来週からは水島が出社してこない。それだけで芽依には十分だった。
 あれから順調に涼太との付き合いは進んでいる。学生の頃のような刺激的な関係とまではいかないが、芽依にとって涼太との時間は前にもまして大切な宝物になっている。二人で隣町の図書館まで行って隣でそれぞれが気になる本を読んだりもする。別々のことをしていても隣に涼太がいるということだけであたたかい毛布にくるまれているような幸せが芽依の心を満たしている。あれこれと茶化してくる朋花もなんだかんだで芽依たちの恋を応援してくれている。仕事も恋のフォローも完璧な同期。つくづく人に恵まれたなと感じる。
 
 時計の針があと半周もすれば終業だという頃、涼太からご飯に行こうとメッセージが送られてきた。「OK!」とスタンプを返す。仕事を終わらせて待ち合わせ場所で待っていると少し遅れて涼太が芽依のところに走ってくるのが見えた。いつも見慣れた姿なのに芽依の胸に明かりが灯ったようにあたたかくなった。
「ごめん。遅れちゃって。」
「ううん、そんな待ってないし、私もさっき来たとこ。」
「じゃあ、いこっか。いつものところでいい?」
「いいよ。」
ん、と当然のように差し出された手を繋ぎながら、芽依たちは歩き出した。

少し斜め上にある涼太の顔を見ながらやっぱり芽依は思うのだ。
恋に、涼太との恋に落ち「ちゃった」のだと。

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