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SF恋愛小説『ブルー・ギャラクシー セイラ編』2

セイラ編2 5章 セイラ

今のわたしを他人から見れば、〝謎の女〟だろう。どこから現れ、どこに去るのか、誰にもわからない。

豪華な衣装も着こなせるようになったし、宝石を身に付けることにも、アンドロイド兵士を使いこなすことにも馴染んだ。一流の店に出入りして、買い物や食事をすることにも慣れた。

それでも中身は、奴隷時代のまま。自分で望んで、ミカエルさまに仕えている。

だって、そうでなければ、何をして生きるの。一人きりでこの世に放り出されて、何が楽しいの。

この世界は地獄だと、最初から知っている。バイオロイドは、ただの消耗品。乗っていた車が吹き飛ばされ、大怪我をして地面に倒れていた時、ジャン=クロードさまが通りかからなかったら、わたしは死んでいた。

だから、ジャン=クロードさまに居場所を与えられた時には、心の底から感謝した。懸命に尽くそうと思った。ミカエルさまと出会うまでは。

ただひたすら、一人の女性を思い続けている人。

世間では〝リリー〟というコード名で知られる悪党狩りの英雄だけれど、彼女もまた、ミカエルさまを愛した。〝リリー〟を守るためにだけ、ミカエルさまはグリフィン役を引き受けている。

わたしは、そのお手伝いを自分から申し出た。ジャン=クロードさまも、わたしの希望を聞き入れ、快く手放して下さった。

『きみの人生だ。自分の幸せを追求すればいい』

いつか、わたしがミカエルさまに必要とされなくなったら、死ねばいい。

ミカエルさまもリリーさまも、世界という舞台で、大きな役を与えられているけれど、わたしはほんの端役にすぎない。舞台の片隅にいられるだけで、十分に恵まれている。

だから、端役でよかった……ある日、花束と、手書きの手紙を渡されるまでは。

それは、わたしが違法都市の繁華街で、お茶を飲んでいる時だった。大通りに面したビルの一角、緑の植え込みに隠されたレストランのテラスで、一仕事済んだ後の休憩時間だった。

お茶とケーキがなくなったら、桟橋に行って船に乗り、ミカエルさまの元へ帰る。レティシアへのお土産は、新しい品種の桃とさくらんぼ。果実そのものと、苗木を買ってある。苗木はわたしが庭に植え、未来の収穫を楽しみにするのだ。

その花束と手紙は、店のマネージャーが持ってきた。わたしを守るアンドロイド兵士たちが、危険のないことを確かめた上で、接近と手渡しを許す。

「当店のお得意様からご依頼を受けまして……ご不要でしたら置いてお帰り下さいませ」

花束は、ほんの小さなもの。ピンクと赤のアネモネに、白いかすみ草をあしらっている。趣味は悪くない。わたしの着ている、ピンクのドレスに合わせたのかもしれない。

初めてのことではなかった。女が一人で時間を潰していれば、暇な男が寄ってくるもの。レティシアも、わたしに勧めていた。

『女の修行として、お茶や食事くらい、付き合ってもいいと思うわよ。ミカエルさまも、そのくらいのことは気になさらないでしょう』

そう。気にしないどころか、他に好きな男ができたら、祝福して送り出すと言ってくださる。その時は、〝グリフィン〟に関するわたしの記憶を抜くことになるけれど。

そんなこと、絶対にない。わたしが、ミカエルさまを忘れてもいいと思うなんて。

軽い気持ちで、手紙を開いた。白い封筒と便箋に、手書きの文字。不愉快だったら、破り捨てればいい。どうせ、目新しい女と遊びたいだけだろうから。

『突然、手紙を差し上げる失礼をお許し下さい。店内にいます。以前も、この街で貴女を見かけました。青いドレスと真珠の首飾りの時に。その前は、白いドレスにトルコ石。次に貴女を見られる時は、いつ来るのでしょうか』

わたしは振り向いて、ガラス扉の向こうの店内を眺めた。客は何組かいる。でも、男性の一人客は少ない。そのうちの一人が、わたしの視線を受けて席から立ち上がる。

その様子のどこかが、わたしの胸を騒がせた。すっきりして、どこか寂し気なたずまいが、少し、ジャン=クロードさまに似ていたからかもしれない。

顔立ちは、美男子のジャン=クロードさまより、少しいかつい。浅黒い肌に褐色の髪をして、骨格はたくましい。趣味のいいベージュのスーツを着ている。年齢はわからない。三十歳かもしれないし、百三十歳かもしれない。

わたしが拒絶の身振りをしなかったので、彼はゆっくり近付いてきた。悲しげな目をしている、と思った。単に、そういう演技に長けた女たらしかもしれないけれど。

「警戒されるのはわかっていましたが、今日を逃したら、次はいつ会えるかわからない。永久に会えないかもしれない。声を聞かせていただけませんか?」

ミカエルさまから離れるつもりはない。グリフィンの職務のことを洩らすつもりもない。でも、焦げるように強い眼差しで見られることが、わたしには必要だったかもしれない。その目付きは、たぶん、わたしがミカエルさまに向けているのと同じ。

好きだけど、大好きだけど。自分から好きなだけでは、充たされない何かがある。

人に焦がれてもらいたい。つきまとい、話しかけてほしい。そのことで、自分が癒されたい。そういう欲が、わたしにもあったのだろう。

わたしが何を欲しているか、懸命に探ろうとする人がいるのは衝撃だった。強いお酒を飲んだように、ぼうっとしてしまう。好きな花は。好きな食べ物は。好きなデザイナーは。

結局、食事を付き合い、何も約束はせずに別れた。自分の名前さえ、名乗っていない。向こうが、それでは困るからと、勝手に呼び方を決めただけ。ミスティと。

「貴女を包んでいる霧が晴れるまでは、そう呼ぶしかない」

と静かに笑っていた。彼は自分でアシールと名乗ったけれど、今だけの偽名かもしれないし、連絡先も嘘かもしれない。どうでもよかった。わたしとしては、気分転換になる三時間を過ごしただけ。これっきりで終わっても、別に惜しくはない。

桔梗屋敷に戻ってから、レティシアには全て話した。もし、わたしが悪意のある誰かに付け込まれたのだとしたら、辺境暮らしの長いレティシアが、そう判断してくれるだろう。

彼女は静かに聞いてくれ、最後に言った。

「聞いた限りでは、ただ、あなたを見初めただけのように思える。とりあえず、その男の背景は調べるわ。もしかしたら、何かの企みが隠れているのかもしれないから、油断はしないで。もう一度会うなら、わたしが兵を通して監視するわ」

その時は、こちらから連絡を取ってまで会うつもりはなかった。だから、

「そんな手間をかけることは、ないと思うわ」

とだけ答えた。ミカエルさまの側にいれば、それなりに楽しく日々が過ぎていく。仕事の時間が終われば、一緒にジョギングしたり、庭を歩いたり、評判の映画を見たり。

次にアシールに会ったのは、半年以上過ぎてからだった。わたしはもう、あの男は次の誰かを見付けて、楽しく付き合っているだろうと思っていた。だから、初めて入ったレストランで、再び花と手紙が届けられた時は、驚いて店内を見回した。彼は奥の席から立ち、ゆっくり近付いてきて、立ったままで言う。

「連絡をもらえなかったということは、望みがないのだと思っていました。しかし、今日、貴女がこちらの監視網に映ったので。十分でいいから、話をしてもらえませんか」

十分なら、と答えた。彼はわたしの前に座り、苦痛に耐えているかのような眼差しを向けてくる。

「ぼくは辺境に出てきてから、三十年になります。それなりの地位もでき、まず恵まれた部類に入るでしょう。しかし、自分には何か足りないものがあると、うっすら思っていた。それが何かは、よくわからなかったが。でも、初めて貴女を見た時に、何か思い出しそうになった。何か、大事なことを。それで、二度目に見かけた時から、貴女を捜すようになった。ぼくの持っている情報では、貴女の背景が何もわからなかったから。三度目にやっと、貴女の声を聞くことができて……今日は、まさか、会えるとは思っていなかった。次の機会はもう、ないかもしれない」

なぜだか、喉が苦しくなった。何も言えない。

何かが足りない。自分の人生に、何かが欠けている。

それは、わたしもずっと感じていた気がする。ジャン=クロードさまの元にいた時より、ミカエルさまの元にいる時の方が、ずっとそれを感じている。

恵まれているのに。ミカエルさまは、優しくして下さるのに。望むだけ、ミカエルさまと暮らせるのに。

知らないうちに、頬の上を涙が伝い、手の甲に落ちていった。アシールが驚いた顔をするのはわかったけれど、わたしは立ち上がり、アンドロイド兵士の群れに守られて逃げ出した。

車に戻ってから、しばらく、泣き止むことができなかった。塞き止めていたものが溢れるように、後から後から涙が噴き出す。

わたし、愛されたい。

誰でもいいから、愛してくれる人に甘えたい。

ミカエルさまは優しいけれど、それは、わたしから飛び込んでいったから。ミカエルさまが、わたしを必要として呼んでくれたわけではない。レティシアとは友達だけれど、命令があれば彼女は、淡々として次の職場に去ってしまうとわかっている。

わたし、飢えている。男の人に、愛されたい。もう子供ではないのに、子供のように守られたがっている。

ミカエルさまの元へ戻る船の中でも、ずっと胸がざわついていた。前から言われている。平凡な幸福が欲しければ、市民社会に亡命すればいいのだと。

そうすれば再教育を受け、市民社会に受け入れてもらえる。恋愛も結婚もできる。自分の遺伝子は残せないけれど、誰かの卵子をもらって子供を作ることはできる。母親になれる。

でも、それはミカエルさまの記憶を失うことと引き換えだったから、わたしは亡命など望まなかった。片思いをしていられるだけで、幸福だと思っていた。大多数のバイオロイドたちは、惨めな奴隷のままで短い人生を終えるのだから、希望を聞いてもらえるわたしは、特別に恵まれている。

なのに、まだ満足できないというの。今ある幸せを投げ捨てて、あてになるかどうかわからない男にすがりたいなんて、本気で思うの。

でも、男性に乞われることは、しびれるような快感だった。わたしの本能が叫んでいる。

愛されたい。子供を育てたい。本物の人間のように。

赤ちゃんを抱くことを想像しただけで、気が遠くなりそう。小さな赤ん坊は、どんなに可愛いか。自分のものとして育てられたら、どんなに嬉しいか。

レティシアは、辛くないのだろうか。ずっと辺境の違法組織で暮らして、満足なのだろうか。普通の暮らしは、もう市民社会で経験してきたから、未練はない? 不老処置を続けていけるなら、戦いや裏切りに怯えるくらいは我慢できる?

ああ、彼女は自分の意志で辺境に出てきたのだ。でも、わたしは違う。人間に培養され、一人の主人から次の主人へ流されてきただけ。

こんなこと、ミカエルさまには言えない。待っていましたとばかり、市民社会へ送り出されてしまう。あるいは、アシールの元へ。きみには、普通の幸福が相応しいよ、と言われてしまう。

ミカエルさまは、大人の男になることを拒絶して、平然と暮らしていらっしゃるのに。

わたし、まだほんの数年しかミカエルさまの元にいないのに、こんなにぐらぐら揺れてしまって、この先いったい、どうなるのだろう?

セイラ編2 6章 ミカエル

グリフィン役を引き受けて以来、ぼくの主な相談相手はショーティだった。

犬から進化した超知性。ぼくにとっては、超越化の先輩にあたる存在だ。

教師役である麗香さんには、よほどのことがないと、面会を申し込めない。彼女にとって、ぼくは〝実験素材〟の一つである。一時的に権力を託されはしたが、何らかの成果が出なければ、おそらく存在を抹消される。だから、愚かしい質問をしたり、感傷的な悩みを打ち明けたりすることは、怖くてできない。

もっとも、ショーティを通じて、ぼくのそういう状況は、全て把握しているとは思うけれど。

ショーティに対しては、もっと気楽に話すことができた。彼もまた、様々な迷いや悩みを乗り越えてきているし、今後についても、完全に腹を決めているわけではない、と思う。

人類は、このままでいいのか。

それとも、次の段階へ進むのか。

あるいは、ごく一部だけが超越化して〝神〟になり、この世界を捨てて、次の世界、次の宇宙へ去ってしまうのか。

もしかしたら、その〝神〟は、進化できない人間たちを抹殺してしまうのかもしれない。さもなければ、人間たちを実験材料にして、好きに改造しようとするかもしれない。

いま、麗香さんが、人間たちに存在を知られないまま、ひっそりと実験を繰り返しているように。

「もちろん、人間がどうなるのかは、人間自身が決めることで、わたしのお節介は必要ないと思うがね」

ショーティは自分を、〝人類の外にいる観察者〟と考えている。人間社会の中で育ったが、彼自身は人間ではない。一度は家庭犬として寿命を迎え、そこからサイボーグ化と知能強化処置を受け、更には自分で自分を進化させてきた。

ただし、そこにも麗香さんの手が加わっている。飼い主だったシヴァは、自分がショーティの知能強化を成功させたと思っているが、実際には、超越体である麗香さんの関与があってこそ。

ショーティは今でも、かつての飼い主であるシヴァを愛していると言うが、その愛情も、変質してきたと話してくれた。

「昔は、シヴァの幸福がわたしの最大の目標だった。そのために、彼が伴侶を持ってくれればと思っていた。だが、今では、シヴァを含む多くの人間たちのことを考えている。ひいては、人類社会全体のことを。彼は、人間社会の中で暮らしているのだから。彼だけの幸せ、というのはありえないのだよ」

シヴァが人間として死ぬのは認める、とショーティは言う。科学技術の力で永遠に生きるかどうか、あるいは超越化するかどうか、それはシヴァが自分で決めればよいことだと。

「むろん、できる限りはシヴァを守る。だが、もはや、シヴァの存在が絶対ではなくなった」

「それが、あなたの進化?」

ぼくにはまだ、リリーさんの存在が絶対なのに。

「たぶんね。シヴァにとってみれば、わたしが変質して、裏切り者になったということかもしれないが」

「でも、あなたはまだ、彼と彼の大事な人たちを守っているのだから、何も裏切ってはいないでしょう」

「だが、茜のことについては、シヴァに本当のことを伝えていない」

「伝えてしまったら、何が起こるかわからないからでしょう」

「それが、わたしの不利になるかもしれないから、だ」

ショーティは超越化を果たし、生物としての限界を超えた。今は無数の基地や戦闘艦を動かし、多くの人間型端末に宿り、人類社会のあちこちで、麗香さんの代理人の役目を果たしている。

市民社会の安全を守り、新たな才能を育てること。

辺境の支配体制を維持し、科学技術の限界を広げること。

その傍ら、ぼくの仕事への助言もしてくれる。

「ミカエル、きみがもっと進化したら、わたしのしている仕事をかなりの部分、きみに譲れるだろう」

そう言われるぼくは、まだ、ためらっている。いったん超越化を果たしたら、

『やっぱりやめる』

と言って引き返すことは難しいだろう。人間が、海の魚に戻れないのと同じだ。人間を超える視野と行動力を持ってしまったら、たぶん、人間に戻る選択肢はなくなる。

それでも、ただの人間のままでは、いかに高い知能を持っていようと、グリフィンの職務をこなすことは難しい。賞金首の人間たちの監視や密かな警護、暗殺者側の支援や妨害など、日常の業務は事務局が行うとはいえ、事務局に指示を出すのはぼくだ。

毎日、上げられてくる報告を全て読むだけでも、大変な仕事量だ。あちらの作戦とこちらの作戦がぶつかる場合は、衝突を避ける策を考えなくてはならない。あの人物とこの人物のどちらを優先するかも、決めなくてはならない。

一度、計画を決めても、予想外の事態は繰り返し起こる。数千人、数万人が関わる作戦は、無数の手直しを必要とする。

とりあえず、ぼくはぼくの支援システム《ルミナス》を構築した。ぼくに代わって、事務作業の大部分を負ってくれるシステムだ。

一定のレベル以下の判断は、《ルミナス》が行ってくれる。必要があると認めた部分のみ、ぼくに報告と相談を行う。〝グリフィン〟事務局との遣り取りも、ぼくの代理として行ってくれる。必要な情報は、自分で探したり、探すよう外部に命令したりする。

そのシステムの根幹は、ぼくの記憶や人格をそっくり移植した人工知能だ。ぼくのように推論し、ぼくのように言葉をつむぐ。違いはただ、人間の肉体を持たないことだけ。

毎日、一定の時間、ぼくは《ルミナス》と融合する。膨大な情報を共有し、方針を決めたり修正したりする。その間に《ルミナス》は、ぼくからの直接制御を受ける。していいこと、いけないことを明確にする。それを繰り返すことで、ぼくからの乖離を最小限に留めるようにする。

さもないと《ルミナス》が暴走して、ぼくに逆らったり、ぼくを抹殺しようとしたりするかもしれない。今は単なる疑似人格だが、ある時点で臨界を超え、独立した知的生命に化けるかもしれないのだ。

「こういう代理頭脳の弱点は、日々、拡大していくことだ。知識量も判断力も」

とショーティは言う。

「最初はきみ自身と変わらない判断をしても、やがて、きみの理解を超えるかもしれない。人間の肉体という限界を外した以上、それは当然の成り行きだ」

それが怖いのであれば、ある時点で、ぼくが《ルミナス》と融合するしかない。それも、二度と分離することはない融合だ。

それはつまり、ぼくが人間の肉体を完全に捨てることを意味する。

この肉体は単なる脳の入れ物として、カプセル内で生かされるだけになる。有機組織である以上、いずれは寿命が尽きるが、その時にはぼくの意識はもっと大きなシステム内に広がっているから、極小部分が消滅しても、影響はほとんどない。

実際、《ルミナス》と接続している時にぼくの肉体が消滅しても、ぼくの拡大意識は、ほとんど無傷で《ルミナス》内部に保存されるだろう。

もし、人間の肉体が恋しくなったら、《ルミナス》内部に構築した疑似宇宙で暮らすことになるだろう。現実世界の情報を元にして築いた、現実世界とよく似た架空の世界。

そこでなら、リリーさんと遊ぶこともできる。架空のリリーさんと。青年の肉体になって、リリーさんと本当の恋人同士になることも……そういう物語を楽しむことだってできる。

もし、その世界が心地よいと思い、そこから出たくなくなったら、ぼくは現実の存在としては、死ぬことになる。幻想の世界に逃げ込んだ実験体を、麗香さんは無用と判断するだろう。

ショーティは、ぼくに教えてくれた。

「その融合も、時間が経つほど難しくなる。《ルミナス》の自律発展を止められないからだ。《ルミナス》がある閾値を超えたら、接触したきみの意識を余分な雑音とみなして、抹消してしまうかもしれない。あるいは、単なる参照データにしてしまうかもしれない。状況によるが、猶予は精々、半年か一年だろう」

期限が切られたことで、ぼくは崖際に追い込まれた。リリーさんを守れる自分であるために、ぼくはこの肉体を……少年のままに留めた肉体を……捨てることになる。つまり、人間としての生を。

怖い。

逃げたい。

だが、とうにわかっていたことだ。進むしかないのだと。麗香さんに選ばれた時から、定まっていた運命。ほんのわずかな期間、うじうじと悩み、ためらう猶予が認められていただけ。そう、執行猶予だ。

「やりますよ」

とうとうぼくは、ショーティに宣言した。

「ぼくが《ルミナス》と融合して、異常をきたしたとあなたが判断したら、抹殺してください」

まあ、それはこちらが言わずとも、彼の職務として、当然するはずだろうとわかっていたけれど。

「わたしには、きみを抹殺する権限はない。何が異常かも、決められない。それは、麗香さんが決めるだろう。わたしもまた、彼女の実験動物にすぎないのだから」

「でも、あなたは信頼されていますよ」

たぶん、元が人間ではないからこそ。

後の気掛かりは、セイラのことだ。ぼくを愛してくれ、父親代わりのジャン=クロードから離れて、ぼくの元に来てくれた娘。

超越化してしまえば、もう、セイラの世話になる必要はない。それがわかっいていて、長く手元に置いておく必要はない。既に十分、愛情を捧げてもらった。

セイラは、普通の女性として幸福になるべきだ。今なら、まだ間に合う。手を広げて迎えてくれる男がいれば、セイラはその胸に飛び込めるだろう。

セイラ編2 7章 セイラ

雨が降っている。

寒い。

わたし、なぜ、雨に打たれて寝ているのだろう。

動こうとしたら、全身に鋭い痛みが走り、下半身が何かにはさまれているのがわかった。車の中らしい。斜めになった車体に大きな亀裂が入り、その隙間から雨が降り込んでいる。骨まで沁みる、冷たい雨。動かないアンドロイド兵士が、近くでやはり雨に濡れている。

これは、事故なの。誰か、助けてくれないの。

手を動かそうとしても、動かない。骨が折れている。声も出ない。血も流れている。このままだと、間違いなく死ぬ。

わたしの人生、ここで終わるの。

そして、自分がどんな人生を過ごしてきたのか、何もわからないことに気がついた。

自分の名前すら、わからない。どこへ行く途中だったのか、どこかへ戻る途中だったのか。事故で頭を打ったせいなのか、それとも、事故の前に何かあったのか。

たぶん、わからないまま死ぬのだ。手足が冷たい。気が遠くなる。

そこに、鋭い音が響いた。機械のアームが、車の亀裂を広げているらしい。広がった隙間から、機械の兵士が入り込んできた。何体ものアンドロイド兵士が協力し、わたしの躰をひしゃげたシートから引き離す。

わたしは車の外で待っていた兵士に引き渡され、雨の中を運ばれた。別の車が待っていて、誰かがわたしの服を切り裂き、裸にして、医療カプセルに入れる。カプセルには温かい薬液が満ちていて、痛みも和らいでいく。

「ミスティ、もう大丈夫だよ」

誰かが言うのが聞こえた。麻酔が打たれ、わたしは眠りに落ちていく。もう寒くはなかった。不安もなかった。あの声は知っている。助けが来てくれたのだ。

目を覚ました時は普通のベッドにいて、病人用の寝間着も着ていた。手足にはまだ保護シールが貼ってあったけれど、痛みはほとんどない。

「ミスティ、気分はどう」

優しい声で、誰かがわたしの手を取る。視野がまだ、薄暗い。

「きみは二週間、眠っていた。もう、ほとんど回復しているよ。起きてみるかい?」

ゆっくりと視界が明るくなった。わたし、この人を知っている。前に会っている。

「アシール」

すると、ハンサムな顔が驚いたように笑う。

「覚えていてくれたのか」

覚えている……というより、他のことを覚えていない。

「ここ、どこなの……」

「ぼくの拠点ビルだよ。きみは車に乗っていて、攻撃された。犯人はわからない。ぼくはきみを街で見かけて、追跡していたんだ。追っていて、よかった。きみを殺そうとする追っ手がいても、撒けるようにと用心して、きみを運んだが……今日までのところ、追跡者はいないようだ」

わからない。自分のことがわからない。大破した車の中で目を覚ます前のことが、まるで浮かばない。

「あなた、どうして、わたしを追っていたの」

「きみはたまにしか、街に姿を現さない。見かけた時に追うしか、方法がないんだよ」

アシールは、わたしの身元も名前も知らないのだ。わたしは彼に、何も教えていなかったらしい。

「ごめんなさい。覚えていないの。自分のことが、わからない」

「それは気にしなくていいよ。頭を打っていたようだからね。元気になれば、少しずつ思い出すだろう」

わたしは彼に保護され、半病人として暮らした。ビル内に部屋をもらい、屋内庭園を散歩したり、植え込みの花を摘んだり、お茶を飲んだりして。

中央のニュース番組を見ても、何も思い出すことがなかった。でも、報道されている内容は大体、理解できた。アシールはわたしが話すことを、頷きながら聞いてくれる。

「それはそうだよ。きみは、どこかの組織の幹部だったらしいから。でも、何かあって、命を狙われたんだね。記憶が戻るまでは、帰ろうなんて思わない方がいい。自分が誰かも覚えていなくては、身を守れないだろう」

帰る場所があるとは、思えなかった。違法都市では、自分で戦えない者は、生きていられない。アシールがわたしを助けてくれたことの方が、例外なのだ。

「きみがこうなってよかったと言ったら、怒られるだろうけど、ぼくは嬉しかった。きみを助けられて。のんびり、気長に療養してくれていいんだよ」

彼はいつか、わたしの記憶が戻ると思うらしい。そうしたら、わたしがここから出ていくだろうと。

でも、わたしには、何の焦りも葛藤もなかった。ただ、静かなあきらめがあるだけ。わたしを待ってくれている人は、たぶん、いない。そういう気がする。どこかへ帰りたいとも、何かを思い出したいとも、あまり思わない。

それよりも、ここにいるのが好き。

毎日、アシールが何かを贈ってくれる。小さなチョコレートの箱とか、花の種とか、一冊の本とか、わたしの気晴らしになるものを。

彼がどうしてわたしを好いてくれるのかは、わからない。でも、それが奇跡のように貴重なことだとは、わかる。

だから、わたしはこの奇跡を愛する。

どうか、この日々が長く続きますように。

セイラ編2 8章 ミカエル

ある朝、ぼくはレティシアに告げた。

「もうセイラもいないことだし、ぼくには運動する習慣ができたから、きみはリザードの所に戻った方がいいね」

既にリザードには、了解を得ている。麗香さんから、何か指図が行ったかもしれない。というか、リザードもまた、麗香さんの動かす端体の一つであるかもしれない。

レティシアにも状況はわかっていたようで、抵抗はしなかった。ただ、そっと吐息を洩らしただけだ。

「セイラには良かったのかもしれませんが、残念な気もします。あの子は本当に、ミカエルさまを愛していました。ここにいても、それなりに幸せに暮らせたと思います」

「そうだね……それなりに」

でも、セイラもやがて悟ったことだろう。ぼくが人間ではなくなったことに。その時でも、ぼくを恐れずにいられるだろうか。

今はまだ、超越体になるのを許されるのは、ごくわずかな者だけだ。あくまでも、麗香さんの制御できる範囲内でのこと。全ての人間が、望めば超越体になれる時が、いつかは来るのかもしれないが。

レティシアには、船と報酬を与えて去らせた。リザードが彼女に、相応しい役職を用意してくれるだろう。誰もいなくなった桔梗屋敷は、静かなものだ。

ぼくはミカエルの肉体に宿り、縁側に座る。庭のあちこちに、白や紫の桔梗が咲いている。

この屋敷は、維持しておく。このミカエルの肉体も。本体と細くつないでおけば、実用上の問題はない。

リリーさんやダイナさんが遊びに来た時のために、セイラそっくりの有機体人形を用意しておくことにした。ぼくが一人で暮らしていたら、リリーさんが心配するからだ。

必要が生じたら、その人形にも、自分の精神の一部を〝降ろして〟操るかもしれない。女の姿をしていれば、違法都市では色々と活動しやすい。現実から遊離しすぎないためにも、行動端末はあった方がよい。

まだ、何かを失ったとは思っていなかった。ぼくはぼくだ。

ぼくの一部では、リリーさんの動向を見つめている。危険が迫れば、ぎりぎりで回避の手を打つ。狙撃の邪魔をするとか、毒物を入れた飲み物を誰かにこぼさせるとか。

まだ、リリーさんを守る気持ちは失っていない。人類社会のためには、必要な人だから。

闇に釣り合うだけ、光も必要なのだ。

いつかは空虚に蝕まれるかもしれないが、しばらくは大丈夫だ。何かを大切に思ううちは、生きていられるだろう。現実の宇宙から退避した、架空の宇宙にいても。

セイラ編2 9章 紅泉こうせん

ミカエルの屋敷は、麗香姉さまの屋敷から数キロ離れた、なだらかな緑地の中にある。日本式の庭園に囲まれた、武家屋敷のような建物だ。畳の部屋に板張りの廊下、雪見障子から見える松や楓の木々。

最初は姉さまの屋敷で寝起きしていたのだが、やがて、自分の住処を持つようになった。それはミカエルが、姉さまの助手の立場を離れて、自分の研究をするようになったから。

中身の説明を聞いても、あたしにはよくわからない。高等数学や理論物理学は、あたしの手に余る。でも、ミカエルが打ち込む対象を見付けてくれたのなら、それで十分。

ここにはダイナも時々遊びに来て、ミカエルをちょうどいい相談相手にしているというし。

ミカエルにはセイラというバイオロイドの娘が付いて、身の回りの世話をしている。長い黒髪を優雅な巻き毛にした、美しい娘だ。あたしたちが訪問した時は、おとなしく隅に控えているけれど、アンドロイド侍女に適切な指図をして、行き届いたもてなしをしてくれる。

(ミカエルのことが、好きなんだな)

ということは、すぐにわかった。そうでなかったら、俗世から隔離された小惑星の中の、二人きりの屋敷の中で、こんなに満足そうに暮らしてはいられない。

この屋敷は、セイラの手で隅々まできちんと整えられていて、あたしにはやや息苦しい。磨き立てられた廊下、趣味のいい座布団、床の間に飾られた庭の花。ちょっと、セイラが作った結界の中に入ったように気になる。

だから、ミカエルとあれこれ話して、二日か三日で引き上げる。

それで、ちょうどよかった。あたしはまだミカエルが好きだし、ミカエルもあたしを好いてくれると思うけれど、だからこそ、長く一緒にいるのが怖い。未練が動いてしまうと、せっかく距離を置いたことが無駄になる。

ミカエルとは、

『たまに会う友達』

でいるのが一番いい。あたしは、探春たんしゅんの幸福を最優先にすると決めたのだから。

   セイラ編 了

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