恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー 泉編』4
泉編4 4章 ミカエル
「人間は少し、不幸な方がいいのよ」
それが、麗香さんの考えだ。
「幸福だと、そこに安住してしまう。気持ちがゆるんでしまって、進歩が止まってしまう」
無力と知りつつ、ぼくは言い返した。
「進歩しなくてもいい、と思う自由もありますよ」
もうここまででいい、あるもので満足する、という生き方だってあるだろう。でも、麗香さんはうっすらと微笑んで言う。
「そして、進歩した誰かに食われるのね」
その通りだ。だから、ぼくも立ち止まれない。麗香さんの望む通り、人間の肉体を捨て、超越体として歩み始めている。
食われるよりも、食う側に。
自分が麗香さんの抱えている、たくさんの実験材料の一つとわきまえているからこそ、見切りをつけられないよう、努力しなければならない。
ミカエル本来の肉体は、既に記憶装置と接続して、その一部となっていた。もう二度と、カプセルの外に出ることはない。保存用の液体に浮かぶ子供の肉体は、脳に栄養を届けるだけの存在となり、やがては機能を停止する。
だがその頃には、その肉体が宿していた脳組織も、もはや用済みとなっている。ミカエルの意識は、記憶装置を起点にして拡大し続けているから、元の脳は、ごく微細な貢献しかしていないからだ。
現在、ぼくの意識は拡大されて何百もの記憶装置に宿り、互いに融合し、また分裂し、大きな知性体の一部として生き続けている。
ある部分は艦隊のうちの一隻に潜み、ある部分は小惑星工場に宿り、また別の部分は都市を歩く人間の一人に擬態して、情報を集め、必要な工作を行う。
どこの組織で、どんな新発見、新発明がなされているか。それを、自分の進化のために利用できないか。
また、リリーさんを害する可能性がある者を、あらかじめ排除しておくべきか。それとも、好きなようにやらせておいて、最後の瞬間に阻止するべきか。
更にはその事件を、政治的に利用できないか。軍や司法局の中で誰が昇進すれば、ぼくやリリーさんの利益になるか。
拡大されたぼくは、毎日、一人の人間には不可能な量の業務をこなしている。グリフィン事務局が数百人のメンバーを抱えて行っている業務を、ぼく一人が全て監視し、援助しているのだ。
休みのない活動。
超越体に睡眠はなく、休養もない。ある部分が維持管理のために休止しても、他の部分は動き続ける。
昨日と今日の区切りはなく、今日がそのまま永遠に続く。
例えて言えば、多くの構成員を抱えた巨大企業のようなもの。無数の事業を行う企業を、たった一人の意志が動かしているだけ。
やがて、現場の活動を行う部分と、全体を見渡す部分が、自然と役割分担するようになってきた。どちらもミカエルなのだが、担当が違う。ただ、しばらく経つと、担当を交替する。
あまり役割分担を徹底すると、それぞれが専門化しすぎてしまうからだ。すると、統一体としての安定が弱くなる。それが、分裂の危機につながる。
遠い未来には、分裂こそが自然になるかもしれないが。
麗香さんは言う。もうしばらく、ミカエルという一つの存在でいた方がよいと。分裂すべき時が来たら、その時は自分で決断できるはずだ、という。
まだ試行錯誤の途中だが、超越体であることには慣れてきた。ただの少年だった頃が、はるかな大昔であるように感じられる。違法組織の奴隷だった頃。脱走の計画を練っていた頃。脳腫瘍という病気を抱え、絶望していた頃。リリーさんと出会い、舞い上がった頃。
自分はあれから何千年、何万年、生きてきたのだろうか。
実際には、わずか数年のことなのだが。
リリーさんは相変わらずハンターの仕事で飛び回り、合間には、ヴァイオレットさんとバカンスを楽しんでいる。ぼくだけが、長い長い遠回りの旅をしてきたかのようだ。
毎日、ぼくの知識と経験は増える。人間だった頃の記憶は、いずれ、ただの参照記録となってしまうだろう。一番の重しとなっているのはリリーさんへの思慕だが、それすらもいつかは風化し、枯れ葉のように粉々になってしまうのかもしれない。
それがいつなのか、自分でも見通せない。それとも逆に、リリーさんへの思いが、人類全体への愛情に進化するのだろうか?
ありそうにないな。
人類の大多数は、ぼくにとって、たいした興味の対象ではない。彼らは真にものを考えることをせず、安楽に流れ、覇気を持たないからだ。
市民社会で安穏と暮らし、自分こそは善人と思い込んでいる者たちよりも、無法の辺境に出て、何とか野心を叶えようと足掻いている小悪党の方が、まだ見所がある。
まあ、凡人がある日、非凡に変化することもあるのが、人間の面白さだが。
辺境に生まれ、大勢の小悪党を殺しながら、なおも市民社会の理想を信じるリリーさんは……極めて危ういバランスをとっているからこそ、鮮烈な光を放つ。
ぼくがまだ、ぼくでいられるのは、この世に貴女がいるからなのですよ。貴女のことなんてどうでもいいと思うようになったら、それが、ぼくの人間としての終わりになるのでしょう。
泉編4 5章 ダイナ
あたしは二十数年の人生で初めて、無能になっていた。
《ティルス》に戻ってきて半月にもなるのに、仕事の段取りができない。頼まれた連絡事項を忘れる。何もない場所で転びかける。廊下で人にぶつかる。階段を踏み外す。デスクの上でコーヒーカップを倒す。
資料を読んでも、頭に入らない。会議で、人の話が聞けていない。先輩秘書からの質問に、答えられない。新しいアイディアを求められても、何も思い浮かばない。
とうとう、ヴェーラお祖母さまに呼ばれてしまった。
「ダイナ、しばらく休暇を取りなさい。今のままでは、皆の迷惑です」
総帥の命令は絶対である。あたしは怖々と確認した。
「あのう、いつまででしょうか」
「あなたが冷静になり、職場に復帰できるようになるまでです」
それでは、いつのことやら、自分でもわからない。もう二度と、ここへは戻れないかも。あたしはふらふらと、センタービル内の自室に戻った。
どうしよう。一人でこの部屋にこもっていても、落ち込むばかりだ。気分を変えよう。どこかへ行かないと。
でも、どこへ。
こんな時、同性の友達が身近にいればと、心から思う。中央にいるリーレン・ツォルコフとは、司法局の黙認の上で、たまに連絡を取り合っているけれど、彼女はいま新入社員として、希望する企業に入ったばかりで、忙しい。こんな話、司法局経由の通話回線なんかで話せないし。
リーレンのことを思い出す時、必ずセットで思い出す泉のことは……
友達になり損ねたことを、今でも悔やんでいる。
もしもあたしが、もっとうまく話せていれば。あんな重傷を負わせなければ。
けれど、記憶を失った泉は再教育施設にいて、新しい人生を歩んでいるのだから、それこそ、接触してはいけない。グリフィンに利用された過去は忘れて、再出発してもらわないと。
グランド・ツアーで知り合ったルディも、いい友達なのだけれど……彼に相談したらきっと、
『ぼくが一人前になったら求婚しますから、他の男のことなんか忘れて下さい』
と言うだろう。でも、ルディはまだ大学生。これから先、どんな仕事でも選べる。どんな女性とも付き合える。もっと大人になったら、きっと冷静になって、辺境の人間なんか伴侶にできない、と悟ってしまうわ。
うちの一族は、悪質な商売は極力避けているけれど、それでも、人身売買や誘拐や洗脳という仕事をする組織からの上納金を集めているのだもの。
お祖母さまの秘書をする中で、そういう組織との付き合いも必要なのだと、納得するようになってきた。紅泉姉さまたちのように、一族から遠く離れて、市民社会に参加するというのでない限り、あたしもまた、『違法組織の一員』という非難を受けなければならない。
(そうだ、ミカエルなら)
同性ではないけれど、少年の姿をしているから、話しやすい。ミカエルならば、きっと冷静な助言をくれる。彼自身、恋愛問題で悩んだ経験者だし。
***
あたしはミカエルに連絡を入れ、《ティルス》から船で三十分ほどの移動をした。自分専用の船があるから、身一つで飛び乗れる。
「ダイナさんが来てくれたら、賑やかになって嬉しいですよ」
と言ってもらえたので、一安心。《ティルス》の勢力圏内にある麗香姉さまの隠居小惑星なら、安全この上ないし、あたしがどれだけ滞在しても大丈夫。
あそこには、麗香姉さまとミカエル、それにミカエルの秘書のセイラ、たった三人しか住人がいないのだ。
紅泉姉さまとの婚約を取り消した後、ミカエルは麗香姉さまの研究助手として、ひっそりと暮らしていた。セイラはミカエルの身の回りの世話をしたり、庭園の花を集めて香水を作ったり、お使いであちこち出掛けたりしている。
ミカエル自身は今でも紅泉姉さまを愛しているのに、紅泉姉さまだって彼を愛しているのに、距離を置いて生きるしかないという理不尽。でも、それは彼らが選んだ解決策だから、おまえは口を出さないようにと、もう何年も前、シレール兄さまからきつく言い渡されていた。
その時のあたしは内心で、
(好き合っているなら、障害なんか打ち破ればいいのに)
と思ったけれど、今は……少しなら、わかる気がする。紅泉姉さまは、自分の恋愛の成就よりも、探春姉さまの心の平和を優先したのだ。探春姉さまの世界には、紅泉姉さましかいない。それが我欲だろうと妄執だろうと、他人の口出しすることではない。
紅泉姉さまにとっても、幼馴染みの探春姉さまは、魂の半身なのだ。探春姉さまが不幸になる道を、紅泉姉さまは選べなかった。
それはもしかしたら、姉さまたち三人の、不幸の総量を増やす決断だったかもしれないけれど。
隠居用の小惑星に着くと、船から車で降りて、ミカエルの住む桔梗屋敷へ向かった。姉さまの薔薇屋敷には寄らなくていいと、通話画面のミカエルは言う。
「麗香さんは、何か研究に没頭したいということで、挨拶にも来なくていいということです」
それなら、それでいい。どうしても会いたい相手、というわけではないから。
麗香姉さまはいつも優雅で寛大だけれど、その寛大さは、底知れない冷徹さに裏打ちされている。だからこそ、地球を出発してから何百年も、一族の指導者でいられるのだ。
過去にどれだけの敵対者を葬ってきたか、ヴェーラお祖母さまでさえも、全容を知らないという。今現在、どんな恐ろしい研究に没頭しているのか、知らない方がいい気もするし。
一族には、あたしの後、新しい子供は生まれていない。それは、総帥である麗香姉さまが、次の子供の遺伝子設計をじっくり考えているから、のようだ。
『ダイナ、あなたはわたしの最高傑作なのよ。知性と体力のバランスがとれて、人格的にも安定しているわ。あなたを超える子供でなければ、あえて生み出す意味がないと思うの』
と言われている。そんな、無限にハードルを上げていかなくてもいい気がするけれど。
だいたい、あたしが最高傑作だなんて、このざまを見てから言ってほしい。自分でも、自分に呆れてしまうくらいの情けなさ。
でも、麗香姉さまにとっては、より優れた子供を創り上げることが、一族を繁栄させる正道だという確信があるのだろうから、仕方ない。次に生まれるのがどんな子供であっても、あたしは姉の立場になれるから(それでようやく、末っ子から脱却できる!!)、楽しみにしていることは確か。
『ダイナお姉さま』
なんて慕われたら、嬉しくなって、何でもしてあげたくなってしまうだろうな。
ああ、でも、尊敬される姉になるためには、まず、この現状を何とかしなくては。
ゆるやかな起伏のある広大な緑地帯を走って、和風の別館に着いた。エアロダインで一直線に飛んでくれば早いけれど、蛇行する地上のドライブもいいものだ。森や川や小さな滝を見て走ると、暗黒の宇宙空間の旅が遠ざかる。
この桔梗屋敷は、ミカエルが自分の趣味で建てたものだ。本物の木材でできているので、いい香りがする。縁側を巡らせた畳の部屋、丸窓に雪見障子、床の間には生け花という日本趣味。
これは、地球出身の麗香姉さまの影響だろう。姉さまの生まれた日本は、当時、古い伝統と最新の文化芸術、科学技術が入り混じる刺激的な国だったとか。
ミカエルの設計した庭には丸い築山と、橋のかかった池、椿や山茶花の小道、桜と山吹の小道、涼しげな竹林などが巧みに配置されていた。
ここの気候は温暖だけれど、四季はあるので、季節の花が途切れず咲くようになっている。ぐるりと歩いていけば、白砂を敷いた石庭も、木立の奥に隠された茶室もある。
ミカエルはここがお気に入りで、姉さまに呼ばれた時しか、本館には行かない。確かに、とても落ち着く場所だ。ここなら、あたしも頭を冷やせそう。後で、座禅でも組んでみようかな。
あたしは敷石で靴を脱いで、縁側から座敷に上がり、彼の居場所を探し歩いた。書斎、茶の間、客室。木立と竹間垣の向こうには、離れになっている茶室の屋根が小さく見える。
屋敷の室内は板敷きか畳のどちらかで、最小限の家具しかなく、見通しがいい。四方が開け放ってあるので、気持ちのいい風が通り抜ける。
「ダイナさん、ここですよ」
ミカエルは藍色の作務衣を着て庭石に座り、植え込みの花を眺めていたらしい。白や青紫の桔梗が群れ咲いている。上品で理知的で、ミカエルによく似合う花。あたしは縁側にへたり込み、救いを求めて訴えた。
「ミカエル、お願い、聞いて。あたし、頭が変なの。おかしくなっちゃったの」
彼は縁側の手前まで戻ってきて、困ったように笑う。
「あなたはとびきり、現実的な人のはずですけどね」
栗色の髪をショートボブにした、女の子のような美少年だけれど、それは彼が自分で、自分の肉体的成長を止めてしまったからだ。
「それが、だめなの。お祖母さまにも見放されて、追い出されてしまったの」
彼はそんな相談など、毎日受けているという風だった。
「そうですか。ゆっくり聞きますから、まずはお茶でもどうですか。美味しい水羊羹がありますよ」
彼は元々、知能強化型バイオロイドとして、違法組織の中で誕生した。そして何年か、人間の科学者の助手として使われていた。自分の意志で奴隷の境遇から脱出した今でも、他人に接する態度はとても丁重だ。
紅泉姉さまに言わせると、それはミカエルが非常に用心深いからだという。奴隷として暮らした年月は、彼に根深い人間不信を植え付けたのだ。
それでもミカエルは、紅泉姉さまと出会った。彼の人間不信を吹き飛ばすような、強烈な個性に。
けれど、せっかく紅泉姉さまと愛し合うようになったのに、ミカエルは結局、自分から別れを告げた。紅泉姉さまには、探春姉さまがいたからだ。紅泉姉さまを愛することでしか、生きていけない人。
あたしとしては、探春姉さまの方こそ、身を引けばいいと思ったこともあるのだけれど。それは、第三者の身勝手な考えだったと、今にしてわかる。あたしこそ、シレール兄さまの個人生活から距離を置くことができないのだから。
あたしはミカエルの寛大さに甘え、悩みを語った。シレール兄さまが恋人を作り、永遠にあたしから離れていってしまうこと。素直に祝福するべきとわかっているのに、それができず、仕事も手につかないこと。
「そうですか、なるほどね」
座布団に正座したミカエルは、思い出したように、玉露の茶碗に口をつけていた。あたしも正座しているけれど、あと何分、この姿勢に耐えられるか自信がない。秘書のセイラはお茶とお菓子を運んできて挨拶したきり、遠ざかっている。
セイラはミカエルに相応しい、有能で物静かな秘書だった。そうやって秘書に徹していられるのは、奴隷だった時代の辛い記憶があるからに違いない。バイオロイドとして生まれた者は、大抵の場合、普通の人間よりはるかに辛抱強い。
たぶんミカエルは、常識的な慰めを言うだろうと、あたしは思っていた。そのうち楽になりますよ、とか、あなたもボーイフレンドを作ってみたら、とか。親が再婚する時の子供は、きっと多かれ少なかれ、こうやって混乱するのだろうから。
「意見を求められたので、言いますが……」
薄手の茶碗を茶托に戻したミカエルは、宝石のような緑の目で、まっすぐあたしを見た。思わず、吸い込まれそう。
あたしの目も緑だけれど、髪は赤毛の癖っ毛だし、性格がおっちょこちょいだから、逆立ちしても優美にはなれない。その点、彼はさらさらの栗色の髪と冷静な性格をしているから、絵本に出てくる、高貴な少年王子という感じ。
「ダイナさん、貴女は何にでも挑戦する人でしょう。だったら、今回も挑戦してみたらどうです」
「挑戦?」
「つまり、相手の女性に戦いを挑むんです」
え。
「要は、その女性から、シレールさんを奪い返せればいいんでしょう」
奪い返す!?
あたしは空しく口をぱくぱくしてから、ミカエルが、話の要点を掴み損ねているのだと思った。
「違うの。あたし、兄さまの幸せを邪魔するつもりはないのよ。兄さまは、遊びで女性と付き合うような人じゃないんだもの。絶対、その人と、末永く付き合うつもりなんだから……」
「だからこそ、貴女の側に奪回するんですよ。貴女こそ、シレールさんと結婚すればいいじゃありませんか」
今度こそあたしは、言葉を失った。
まさか。そんな。
家族と結婚なんか、できるわけない。
なのに、ミカエルは平然として言う。
「それほどうじうじ悩むというのは、シレールさんを、誰にも渡したくないからでしょう? 気持ちはわかりますよ。だって、ダイナさんにとっては、世界で一番大切な人なんですものね」
世界一? そうなのかしら?
そういう比較で考えたことは、ないような気がする。というか、比較なんかできなかった。兄さまは、この世にただ一人しかいないんだもの。
「大事なのは、紅泉姉さまも、ヴェーラお祖母さまも、一族みんなそうだし……友達だって……ほら、あなたのように……」
「もし、何かの事件や災害があって、誰か一人しか助けられないとしたら、貴女はシレールさんを選ぶでしょう?」
あ。
「幼い頃から、ずっと守り育ててもらったのだから、当然ですよ。しかも、実の父親ではない。ただのお守り役です。成人すれば、対等な大人同士。だったら、体当たりで、その女性から奪い取ったらどうです。失敗しても、今より悪くなるわけではないでしょう」
世界がぐるぐる回ってしまい、視座が定まらない。確かにあたしは、もしもの時が来たら、まず真っ先にシレール兄さまの安否を気にするだろうけど……
でも、兄さまは。
赤ん坊の頃から、兄さまに育ててもらった。ミルクを飲ませてもらい、げっぷをさせてもらい、お風呂に入れてもらった。兄さまから見れば、あたしは永遠に赤ん坊であるはずだ。誰が、おしめを替えた相手を、恋愛対象にできるだろう。あたしが成長すれば、外の世界に送り出して、それで満足するだけだ。
でも、ミカエルは当然のように言う。
「貴女の悩みは、恋の悩みそのものですよ。恋愛は戦いなのだから、戦って勝ち取ればいい。戦って負けたら、それはそれで納得できるでしょうし」
しばらく、立ち上がれなかった。ありえないと思う半面、妙に納得してしまい、それしかないという気もしてくる。
小さい頃のあたしに、毎日、食事を作ってくれたのは兄さまだ。枕元で絵本を読んでくれたのも、夜中のトイレに付き合ってくれたのも、木から落ちた時の傷を手当してくれたのも。蜂蜜を味見しようとして蜂に刺された時も、泣きながら飛んで帰って兄さまに訴えた。
あの頃があまりに幸せだったから、あたしは、そこに戻りたいのかもしれない。
それは、恋愛といえるのか。ただの幼稚な甘えではないのか。
「貴女の一族は、みな遺伝子操作で誕生しているのだから、血の近さというのは、考えなくてもいいはずですよ。そもそも、辺境は何でもありの世界でしょう。好きという気持ちがあれば、それでいいのではありませんか」
だって、〝好き〟にも種類がある。あたしはただ、幼稚な独占欲に苦しんでいるだけ。
恋愛は、いつか、素敵な王子さまとするものと思っていた。ただ、どんな男性が理想なのか、わからなかっただけ。
会ったらきっと、電流が流れたみたいなショックを受けるはず。少なくとも、恋愛小説や恋愛映画では、そういうことになっている。確かルディも、そんなことを言っていたのでは。
「それとも、このまま泣き寝入りして、何十年も悔やみ続けますか。ダイナさんの人生ですから、ぼくは一向構いませんけれど」
と美少年は笑っている。ミカエル自身は、大好きな紅泉姉さまのことをあきらめた。たぶんそのために、自分で自分を、少年のままに留めることにした。
大人の肉体になってしまえば、愛欲の衝動に負けてしまうかもしれないから。たとえ探春姉さまを傷つけても、自殺に追い込んでも、紅泉姉さまを奪ってしまうかもしれないから。
そういう自分を保つだけで、ミカエルは十分に大変なはずだ。あたしの悩みなんて、彼の孤独に比べれば、きっと些細なこと。
迷いながら、あたしは口を開いた。
「でも……戦うって、どうやって?」
敵対する組織を潰すとか、テロの犯人を追うとかなら、まだ方策が立て易い。でも、こういう感情の問題は?
「まず、会うことですね。シレールさんと、その相手の人に」
それこそ、怖くてできないのに。あたしはきっと、ろくにしゃべれもしないだろう。
「ど、どんな口実で?」
「しおらしく、無邪気な妹のふりをして、ご機嫌伺いに行けばいいじゃありませんか。シレールさんに、相手の女性を紹介してほしいと頼むのは、ごく普通のことだと思いますよ」
「会って……それから?」
「懐に潜り込むんですね。祝福するふりをして。そのうち、相手の女性の弱点や欠点もわかるでしょうし。徐々に、二人の仲を裂く作戦を練っていったら?」
あたしは悲鳴をあげそうになり、頭をぐしゃぐしゃかきむしった。そんなの卑劣だ。いやらしい。最低だ。
「あたしが兄さまだったら、そんな妹、嫌いになるわ。とても許せない」
「そうやって嫌われたら、あきらめられるでしょう」
そんな。
でも、ミカエルはあたしに、悪あがきしてみろと言いたいのだ。そうしてシレール兄さまに嫌われ、見下されたら、あとはどん底から浮上するしかなくなると。
それしかないのか。ぶつかって、失敗して、あきらめるしか。そうしたらあたしは、本当に大人の女性として、自立できたことになるのか。
「ねえ、みんなそうなの? そんなにドロドロしなくちゃいけないの?」
それって、美しくない。
「ダイナさんがそうやってうじうじしていることが、既に泥沼じゃありませんか」
そうだけど。そうなんだけど。
あたしは自分が、もっとさっぱりした気性だと思っていた。明朗快活で、合理的で、前向きだと。これが他人のことなら笑えるし、呆れたりもできるけど、自分で自分が制御できないなんて。
その時、縁側に人が来た。雪見障子の外に膝をつき、一礼する。
「ミカエルさま、ダイナさま、お夕食は何がよろしいですか」
上品な桜色のワンピースを着て、首に控えめな金のネックレスを巻いたセイラだ。長い巻き毛の黒髪に白い肌の、しとやかな美女である。あたしは急いで、しゃんと背筋を伸ばす。
「どうも、お世話をかけてすみません」
くだらない悩み事、どのくらい、聞かれていたかしら。
「いいえ、お客さまがいらして、とても嬉しいんですよ。離れのお風呂も、いつでも入れるようになっていますから」
「ありがとう」
ここのお風呂は地下水を熱した温泉なので、いつも楽しみにしているのだ。
セイラこそ、口には出さないけれど、ミカエルを熱愛していることを、あたしは知っている。でも、ミカエルの気持ちが誰にあるか知っているから、黙って秘書に徹している。
どんなに苦しい日々かと思うのだけれど、彼女はただ、ミカエルの側にいられるだけでいいと言う。他に、望むことは何もないと。
人はどうして、なかなか両思いになれないのだろう。それとも、叶えられない想いを抱えている方が、鋭い幸福感を得られるのだろうか。
夕食が決まると、セイラは一礼して立ち去った。ミカエルも席を立つ。
「それまで、散歩でもしてくるといいですよ。ぼくは少し用事がありますから、また後で」
ミカエルには彼の研究テーマがあり、麗香姉さまから託された業務もあり、忙しいのだ。一族には大きな研究施設が幾つもあるけれど、そこに委託する課題の幾分かは、姉さまやミカエルが前もって当たりをつけると聞いている。
知能強化されたバイオロイドって、凄いものだ。これではいずれ〝ただの人間〟は、人類社会の傍流になってしまうかも。
あたしはとりあえず、離れのお風呂に向かった。庭を見ながら入浴できる、露天風呂のしつらえだ。明るいうちからお湯に浸かるなんて、最高の贅沢。いい香りのする檜の浴槽で手足を伸ばし、じんわり汗をかくまでお湯に入った。
自分が思っていた理想の自分に、とても到達できていない。幼稚でみっともないダイナ。
でも、とにかく、もう一度、兄さまに会いに行くべきだろう。どんな結果になろうとも。それが、くぐり抜けなければならない関門なのだとしたら。
***
ミカエルの屋敷に泊まって、朝を迎えた。
といっても、あたしは夜明け前に目を覚ましてしまって、和室に敷いた布団の中で、何度も寝返りを打っている。
やっぱり、今度ばかりは、ミカエルの助言が間違っているのではないだろうか。彼はとても聡明で、科学技術や政治経済についてなら頼りになるけれど、そもそも、普通の人間ではない。一般社会の人間関係となると、やはり十分に理解しきれていないのではないだろうか。
彼はバイオロイドとして培養カプセルから取り出され、違法組織の中で奴隷暮らしをしていた。その後、市民社会に保護されたけれど、わずか数年で、また辺境に舞い戻ってしまった。正常な人間関係を、十分に経験したとは言いがたい。おまけに、恋をした相手が、普通の女性ではなかったわけだし。
ミカエルに頼った自分が、やはり気弱だったのではないか。子供の頃は、自分には何でもできると思っていたのに。あのハイヒールの幻影に、まだ打ち勝てない。
兄さまが付き合う相手なのだから、完璧な才女に決まっている。特別に美人ではなくても、優雅で聡明で、深い叡智を備えた女性だろう。
そんな人の前に出ていって、どう振る舞える?
うんと卑屈になるか、逆に意地悪な小姑になるか、どちらかだ。
人生修行を、やり直さないと。どこかの山奥にでも籠もって、滝に打たれるとか。それから改めて、自分の将来を考え直さないと。
確かに子供の頃は、紅泉姉さまに憧れていた。いつか〝リリス〟の仲間に入れてもらうのだと、張り切って戦う稽古をしていた。でも、今ではわかっている。いかに超人的な戦士であっても、個人の戦闘能力など、世界全体から見れば、さしたる問題ではない。
大事なのは、組織力だ。
紅泉姉さまだって、一族の財力や科学力を背景にしているから、悪党相手の戦いを続けていられる。
だから、あたしにできる最大の援護は、一族の利益を最大化することだと思うようになった。それならば、お祖母さまの秘書として働くことに、大きな意味がある。母胎となる違法都市の経営がうまくいってこそ、姉さまたちの援護も可能なのだから。
そう思って、努力してきた。それが、こんなことで挫折するなんて。
もしかして、人生で初の挫折なのだろうか。
自分で呆れる。あたしは本当に、何の悩みもなく、うかうかとこの歳まで過ごしてきてしまったのだ。
悩んだことといえば、泉の人生を壊してしまったことくらいか……それすらも、もう滅多に思い出すこともなくなっていた……
人生修行の行く先をあれこれ考えながら、起き上がった。あたりはもう、すっかり明るくなっている。身支度して食堂に行くと、セイラが楽しげに食卓を整えていた。ミカエルの側にいられることを、心底から幸せだと思っているのだ。
「おはようございます。いま、起こそうと思っていたところです。さっき、アンドロイド兵がダイナさん宛の手紙を持ってきたので」
「ありがとう」
通話ではなく、手紙とは珍しい。しかも、紅泉姉さまから。明るい縁側でその手紙を開いたあたしは、ずしりと重い氷塊を抱いた気分になった。紅泉姉さまらしく簡潔に、大事なことを伝えてくれている。
『司法局から知らせを受けたので、伝えておく。聖カタリナ女学院の卒業生で、ダイナが護衛したリーレン・ツォルコフが、施設にいる牧田泉の見舞いに行って、何かおかしいと司法局に知らせてきた。本来の泉とは、別人のようだと。
精密検査の結果、泉と思われていた娘はバイオロイドの偽者で、本物は行方不明と判明した。
すり替えには数人の職員が関与したらしいが、異動になった者、記憶操作を受けた者がいて、詳しい経緯は調査中。過去の定期診断をクリアしていた点から見て、グリフィン関与の疑いが濃厚。
牧田泉は、おそらく辺境だ。逆恨みで一族に迷惑をかけられると困るので、この件は、ヴェーラお祖母さまにも伝えておく』
リーレンは、二度と泉には会わないと言っていたけれど、思い直して、面会に行ったのだ。リーレンにとっては、憧れの先輩だったから。いくらその先輩が、グリフィンにたぶらかされて犯罪者になったとしても。
そしてたぶん、妙に素直に、無邪気になった泉を見て、おかしいと感じたのだろう。いくら記憶の大半を失っても、泉の本質までは変わらないはずだと。
グリフィンの仕業だ。泉をまた何かに利用するつもりで、中央から脱出させたのだ。
でも、ということは、本物の泉は、記憶を取り戻したのだろうか。そしてまた、自らの意思で、戦いの中に乗り出していったのだろうか。
それとも、グリフィンにうまく騙されただけなのだろうか。闘志のない者など、利用したくても利用できないはず。
「ダイナさん、おはようございます」
「ミカエル!!」
白いブラウス姿で現れた栗色の髪の美少年の肩に、あたしは手をかけて揺さぶり、訴えた。
「大変なの。泉が、辺境に脱出したらしいの。あたしが心臓を突き破って、殺しかけた相手よ」
それでもミカエルは、涼しげな態度のままだ。
「ああ、ええ、前に話を聞いたから、覚えていますよ。それは、リリーさんからの手紙ですか」
愛する女性からの手紙の方が、ミカエルには重要なのだとわかってしまう。
「ええ、あなたも読んで」
あたしはミカエルに手紙を渡した。ミカエルが欲しければ、あげてもいい。あたしは手元にコピーを残すから。
司法局が今から追跡調査しても、手遅れだ。泉はとうに、辺境のどこかにいる。たぶん、顔や名前を変えて、別人として活動しているだろう。
驚きがおさまると、納得の気分と、火がついたような対抗心が湧いてきた。さすがは泉だ。おとなしく、残りの人生を施設で過ごすことなんて、できなかったのだ。
ふやけていた自分に、電流が通った。頭も冴え、動きたい気分が湧いてくる。悩んでも仕方のないことを悩むなんて、後回しだ。
それより泉は、今どこに。
〝連合〟系列の組織のどれかだろうか。そこで、地位を固めるのに必死だろうか。もしや、あたしへの復讐を考えたりしていないだろうか。
あたしに向かってきてくれるなら、それは受け止める。受け止めて、もう一度、友達になる努力をする。あの時だって、あたしは泉を殺すつもりなんかなかったのだ。
でも、もし、あたしを恨むあまり、一族に対して、あるいは〝リリス〟に対して、何か仕掛けようとしていたら? 泉を殺すしか、止める方法がなかったら?
「そういうことなら、まずシレールさんに相談したらどうですか」
ミカエルに言われ、彼を振り向いた。彼は姉さまの手紙を大事そうに畳んで、胸に押し当てている。痛切に、姉さまがうらやましいと思った。こんなに深く、静かに、愛され続けているなんて。
「お祖母さまにではなくて?」
「マダムには、もう知らせが行っているのでしょう。ぼくが心配なのは、あなたの最大の弱点が、シレールさんだということですよ」
その途端、兄さまが、遠くから狙撃されて死ぬ場面が浮かんだ。あるいは、爆弾を仕掛けられて、車ごと吹き飛ぶ姿。こうしてはいられない。
「ごめん、また来るね!! ありがとう!!」
あたしは叫び、自分の車に飛び乗って桟橋の船に向かう。急いで《サラスヴァティ》に行かなくちゃ。でも、その前に通話。兄さまに、用心してと言わなくちゃ。
いえ、それだけなら、わかったと一言返されて、おしまいだ。それでは足りない。そうだ。あたしが兄さまのガードに付けばいい。兄さまに恋人がいても、関係ない。
それなら、まず押し掛けることだ。これから行くと予告したら、来なくていいと言われるに決まっているんだもの。
泉編5に続く
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