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恋愛SF小説『レディランサー アグライア編』10

アグライア編10 17章 ジェイク

俺は思うのだが、ジュンが必要としているのは、夫というより〝愛人〟なのではないだろうか。

十八歳の小娘が、いや、もはや立派な女かもしれないが、違法都市の総督という重圧に耐えているのだ。しかも、前代未聞の改革に挑戦している。

その苛酷な緊張から、ほんの一時逃れるために、何かに耽溺するとしたら。一番簡単なのは、安心できる男にすがり、肉体的快楽に没頭することくらいだろう。

だから、その相手は俺でもエディでもいいのだ。あるいはティエンでも、もしかしたらユージンでも。

ただ、エディよりは俺の方が付き合いが長く、女に慣れているという条件があるから、俺を『最初の男』に指名しただけかも。

同じく気心の知れたエイジやルークを選ばなかったのは、彼らが徹頭徹尾、ジュンを妹としか思っていないからだろう。

もちろん、俺がジュンの初恋だったと聞いたのは嬉しかったが……ジュンはそのすぐ翌日に、エディにも手を付けたのだ。恋愛感情については、大幅に割り引いて考えるしかない。俺もエディも、ジュンにとっては『都合のいい男』に過ぎないのだ。

千人近くも集めて、派手にお披露目をしたことも(エディは感激していたが)、生涯、こき使うことへの事前通告のようなもの。俺たちは、総督直属の代理人として、都市内を走り回る毎日だ。

「ジェイク、この件は遺恨が少なくて済むよう、お願いね」

「エディ、あの件はどうなった?」

「例の件、もめるようなら、二人で仲裁してね」

と、毎日、任務を投げられ、責任を負わされる。

(好きなだけ、こき使えると思ってやがる)

内心でそう思いながらも、ジュンが夜、俺の部屋へ来ることは拒めなかった。拒むどころか、嬉々として迎え入れてしまう。こんな小娘に溺れてしまって、と自分で自嘲してしまうが、もはや、他の女のことは考えられない。

(捕まった、というやつだ)

いや、本当はもっと前に捕まっていた。だから、他の女たちと平気で別れて、辺境までやってきたのだ。中には悲しい顔をしてくれた女もいたが、俺を本気で引き留めた女はいなかった。俺の心が、ジュンの元へ飛んでいたことを知っていたのだろう。

(こうなるしかなかった)

ジュンは俺の下で好きなだけ歓喜の声を上げ、罠にかかった獣のようにのたうち、最後には満足して、ぐっすり眠る。俺は、生きた娯楽薬で、睡眠薬というところか。

たぶん、これでいいのだ。ジュンの役に立っている。他に、行きたい所があるわけではないし。

エディとの間にも、さしたる問題はなかった。互いに、相手に遠慮しているからだ。嫉妬をぶつけまい、これまで通りの関係を保とうと、努力している。

ジュンが、そこまで計算して俺たちを選んだのだ。俺たちならジュンにかかる重圧を理解し、それを和らげるために支えになると承知して。

「いや、おまえらは偉いよ」

ルークが、痛々しいものを見るような顔で言ったものだ。

「本気で愛していなかったら、できないことだ」

エイジも難しい顔で腕組みし、しみじみと言う。

「俺たちは、遠からず中央へ戻る。待ってくれている女が、待ちくたびれないうちにな。だから、俺たちの分も、ジュンを守ってやってくれ」

辺境で生きることは、もう覚悟した。他組織の幹部たちとも、本音のぶつかり合いをするようになっている。その中で、信用できそうな者も見えてきた。

辺境の人間が全員、狡賢い小悪党というわけではない。確かに損得の計算はするが、長期の展望を持てる者もいる。永遠に生きるつもりなら、それはなおのこと重要だ。

俺とエディは、既に《アグライア》の中枢にがっちり組み込まれた。市民社会から見れば、れっきとした違法組織の幹部ということになる。いずれは、不老処置を受けることにもなるだろう。ジュン本人はまだ若いからいいが、俺はもう中年だ。若さを保っておかなくては、ジュンのお守りはできない。

(こういう人生だったのか)

振り返ってみれば、父親が犯罪者だという屈辱を晴らすためにエリート軍人を目指したことも、ネピアに誘われてハンター稼業を経験したことも、バシムに誘われてエオスに乗ったことも、全てジュンと出会うための、魂の準備だったのだろう。

これから先、どんな変転が待っているのかは知らないが、今は気持ちが定まっている。

これでよかったのだ。ジュンが俺を必要としているのだから。

アグライア編10 18章 ジュン

センタービルのバルコニーを冷たい冬の風が吹き過ぎる朝、メリッサに厳しい顔で言われた。

「ジュンさま、朝食前に医療室にいらしていただきます。途中の通路は人払いしましたし、検査はすぐに済みますから」

とうとう来たな、と思った。自分では、わかっていたのだ……生理がこんなに遅れるなんて、初めてだったから。

この件に関しては、あたしは周囲を騙していた。避妊用のホルモンセルを皮下に埋めたから、妊娠の心配はない、とジェイクにもエディにも、メリッサにも言っていたのだ。

最高責任者であるあたし自身が、センタービルの医療室の利用記録を誤魔化すことは、簡単にできる。

もちろん当初は、普通に避妊処置をするつもりだった。でも、あれこれ考えているうちに、気がついたのだ。

――妊娠して、何が悪い?

それどころか、妊娠、万々歳ではないか。だって、いつまで生きられるか、何の保証もないのだ。仕事の忙しさは、どうせ何年後でも変わらないし。

アイリスだって、言っていた。子孫を残すこと。それが生物としての、最大の仕事だと。それに、きっと、ママの願いに応える道でもある。

父親は別に、どちらでも構わない。たとえ彼らが怒っても、後の祭り。

検査の結果は、陽性だった。妊娠確定だ。もう少し経てば、父親も確定できるという。

メリッサは細い眉を曇らせ、ほう、とため息をついてから、改めてあたしに頭を下げた。

「おめでとうございます。すぐ、メリュジーヌさまに報告します」

「総督失格、と言われるんじゃないかな」

指揮官の前線離脱と思われるのだけは、うまくない。仕事への影響は最小限に食い止めるつもりだと、説明しなくては。

「あら、そんなことはありません」

「でも、今、ため息ついたでしょ」

「失礼しました……これは、ただ、うらやましくて」

「うらやましい?」

「それはそうですわ。ジュンさまは成功者ですもの。あんないい男を二人も惹きつけて、おまけに子供までできるなんて、女の王道ですわ」

自分を成功者、と思ったことは、あまりない気がする。むしろ、何かの大失敗に至るまで、悪あがきしている最中なのではないか。

「メリッサだって、口説いてくる男はたくさんいるでしょ」

オタク趣味はそれとして、個人的な恋愛だって、できるはず。

「いますけど、ぱっとしませんわ。こちらでいいなと思うと、女に興味なかったり、他の女性を追いかけていたりするんですから」

と無念そうに言うが、本当は、それほど深刻ではないようだ。たぶん、まだ、本気になれる相手に出会っていないのだろう。このまま一生、そうかもしれないが。

「妊娠中は無理できないから、あなたに迷惑かけると思うけど」

「あら、迷惑なんて、そんなことはありません」

メリッサの声が明るくなった。やはり、仕事が趣味だ。

「ジュンさまを助けるために部下がいるのですから、子育ても当然、お助けしますわ。それに、胎児は適当な時期に、人工子宮に移してもいいのですから」

メリッサがそう思ってくれるなら、助かる。

辺境では、元々数少ない本物の女性が、妊娠、出産したという事例はほとんどないけれど、人工子宮の利用は市民社会でも珍しくないし、技術的には何の心配も要らないことだという。

「とにかく、朝食の間へどうぞ。わたくしは、メリュジーヌさまに報告しますから」

それから、気づいたように言う。

「くれぐれも、走ったり、転んだりはなしですよ!! 冷たいものも食べないで下さいね!! 濃いコーヒーも控えて下さい!! 後で、妊婦用の暖かい衣類を届けますから!!」

前後左右を護衛兵に囲まれ、高層階にある生活エリアに戻った。さすがに妊娠が確定すると、足元がふわふわするというか、何か頼りない感じ。

これまでのあたしは、

『どこからでもかかってこい』

という気概を持って、肩で風を切るように、早足でずんずん歩いていたけれど、身重の状態では、まず、そんな力みをやめないといけないだろう。

戦うことと、赤ん坊を育てることは、きっと両立が難しい……でも、そのために伴侶がいるのだから……二人がどう反応するか、わからないけれど……

「ジュン、おはよう」

みんなが集まる食堂では、エディが笑顔で出迎えてくれた。他のみんなはもう、てんでに食べ始めている。

「コーヒーがいい? それとも紅茶?」

そうだ。赤ちゃんには、カフェインはよくないのかも。あたし、妊娠のことを何も知らない。これから勉強しなきゃ。

「ええと……」

冷たいジュースもよくないかも。でも、白湯というのもつまらないし。

「お茶……温かい番茶がいい」

エディは少し意外そうな顔をしたけれど、すぐさま香り高い番茶を持ってきてくれた。

あたしはぼんやり席に座ったまま、どう打ち明けようか悩んでいる。そもそも、どちらが父親なんだろう。ジェイクもエディもすねたりしないよう、〝訪問〟の回数は半々になるよう気をつけていたし……

賑やかな食事が終わる頃、メリッサが部屋に入ってきて、晴れ晴れと宣言してくれた。

「ジュンさま、ご安心下さい。メリュジーヌさまは、でかしたとおしゃいました!! 妊娠は大歓迎ですって!!」

おお、そうか。さすがはメリュジーヌ。

「それから、遺伝子検査の結果、赤ちゃんは女の子で、父親はジェイクさんと確定しました。おめでとうございます!!」

伝え方に悩むまでもなかったな。テーブルのあちこちで、ガシャンと何かを落としたり、ぶつけたりする音が響いた。全員、総立ちだ。

「妊娠だって!?」

「ジェイクの子供!?」

「早業だな、若いだけある」

ルークやエイジはもちろん驚いていたが、ユージンは何か嬉しそうだ。サングラスで目元を隠していても、口のゆるみ方でわかる。あたしの企みを、察知していたのだろうか。

どうせ生むなら、早く生み始めた方がいいのだ。地位があるうちに。そうすれば、あたしが死んでも、子供たちが生き残る確率が高くなる。

それに、兄弟姉妹がいれば、互いに助け合えるし。

ジェイクとエディはそれぞれ凍りついて、あたしを眺めていた。知らない女でも見るかのように。あたしはやむなく、にっこりしてみせた。

「いま、検査してきたの。当面、仕事を少し減らそうと思うので、よろしくお願いします」

ああ、親父にも報告しなきゃ。孫ができるって。

***

メリッサは直ちに、あたしの専属医師を決めた。自分も出産、子育てを経験したベテランの女性医師、ドクター・ミナを、元の同僚たちの推薦で、他組織から引き抜くという。不老処置のおかげで若く見えるけれど、中央では三人の子供を産み育てたそうだ。頼りになる。

「おめでとう、ジュン」

通話画面の向こうで、銀白色のドレスを着たメリュジーヌは満足げだった。まるで、自慢の名馬が、優秀な種馬の子馬を妊娠した時みたい。

「よくやったわ。大成功よ」

何がそんなに嬉しいのかわからないくらい、にこにこしている。

「改革を始めたばかりで妊娠なんて、ちょっと間が悪いかなと思ったんだけど」

と言い訳のバリアを張ったら、自信ありげに断言された。

「だからいいのよ。改革が本物になるわ」

「え、どういう意味?」

「都市の総督が子供を産んで、自分で子育てするのよ。これ以上の宣伝はないわ」

あたしはまだ、よくわからない。

「何を宣伝するの?」

「決まっているでしょう。子育てできる都市を、あなたが売り物にするのよ」

あ。

「あなたの妊娠がニュースになれば、辺境全体の女たちが、《アグライア》に注目するでしょう」

そうか、そういう展開になるのか。メリュジーヌが以前、あたしの私生活に立ち入ることを尋ねてきたのは、こういう結果を期待していたからなのだ。

「辺境でも、女の本能がなくなるわけではないわ。子供が欲しい女は、潜在的にはたくさんいるはずよ」

そうだ、きっとそうだ。

「ただこれまでは、そんな贅沢、とても無理だとあきらめていただけ。男ばかりの違法組織の中、女一人では、とても子供を守りきれないもの。でも、そういう女たちが千人、一万人、十万人集まれば、大きな力を持つ集団になるでしょう」

一気に視野が晴れ、視界がはるか彼方まで広がった。

母親になりたい女の集団。これは、無敵の軍団ではないか。

女一人では弱くても、数が集まれば潮流になる。市民社会からも、理解されやすい。

最初に手を挙げる、わかりやすい誰かがいればいいのだ。それが、あたしの役割。

「彼女たちを《アグライア》に集めればいいの。ここで生まれた子供は、あなたの子供と友達になって育つのよ。つまり、あなたが都市の子供たち全体の保護者になる。辺境の女たちにとって、これ以上、有り難いことがあるかしら?」

よくわかった。

それにしても、メリュジーヌの透徹した知性。いや、最高幹部会全体の考えか。彼らはあたしなんかより、ずっと大胆な改革を目論んでいたのかもしれない。

「もしかして、最初から、こうなることを予測していたの?」

「予測ではないわ。期待していたのよ。あなたは若いし、好きな男も一緒にいるのだから」

白い妖女はくすくす笑った。

「まあ、誰の子供でも構わないのよ。辺境で生まれる子供は少ないのだから、貴重だわ」

そうですか。

でも、自分では作らなかったんでしょ? それとも、こっそり作ったの? その子はどこかで、あなたの名前を後ろ盾にせず、自力で生きているわけ?

その疑問は、口に出さなかった。話してもいいものなら、いつか話してくれるのではないか。

「人手はあるのだから、子育てに問題はないでしょう。子供が欲しい女たちが集まれば、男も引き寄せられるわ。人生を楽しんでいる女たちは、辺境の男たちにとっても魅力的でしょうからね」

ふむ、そうかもしれない。

「もちろん男は、バイオロイドの女に子供を産ませることができるけれど、育てることを考えたら、人間の女が母親である方がいいと計算するかもしれない。いずれにせよ、《アグライア》がそうして成功すれば、他都市でも追従する動きが出るでしょう」

そうやって、辺境でも、まともに人口を増やそうという計画か。安心して子育てできるとわかれば、中央から脱出してくる女たちも増えるかもしれない。

あたしはつくづくと、メリュジーヌの美貌を眺めた。

「罠はないでしょうね?」

もうかなり、この人のことを信用しているが、それでもここは辺境だ。甘い期待は危険であると、自分で戒めていなければ。

「あら、何のことかしら」

と甘い微笑み。

「そうやって集めた子供たちを生体実験に使うとか、〝人間以上〟にしてしまうとか、洗脳して〝連合〟のために働かせるとか、そういうこと」

向こうは艶然と微笑む。

「そういうことをさせないために、あなたが目を光らせるんでしょう? その質問、あなたが女たちから受けるはずよ。彼女たちを安心させるために、万全の体制を整えることね」

あたしには、やるべき大仕事ができたわけだ。みんなにも、うんと働いてもらわないといけない。当面、あたしは活動を制限されるのだから。

あたしは、親父にも連絡を取った。司法局も、あたしとの通話は認めてくれている。一緒にいるバシムにまず話をして、それから親父と交替してもらった。

「ごめんね、色々心配させて」

あたしが《アグライア》に来てから、しばらく司法局に軟禁されていた親父は(小島のホテルとか、山奥の温泉地とか、場所はあちこち変えてもらっていたから、実質はバカンスと変わりない)、最近ようやく自由の身になり、《エオス》への復帰を認められていた。

新しいクルーを募集して、バシムと共に彼らを鍛えながら、貨物や人員の輸送を請け負う日々。

まだ司法局の警備は付いているし、必要な場合は軍艦も並走するけれど、それは、娘のあたしが有名人になってしまったから、仕方ない。

懸賞金リストからは外されても、どんなひねくれ者が、有名人の家族をつけ狙うかわからないのだ。

それにまた、親父が《エオス》で辺境に出ることも、惑星連邦としては警戒している。

市民が辺境に吸い寄せられることを、市民社会の大多数は、まだ認めていないのだ。あたしの改革なんて、いつ消し飛ぶか分からない。

市民社会の最高権威である最高議会でも、ジュン・ヤザキは〝連合〟の操り人形になっているだけだ、改革など表面だけだ、という意見が根強く残っている。

あたし自身、自分の立場は、まだ弱いと知っている。あくまでも、実験的に許されている改革なのだ。何か計算違いがあれば、メリュジーヌだって、かばってはくれないだろう。

「《エオス》はちゃんと飛んでる? 依頼主は戻ってくれた?」

「まあ、何とか、最小限の人数でやっているところだ。クルーの希望者が多すぎて、絞るのが大変なんだ。面接するのがまた、一仕事で。おまえこそ、辺境なんかで苦労して……」

親父はあたしを慰めていいのか、励ましていいのか困っている。ジェイクとエディを両方〝あたしのもの〟にしたことについては、もうあきらめて、納得したはずだと思うけど。

娘が色情狂だとか、悪趣味なハレムの主だとか噂されたら……父親の立場としては、頭を抱えてしまうのだろう。ドナ・カイテルやアイリスなら、笑ってくれると思うけれど。

「ところで、また驚かせて悪いんだけど、あたし、親父をお祖父ちゃんにしちゃった。ごめんね」

親父はきょとんとしている。はっきり言わないと、わからないか。

「つまりね、あたし、赤ちゃんができたの。父親はジェイクだけど、次は、エディの子供を産むつもりだから」

にっこりしてみせたら、親父は口をぱっくり開けた。

「不公平にならないように、ジェイクの方に二人、エディの方にも二人、子供を作ってあげようと思って。これから数年で孫がたくさん出来るから、楽しみにしておいてねっ」

親父はぐらりとよろめいたけれど、待機していたバシムが、素早く支えてくれた。

「ごめん、迷惑かけて」

バシムは苦笑していた。

「迷惑ではないが、ずいぶん欲張るんだな」

「うん、できるうち、何でもしておこうと思って」

いつ死んでもいいように、できることは全てしておく。

もちろん、これから《アグライア》で生まれる大勢の子供たちの保護者にならなければならない以上、長生きするつもりだけど、何がどうなるかはわからないから。

あたしが死んでも、子供たちが残れば、ジェイクもエディも生きていけるだろう。ママから受け継いだあたしの夢は、彼らが引き継いでくれる。

そう、これがママへの最大の供養。

やっと少し、ママの気持ちがわかった気がする。

やむにやまれず自由を求め、愛する人を求めたママは、あたしに希望を託して死んだ。

あたしはその希望を、これから生まれる子供たちに託す。あたしの遺伝子を持つ子供だけでなく、他の大勢の子供たちにも。

誰の子供でも同じだ。人類はみんな、親戚なのだから。

親父がバシムの腕から離れ、きちんと身を起こした。

「めでたい……めでたいことだとは思うが……しかし、ジェイクとエディはそれでいいのか。納得しているのか」

「大丈夫だと思うよ。二人とも、父親が誰でも、生まれた子供は全力で守るって約束してくれたから。父親教室にも通う予定だし。ドクター・ミナが、赤ちゃんの世話を教えてくれるの。おむつの世話も、お風呂も、二人でやってくれるって。あたしはほら、仕事が優先だから」

親父はそこで、絞り出すように叫んだ。

「もう、放っておけない。わたしが、おまえを甘やかしすぎたんだ。よくもそんな、恐れ知らずの真似を。辺境で子育てだと!?」

あれ、怒ってる?

「もう、決めた。ジュン、待っていなさい。軍や司法局が何と言おうと、わたしがこれから、孫の子守りに行く!! 何人生まれようと、全てわたしの孫なんだからな!!」

***

あたしの話を聞くと、ユージンはからから笑った。最近は、わりと気軽に笑い声を立てる。時々、自分の組織に戻るけれど、また《アグライア》に来てくれて、相談役をしてくれる。

「そりゃ、過保護な親父さんだな」

その通りだ。

「気持ちは有難いんだけど、親父が辺境に出るなんて、連邦議会や司法局が認めるはずないのにさ。懸賞金リストから外されたとはいえ、大事な英雄には違いないんだから」

「しかし、いいかもしれん。ヤザキ船長が子供たちのお守りに付いてくれるなら、他の母親たちも安心するだろう。どうせきみは、無理はできないのだから」

その通り、妊娠が文字通りの〝身重〟だということが、日に日にわかってきた。

前はできたことが、今はできない。

空手の稽古はもちろん休み、軽い体操程度にしているけれど、その他にも、できないことが増えた。

まず、かっかと怒ることができない。怒ろうとしただけで、お腹がきゅっと縮むような気がする。赤ちゃんが子宮の中で身をすくめ、

(ママ、怒らないで)

と哀願しているような感じ。

殺伐とした事件の報道を見るのも、辛い。ホラー映画やサスペンス映画も、もう見られない。見たいとも思わなくなった。刺激が強いものは、赤ちゃんに良くないのだ。

それで、怒ったり警戒したりするのは他のみんなに任せて、あたしは刺激の少ない事務的仕事や、害のない面談を受け持つくらいにした。

あとは、女性作家の手になる子育て本を読んだり、ベビー用品を揃えたり。胎教にいい音楽を聞きながら、とろとろと昼寝したり。

もちろん、辺境にベビー用品の専門店はないけれど、系列の工場に注文すれば、いくらでも作ってくれる。いずれ、子供用品の店が必要になるだろうから、ちょうどいい準備作業になるようだ。担当者たちは、張り切っている。

「待っていてください。子供用の絵本や文具、洋服、自転車、何でも揃う店を作りますからね!!」

母親になりたい女たちが、この都市に集まれば、商売として成立する。

じっとしているのに飽きると、センタービル内を歩いたり、屋上庭園で花を摘んだり、温水プールで軽く泳いだり。もちろん常に誰かが付き添い、いたわってくれる。まるで、女王さまみたいな暮らし。

「それでいいんだよ」

とエディは言う。妊娠した女性は、周り中からちやほやされるのが当たり前だと。

幸い、つわりもたいしたことはない。吐き気に悩まされる期間は、そう長くなかった。だるくなったり、眠気が強くなったりという変化はあるけれど、そういう時は、横になって休めばいいのだし。

ホルモンの変化で、躰が妊娠に適応しようとしているらしい。子宮の壁にしがみついた受精卵が、母体を作り変えようとしているのだ。あたしの肉体なのに、既に半分、子供に乗っ取られているようなもの。

(すごい力。まさに生命の神秘だなあ)

と自分で感心する。

ましてや男どもは、全面降伏というありさまだった。

(十代で妊娠なんて、大変なことだ)

(何でも聞いてやって、守ってやらなくては)

と思ってくれるらしい。

「仕事は全部、俺たちに投げろ。毎日、報告するから」

とルークやエイジは言う。

「細かいことは部下に任せて、大きな構想だけ考えればいい」

とユージンも忠告してくれる。

ジェイクとエディは毎日、可能な限りあたしの元へやってきて、何か要望はないか、困ったことはないか尋ねる。あたしは嬉しいやら、可笑しいやら。何か一つでもすることがあれば、彼らも安心するようなので、

「小さいパフェを食べていいか、ドクター・ミナに許可をもらってきて」

「足をマッサージしてほしいんだけど、正しいやり方を習ってきて」

などと、適当に任務を割り振るようにしている。

知らなかった。妊娠が、こんなに幸福なことだなんて。

二人きりになると、ジェイクは安楽椅子に座るあたしの前に膝をついて、お腹にそっと顔を押し当てるようになった。まだ動いたりしないのに、何か聞こえるかと思うらしい。

「胎動があったら、真っ先に知らせるから」

と約束した。

ちょっと寂しそうなエディには、

「次は、あんたの子供を妊娠するからね」

と約束している。

自分でもようやく納得したのだけれど、あたしはとうの昔に、エディを愛するようになっていたのだ。たぶん、出会って間もない頃から。

ただ、《タリス》以降は、エディの死を恐れる気持ちが強すぎて、自分で自分をごまかしていたのだと思う。この気持ちは感謝と友情に過ぎないのだから、遠く離れることになっても、自分は平気だ。エディが無事なら、その方がいいと。

でも、こうして一緒に暮らしていれば、エディを見る度、愛しさが湧いてくるのは否定できない。エディにも、子供を持つ幸福を味わってほしい。エディの幸せは、そのままあたしの幸せになる。

「そんな、無理しなくていいんだよ。きみもぼくも、まだ若いんだから」

とエディは言うけれど、若いからこそ、急いで生むべきだ。

目標の四人、さっさと生み終わって身軽になれば、また戦える。あたしには、家庭生活の他にも、やることがあるのだから。

***

メリュジーヌに言われた通り、あたしの妊娠と、《アグライア》を子育てに相応しい都市にする決意を宣伝したので、辺境の各地から、女性たちの問い合わせが相次いでいた。

「わたしも子供を産みたいのだけれど、今の組織を抜けたら、そちらで保護してもらえますか」

「組織を抜けるにあたって、口添えしてもらえますか」

「ここから動けないので、迎えを頼むことはできますか」

「精子をもらいたいと思う男性が周囲に見当たらないので、そちらで誰か紹介してもらえますか」

「適切な人工精子が欲しいのだけれど、そちらで手に入るでしょうか」

「子育てが一段落したら、そちらで働き口を紹介してもらえます?」

あたしは出来る限り、それらの問い合わせに直に答えた。所属する組織に許可を得てから移住してくると言う人もいれば、円満退職ができないから脱走を手伝って欲しいと言う人もいる。

あたしが持つ権力で助けになる場合は、喜んで助けた。最高幹部会の権威を借りれば、大抵の組織はこちらの『要望』を聞いてくれる。

迎えの船を出す手配もした。人工精子を集めることもした。

辺境では金さえ出せば、ほとんど何でも手に入る。男は要らないが子供は欲しいという女性は、自分の希望に合う人工精子があれば、それでいいと考えていることが多い。

そうして毎週何人かずつ、妊娠、出産を希望する女性がやってくるようになった。

最初のうちは、彼女たちをセンタービル内のホテルや、繁華街のホテルに泊めていたけれど、やがて、それでは間に合わなくなるのが見えてきた。

既に申し出のあった希望者だけで、三百人近い。評判が広まれば、たぶんもっと増える。やがては数千人、あるいは数万人にまでなるかもしれない。

そこで、彼女たちを集めて会議を開き、『子育て村』の建設を始めることにした。《アグライア》居住区の広大な緑地の一角に、病院(ドクター・ミナが責任者になってくれる)や保育所や学校がセットになった居住区を作る計画だ。

余裕ができたら、歴史博物館や美術館、遊園地なども建設できるだろう。子供たちには、そういう場所が必要だ。

最初はルークをその事務主任に据えたけれど、いずれは、母親たちの完全な自治にもっていくつもりだった。彼女たちはそれぞれ、辺境で生き延びてきた猛者だから、自治能力は十分にある。性格も経歴も様々だけれど、子供を守るという一点で、団結できるのが強い。

あたしが大きくなりかけたお腹で相談に乗っていることで、彼女たちに信頼してもらいやすくなっている。総督じきじきの事業なんだから、というわけ。

公園や広場を備えた共同住宅のデザインを、コンペで募集したら、それもまた辺境中の話題になった。

点々と孤立した家を建てるより、子供たちが友達の家に出入りしやすいよう、大きなまとまりになった低層の建物がいい。子供が大きくなってプライバシーが欲しくなったら、母子して、好きな場所に移転すればいいのだから。

隣家と連続したテラス、子供の遊び場にもなる集会室、広い芝生の庭、ほどよく視界をさえぎる花壇や植え込み。

やがて、緑地の中にゆったり広がる、快適な共同住宅が何十棟も建った。その周辺には、公園や花畑を整備していく。

趣味で世話できる菜園や、子供たちが遊べる小川もある。

子供たちが動物に触れ合うための牧場も計画した。いずれ子供たちが犬と走ったり、山羊や羊を飼ったり、鶏の卵を集めたり、子馬に乗ったりする姿が見られるようになるだろう。

***

そういう日々の中、あたしの肉体は変化し続けた。長時間立っていられなくなったり、お腹が突っ張る感じがしたり、足が攣ったり。

食べ物の好みも変わった。濃いコーヒーは、もう飲もうという気も起こらない。ミルクたっぷりの、甘いカフェオレなら、たまには飲める。薄い紅茶には、蜂蜜やレモンを入れる。

かと思うと、夜中に急にプリンやメロンが食べたくなって、我慢できなかったり。

体重も増えた。以前は子鹿のように身軽だったのに、今では信じられないくらい鈍重だ。

階段の上り下りがきつい。足元が見えにくいので、手すりに掴まっても、転落しそうで怖い。やむなく、エレベータに頼るようになった。平らな通路を歩く時でも、誰かが手を貸してくれる。

「ほら、掴まれ」

とユージンまでが優しい。というか、元々、かなり気を遣って、あたしの世話を焼いてくれたのだけれど。

何しろ、自分の組織はあらかた部下に任せ、ほとんどあたしに付きっ切り。いくらメリュジーヌの命令でも、義務感だけでここまではできないだろう。

気晴らしのドライブに連れて行ってもらう時は、メリッサの他にもエディやジェイクやエイジが付き添ってくれ、アンドロイド兵士の部隊が周囲を囲む。暑くないか、寒くないか、疲れないか、細かく気遣われる。

自分が、途方もない貴重品になったみたい。

「そんな、大袈裟にしなくていいのに」

とはいえ、大事にされることは、とても有難い。

そのうち、胎動も感じるようになった。何か、虫がうごめくようなむずむずする感じがあって、ドクター・ミナに訴えたら、

「それが胎動ですよ」

と笑われた。するとジェイクとエディが交互にやってきて、

「触っていいか?」

「耳をつけていい?」

とまとわりつく。彼らが感動しているのを見て、あたしも嬉しかった。これで少しは、辺境に引きずり込んだ埋め合わせができただろうか。

父親であるジェイクの感動は当然なのだけれど、エディも自分の感動の予行演習なのか、しみじみ感慨に浸っているようだった。

「本当は、絶望したんだ。ジェイクの子供が出来たとわかった時。ぼくはもう、お払い箱になるのかと思った」

まさか、そんな。

「次はエディの子供を産むから、待っててよ」

あたしの場合、男を好きになるということは、その男に子供を持たせてやりたい、という願いに直結するらしい。それが何より、男の愛情に報いる道だと感じるので。

健康で、妊娠できてよかった。

それというのも、ママが、命がけであたしを産んでくれたからだ。卵子は他の人からもらったものだけれど(その人にも、今は心の底から感謝している)、自分の子宮で育ててくれた。

だからあたしも、命をつなげたい。

仕事は戦いだけれど、妊娠は祈りに似ている。

どうかこの子が、無事に育ちますように。この子の見る世界が、明るいものでありますように。

やがて、お腹の重量で、寝返りにも苦労するようになった。ウォーターベッドも試してみたけれど、水に浮いて眠るのは落ち着かない。確かに、カプセル中で温水に浮いていれば、躰は楽なんだけど。

自由自在に走り回り、飛び回っていた頃は、何て楽だったのだろう。妊娠の途中で胎児を人工子宮に移す女性の気持ちが、よくわかってきた。

別個の命をお腹に預かるというのは、とても大変。ある意味、エイリアンに寄生されているのに等しい。

それでもあたしは、出来るだけ長く、赤ちゃんをお腹に入れていたかった。ママもそうして、あたしを育ててくれたんだもの。

愛されて生まれたという確信があれば、その後、辛いことがあっても耐えやすいでしょ?

この子を抱えている時間は、この子に対する贈り物。

いや、二人目からは、早々に人工子宮を利用させてもらうかもしれないけれど。

***

夕方、私室のベッドで横になって休憩していたら、外回りから帰って来たジェイクが、報告と様子見にやってきた。

『子育て村』の運営は順調で、もらった精子や、人工精子で妊娠した最初の数百人が、続々と入居し始めている。女性同士の仲も良いらしい。部屋に好きな家具を入れたり、集まってパーティをしたり、キルトや編み物の会を始めたり。

もちろん、最初から人工子宮を利用する女性もいるけれど、多くの女性は妊娠という体験を欲している。

ただ、これまで、仕事の鬼だった女性がほとんどなので、

「料理なんて、したことない」

「のんびりしろって言われても、どうすればいいの」

「手芸なんて、向いてないわ」

と戸惑う声もあるようだ。

「何か、仕事を下さい」

と願う人もいるという。

どのみち子供が増えたら、保育士や医師、教師などがたくさんが必要になる。彼女たちのうちの何割かに、その役目を担ってもらいたかった。妊娠している間に、少しずつでいいから、先のことを考えてもらおう。

「この様子だと、村を拡張するか、別の場所に第二、第三の村を作るかってことになりそうだな。場所の目星をつけておかないと」

そういう話を聞きながら、足をマッサージしてもらった。エディだけでなく、ジェイクもかなりマッサージの達人になっている。

好きな男にこうして優しくしてもらうのが、女には何よりの薬。愛され、守られているという確信がなければ、こんな不自由な生活は続けられない。

ジェイクは真剣な顔をして、ハーブ入りのマッサージオイルを使い、そろそろと慎重に、大きな手で足腰をさすってくれる。腰の辺りが重いので、マッサージがとても有り難い。

ママもきっと、幸せだったんだろうな。あたしがお腹にいる時。こうやって親父に尽くしてもらい、うっとりしていたかも。

そう思ったら、突然、涙がぶわっと溢れてきた。

今、とても幸せなのに。

多分、どんな幸せも永遠には続かない、とわかったからだろう。

ママはもういない。ずっと独り身を通してきた親父も、ドナ・カイテルと心を通わせるようになった。

あたしは今、ジェイクとエディに守られているけれど、いつかはみんないなくなる。

何十億年、何百億年という宇宙の歴史の中で、人間に許された命は、ほんの一瞬にすぎない。

不老処置を受けて数千年、数万年生きられても、永遠には届かない。人類の歴史そのものが、花火のような一瞬の輝きにすぎないのだ。

「おい、どうした? ドクターを呼ぶか?」

ジェイクが慌てて心配するので、ボロボロ泣きながら、

「何でもない」

と答えた。

「ちょっと、おセンチになって……」

「マタニティ・ブルーというやつか」

それは出産後の話だと思うのだけれど、ジェイクは勝手に納得した様子。メリッサに言われてエディと二人、父親講座を受けているのだ。妊婦の心理や肉体の変化から、赤ちゃんの世話、幼児の発達過程まで、ドクター・ミナからびっしり教わっている。時にはルークとエイジも、飛び入り参加するらしい。彼らもいずれ、中央に戻って父親になるのだ。

ドクター・ミナは子育て村にも通って、母親たちの検診をし、相談役を務めていた。既に、かなりの忙しさだ。ルークが手配して、新たな医師の募集をかけている。

ジェイクが大きな手で、あたしの頭を撫でてくれた。

「心配するな。俺たちがいるんだから、おまえは何も悩まなくていい」

「うん」

あたしくらい恵まれた妊婦は、他にいないとあたしも思う。何しろこの子が生まれたら、ジェイクとエディが二人して、全ての世話をしてくれるというのだから。

あたしがするべきことは、授乳だけ。それすらも、しばらくしたら合成ミルクに切り替えていいと言う。

あたしだって少しは何かできると思うのに、二人とも、その点ではあたしを全然信用していない。無事に身二つになったら、子供のことなんか忘れて、仕事に飛び回るだろうと思ってる。

まあ、それはそうかもしれないけれど。

妊娠の苦労はあたしが背負ったのだから、子育ては父親に任せていいかもしれない。どうせまた、次の妊娠が待っているのだし。

「あたし、ブルーじゃないよ。すごく幸せ」

と泣き笑いしたら、ジェイクはあたしの目元にキスして言う。

「俺もだよ」

そして、あたしが落ち着くまで寄り添い、ゆっくり頭を撫でてくれた。

いつか、あたしもジェイクもエディも、みんなこの世からいなくなる。でも、力の限りに生きた後なら、それは仕方ない。その時に、誰かが後に残っていてくれればいい。

必ずしも、あたしたちの子供や孫でなくていいから、同じように幸福を感じ、感謝を覚え、涙を流す誰かが。

アグライア編10 19章 ジェイク

俺のしたことは犯罪だと、どうしても思ってしまう。

ジュンに相応しいのはエディだと、よくわかっていたのに。

それを横から盗むような真似をして、妊娠までさせてしまって。まるで、受け持ちの女生徒に手を出した淫行教師のようだ。

かろうじて犯罪にならずに済んだのは、ジュンの意志が強かったからにすぎない。

親父さんには通話をして許しを乞うたが、俺を責める人でないのは、最初からわかっている。逆に頭を下げられた。ジュンのために苦労をかける、娘を頼むと。

苦労ではないと思う。いや、あれこれ悩んだり、忙しく飛び回ったりはしているが、それは幸福な忙しさだ。

ジュンはけろりとして、俺もエディも両方好きだと言う。両方の子供を、交互に産むつもりだと。

あいつのことだから、本当にその通り実行するだろう。まったく、女には勝てない。

だが、女なしの人生なんて、砂漠か極地と同じだ。簡素で高潔だろうが、寂しすぎる。

おまけに俺には、娘ができるのだ。子供部屋に用意された小さな服や、色鮮やかな玩具を見るだけで、むずむず、そわそわする。

抱っこしてやろう。ミルクを飲ませてやろう。おむつも替える。風呂に入れてやり、寝かしつけてやろう。一緒に遊んでやるし、絵本も読んでやる。犬か猫も飼ってやろう。馬にも乗せてやろう。自転車も教えてやろう。

ああ、小さな娘はどんなに可愛いか。パパと呼んでくれたら、きっと、だらしなく鼻の下を伸ばしてしまうだろう。

これまで、特に自分を子供好きだと思ったことはない。早くに結婚して父親になった友人たちを見て、

(まんまと捕まりやがって)

と皮肉な感想を持ったこともある。だが、こうなってみると、

(ずっと独り身なんて、砂漠の彷徨じゃないか)

と思えるのだ。

普通、子供に夢中になるのは母親の方だと思うのだが、ジュンは俺より醒めているように見える。

「子供の世話は頼むね。あたし、なるだけ早く仕事に復帰したいから」

と、あっさり言うのだ。

仕方ない。最高幹部会に見込まれ、総督に抜擢されたのはジュンだ。

続々と集まってくる母親志望の女たちも、ジュンを信頼して、自分と子供の安全を託している。今はまだ数千人規模だが、いずれ万単位になるだろう。そうなれば、一つの勢力だ。

「わかってる。子供は俺が責任持つから、おまえは好きに動け」

ジュンの地位が安泰である限り、違法都市での子育てに不安はない。やはり女たちに人気の高い《ヴィーナス・タウン》の支部も、周辺都市から客を集めて繁盛している。

《アグライア》は有力都市になるだろう。既に、人口は六十万人超まで増えている。娼館を廃止したジュンの改革が、賛同者を集めているのだ。この勢いだと、百万都市になる日も遠くないのではないか。

「ねえ、何か文句ないの?」

特注の安楽椅子に座ったジュンが言うので、絵本をめくっていた俺は顔を上げた。

「何の文句だ?」

「前はよく、あたしにきついこと言ってたじゃない。世間知らずのガキとか、ファザコンとか」

別に、意地悪で言っていたわけではない。ジュンを鍛えるためだ。

「単に、事実だっただけだ」

「そう、それ」

ジュンは喜ぶ顔をする。

「そういう言い方。あたし、あんたにけなされると、なにくそって思ったもん。時々きついこと言ってもらうと、ファイトが湧くな」

大きな腹をして、ファイトなど燃やさなくてもいい。

「やめとけ。妊娠中は、へらへらしていればいいんだ。好きなだけ甘えろ」

すると、ジュンは口をすぼめてみせる。

「変な感じ。エディは元から優しいから何も変わらないけど、あんたはがらりと変わったもの」

「そうか?」

「そ。前は鬼軍曹だったでしょ。でも、優しいあんたも好き。いてくれて嬉しいな。安心できるもの」

俺は胸が詰まる。そんなに幸せそうに言われてしまったら、逃げられないではないか。別に、逃げるつもりもないが。

「おまえが大人になれば、鬼軍曹は要らないんだ。大人は、自分で自分に厳しくできるだろ」

「うん」

「まあ、腹が平らになるまでは、自分を甘やかしておけ」

その時の俺は、赤ん坊に振り回されていて、ジュンのことなど後回しになっているかもしれないが。

***

産み月が近づくと、我慢できなくなった過保護親父が、軍の艦隊を借りてやってきた。親友のバシムも一緒だ。

最高議会がとうとう、親父さんの辺境行きを認めたのである。もちろん、軍と司法局から選抜した護衛付きだ。ついでに、マスコミ関係者も同行している。

「親父。来てくれてありがとう。バシムもありがとう」

ジュンは重い腹を抱えて父親を出迎え、二人から抱擁を受けた。

「具合はどうだ? そろそろなんだろう?」

「うん、そのはず。子供は元気だよ。バシムが来てくれて、心強いな」

ジュンが親父さんの護衛の軍人たちと挨拶しているうちに、俺とエディは、ばつの悪い思いで親父さんと対面した。

「遠い所まで、はるばるどうも……」

「二人とも、直に会うのは久しぶりだな。後で一杯やろう」

「はい」

「こんなことになって、何と言えばいいのか……」

「気にするな。ジュンが望んだことだ。男は、女の希望に添っていればいいんだ」

というのは、親父さん自身の経験から出る言葉らしい。親父さんもまた、難しい恋愛をした人だった。

「それで、子供の名前はもう決めたのか?」

「ええ、ジュンが自分で決めると言い張って」

「苦労して産むのはあたしなんだから、決定権はあたしにあるでしょ」

ゆったりしたクリーム色の妊婦服を着たジュンが、俺たちの方に戻ってきた。前はよく赤やオレンジを着ていたが、妊娠してから、淡い色を好むようになっているのだ。

「遥。漢字でこう書くの。いいでしょう?」

俺としては、もっと平凡で穏健な名前がよかったが。

純粋の純という字をもらったジュンも、そんな名前だから、こんな無鉄砲な娘に育ったのではないか。遥なんて、遥か彼方まで飛んでいきそうで恐い。成長したら、他の銀河の探検に乗り出すんじゃないか。

「そうか。ハルカか。おまえの娘なら、きっとたいしたお転婆だろう」

親父さんはジュンの肩を抱き、優しく撫でた。

「心配するな。マリカの分まで、わたしが見守る。それに、おまえのお祖父さん、お祖母さんとも和解してきた」

ジュンが驚く。

「本当!?」

違法な実験体との結婚を反対されてからというもの(普通、反対するだろう)、親父さんは故郷の一族と絶縁していた。だが、自分に孫ができるとなって、ようやくわだかまりが溶けたらしい。

「おまえのことも、生まれてくる子供のことも、認めてくれるそうだ。わたしに何かあっても、心配要らない。うちの一族がみんな、味方になってくれる」

俺は事前にバシムから聞いていたので驚かなかったが、いいことだ。親父さんはジュンのために、自分の意地を引っ込めたのである。

「じゃあ、あたし、親戚ができるんだね。遥にも、頼もしい味方ができるんだ」

ジュンは涙声になり、親父さんの肩に顔を埋めた。俺も安堵している。味方は一人でも多い方がいい。いつか最高幹部会が、ジュンの敵に回った時のために。

***

「前に親父さんに言われたことが、少しはわかるようになりました」

その晩、俺たち《エオス》の仲間たちは、親父さんの泊まる客室で飲んでいた。バシム、俺、ルーク、エイジ、エディ。

もう一度、このメンバーで飲めるとは有り難い。それも、ジュンが妊娠したおかげ。

俺が口にしたのは、前に、

『娘ができたら、きみにもわかる』

と親父さんに言われたことだ。その時は、自分には関係ないことだと聞き流していたのに。

「まだ産まれてもいない娘なのに、今から心配なんですよ。いじめっ子にいじめられたら、とか。悪い奴らに誘拐されたりしたら、とか。俺の気に入らない男と付き合うようになったら、というのもありますね」

親父さんは苦笑した。

「それがまた、父親の楽しみだ。娘のすることにはらはらしていているうちが、一番いい。いずれは大人になってしまって、全て事後報告になってしまうんだから」

「すみません」

と改めて頭を下げた。エディも神妙に言う。

「ほんとに、全て事後報告で、親父さんを驚かせることばかりになってしまって……」

「いや、いいんだ」

と親父さんは、鷹揚に手を振った。この余裕は、前の親父さんにはなかった気がする。たぶん、ドナ・カイテルがいるという安心感のためだろう。親父さんはいずれ、彼女と暮らすようになる。

「ジュンが決めたことだからな。ジェイクとエディの二重の守りがあるわけだから、あの子は恵まれている」

「そう思ってもらえるなら、少しは気が楽ですが……世間並みの結婚にはならなくて、申し訳ありません」

まあ、全世界に報道される、派手なお披露目はしたが。そもそも花婿が二人では、普通の結婚の枠には入らない。

「あの子はマリカの娘だ。〝普通〟から飛び出す予感はあった。こうなって、むしろ納得といえる」

さすがは親父さん、理解が深い。生きた戦闘兵器と結婚しただけはある。

「あとは、最高幹部会がどこまで、ジュンの改革を許すかだな」

とバシムが言う。

「女たちが集まって、子育てできる違法都市とは……男には、考えつかなかったことだ」

と親父さんも、真剣な顔で腕を組む。

「都市内では、バイオロイドの人権も保障できるようになりました。他組織から逃げてきて、ここを頼る者も多い。子育て村も、拡大しています。むしろ、成功しすぎていることが、不安材料です。最高幹部会がどこまで容認するか、まだわからない。いざとなったら、他の銀河へ脱出してでも、ジュンとハルカを守ります」

と俺は約束した。それが可能かどうかは別として、覚悟は本物だ。

ジュンはエディと半分こだが、ハルカは俺の娘。この世に、これ以上の宝物があるか。娘のためなら、たぶん、何でもできる。

年長の男たちは、にやりとした。

「人生の執行猶予期間は、終わったわけだな」

とバシム。その通りだ。結婚を避け、ずるずる青春の名残に浸っていたのは、責任を負いたくなかったから。それは、人生の前半戦が終わったと認めることだからだ。

だが、いつまでも逃げていることはできない。人生の後半戦を始めなくては。

そして、有限の残り時間を無駄にせず生きる。

不老処置を受けるとしても、それは、残りの日々をわずかに伸ばすだけのこと。

俺はジュンとハルカを背負った。これからもまた、負う者が増えるだろう。彼女たちのために戦うこと。それがまた、俺自身の幸福なのだ。

***

これまで、俺とエディと他の連中とで、何不自由なく世話を焼いているつもりだったが、実の父親が側にいると、やはりジュンは芯から安心するらしい。

「屋上に散歩に行きたい」

「足をさすって」

「お産が済んで、あたしが回復したら、ハルカの誕生記念パーティ開いてね」

「メリッサに許可を取って。ちょっとだけなら、チョコレートパフェ食べてもいいでしょうって」

などと、遠慮なく甘えている。

親父さんとバシムがジュンのお守りをしてくれれば、その間、俺とエディは別の仕事に回れるので有り難い。子育て村で暮らす女たちの世話、他組織との交渉事、繁華街の見回り、その他諸々。

出産そのものについては、バシムも加わった医師団が付いているので、心配していない。ただ、早目の帝王切開を希望するメリッサに対し(その方がジュンの負担が少なく、回復が早いからだ)、ジュン本人は自然分娩を希望していた。

自然な出産を経験してみたい、それが娘への愛情の印になる、というのである。

ジュンに似ない感傷のような気もするが、本人の希望なら仕方ない。そこで、陣痛を少しだけ味わったら、後は麻酔をかけて手術という段取りになった。なぜわざわざ痛い思いをしたいのか、俺にはさっぱりわからないが。

やがて、メリッサが俺たちに告げる日がきた。

「ジュンさまは陣痛が始まりました。産室に入りますので、皆さんは近くで待機していて下さい」

男どもは現場に入れないが、近くでうろうろしていてくれ、というのがジュンの希望なのだ。

そこで、外回りの仕事はルークとエイジに頼み、ユージンには総合司令室に詰めてもらい、俺とエディ、親父さんは、産室の近くのロビーに陣取った。センタービルの中層階であり、警備は厳重なので、他人は近づけない。

優秀な医師団が付いているし、ジュンは健康だが、何しろ若いし、初産だ。俺たちはやはり心配で、うろうろ、そわそわするしかない。

「代われるものなら代わりたいけど、陣痛って、男だったら耐えられない痛みだって言いますよね」

とエディ。俺たちは今日まであれこれ学び、父親になる準備をしてきたのだ。赤ん坊の人形を使って、ミルクを飲ませる練習も、沐浴させる練習もしてきた。もはや、ウンチやゲロから逃げない自信はある。

「帝王切開すれば簡単なのに、わざわざ苦しい方法にこだわるなんて」

とエディはひたすら、ジュンの負担を気にかけている。

俺だって、ジュンが他の男の子供を産むために苦しんでいると思ったら、たまらないだろう。

エディは今日までよく、俺に対する嫉妬や反感をこらえていてくれた。次は、俺が我慢する番だ。ジュンは何が何でも、エディの子を妊娠するだろうから。

しかし、その時、俺にはハルカがいるから、エディに嫉妬している暇はあまりないかも。

途中、メリッサが差し入れの酒やつまみを届けてくれたが、ジュンが苦しんでいるのに、飲み食いなどできない。どれだけ痛いのか、苦しいのか。

「いや、我々が断食しても仕方ない。まだ時間がかかるだろうし」

と親父さんが言うので、少しずつ差し入れに口をつけたが、気が気ではない。

エディも懸命に祈っていた。つくづく男というのは、この世の脇役だと思う。女がいなくては、人生に何の明かりも灯らない。もし、この次、息子を授かることになったら、それをよく、叩き込んでやらなくては。

いや、もしかしたら、女に興味を持たず、男を愛する男になるかもしれないが、それでも、女に対する敬意は必要だ。

待てよ。子供たちの時代には、もう、人間であり続けるか、次の段階に進化するのかを選ぶようになるのかも……

ついに、俺たちが呼ばれる時がきた。

「もういいですよ」

俺たちは薬液のミストで全身を消毒されてから、産室に入ることを許された。大小二つ並んだベッドの片方にジュンがいて、ぐったりしている。その横の小さなベッドには、白い産着に包まれた、赤い肌の小さな生き物が。

すごい。何という奇跡だろう。この生き物が、ついさっきまで、ジュンの体内にいたとは。

「ジュン」

感謝を込めてささやき、身をかがめてジュンの額にキスをした。これ以上何か言ったら、泣き声になりそうだ。

「どう? 美人?」

ジュンは力なく横たわったまま、優しく微笑む。赤ん坊は赤くて、顔はくしゃくしゃ、猿のように小さく、わずかな髪は綿毛のようだが、もちろん、世界一の美人だ。

いやいや、まずジュンをねぎらわなくては。

「世界で二番目に美人だ。おまえが一番だからな」

と言うと、疲労の底でも、勝気ににやりとする。俺はこれまで、ほとんどジュンに甘いことを言った覚えがないが(いや、考えたら、どの女にも言っていないかも)、今日ばかりはいいだろう。

「ありがとう。今日は人生最高の日だ」

まず俺が、次に親父さんが、それからエディが、そっと赤ん坊を抱いた。

嘘のように小さく、繊細で、触るのも怖いくらいだ。それなのに、ちゃんと爪まで完璧に揃っている。

くりっとした目をして、俺たちを興味深げに見定めているようだ。自分がどこにいるのか、わかっているだろうか。温かい子宮の中から、広い世界に出てきたのだと。

この子がいつか、そこらを自在に這い回ったり、俺に噛みついたり、髪の毛を引っ張ったりするのか。

俺のことを、パパと呼んでくれるのか。

身内に何かが満ちるような感動で、神はいる、と信じたくなった。

神に祈りたい。どうかこの子が、幸せな一生を送りますように。

これまでに散々、神も仏もいないという現実を、見てきているのに。

出産に立ち会ったバシムが、解説してくれた。

「体重は三千二百グラム、健康だ。母体も問題ない」

同席していたメリッサが早々に、俺たちを追い出す。

「さ、もう出て下さい。ジュンさまは眠ります。向こう数日は医師団の管理下にありますから、あなた方のすることはありません」

病室から出ても、俺たちは感動で呆けていて、どうしたらいいのかわからない。

「とりあえず乾杯だ」

と冷静なバシムが言い、ロビーで祝杯を上げた。ジュンの一族から預かってきたという、高価なシャンパンだ。

「すまんな、俺が先に子供を産んでもらって……」

エディに言ったら、明るく微笑まれた。

「いいんです。ジュンと先に会ったのは、ジェイクですから。あなたが守ってくれたから、ぼくと会うまで、ジュンは無事でいられたんです」

そう思ってくれるか。

「それに、ジュンの娘ですから、ハルカはぼくにとっても宝物です」

「ああ」

この子には、父親が二人いる。次に生まれる子にとっても、父親は二人だ。変則的ではあるが、こういう家族の形があってもいいだろう。

それからビールを飲み、差し入れの料理を食べた。ようやく安心して、ものが食べられる。

「あの子、どっちに似てた?」

「まだ、わかりませんよ。でも、娘は父親に似るって言いますね」

わずかな髪は茶色だった。目も茶色だった。しかし、これからどう変化するか。

「美人だといいが、美人すぎるのも困るな」

「ほどほどが一番ですね」

「ジュンみたいな、きつい娘になったらどうしよう」

「逆に、おとなしい娘になるような気もします。子供って、親を反面教師にすることがあるでしょう」

などという、他愛ない話をするのもいい。

俺の父親は、俺がまだ子供のうち、要人の暗殺に失敗して当局に追われ、辺境のどこかに消えた。おそらくもう、生きてはいまい。

自分さえ大金を手にすれば、残される妻や息子のことなど、どうでもよかったのか。それとも、妻と息子を手元に呼び寄せるつもりだったのか。いずれにしても、暗殺などで賞金をせしめようとしたこと自体、腐っている。

俺は、そういう卑怯者になりたくなかった。だから、エリートコースを目指して努力した。結局はこうして辺境に来ることになったが、冒険に惹かれて軍を辞めてしまったあたり、本当は父親に似たのかも……

「なあ、ジュンはママでいいだろうが、俺たちのことは何と呼ばせるんだ?」

「ジェイク・パパとエディ・パパでしょうか」

「そんな面倒な呼び方、してくれるか?」

「区別をつける必要がある時だけ、その呼び方をしてくれればいいのでは」

「あるいは俺がパパで、おまえがダディとか?」

そんなことを話しているうちに、日が暮れた。ジュンはまだ寝ている。大変な消耗だったのだろう。

仕事に出ていたルークやエイジが戻ってきて、赤ん坊の顔を見に行き、はしゃいで食堂に集まってくる。ユージンも仕事の途中で、そっと覗いてきたそうだ。

ジュン抜きの夕食は、みんなで乾杯して気持ちよく酔った。人生最高の夜。きっと後から、そう思い出すのだろう。

生きていて、よかった。

生まれてきて、よかった。

この先、どんな変転が待ち受けていようとも。

***

ジュンの健康に関しては、メリッサが断固として防壁になっている。

「ジュンさまの回復が先です。それには、睡眠が必要なのです」

それはいいが、ハルカは合成ミルクを受け付けてくれないのだ。ちょっと味見をしては、ぷいと口を外す。なぜだ。味も栄養も完璧なはずなのに。

しかし、母乳なら飲む。ジュンが胸に抱いて乳首を含ませると、夢中のさまで吸い付くのだ。やはり、母乳が一番らしい。

しかし、ジュンはぶっ通しで眠りたいらしい。授乳が済むと、俺にハルカを預け、こてんと眠りに落ちる。

俺とエディは、交替でハルカの世話をした。それに親父さんとバシムも加わって、四交替制になる。自分の担当時間外でも、可能な限りは付いているから、手厚い体制だ。

ハルカは誰に抱っこされても泣かないので、それは助かる。といっても、寝たと思ってベッドに下ろすと、ぐずったりするので、また抱き上げることになるのだが。

それでも、一番大変なのはジュンだった。八時間通して眠れればいいのだが、ハルカが三時間おきに母乳を欲しがるから、細切れで起こされることになる。

「ああもう、おまえが合成ミルクを飲んでくれりゃ、ジュンは眠れるんだよ」

と俺はぼやいてしまうが、

「いいよ、平気」

ジュンはけなげに起きては、授乳する。それだけは、自分の大事な義務だと思っているらしい。だが、それが終わると、またすとんと眠ってしまう。

つくづく、妊娠、出産というのは大事業なのだとわかった。俺たちは交替すれば休めるが、ジュンは夜中でも明け方でも、ハルカの都合で起こされるのだから。

「次はやはり、早い段階で人工子宮にした方が」

とエディが言うくらいである。

「いいんだよ。どうせ、飲ませないと胸が張って痛いし」

とジュンは言う。

俺はどうしても、まじまじと授乳の姿を眺めてしまう。実に不思議だ。前は小さかったジュンの胸が大きく張って、そこからミルクがほとばしる。ハルカが吸いついて、懸命に『んくんく』やる。

何という生命力だ。こんなに小さいくせに、自分に必要なものが、ちゃんとわかっている。

「あの、なあ」

ついに俺は、二人きりの時、ジュンに頼んでみた。ちょっとだけ。ほんのちょっとでいいから。

ソファにもたれていたジュンは軽く笑って、

「多分、そうくると思ってた」

と服の前を開き、俺にも母乳の味見をさせてくれた。ううむ。感動は感動だが、それほど美味とは思えない。

「大人は別に、お乳を必要としていないからでしょ」

とジュンはあっさり言う。

「あんたに欲しがられても困るよ。ハルカのものなんだから」

俺に必要なものは、ジュン本人だ。妊娠がわかってからというもの、大事に大事に奉って、一度も不埒な真似をしていない。あとどれだけ待ったら、解禁になるのだろう。

もちろん、優先権はエディにある。しかし、次の妊娠には、最低でも一年の間を空けなくては。その間は、俺にも機会をもらえるだろう?

「なあ、次は、最初から人工子宮にしたらどうなんだ?」

俺が恐る恐る提案したら、ジュンは明確に言う。

「ううん、産み月までは、あたしのお腹で育てるよ。でないと不公平だもの。でも、その次からは人工子宮にするかもね」

どうやら本気で、四人作るつもりらしい。

「そんな、無理しなくていいんだぞ」

「無理はしないよ。あたしが欲しいの。きょうだいが多ければ、お互いに助け合えるしね」

確かに肉体的には大変だが、妊娠期間は幸せだったという。

「ほら、人間て、この世に生まれてしまったら、ずっと一人でしょう。でも、妊娠中だけは一人じゃないんだ。朝も昼も夜も、一人になることがないんだよ。命がつながっているというか……あたしの思うことに、胎動を通して反応がある感じ。それが、すごく不思議でね」

と深遠な微笑みで言う。まるで、宇宙の神秘とつながったかのように。

「まあ、おまえがそうしたいなら、それでいいが」

「ありがと。あたし、すごく恵まれてる。こんな恵まれてる母親、いないよ。父親が二人に、お祖父ちゃんも二人、傍にいるんだもの」

なるほど、ハルカにとっては、バシムも祖父のようなものだな。

「とにかく、責任を一つ果たせて、よかった」

ジュンが言う責任とは、俺に対する負債(!!)のことらしい。市民社会と決別させ、先の見えない無法地帯に呼び寄せてしまったことが、申し訳ないというのだ。とんでもない。

「俺は好きでここにいるんだから、借りなんて思うな。ルークとエイジには借りがあるが、それは俺とエディが返すから、おまえは心配しなくていい」

「うん」

ジュンは微笑み、とろんとした顔で言う。

「また眠くなってきた。寝てもいい?」

俺はジュンを抱き上げ、ベッドに運んだ。体重は妊娠前より、いくらか増えたままだ。もはや少女ではなく、若い母親になっている。

「お休み。ハルカはちゃんと見てるから、大丈夫だ」

「うん、おやすみ」

親父さんもバシムも、自分の当直時には、楽しくてたまらない顔でハルカを抱いている。幸せな娘だ。ずっとこのまま、幸せであって欲しい。そのためには、俺たちが世の中をいい方に変えていかないと。

アグライア編10 20章 エディ

子供にとって、大家族で暮らすのはいいことだ。長女の遥、長男の勇気、次男の真人、次女の愛。

本当は、末っ子にはリナ・クレール艦長の名前をもらいたいとも思ったのだが、バシムに忠告されて、考え直した。あまり思い入れの強い名前は、つけるべきではないと。

そもそもジュンが、いまだにそのことを気にしているというのだ。自分はリナ・クレール・ローゼンバッハ艦長の身代わりではないのかと。

まさか、まさかだ。ぼくにとっては、遠い思い出の人になっている。

ただ、ジュンが気にするのなら、そこにこだわるつもりはない。多くの人や物事を愛し、多くの人から愛される名前でいいではないか。

子供が多いのは、大変ではあるが、助かることも多い。四人のうち誰かが泣いても、誰かが笑う。誰かが怒っても、誰かがなだめる。

密かに心配したように、ぼくの体内に根付いているアイリスの細胞が、子供たちに影響を与えることはなかったようだ。

ぼく自身は、わずかではあるが、体力が向上している。年齢からいって不可解なことだから、これには特殊細胞の影響が出ているのかもしれない。

ただ、検査は続けているので、心配な変化があれば、対策は立てられるだろう。その時は、メリュジーヌが相談に乗ってくれる。

あっという間に、ぼくらは怒濤のような子育て生活に突入していた。毎朝、誰かが彼らを車で『子育て村』まで送る。幼稚園と学校が、そこにあるからだ。子供たちの人数は、毎年、増え続けているから、遊び相手はたくさんいる。喧嘩相手も。

子どもたちはそこで遊び、当番の母親たちが用意する素晴らしい昼食を食べ、昼寝をしたり、工作したり、楽器を鳴らしたり、勉強したり。

夕方になると、また四人を積んで、自宅のあるセンタービルに戻ってくる。ジュンも仕事を終えて、第一秘書のメリッサ、第二秘書のセリアと共に戻ってくる。

ぼくは現在、第三秘書だ。子育ての責任を負っていると、それが限度なのである。

それから長いテーブルで、報告会も兼ねた夕食を摂る。

ぼくとジェイクのどちらかが、日替わりで子供たちの付き添いをしていた。子供たちが幼稚園でお遊戯したり、学校で授業を受けたりしている隙に、書類仕事や連絡業務をこなす。

一応、乳母も家庭教師も頼んでいるのだが、四人もいると大抵、誰かが何かやらかすので、応援が必要になる。

友達と玩具の取り合いをしたり、遊具から落ちたり、腹痛を起こしたり、吐いたり、熱を出したり、すねてどこかに隠れたり。上の子が下の子を叩くこともあるし、下の子が上の子に噛みつくこともある。

四人がそれぞれベッドで眠るまでは、こちらも常に走り回っているような状態だ。

「まあ、もう数年すれば、手もかからなくなるさ」

とジェイクは言うが、そんな遠い未来、今は想像がつかない。彼らが成人するまでには、疾風怒濤の思春期を通過しなければならないだろうし。今はまだ、

「パパーっ!!」

と呼ばれたら、他のことを投げ捨て、飛んでいく毎日だ。

子供たちは、父親が二人いるのは当たり前だと思っている。呼べば、近くにいる方のパパが飛んでくる。家にいる間、喧嘩の仲裁も、かすり傷の手当も、おやつを出すのも、風呂の世話も、大抵はパパだ。

ママは忙しいから、パパが二人いてちょうどいい、らしい。

他の家にはママしかいないことが多いので(辺境の女性は、自分一人で子供を産むことが多い。父親は単なる精子提供者か、もしくは人工精子だ)、四人きょうだいで、

「うちは、パパがいてよかったあ」

と笑い合っている。

いずれは、この四人のうちの誰かが、《アグライア》の都市経営を支えてくれるだろう。他所へ武者修行に行く者も、いるかもしれない。市民社会を体験してみたい、と言うかもしれない。彼らの自由だ。こちらはただ、幸福を願って送り出すだけ。

嵐のような時間が過ぎて、ふと気がつくと、ジュンと二人で静かな寝室にいたりする。ジュンは、

「お疲れさま」

とねぎらってくれ、ぼくにハーブティや、薄い水割りを持ってきてくれる。

「真人のたんこぶ、だいぶ引っ込んだよ」

とぼくが報告すると、軽く答える。

「心配してないよ。子供は、怪我をして学ぶものでしょ。痛い目に遭ったら、次は用心する」

ジュンはぼくに寄り添ってソファに座り、甘えてくる。

「ねえ、背中をマッサージして?」

ぼくらはとても仲良くするが、次の子供を作る予定はない。四人で十分だ。まあ、何百年が生きるとしたら、どこかで気が変わるかもしれないが。

ユージンは自分の組織に戻ったが、メリュジーヌの指令を受けて、代理人として飛び回る仕事もあるらしい。たまにぼくたちから通話して、意見を求めることもある。彼から、他組織の動向を教わることも多い。

ルークとエイジは、数年前、中央に帰っていった。今は船乗りを辞め、それぞれ家庭を持って、自分たちの子供を育てている。たまに通話して、近況を伝え合う。

親父さんとバシムも中央に戻り、ドナ・カイテルや新しいクルーと共に、新しく注文した《エオス》で輸送船稼業を続けていた。旧《エオス》は、ジュンのファンクラブに高値で買い取られ、ホテル船となっている。ファンが交互に訪れ、泊まって、記念撮影をしていくそうだ。

情状酌量で予定より早く刑期を終え、自由の身になったドナは、すっかり有能な副長になっている。親父さんは尻に敷かれているようだが、それが嬉しいらしいのは、通話の様子でよくわかる。

チェリーは何回か、ナイジェルをお供にして《アグライア》に遊びに来た。すっかり魅力的な女性になって、研究者の道を歩んでいる。趣味で小説も書いているから、たいしたものだ。

ナイジェルは独身のままだから、まだ一人の女性に縛られる気はないのだろう。

故郷の両親や姉夫婦とは、時々通話をして、子供たちの成長ぶりを報告していた。頑固な父も孫には弱く、通話を断ることはなくなった。まだ現役の軍人なので、辺境まで遊びに来ることはできないが。同僚たちには、孫自慢をしているらしい。

ジュンもまた、親父さんの実家の人々と交流している。ぼくたちに何かあった時でも、子供たちは、中央の祖父母や従兄弟・従姉妹たちを頼ることができるだろう。

ティエンはたまに、時間を作ってジュンに会いに来るが、レジーナやソランジュなど、ティエンの補佐をする女たちが一緒だ。

「ジュンのことは愛しているけど、ぼくにはまず、彼女たちに対する責任があるから」

と神妙に言う。いまだに負けず嫌いで、何かとぼくに張り合ってくるが、絶体絶命の時に自分の味方をしてくれた女たちのことを、大事にしているのがわかる。

彼もだいぶ、ましな男になった。だから、ジュンが奴を弟扱いするのは、気にしないことにしている。

「どうして弟なんだよ。きみとは三か月しか違わないのに」

とティエンが文句を言うのが、すっかりお決まりになった。いいんだよ、永遠に弟でいれば。

アレンのところは、カティさんにもアンヌ・マリーにも、それぞれ子供が二人いる。冷凍睡眠から目覚めさせた時、アンヌ・マリーはしばらく荒れ狂ったが、

『カティと子供たちを傷つけたら、きみをもう一度眠らせる』

とアレンが断固として言ったそうだ。

アレンの背後にジュンが付いていたことで、実利的なアンヌ・マリーは降参した。そして、自分もアレンの子供を産むと宣言して、すぐに妊娠したのである。

「来月になったら、《アヴァロン》に行くつもりなの。あなたかジェイク、どちらか一緒に来てほしいんだけど」

広いベッドで寄り添って横になりながら、ジュンが言う。

「明日、彼と相談するよ。何か問題?」

「緊急の用件じゃないんだけど。一度、ハニーさんとあれこれ、ゆっくり話そうと思って」

「そうか」

「もう、辺境で集められる女性はかなり、うちか《ヴィーナス・タウン》に集めてしまったから。他の組織から、だいぶ恨みを買っているでしょ。市民社会から新たな人材を呼び込むのに、何かいい手はないかと思って」

女性を構成員として確保している組織は、ちゃんとある。だが、それは、それなりの見識を備えた組織だけだ。

女性に配慮する組織でなければ、女性から選ばれない。

だが、まだそれがわかっていない連中がいる。わかりたくないのだろう。

バイオロイドを使い捨てにする組織も、減りつつはあるが、まだなくなってはいない。ジュンを目の敵にする者も、少なくはない。

旧来のやり方から抜けられない連中は、新しいやり方を広めるぼくたちを、快く思っていないのだ。これからもまだ、様々な抵抗や妨害があるだろう。

だが、それは、滅びゆく者の悪あがきに過ぎないのではないか。

「連邦議会に働きかける方が、まだうまくいってないんだ。古い議員が多くてね。軍と司法局の方が、まだしも現実を見てくれる」

ジュンは辺境にいながらにして、市民社会に影響を与えられるようになっていた。ジュンの行動や発言は、かなりの頻度で正規のニュースになる。子供たちや若者たちは、それを見て育つ。彼らが社会の中核になれば、変化は加速するだろう。

だが、法の壁は高く堅い。市民が自由に辺境に出られるようには、なっていない。チェリーたちのように特別な許可を得た者か、二度と戻らない覚悟を持つ者しか、辺境に出られないのだ。

まあ、取材だの研究だのという名目で滞在許可をもらえる者は、だいぶ増えてはきたが。

「旅行はいいことだね。往復の時間、のんびりできるだろう」

「うん。そしたら、エディの手料理も食べられるだろうし」

ここ何年も、ぼくがまともに料理できるのは、子供たちの誕生日とか、何かの行事の時くらいだ。大抵は、プロのシェフに任せきりになっている。

ぼくらが辺境で暮らし始めて、もう八年。《アグライア》は百万都市になり、経済力もついた。既に、辺境の一級都市だ。他都市は、常に《アグライア》の動向を気にかけている。

知己はあちこちに増え、《ヴィーナス・タウン》の他支部の幹部たちとも友誼を深めた。子供を産み育てるため、《アグライア》に移住してくるメンバーもいる。

《ヴィーナス・タウン》のトップに立つハニーさんは、ジュンの頼もしい盟友だ。

ハニーさんを仲介役として、伝統ある違法都市《ティルス》とも友好関係を樹立した。この都市も、女性の総帥がトップに立っている。この三人を中核として、辺境は大きく変わっていくだろう。

この潮流は、もはや最高幹部会が方針を変えて妨害しようとしても、止められないのではないだろうか。

〝連合〟は依然として巨大だが、もはや、それほどの恐怖をもたらすことはなくなっている。ジュンのもたらした変革は、〝連合〟にも利益を与えているからだ。
 
「ハニーさんがね、何か、あたしを驚かせる話を持っているらしいんだけど。じかに会ってから話すって言って、教えてくれないの」

「何だろうね。何か厄介なこと?」

「ううん、あたしが喜ぶこと、らしいんだけど」

「じゃあ、楽しみに待てばいい」

「何だろう。新発明とか、新発見かな」

「新しい同盟者かもしれないよ」

「でも、それならじかに、こっちに連絡してくるんじゃない?」

「仲介者を通す方が、重みがあると思うのかも」

辺境の違法組織と市民社会との融和は、まだ先が長いとしても、門は開いた。自分たちが文明の転換点にさしかかっているという、確かな実感がある。
 
自分がこうも辺境に馴染むとは思っていなかったが、今はもう、市民社会に帰りたいと強く思うことはない。ここが家なのだ。ジュンとジェイクと、子供たちのいる所が。

   レディランサー アグライア編 完

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