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あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり
 麻痺した市場機能(統制時代)
エリートコース投げうち 青果業にカムバック
 時局が切迫していた昭和15年夏、卸売市場が統制経済下に置かれると、
もう青果問屋の先行きも真っ暗。セリがなくなり、値段は固定、口銭すらままならなくなった市場と闇経済が跋扈する世情に見切りをつける気持ちもあって、外務省の領事館警察の採用試験を受けました。以来5年間は上海に赴任することとなり、野菜とは直接の縁がなくなりましたが、振り返ると、
上海で中国野菜をじかに見て、食べる機会を多く持てたことが復員後、青果業にカムバックする大きな動機になっていたのだと思います。
 赴任した上海には日本人が10万人以上いて、その4,5割は長崎県人が占めていました。なにせ長崎から上海に行くのに船で丸1日。東京に行くよりずっと近かったのです。赴任中、上海にはそれなりの賑わいがありました。しかし、終戦を迎えるや、一切の公的書類と私物を焼き捨て、着の身着のままで復員。そして戦前のその賑わいを知っていたわたしにとって、戦火でズタズタにされた銀座界隈の姿は大きな衝撃でした。
 現職警官へのこだわりをすっぱり断ち切ったのが統制解除が間近いとの情報でした。実際の解除は復員して4年後の昭和24年になりますが、この話が眠りかけていたやる気を焚きつけました。「また野菜で商売できる」との思いに居ても立ってもいられなくなって、大戦前に奉公していた持倉に舞い戻ったのです。戦後の統制経済下(連合軍支配下)で、持倉も表向き配給班の班長として営業していましたが、配給だけでは生活できません。持倉といえども闇取引をせざるを得ず、いわゆるやま回りに奔走していました。わたしは前職が前職だけに、後ろめたい気持ちにかられはしたものの、好きな仕事ができる嬉しさに、生き返る思いでした。
※統制経済
卸売市場が再び大転換を迎える契機が昭和12年の日華事変。自由経済から統制経済への急変で、従来の市場機能は昭和11年から15年までに魚類、青果物などほとんどが2倍以上に暴騰、キャベツにいたっては6倍に達しました。
14年9月の国家総動員法にともなって、価格停止令が発令されましたが、生鮮食料品は加工品を除いて除外されました。このため生鮮食料品の値上がりは収まらず、よく15年8月「生鮮食料品の配給及び価格の統制に関する件」が公布されて、これを以て卸売市場も統制時代に突入するのです。
 統制の中身はというと①セリ制度の改変(定価売り・入札売りの採用)
②卸売人手数料の低減③仲買人の口銭制限④荷主・買い出し人に対する奨励金の全廃などなど、市場機能は骨抜きにされたのでした。さらに、食用うなぎに公定価格が適用されのを皮切りに、すべての生鮮食料品に網がかぶされました。この結果、卸売価格は安定しましたが、入荷量激減、配給ルートが混乱、市場外の闇取引横行、品質低下が目立つようになりました。そののち何度も公定価格が改定されたものの、庶民生活の不安を取り除くまでには至らず、昭和16年、配給制度規則の公布で、完全な配給統制時代に突入、卸売人は単なる配給機関となって、仲買人はすべて廃止されたのでした。

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