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やっちゃば一代記 実録(8)大木健二伝

京橋大根河岸
 京橋大根河岸は現在の京橋三丁目付近。京橋川沿いの一角に設けられ、「大根河岸」の呼称は大根の入荷が多かったことに由来する。特に多かったのは三浦大根で、専用の貨物船が数隻、常に隅田川の河口に係留されていた。千葉県松戸辺りの大根も隅田川を下って入荷し、これらの大根は日本橋魚河岸の妻野菜として需要があった。
 荷揚げの場所は紺屋橋と京橋のふたつ。荷揚げは満潮に合わせて行われ、昼夜を問わなかった。満潮でないと京橋川に進入できなかったのだ。大根河岸には、遠州(静岡県)からキュウリ、トマト、ナス、カボチャまどを満載した野菜船も横付けしていたから、最盛時の京橋、紺屋橋にふたつの河岸は大変な混雑となり、作業中、川にはまって溺れ死ぬものまで出ている。余談だが現在の豊洲市場の仲卸業者に「三」のつく屋号が多いのは、産地である、
遠州三河の出身者が多いためと言われる。大きな問屋はいずこもお抱えの荷主を持っていた。荷主は俗に”山”と呼ばれ、問屋は産地開拓にあたる。
”山周り”に力をいれていたのだ。
 そんな大根河岸で健二はふたりの同僚と一杯十銭の支那そばを賭け、大箱にぎっしり詰まったキヌサヤの蔓取りを競った。退屈な作業が気に入って、作業時間も短くなるとの目論見だが、支那そばにありつくのはいつも健二で
負けてばかりの二人はだんだん健二の誘いに乗らなくなった。たかが蔓取り
だが、負けず嫌いな健二は最初から手を抜かない。たまに負けてやるのも処世の術だという事は分かっているが、やはり若かった。
 昼夜営業の北越軒の支那そばは麺がどんぶりの淵からこぼれるほどで、その上に大きな焼き豚、鳴門、支那竹が乗っていた。河岸で働く若い奉公人らの腹を満たすのに十分な質と量があり、キヌサヤが入荷している間、この
北越軒の支那そばは健二たちの旺盛な食欲を満たした。

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