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やっちゃば一代記 実録(11)大木健二伝

クレソン
 ビフテキの台頭で、付け合わせの野菜も組み換えが進んだ。そのひとつがクレソン。記録には江戸時代に食用としてオランダから入ったとあり、その後、全国どこでも自生するようになったが、日本では食用とは見られず、せいぜい鶏の餌にしか利用されなかった。スエヒロのビフテキには、一切れに一本の割合でクレソンが使われた。毒消し効果のほかに、特有の苦味がビフテキを引き立させた。ビフテキのおかげでクレソンは洋食という檜舞台で重要な脇役を演じることになったのである。
「お頼もうします。お頼もうします。」
唐草模様の大風呂敷に包んだ柳行李を背に、中年の男が健二に深々と頭を下げている。「三国園と申します。クレソンのご注文はございませんか?。」
誰もが肩で風を切って歩く河岸界隈では、不釣り合いに丁寧な物腰である。
「ご苦労様です。それでは五十把ほどいただきましょうか。」
健二もつられて慇懃な受け答えをしたものである。三国園の主人は元は傘の修繕業をしていて、民家の勝手口での挨拶をそのままクレソンの商売に引き継いだようだが、そこにはある種の”品”が漂っていた。御家断絶で放免された武士が生活の一時しのぎに傘張りをやったという話を聞くが、ひょっとして三国園の主人も武家の末裔かもしれない。それを口に出して言う事はなかったが、三国園の主人が問わず語りに話すクレソンの採集方法を知り、健二は眼を丸くした。当時、クレソンは多摩川の是政付近(現在の府中市)に自生していたが、河川が整備されていない頃だから、かなりの急流であり、深みもあった。足の置き所とその動きによっては流れに吞まれる恐れがあったので、腰に命綱をまき、綱の一端を妻に握らせるという夫唱婦随の作業だった。多い時でせいぜい八十把から百把、台風や大雨の時は入荷が途絶えたのである。クレソンは東京近郊では帝国ホテル、上野精養軒、東京會舘、横浜ニュ一グランドホテルくらいでしか使われていなかったが、スエヒロの進出によって消費が急増、ビフテキとクレソンは切っても切れない取り合わせとなった。問題は品薄時で、スエヒロでは塩、コショウ、刻んだパセリを絡ませたフライドポテトで代用したが、これが次第に定番化し、ビフテキ、クレソン、フライドポテトの三品の取り合わせが普通になった。このフライドポテトもスエヒロのオリジナルである。三国園の主人は梅村屋、持丸本店、持倉と順繰りに商いをしていた。多摩川の話を聞かされた健二は三国園の主人の柳行李を背負う姿に『クレソンはゆめゆめ粗末には扱えないな』と胸を熱くしたものである。

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