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ゾンビ偏愛記

私はゾンビ映画が好きだ。自分がどんな要素にときめいているのか分析し、「これがあると個人的にアガる」というゾンビ映画における細かい要素をまとめてみる。共感していただけたら嬉しい。

■日常と地続きの非日常性

私がゾンビ映画が好きな理由は、多くのホラーやSFと異なり、その非日常性が日常と地続きである点にある。ゾンビ映画において、人々の当たり前の日常は、ウイルスのパンデミックによってある日突然終わりを告げる。昨日まで普通の社会生活を送っていた人間が、身の回りにあるなけなしの武器を手に、会社や店、他人の家などをシェルターとして生き延びる。感染した人間の様子だけが以前と異なっていて街並みや風景は変わらないが、昨日まで見えていた景色とはまるで別物になる、その非日常感がたまらなく好きだ。日常から浮遊しすぎていないゾンビ映画を見ると、もしかしたら明日自分もこうなってしまうかもしれないと心が揺さぶられる。

まず感染爆発前夜、多くのゾンビ映画では鑑賞者に不吉な予兆を感じさせる演出がある。例えば、

①ニュースで原因不明の事件が報道される。(変死体が発見される、凶暴化した飼い犬が噛まれる、大量の魚の死体が岸に打ち上げられるなど)

②主人公と関わりのない登場人物が事件を起こす噂を聞く。(他クラスの生徒が同級生を噛んで襲う、隣人の様子がおかしいなど)   

③同級生や同僚の欠席が増える。テレビに出演する芸能人が減っていく。  

④序盤のパンデミックがまだ起こっていない時点で、人口密度の高い繁華街や密閉された新幹線、飛行機などが映される。(わざわざ説明しなくても、大仰なBGMを流さなくても、ここは間も無く阿鼻叫喚になるという不穏さを予感させる)

このような演出によって、異質なものが徐々に日常を浸食する不気味さを描いている。漫画「アイアムアヒーロー」では、ゾンビパンデミックが発生する前の平凡で取り留めのない主人公の日常を、一巻をまるまる費やして描いているが、このことについて本題に入るまでが冗長すぎるという批判を一度見たことがある。しかし、ありふれた日常の崩壊がゾンビ映画のテーマの一つであり、これによって日常と非日常の対比が際立つため、作品全体のなかでも重要な部分なのではないかと考える。日常に違和感が積もり積もって少しずつ不安を煽る構成の方が怖いので、個人的には導入からいきなりパンデミックが始まっている作品よりも混乱が起こる前の風景を省略せず丁寧に描いている作品の方が好きだ。

次に感染爆発初期、加速度的に感染者が増加し始める段階において、状況を咄嗟に把握し自分の身を守る行動を選択できるかが生存の鍵になる。序盤で人々が逃げ惑うシーンでは、混乱に居合わせた全員が瞬時に状況を理解できているわけではない。必死の形相で逃げている人もいれば、何が起こっているのかわからず狼狽する人、混乱を楽しみ調子に乗っている人、撮影と勘違いしている楽観的な人など、様々な人が混在しており、四方八方どちらに逃げるべきかもわからない、混沌とした状況を表現している演出があるとリアルで良いなと思う。緊急事態において状況の把握が遅い人はたちまち代謝を止め意思疎通のできないゾンビと化してしまう。

次に、感染爆発は落ち着き、安全なシェルターと食糧を確保し長期的に生活する基盤を整える段階がくる。食料や日用品の確保は定期的な物資補給を行わない限り困難であり、普段は何も考えず食べていたご飯が貴重なご馳走になっているシーンがよくある。例えば、「#生きている」のジャージャー麺、「アイアムレジェンド」のベーコン、「アイアムアヒーロー」の村井くんのベーコン、「ゾンビランド」のトゥインキーなど。極限状態において生命をつなぐ食事シーンは作中でキーになっている場合が多い。

(↑「#生きている」部屋に籠城する引きこもりの主人公が、「최후의 만찬(最後の晩餐)」として食べずに取っておいたジャージャー麺)
(↑「アイアムアヒーロー」四方をゾンビに囲まれ、助かる見込みがないと判断し淡々と自殺した村井君が残した、ご馳走のベーコン。アイアムレジェンドでもベーコンがご馳走とされているシーンがあるためオマージュか?)

■終末感のある美しい街並み

作品によってゾンビの習性は異なるが、ゾンビは日中には活動を停止しており、夜になると再び活動的になると言う設定は多く見られる。感染がある程度落ち着いた後、普通なら人で溢れかえり忙しない昼間の大都市が、不気味なほど静まりかえっているシーンが大好きだ。終末感のある街並みにゾッとする怖さと、なんとも言えない美しさ、開放感を感じるからだ。現代の息が詰まる、うるさくて汚い都会の風景に私自身が閉塞感を感じているせいかもしれないが....。続けて、人のいない静まりかえった街の風景が美しい、開放感を感じるシーンを紹介する。

「28日後...(原題・28 days later)」

「28日後...」は2002年製作のイギリス製ゾンビ映画。ゾンビウイルスのパンデミックが発生してから28日後、病院で意識を失っていた主人公が目を覚ます。主人公は何が起きたのかわからないまま、自分以外の人間がいなくなってしまった変わり果てたロンドンの街を彷徨う。パンデミックに抗おうとした人々による格闘と混乱の跡が街の端々に残っており、彼は何か異常な事態が起きていることを察知する。やるせなさと物悲しさの残る街の風景が印象的なシーンだ。

また、道中で出会った仲間と共にゾンビから逃げる旅をする過程で、28日後シリーズでは明るいロックミュージックが頻繁に流れ、意図的に爽やかなシーンに演出しようとしていることが窺える。世界から全てが消滅してしまったような静寂に包まれた街や、人間の手を介していない自然が皮肉にも美しかった。ゾンビから逃げるシーンの緊張感と逃げ切った後ワイワイ楽しんでるときの開放感との緩急が良い映画だ。

「28日後...」の続編である「28週後...」でも、感染した母親に会うために姉弟がシェルターを抜け出し誰もいない荒廃した街の中をバイクに乗って駆け回るシーンは最高だった。

「アイ・アム・レジェンド」

「アイ・アム・レジェンド」は2007年製作のアメリカ製ゾンビ映画。科学者であるロバート・ネビルは、毎日ラジオで「生存者はいないか?自分は毎日正午に埠頭で待っている」と発信していた。しかし、返事が来ることは一度もなかった。パンデミックの中心地となり荒れ果てた広大なニューヨークで、(あるいは世界中で?)彼はただ一人の生存者だった。彼は毎日たった一人でウイルスを食い止める術を研究し続ける。

自分一人しかいないニューヨークでの生活は、克服しようがない孤独と同時に現代の社会生活から解き放たれたような開放感を鑑賞者に与える。特に象徴的なのが、ビルの立ち並ぶ街の中心でゴルフをするシーンである。同じ意味で、「ゾンビランド」において忍び込んだ豪邸で豪遊、店で綺麗に陳列された商品をぐちゃぐちゃに破壊するシーンも爽快感がある。

(↑「ディストピア パンドラの少女」主人公の一行が逃げ込んだ無人の村。現代の建築が錆びつき遺跡のような雰囲気を醸しているところも個人的に大好きだ..。)
(↑「アイアムアヒーロー」標高が高い場所では感染しないと言う噂に踊らされ、富士山頂にあるアウトレットにたどり着いたシーン。この混乱の跡だけで情報が誤っていたことを感じさせる。)

■生存者同士の抗争

感染したら最後、数秒前まで共に戦ってきた仲間、友人や家族が言葉の通じない生きる屍と化し、自らの安全を守るために倒すべき敵となる。しかし、自分の生命を脅かす存在というのはゾンビだけではない。生きる人間も含まれる。パンデミックの発生からしばらく経つと、ゾンビから逃れるためのシェルターに、人が助け合うコミュニティーが形成される。同じシェルターで生活する、今日出会ったばかりの他人に自分の命を預け戦わなければならない。このコミュニティーの中で、極限状態の生存者同士は足を引っ張り合い、人間同士の抗争が発生するが、ここでの人間ドラマが多くのゾンビ映画でテーマとなりがちである。因みに、ゾンビ映画で自分だけが助かろうとする、所謂「嫌なやつ」の生存率は4%らしい。

感染すれば老若男女、悪人聖人、富裕な者も貧困な者も関係なく、平等に意思なく血を求め動くだけの生物になる。それまでの地位や職業、キャリアや財産が全く役に立たなくなり、その人がこれまでの人生で積み上げてきた蓄積、記憶、交友関係が一瞬でゼロに戻る残酷さがある。

「アイアムアヒーロー」では、ゾンビパンデミック下で今までの社会生活の中で生まれた上下関係、格差が再構成される過程を描いている。売れっ子漫画家の中田コロリ、エリートである伊浦、タクシーに乗り合わせた官僚などの「成功者」と、売れない漫画家である英雄、アシスタント仲間の塚地、ニートのサンゴなどの「失敗者」の対比が明確にされていた。ゾンビになったら最後、生前のキャリアや財産は関係なく、両者の境界線がなくなっていく。それまで伊浦の独裁政権だった屋上のシェルターは英雄が持ち込んだ銃によってパワーバランスが大きく崩れてしまう。このようなパンデミック下で、混乱に乗じて下克上を果たそうとするキャラクターの存在や、上下関係の再構成はゾンビ映画の面白みの一つだと考える。

■ゾンビのビジュアル・強度の設定

ゾンビのビジュアル、肉体の強度、知能、潜伏期間、生前の記憶の引継ぎなどの設定は作品により千差万別である。

まずゾンビのビジュアルについて。ただ画一的な白カラコン+血糊メイクだけではなく、人体の一部が欠損していたり溺れて水を吸っていたり一体一体に個性とバックグラウンドがあるゾンビが登場する作品は、ゾンビ化してからの周りの人間の格闘の跡やストーリーを感じられるので好きだ。例えば「#生きている」にて、主人公が息を殺して通り過ぎるのを待つシーンがある、目を潰された盲目のゾンビ。「アイアムアヒーロー」にて、感染してから風呂に監禁されていたため水を吸ってブクブクに膨張した女の子のゾンビなどは衝撃的で記憶に残っている。

個人的に一番見た目が気持ち悪いゾンビはオーストラリア製の「cargo」だと思う。あらゆる顔の組織が溶け腐り、虫の卵が集合しているかのようなジュクジュクとした黄色い液体が顔にまとわりついており、ビジュアルにこだわりを感じる。ゾンビの動きは遅く数も少なく好戦的でもないが、感染したメインキャラ以外のモブゾンビは顔だけが映らないこと、ぬらりぬらりと音もなく近づいてくること、正常な人間にはできない不安を誘う動きが、よりその不気味さを引き立てている。

次にゾンビウイルスの潜伏期間について。多くのゾンビ映画では、感染者に噛まれてから数分で完全にゾンビになるものが多い。「新感染 ファイナルエクスプレス」のように、頭に近い部分を噛まれるとすぐに発症し、反対に四肢の先端などを噛まれた場合は発症が少し遅れるという設定も浸透している印象がある。

「#生きている」の序盤では、主人公の部屋に逃げ込んだ隣人が噛まれてからゾンビに姿を変える一連のシーンがある。自分は感染していないと信じたいのに徐々に呂律が回らなくなり言動も支離滅裂になる焦りと葛藤を丁寧に描いていた。

ウイルスの潜伏期間が最も長いのは先にも紹介したオーストラリア製ゾンビ映画「cargo」だと思われる。噛まれてからゾンビに姿を変えるまでの期間は約二日間と長く、その分自分の体がゆっくりとウイルスに蝕まれていく絶望を意識のある中で味わなければならない。本作はたくさんのゾンビから逃げるパニックムービーというよりは、噛まれてから2日でゾンビ化するタイムリミットの中、ゾンビから、そして感染しかけている自分から幼い娘を守り安全な場所へ送り届けられるかがメインテーマである。

次に、ゾンビの知能・生前の記憶の引き継ぎについて。ゾンビといえば動物のように唸り声を上げながら目に入った人間を追うだけの存在を連想する人も多いだろうが、映画によっては知能が高く、生前の記憶や習慣を継承しているものもある。

知能が高いのは「アイアムレジェンド」のゾンビだ。彼らは街に罠を仕掛け主人公を捕らえる、動物を従わせて人間を襲わせる、主人公の後をつけアジトを割り出し奇襲をかけるなど、筋の通った作戦をたて仲間内で協力し目標を達成する能力がある。

また、ゾンビがただ唸り声を上げるだけではなく、訳の分からない単語の羅列を口にするシーンが不気味かつゾンビになる前の人物像を想像できて大好きだ・・!「アイアムアヒーロー」の不気味さは、この設定によるものが大きいと考える。これまでゾンビは呻き声しか発さず、動物のように条件反射で生きた人間を追いかけるだけの存在であった。しかし本作ではゾンビの譫言から生前の面影が感じられ、ゾンビが全くの異質な存在ではなく、かつては人間だったという事実が強調されていることにより不気味さが増している。しかしこれが行き過ぎて臭いコメディやご都合展開になっている映画も多いので線引きが難しい・・。

もともとサラリーマンであったゾンビが、まるで夢の中で元の生活を続けているかのように電車のつり革を掴んで揺れているなど、生前と習慣をトレースする設定も多く見られる。例えば「#生きている」においては消防隊のゾンビが、「アイアムアヒーロー」では陸上選手だったゾンビが生前培った経験と身体能力を生かして高所にある生存者のシェルターを脅かしている描写がある。

ゾンビウイルスの発生源について。これは個人的な趣味だが、ゾンビの正体が例えば生物兵器だったり国の陰謀だったりはっきりと明かされてしまうと本当に萎えてしまう。例えばスペインのゾンビ映画「REC」は全4作のシリーズであり、一作目だけではなぜ襲われた住人が凶暴化するのか、感染源は何なのか、何故アパートは封鎖され外に出られないのか、最上階にある部屋やレコードの声など、キャラクターにとっても視聴者にとっても全てが謎のままストーリーが展開する。対象の正体が掴めないことが見ている側の恐怖を煽る。ゾンビが画角一杯に派手に映されるよりも、画面の端にぼんやりと何者かはわからないが明らかに異常な何かが映っている方が怖い。RECがシリーズを更新し恐怖の対象の解像度が高まるたびに評判が芳しくなくなるのもこの法則に逆らっているからではないか。

■ゾンビ映画におけるメッセージ性

ホラーパニック映画は、鑑賞する側に訴えかけるメッセージ性の有無にかかわらず、「恐怖心を煽る」と言う第一義を果たせればモノになるので、その意味で映画界での評価は今ひとつである印象がある。私は個人的にエンタメとしてのホラー映画に一貫したメッセージやテーマは必要ないと考えているが、ゾンビ映画において提示されがちなメッセージについて考えたい。

ゾンビ化は死か?

感染したら最後、数秒前まで共に戦ってきた仲間、友人や家族が言葉の通じない生きる屍と化し、自らの安全を守るために倒すべき敵となる。すぐに仕留めなければ自分も感染してしまうが、悲しみに浸る暇もなく大切な人を手に掛けることができる人はまれだ。ゾンビ化してしまったらもうそれは人間ではないのかという議題は、しばしば映画内で大きなテーマになる。

オーストラリアゾンビ映画「CARGO」では、先住民族であるアボリジニの少女が登場するが、彼女のゾンビ観・死生観がオーストラリア人の主人公とも、これまでのゾンビ映画のどのキャラクターとも異なっていた。彼女は感染した父親を木の中に埋め葬儀をするが、特に父親のゾンビ化について悲しみを見せていなかった。アボリジニは、祖先の霊が自然を形作っているという考えを基盤として、動植物を仲立ちにして生命が循環するという思想を持つ。主人公は序盤では幼い娘を残し後数日でゾンビとなってしまうと絶望し苦しんでいたが、彼も彼女との出会いによって光を見出せたのではないか。所々からオーストラリア人とアボリジニの関係やアボリジニの思想、文化を知ることができる映画だと思う。

「ゾンビサファリパーク」では、ソンビを孤島に隔離してハンティングするアトラクション施設「リゾート」が舞台となる。元は人間だったゾンビを幽閉して一方的に撃ちまくる、狩る側と狩られる側が完全に逆転したエキサイティングなアトラクションだったが、ある日ソンビを閉じ込め管理しているシステムがエラーを起こしてしまうという粗筋である。本当の意味で人間性が欠如しているのは、元は同じ人間であったゾンビを痛めつけ嘲笑う人間たちなのではないか。

ゾンビはなぜ生まれて、どこに向かうのか?

ゾンビ化の根源を、単なるウイルスの発生によるものではなく、哲学的な議論に持ち込んでいる作品も多い。スティーブン・キング原作のゾンビ映画「セル」ではゾンビの個体に意識はないものの常に集団で行動し、動物の群れのようにみな同じ方向に移動しており、ゾンビ全体が一つの生物のように描かれていた。また、「アイアムアヒーロー」でも、ゾンビ全体に共通の意識があり、例えば人間だった当時を含めた記憶や、今現在目で見えているものをゾンビ同士で共有し合ってるという描写があった。人間同士の意識が結合し、シンクロし合いながら一つになり、個を捨て「名もなき集積脳」として生死を超越した存在になることがゾンビ全体の最終目的であった。個人が徐々に集団に溶け込み、個々の境界線が徐々に薄れていく。進歩はないけれども個人間の格差も、自分を傷つける他者もいないゆるやかな夢の中で生きること、それがゾンビになることだと定義されていた(、と私は受け取っている)。集団に溶け込んで自己を殺す、均質化された社会への批判も、ゾンビ映画のテーマの一つではないかと考える。


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