大学英語入門を休んだ話

自分の弱さについて、今日は情けなさを通り越して可笑しさを感じてしまった。

今日は大学英語入門を休んだ。大学英語入門は、4人グループで5分ほどの英語劇をやる授業である。台本も自作する。

午前中は敷いてあった寝袋で微睡んで、起きたのが12時半。これから昼ご飯を食べるとすると、13時10分の開講時刻に間に合うにはゆとりがなかった。

少し遅れていこうと思った。そこにはふたつの下心があって、ひとつはゆっくり準備したいという下心、もうひとつは、台本作成の責任を他のメンバーに押し付けたいという下心があった。

私は前回の授業で台本作成の主導権を握ってしまい、その責任を重荷に感じていた。前回の話し合いの雰囲気は、ちょうど中学高校の委員決めや文化祭の案出しの空気というと分かりやすい。

みんな揃って「困ったねぇ……」と言って、話し合いはちっとも進まず、かといって意見を出せば、つまらないものができたとき、罪悪感を感じることになる。要するに話し合いの主導権を握ったり、提案をしたりすることが”貧乏くじを引く”ことなのである。
しかし嫌だ嫌だと言っても、成果物を出さない訳にはいかない。結果として、メンバーの中で最も心の弱い人が、見かけ上自主的に、その貧乏くじを引くことになるのである。
そして今までの人生、私より心が弱い人はそう多くなかった。

そんなわけで前回の授業中に貧乏くじを引いたのは私で、台本を書き留めたり、つまらないから本当は言いたくもないような提案をするのも私だった。

泥船の船長になってしまって、今回の授業に対しても当然憂鬱な気持ちだったのだが、あることを思いついた。少し遅れていけば、私がいない間に話を進めた人に主導権が移り、その人に船長の座を譲ることができるのではないかと思ったのである。

のんびり準備をして、自転車にまたがり、それでも大学に足は向かず、あさっての方向へいつもの逃避行を始めた。ライトノベル『物語シリーズ』のどこかに「目を背けるだけじゃ逃げたことにはならないんだよ」というはっとするセリフがあったと記憶しているが、私はいつまでも目を背けるばかりである。
大通りや水田の脇のでこぼこのアスファルトを進み、しかし遠回りしつつも、結局大学へ近づいているのが、半端物の弱さの真骨頂である。

大学へ着くと、だいたい30分の遅刻であった。これはとても微妙な遅れ具合なのである。この時間に教室に入れば注目されることは間違いない。単純な遅刻にしては遅れすぎだし、そうでなければもう欠席するという人が大半で、30分遅れて出席するというのは、はっきり言って意味不明である。さらに普段の私は真面目で通しており、意味不明さを笑ってもらえる見込みは低い。であるなら私は、みんなを納得させられるような嘘を吐いて道化ることができるか?否、できないのである。嘘の重荷と罪悪感に耐えられないほど弱いからこそ、本当のことを言うか、沈黙するかしかしないのである。それにたとえそれを乗り越えたとして、私はグループで有用な意見を言えるのか?…………

など考えながら、構内サイクリングに突入しかけたところで気付いたのである。「私って、弱すぎてむしろ面白いな」と。ある時友人と話していて「私には『人間である』という有用性がある」とか「私は太陽になれなくても誘蛾灯になれる」とかいう話をしたことがあった(これらの意味はいずれ話すことがあるかもしれない)。それに勇気づけられて、ひとつこの話を滑稽話として発表しようと思った。そう思うと、「そうだ、うじうじ悩んでないで、やりたかった数学やら英語やらやるんだ」という気持ちが湧いてきて、揚々と自転車を漕いで、帰路についたのである。

なお、この文章を書いている最中も、メンバーから「今日休み?」などの連絡が入っていることが怖くてLINEは開いていない。


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