お寺の掲示板 【No.31/柊原のお寺・真宗寺/2023.9月】
ただいま悪人談合中!
他力本願まっさかり!
いざ人生を諦めろ!
一見、お寺の入り口にこんな言葉が書かれていたらギョッとするでしょう。「悪人」「他力本願」「諦める」……
これらの言葉の味わいについては、むかえるお彼岸の法要の際、ご法話としてお話しするつもりで、お読みいただいた方は、ぜひ有縁のお寺様に、これらの言葉はどういう意味ですかと聞いてみていただきたいなぁと思います。
仏教語には、本来の語意と世間での用例とが異なるものがたくさんあります。例えば巷で「愛」と言ったら、「LOVE」のことですが、仏教の愛は「Greed」。精神的な「渇き」「満たされなさ」及びそれに由来する「むさぼり」のことです。
「坊主」という語は「仏教施設としての坊舎(房舎)の主人」のことですが、そのお坊さんの剃髪したヘアスタイルから、丸刈りのことを「坊主頭」と呼び、また、ひと昔前は子どもなんて丸坊主ですから、子どものことも「坊主」と言いますね。
あるお葬式で、式場を子どもが走り回っていたので、参列してたおじさんが「うるさいぞ坊主!」と怒鳴ったら、僧侶の読経が止まったという笑い話もあります。
ひとつの仏教語が多義であったり、対義を含むことは日本語の富饒さの事例でもあります。ただ誤用であると済ませずに、語義の変遷の歴史的背景やいきさつまで考察してみるのがいいでしょう。
ところで、数年前かな、フジテレビの「全力!他力本願バラエティ!凄い映像撮れちゃいました」という番組に、真宗教団が「この他力本願の用例は誤りである」と抗議をしたことがありました。
そのような活動は大事だとも思うと同時に、言葉とは時代や話される場所によって変化するものだから、間違いや不適切という指摘もわかるが、もはやその語義から発展独立したベツモノと捉えたほうがいいだろう。なんて思いや、「悪人」や「他力本願」といった語を、外的に上手く発信できていない、宗門側の責任もあるだろう。なんても思ったりします。
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