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お寺の掲示板 【No.4/柊原のお寺・真宗寺/2021.5月】


【掲示板の言葉】

信・不信、ともに、仏法を心に入れて、聴聞申すべきなり。


これは『蓮如上人御一代記聞書』という書物の言葉です。仏法聴聞の心得として、信じられようが、信じられまいが、また、信じて安らかな気持ちを既にいただいてようが、まだ救われていないと感じてようが、とにかく聞くことに徹しなさい。と教えられています。

 我々は普段、信じるに値するものや、信頼できると思う人から発せられる言葉に耳を傾けています。それは言い換えれば、相手に条件を課して、クリアできたものにだけ関わり合いを持つという態度であり、そのクリア条件(信疑基準)というのも、突き詰めれば、自分の損得の価値判断にしか過ぎません。

 真に大切なもの(人)と付き合う時、そこから発せらる言葉が、自分の理解に適っているかいないかは問題ではありません。自分の理解不理解を超えた大切な言葉であるはずです。こちらで選り分けせずに、条件づけせずに、ただただ聞いていくことが肝心です。

ただただお説法や、同行(どうぎょう/同じ修行をいただく仲間のこと)の話を聞き続ける態度こそ重要なのでしょう。

真剣交際に裏表ある関係ではいずれ必ず破綻するように、仏との付き合いは打算ではいきません。大切な人と暮らすなら、美醜も勤怠も愛憎も、ハイもローも、病める時も健やかなる時も、喜怒哀楽も晒さないことにはまいりません。そのままの自身を御前に展開するわけです。

しかしどうでしょう。我々が設定する他への信疑の基準とは、我々の損得の価値判断にしかすぎません。

よく「あの人は信心深い人だ」とか、信心を浅深で量った言い方を聞かれたことがあるでしょう。しかし、浅深のある信心は自らこさえた信心です。仏からたまわる信心なら浅深はなく、平等にいただく信心です。



↓ ちなみにこれはボツにした法語の画像。
  せっかくだからここに、載せさせてください…(._.)…



↓ ちなみに、LINE公式アカウントでは「今月の一枚」という写真コーナーもやってます。こちらは真宗大谷派の鹿児島別院から望む、鐘撞堂と表の道路。青い空。奥には桜島の噴煙。


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